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第二話 止まらない工場、冷めない悪意

 ウゥゥゥゥゥゥゥゥ――――ッ!!


 不穏なサイレンの音が、スイートルームの防音窓をビリビリと震わせた。

 それは、始業や終業を告げるような生温いものではない。

 都市全体に非常事態を告げる、断続的で神経を逆撫でするような警報音だった。

「……おい」

 ソファで優雅にワイングラスを傾けていたアビス(人間形態)の動きが止まった。

 彼の美しい眉間に、深い皺が刻まれる。

「……なんだ、この下品な音は。せっかくの年代物の赤ワインの香りが台無しではないか」

「アビスさん! 見てください、外!」

 リディアがフォークを放り出し、窓際に駆け寄った。

 彼女の視線の先――街の中央に聳え立つ巨大な工業地帯が、異様な赤光に包まれていた。

 無数の煙突から噴き出す蒸気が、毒々しい赤色に染まり、夜空を焦がしている。

「あの方角……昼間、テトくんが言っていた『中央プラント』ですよ!」

「ふん。……魔力炉が暴走しかけているな」

 アビスはグラスを揺らしながら、冷ややかに分析した。

「炉の制御術式が、過剰な出力要請に悲鳴を上げている。……あの光り方だと、臨界点まであと一時間といったところか」

「一時間!? それって爆発するってことですか!?」

「ああ。この街ごと吹き飛ぶだろうな。……チッ。せっかく見つけた『ふかふかのベッド』が灰になるとは、ついてない」

 アビスは「やれやれ」と肩をすくめ、残りのワインを飲み干すと、優雅に立ち上がった。

「行くぞ、リディア。チェックアウトだ。この街は終わりだ。隣の領地へ移動して宿を取り直すぞ」

「え?」

 リディアが振り返る。

 その瞳には、アビスが予想していた通りの「理解不能」という色が浮かんでいた。

「何言ってるんですか? 止めに行きますよ!」

「……は?」

「だって、まだ爆発してないんでしょ? なら、止めればいいじゃないですか!」

 リディアはリュックサックを掴むと、アビスに向かって大きく口を開けた。

 それは、犬を収納するための合図だった。

「ほら、アビスさん! 急いでください! 変身!」

「断る。なぜ俺様が、食事を中断してまで労働者の尻拭いを……」

「今日のデザート、『特濃ミルクプリン』でしたよ? 街が吹き飛んだら食べられませんよ?」

「…………」

 アビスの動きが止まった。

 数秒の沈黙。

 彼は舌打ちを一つ鳴らすと、黒い霧と共に瞬時に姿を変えた。


 ポンッ。


 ソファの上には、不機嫌そうな顔をした黒いポメラニアンが一匹。

 リディアは「よし!」とアビスをひっ掴み、リュックに放り込むと、窓枠に足をかけた。

「え、おい待て。ここ五階だぞ。まさか……」

「行きますよー!!」

 リディアは迷わず夜の虚空へとダイブした。

 勇者の身体能力は伊達ではない。

 壁の出っ張りを蹴り、街灯を足場にし、ピンボールのように夜の街を疾走していく。

 リュックの中のアビスは、激しい上下動に耐えながら、心の中で固く誓った。

(……帰ったら、絶対に高級プリンを三つ食う)


