第三話 勇者、敗北する
ガガガガガガッ!!
耳障りな駆動音と共に、十体の『重装蒸気兵』が一斉に動き出した。
先陣を切った一体が、高速回転するダイヤモンドカッターを振り上げ、リディアの頭上へと迫る。
鋼鉄をもバターのように切り裂く凶刃だ。
「危ないっ!」
物陰で、テトが悲鳴を上げた。
だが、リディアは逃げない。
むしろ、目を輝かせて一歩踏み出した。
「わあ! すごい回転ですね! 風が来ます!」
「死ねぇぇぇ!!」
男爵の叫びと共に、刃が振り下ろされる。
――ガキンッ!!
激しい火花が散った。
しかし、リディアの首は飛んでいなかった。
彼女は左手の甲で、迫りくる回転ノコギリの側面を、まるでハエでも払うかのように「パァン!」と叩いたのだ。
軌道を逸らされたカッターが、床の鉄板を深々と切り裂く。
ゴライアスの体勢が崩れる。
その隙を、勇者が見逃すはずもない。
「ふんっ!」
リディアの拳が、ゴライアスの腹部装甲にめり込んだ。
魔法による強化でも、気功による打撃でもない。
ただ純粋な、極限まで鍛え上げられた筋肉による「正拳突き」である。
ドゴォォォォォォン!!
重厚な鐘を突いたような音が響き渡る。
数トンはある巨体が、くの字に折れ曲がり、後方へと吹き飛んだ。
後続の二体を巻き込み、将棋倒しになって激突する。
ガラガラと崩れ落ちる鉄屑の山。
「な、なんだと……!?」
司令室で見ていた蒸気男爵の目が、極限まで見開かれた。
あり得ない。
ゴライアスの装甲は、対魔法コーティングを施した複合合金だ。
中級魔法程度なら無傷で弾き、オーガの棍棒すら通さない硬度を誇る。
それを、生身の少女が、素手で?
「ば、バケモノか貴様は! 物理法則を無視するな!」
「失礼ですね! ちゃんと腰を入れて殴れば、鉄だってへこみますよ!」
リディアはプンプンと怒りながら、次々と襲いかかる機械兵をさばいていく。
火炎放射をバックステップで躱し、パイルバンカーを紙一重で避け、その腕を掴んで背負い投げを決める。
戦場はさながら、怪獣映画のセットを人間サイズで再現したような惨状となっていた。
(……やれやれ。相変わらずデタラメな怪力だ)
リディアの背中のリュックサック。
その中で、アビス(犬形態)はあくびを噛み殺しながら戦況を眺めていた。
激しい振動が来るたびに、彼は重力魔法で自身の体を固定し、クッション性を確保している。
おかげで乗り心地は悪くない。
だが、アビスの紅い瞳は、戦闘よりも、部屋の中央に鎮座する『大魔導炉』に向けられていた。
炉の赤熱は限界を超え、今にも破裂しそうなほどに膨張している。
(……騒々しい。この世の全てを塵にするのは容易いが、それでは退屈だ。だからこそ、人間どもが好き勝手に足掻くのを眺めて楽しんでいるというのに……)
アビスは不快げに鼻を鳴らした。
男爵という下等生物が、アビスの所有物の一部を勝手に汚染し、破壊しようとしている。
その「身の程知らず」さが、彼の癇に障り始めていた。
「ええい、忌々しい!」
男爵が焦燥の叫びを上げた。
自慢の兵器たちが、次々とスクラップに変えられていく。
このままでは敗北する。
男爵の視線が、部屋の隅で縮こまっている子供たち――燃料運びをさせられていた孤児たちに向けられた。