 ◇


 街はパニックに陥っていた。

 逃げ惑う人々、怒号を上げる警備兵、そして暴走する蒸気車が道を塞いでいる。

 中央プラントから延びている道は、避難民の波で溢れかえっていた。

『緊急警報! 緊急警報! 第三区画の圧力弁が破損!』

『労働者は直ちに持ち場へ戻り、手動でバルブを閉鎖せよ! 逃亡者は射殺する!』

 街頭スピーカーから、無慈悲な命令が下される。

 逃げる市民を押しのけ、逆にプラントの方へ向かおうとする小さな影があった。

 ボロボロのキャスケット帽。

 昼間、案内をしてくれた少年、テトである。

「くそっ……! どいてくれ! 通してくれよ!」

 テトは必死に人波を掻き分けていた。

 彼の顔色は蒼白で、目には涙が溜まっている。

「テトくん!」

「うわっ!?」

 突然、空から降ってきたリディアに着地され(近くの屋根から飛び降りてきた)、テトは腰を抜かした。

「ね、姉ちゃん!? なんでここに……あんたら、高級ホテルにいたんじゃ……」

「デザートの前に運動しに来たの! それより、どこ行くの? そっちは危ないよ!」

「行かなきゃなんねえんだよ!」

 テトが叫んだ。

「妹たちが……孤児院のちびたちが、まだプラントの地下にいるんだ! 燃料運びのノルマが終わらなくて、残業させられてるんだよ!」

 リディアの表情が凍りついた。

 地下。

 魔導炉が暴走すれば、真っ先に熱とガスが溜まる場所だ。

「……案内して」

 リディアの声が低くなった。

 そこには、いつもの天然ボケな雰囲気はない。

 歴戦の勇者としての、静かな怒りが満ちていた。

「え?」

「私が助ける。入り口まで案内して!」

「で、でも、あそこはもう熱気が……」

「いいから! アビスさん、掴まっててね!」

 リディアはテトをまるで荷物のように小脇に抱えると、凄まじい加速で走り出した。

 リュックの中のアビスは「またか」と呆れつつも、周囲の気配を探った。

 地下には確かに、微弱な生体反応が多数ある。

 だが、それ以上に濃密な「死」の気配――蒸気男爵の私兵団が展開しているのが感じ取れた。


 ◇


 中央プラントの正門前。

 そこは、まさに地獄の入り口だった。

 噴き出す蒸気が視界を遮り、肌を焼くような熱波が押し寄せてくる。

「うわっち! 熱っ!」

 テトが悲鳴を上げる。

 通常の人間なら、数分で意識を失うレベルの熱気だ。

「……環境最悪だな」

 リュックの中のアビス(犬)は、鼻を鳴らすと、さりげなく術式を展開した。

 『断熱結界』。

 本来は自分の毛並みを守るためのものだが、今回は特別にリディアと、その小脇に抱えられた小僧まで範囲に入れてやる。

 リディアは「あれ? なんか涼しくなりましたね? アドレナリンかな?」と勘違いしているが、訂正するのは面倒なので放置した。

「止まれ! この先は立入禁止だ!」

 正門を守っていたのは、全身を真鍮色の装甲服(パワードスーツ)で覆った兵士たちだった。

 背中には小型ボイラーを背負い、そこから伸びたパイプが右腕の巨大な槍(パイルバンカー)に繋がっている。

 蒸気男爵の私兵団、『スチーム・ナイツ』だ。

「怪しい奴らめ! 火事場泥棒か!?」

「いいえ、通りすがりの勇者です!」

 リディアが堂々と名乗りを上げた。

「地下の子供たちを助けに来ました! 通してください!」

「……勇者? 頭が沸いたか。排除しろ!」

 兵士の一人がスイッチを入れる。

 プシューッ! という排気音と共に、槍の先端が高速でピストン運動を始めた。

 岩をも砕く一撃が、リディアへと突き出される。

「ひぃぃっ! 姉ちゃん逃げ……」

 テトが目を瞑った。

 だが。


 ガキンッ!!


 鈍い金属音が響き渡った。

 テトが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。

 リディアが、突き出された鋼鉄の槍の穂先を、素手で――親指と人差指だけで「つまんで」止めていたのだ。

「え……?」

 兵士の声が裏返る。

「ば、馬鹿な!? このパイルバンカーの推力は5トンだぞ!?」

「5トン? よくわかりませんが、子供に向けちゃダメです」

 リディアはニコリと笑い、手首を軽くひねった。


 メキョ、バキバキバキッ!


 鋼鉄の槍が、まるで濡れた新聞紙のようにねじ切れ、ひしゃげた。

「ひっ……!?」

「はい、没収。……危ないから、どいてくださいね」

 リディアは屑鉄と化した武器を放り投げると、呆然とする兵士の胸元を、軽く手のひらで押した。

 本人は「ちょっとどかす」つもりだったのだろう。

 だが。


 ドガァッ!!


「ぐえぇぇぇっ!?」

 重厚な金属鎧が、まるでプレス機にかけられたように「くの字」にへこんだ。

 兵士は悲鳴を上げる間もなく、巨大な鉄塊で殴られたかのように吹き飛び、後方の鉄扉に激突した。

 ズガン! という轟音と共に、鉄扉が歪んで開く。

「あら? ごめんなさい、ちょっと力が入っちゃいました」

 リディアはテヘッと舌を出した。

 テトは顔を引きつらせた。

 あれが「ちょっと」?

 鎧を着ていなければ、内臓が破裂して即死していただろう。

 勇者(物理)の加減のなさは、ある意味で魔人よりも恐ろしい。

「さあ、行きますよー」

「う、うわぁぁぁぁ! バケモノだぁぁぁ!」

 残りの兵士たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。

 テトは、リディアの脇に抱えられたまま、口をパクパクさせていた。

「……姉ちゃん、あんた本当に人間か?」

「失礼ねテトくん。正真正銘、か弱い乙女よ?」

「その乙女の基準、絶対おかしいから……!」

 リディアは気にせず、こじ開けた鉄扉の奥へと進んでいく。

 アビスはリュックの中で「ふぁ~あ」とあくびをした。

 物理攻撃が通じる相手なら、この勇者(リディア)は無敵だ。

 だが、この先に待ち受けているのは、そう単純な相手ではないだろう。

 炉の深部から漂う、歪な魔力の気配。

 蒸気男爵は、ただ科学に頼っているだけの男ではないようだ。


 ◇


 プラントの最深部、魔導炉制御室。

 そこは、地獄の釜の底のような熱気に包まれていた。

 巨大な球体の炉が、不気味な赤光を放ちながら脈動している。

 そして、その周囲には、足枷をはめられた数百人の子供たちが、必死の形相で魔石を炉にくべさせられていた。

『出力95%……まだだ! まだ足りん! リミッターを解除しろ!』

 上部の司令室から、狂気じみた命令が飛ぶ。

 そこに立っているのは、シルクハットに燕尾服を着た肥満体の男。

 この街の支配者、蒸気男爵だ。

 彼は眼下の子供たちが次々と熱中症で倒れていくのを、まるで壊れた部品を見るような目で見下ろしていた。

「男爵様! これ以上は危険です! 炉が耐えきれません!」

 部下の技師が叫ぶが、男爵はステッキで彼を殴り飛ばした。

「黙れ! 今夜の取引先は大口なのだ! 生産ラインを止めることは許さん! 壊れたら修理すればいい、人間も、炉もな!」

 その非道な言葉が響き渡った、その時だった。

「――そこまでです!!」

 轟音を切り裂いて、少女の声が響いた。

 入り口の扉が吹き飛び、土煙の中からリディアが現れる。

「誰だ貴様は!」

「私は勇者リディア・クレセント! 子供たちを解放しなさい!」

 リディアが叫ぶ。

 男爵は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに醜悪な笑みを浮かべた。

「勇者だと? ハッ、時代遅れの称号だな。今は金と蒸気の時代だ!」

 男爵がパチンと指を鳴らすと、炉の周囲の床が開き、巨大な影がせり上がってきた。

 全高3メートル。

 全身を分厚い複合装甲で覆い、右腕には高速回転するダイヤモンドカッター、左腕には火炎放射器を装備した殺戮マシーン。

 『重装蒸気兵(スチーム・ゴライアス)』。

 その数、十体。

「あわわわ……あんなの勝てるわけないよぉ!」

 テトが絶望の声を上げる。

 しかし、リディアは目を輝かせた。

「わあ、大きいロボットですね! かっこいい!」

 ……緊張感ゼロである。

「アビスさん、見てください! 動きそうです!」

「……動くに決まっているだろう。殺しに来ているぞ」

 リュックの中のアビスは、冷静に敵の戦力を分析した。

(……動力源は魔導コアの直結型か。出力は高いが、小回りは利かないな。だが、問題は……)

 アビスの視線が、男爵の手元にある制御盤に向けられた。

 そこには、『緊急排気(パージ)』と書かれた赤いレバーがある。

 もしあれを引けば、炉内に溜まった高圧の蒸気が、この部屋全体に噴射されるだろう。

 そうなれば、ここにいる子供たちは蒸し焼きだ。

 リディアがどれだけ強くても、広範囲のガス攻撃から全員を守ることはできない。

(……やれやれ。面倒なことになりそうだ)

「殺せ! 勇者ごとき、肉塊に変えてしまえ!」

 男爵の命令と共に、十体のゴライアスが一斉に駆動音を上げた。

 回転鋸の不快な音が、リディアたちに迫る。

 止まらない工場。

 冷めない悪意。

 そして、暴走寸前の魔導炉。

 最悪の状況下で、リディアの「物理」とアビスの「魔法(サボりながらの支援)」が試されようとしていた。

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