そして、彼の顔に卑劣な笑みが浮かぶ。
「勇者よ! 動きを止めろ!」
男爵の手が、制御盤の赤いレバーにかかった。
「このレバーを引けば、『緊急排気』が行われる! 炉内に溜まった数百度の熱気が、この部屋全体に噴射されるぞ! 貴様は耐えられても、そこにいる薄汚いガキどもはどうかな!?」
ピタリ。
リディアの拳が、次なる敵を殴る寸前で止まった。
「……っ!」
「ハハハ! そうだ、その顔が見たかった! 正義の味方ならば、弱者を見捨てることはできまい!」
男爵は勝ち誇ったように叫ぶ。
卑劣。
だが、リディアのようなタイプには最も効果的な手だ。
「さあ、抵抗をやめろ! おとなしく捕まれ!」
「……くっ」
リディアが拳を下ろす。
その隙を見逃さず、残っていた三体のゴライアスが一斉に飛びかかった。
鋼鉄の腕がリディアの四肢を拘束し、巨大な万力のように締め上げる。
「ぐぅっ……!」
「姉ちゃん!」
テトが叫ぶが、彼もまた別の兵士に銃を突きつけられ、動けない。
「ハハハハハ! 見ろ、この無様な姿を! 旧時代の英雄が、魔導科学の力の前に敗北する瞬間だ!」
男爵は高笑いしながら、マイクのスイッチを入れた。
「こやつを炉へ運べ! 勇者の肉体だ、さぞ良い『燃料』になるだろう!」
ゴライアスたちが、拘束したリディアを持ち上げる。
向かう先は、赤々と燃え盛る大魔導炉の投入口。
そこからは、地獄のような熱気と、暴走した魔力の奔流が渦巻いていた。
「アビスさん……ごめんなさい……」
リディアが、背中のリュックに向かって小声で謝った。
自分が無茶をしたせいで、アビスまで巻き込んでしまった。
リュックごと炉に投げ込まれれば、いくらアビスでもただでは済まないだろう。
(……まったく)
リュックの隙間から、アビスは深いため息をついた。
この天然勇者は、どこまでお人好しなのか。
人質を取られた時点で、世界最強の魔人(飼い犬)に助けを求めればいいものを。
変なところで責任感が強いから困る。
アビスの瞳に、冷酷な光が宿る。
(……この世界は俺様の庭だ。そこに住む人間も、資源も、全ては俺様の所有物だ)
彼はリュックの中で、静かに爪を立てた。
(俺様の許可なく、俺様の所有物を勝手に処分しようなど……不快極まりない)
「さあ、燃え尽きろ!」
ゴライアスが、リディアを宙吊りにしたまま、炉の投入口へと放り投げようとした、その瞬間。
「……随分と、俺様の庭を荒らしてくれるではないか」
凜とした、だが氷点下の冷たさを帯びた声が、轟音の中に響いた。
直後。
世界の色が反転した。
キィィィィィィィン……。
耳鳴りのような高周波と共に、灼熱の赤色が、一瞬にして「蒼」へと塗り替えられる。
リディアを拘束していたゴライアスの腕が、突然、ガラス細工のように粉々に砕け散った。
「え……?」 リディアの体が宙に浮く。
だが、落下しない。
彼女の体は、見えない力によってふわりと受け止められ、床へと優しく降ろされた。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
男爵が狼狽える。
砕け散ったゴライアスの破片。その断面は、白く凍りついていた。
この灼熱の炉心において、氷結だと?
「……リディア。お前は本当に、世話の焼ける飼い主だ」
リディアの背後。
彼女が背負っていたリュックサックの隙間から、どす黒い霧が溢れ出した。
霧は、空中で渦を巻き、一人の影を形作る。
漆黒のロングコート。
月光を紡いだかのような、流麗な銀髪。
そして、全てを見下す深紅の瞳。
魔人アビスが、本来の姿で顕現していた。
「あ、アビスさん! ダメですよ、そんな無理に人間に戻ったら!」
リディアが慌てて駆け寄る。
彼女の中では、アビスはまだ「呪いの後遺症で魔力が不安定」な状態だ。
こんな高エネルギー環境下で実体化すれば、体に負担がかかると本気で心配しているのだ。
「こんなに熱い場所なんですよ!? アビスさんの体調が悪化しちゃいます!」
「黙っていろ。……この程度の熱気で、俺様を傷つけようなど、不敬にも程がある」
アビスは鬱陶しそうに銀髪をかき上げると、司令室にいる男爵へと視線を向けた。
ただそれだけで、男爵は心臓を素手で握られたような圧迫感を感じ、後ずさった。
「き、貴様は何だ!? どこから現れた!」
「……貴様のような下郎ごときに名乗る必要はない。だが、この不快な騒音を止める必要はあるな」
アビスは、一歩踏み出した。
彼が足を下ろした場所から、黒い波紋が広がる。
波紋は瞬く間に部屋全体を覆い、暴走していた熱気を、騒音を、そして男爵の悪意さえも飲み込んでいく。
「ひっ……う、撃て! 殺せぇ!」
男爵が錯乱して叫ぶ。
生き残っていたゴライアスが、火炎放射器をアビスに向けた。
数千度の炎が、魔人を飲み込む――はずだった。
「……ぬるい」
アビスは、迫りくる炎の奔流を、手も触れずに「視線」だけで逸らした。
炎が意思を持ったかのようにアビスを避けて通り過ぎ、背後の壁を溶かす。
「な……魔法で炎を無効化しただと……?」
「魔法? 違うな。これは『命令』だ」
アビスは傲然と言い放つ。
彼の魔力密度は、自然界の物理法則すらもねじ伏せる。
この世の王である彼が、炎に対し「逸れろ」と命じれば、炎は従うしかないのだ。
「さて、次はこの五月蝿いストーブを消すとしよう」
アビスは、臨界寸前の大魔導炉へと歩み寄る。
炉は今まさに爆発しようと、赤黒く膨張し、亀裂からはプラズマのような光が漏れ出している。
「や、やめろ! それに触れれば街ごと吹き飛ぶぞ!」
男爵が叫ぶ。
アビスは鼻で笑った。
「吹き飛ぶ? ……誰の許可を得て?」
アビスは、その美しい右手を、炉の表面にかざした。
「男爵と言ったな。……俺様は寛容だ。貴様らごときが文明ごっこで多少騒ごうが、羽虫の羽音として許容してやっていた。……だが」
アビスの瞳が、絶対零度の冷気を帯びる。
「度が過ぎる。俺様の所有物を、勝手に壊すことは許さん」
パチン。
アビスが、乾いた音を鳴らして指を弾いた。
その瞬間。
ゴォォォォォォォォォ…………。
爆音ではない。
空気が凍りつく音が響いた。
絶対零度を遥かに超える、概念的な「停止」の魔力が、暴走するエネルギーを強制的に凍結させたのだ。
赤熱していた炉が、瞬く間に蒼白く変色し、表面に分厚い氷の膜が張っていく。
熱暴走は、物理的に「凍結」された。
「ば、馬鹿な……熱エネルギーを、一瞬で相殺したというのか……!?」
男爵は腰を抜かし、床にへたり込んだ。
魔導科学の粋を集めた大魔導炉。
その無限に近い熱量を、指先一つで?
計測不能。
理解不能。
これはもはや、魔法使いなどという次元ではない。人知を超えた、災害そのものだ。
「……さて」
アビスは凍りついた炉に背を向け、男爵を見上げた。
その紅い眼が、楽しげに、しかし絶対的な冷酷さを秘めて細められる。
「俺様の庭を汚し、俺様の眠りを妨げ、あまつさえ俺様の所有物である人間どもを勝手に間引こうとした罪。……死をもって償うには、安すぎるな?」
男爵は絶叫した。
彼は理解した。
目の前にいるのは、魔法使いなどという生温い存在ではない。
もっと根源的で、絶対的な、この世の支配者なのだと。




