第十九話 美食の代償
街を覆っていた氷のドームが消滅し、オーロラのアイスクリームによって人々が正気を取り戻してから、数時間が経過した頃。
白銀城の最上階にあるサロンでは、優雅なお茶会が開かれていた。
「ん~っ! 氷が溶けたあとの景色を見ながら食べるアイスも最高ですね!」
リディアが窓際の席で、山盛りのパフェ(アビス監修・オーロラソースがけ)を頬張っている。
街はすっかり元の活気を取り戻し、人々が雪解けの道を歩く姿が見える。
太陽の光が差し込むサロンは暖かく、つい数時間前まで死の世界だったとは信じられないほど穏やかな空気に満ちていた。
「……ふぅ。やっと落ち着いたな」
テトもソファに深く沈み込み、温かい紅茶を啜っていた。
彼の手には、まだ食べきれていないクッキーが握られている。
「東で工場を直して、南でジャングルを抜けて、西で筋肉ダルマを倒して、北で空を飛んで……。俺たち、大陸一周してやっとゴールしたんだな」
「ええ。本当に濃密な旅でしたわ」
セレスがワゴンを押しながら現れ、テトのカップに紅茶を注ぎ足す。
「アビス様の尊いお姿を記録したメモも、すでに十冊を超えました。特に『アビス様、オーロラを食す』の章は、後世に神話として語り継がれるでしょう。……ああ、思い出すだけで鼻血が」
「アンタ、それ出版したらベストセラーになるぜ」
テトが呆れ半分で突っ込む。
そして、アビスは。
上座の革張りソファで足を組み、グラスを揺らしながら、退屈そうに窓の外を眺めていた。
その表情には、世界を救った達成感など微塵もない。
あるのは、食後のけだるさと、凡俗な平和に対する飽きだけだった。
「……平和ボケした顔をしやがって」
アビスは鼻を鳴らした。
「俺様にとっては、ただの『お口直し』だ。騒ぐほどのことでもない」
「もう、素直じゃないんですから」
リディアがニコニコと笑う。
「でも、これで四天王の領地は全部回りましたね! 世界も平和になったし、美味しいものも食べたし、これにて一件落着……」
「――お待ちください」
その時、セレスが鋭い声を上げた。
彼女はティーポットを置くと、窓辺に駆け寄り、持っていた杖の先端を外部に向け、何やら計測を始めた。
眼鏡の奥の目が、険しく細められる。
「……変ですわ」
「何が?」
テトが尋ねる。
「魔力の『流れ』です。本来、地脈のエネルギーは、土地ごとに循環し、緩やかに大気へ還元されるものです。ですが……見てください」
セレスが杖を一振りすると、空中に光の地図が投影された。
そこには、大陸全土の魔力の流れが可視化されている。
「東の『火』、南の『木』、西の『土』、そしてここ北の『氷』……。四つの地域から溢れ出した膨大な魔力が、まるで川のように奔流となって、大陸の中央へ向かって猛スピードで流れています!」
「ええっ!? なんですかこれ!?」
リディアが驚く。
「四天王の死によって生じていた『詰まり』が取れて、一気に溢れ出したのです」
セレスは冷や汗を流しながら、恐る恐るアビスの方を振り返った。
「アビス様……。まさかとは思いますが……これ、アビス様が各地で『大掃除』をなされた結果では?」
全員の視線がアビスに集中する。
アビスは、グラスの中の氷が溶けるのを眺めながら、事も無げに言った。
「……何を今更」
彼はあくびを噛み殺した。
「当たり前だろう。東の炉を直し、南の幻術回路を壊し、西の不純物を取り除き、北の蓋を食った。淀んでいたドブ川を掃除してやれば、水が勢いよく流れるのは道理だ」
「き、気づいてたんですか!?」
テトが叫ぶ。
「だったらなんで言わなかったんだよ! これ、相当ヤバい量だぞ!?」
「ヤバい量?」
アビスは片眉を上げ、テトを鼻で笑った。
「小僧。テメエにはこれが洪水にでも見えるのか? 俺様には『チョロチョロ流れる小川』程度にしか見えん」
アビスは指先で、宙に浮かんだ地図の光を弾いた。
「俺様が持つ深淵のごとき魔力量に比べれば、地脈の流れなど誤差の範囲だ。大きな滝の横にチョロチョロと流れている湧き水を、いちいち気にかけるか? 俺様にとっては、羽虫が飛んでいるのと同じだ。気にする価値もない」
圧倒的な強者の論理。
世界を揺るがすエネルギーの奔流すら、アビスにとっては「視界の端に映る些事」でしかなかったのだ。
「で、でもアビス様!」
セレスが悲鳴に近い声を上げる。
「アビス様にとっては小川でも、世界にとっては大洪水です! それに、流れるのは良いのですが、問題はその『行き先』です! 大陸の四方から流れ出した超高密度のエネルギーが、一点に集中しています! このままでは、その合流地点で魔力爆発が……!」
「……合流地点?」
アビスの眉が、ピクリと動いた。
その時初めて、彼の瞳に「無関心」以外の色が宿った。
「おい、どこだそれは」
「はい! 地図を見てください! 全ての地脈が流れ込んでいる場所……それは、大陸のド真ん中……」
セレスが指差した一点。
そこは、かつて世界を恐怖させた「魔人領」。
そして、その中心にあるのは――。
「……あ」
リディアがぽかんと口を開けた。
「そこって……アビスさんのお城じゃないですか?」
静寂。
アビスの動きが止まった。
グラスを持つ手が空中で静止する。
「……なんだと?」
低く、地を這うような声。
「おいセレス。もう一度言ってみろ。俺様が綺麗に掃除してやった四つの地脈の……その余剰エネルギー捨て場になっているのは、どこだ?」
「は、はい……。 計算上、間違いなく『魔人城』です。四つの地脈が交差する、大陸の中心点ですので……」
パリンッ。
アビスの手の中で、クリスタルグラスが粉々に砕け散った。
中のソーダ水が、床に滴り落ちる。
だが、その雫が床に触れることはなかった。
アビスの体から噴き出した魔力が、瞬時に液体を蒸発させたからだ。
「……ふざけるな」
ズズズズズズズズズ…………!!
地鳴りがした。
いや、城鳴りだ。
アビスの怒りに呼応して、堅牢なはずの白銀城全体が悲鳴を上げ、激しく振動し始めたのだ。
「ひぃぃっ!? じ、地震!?」
テトがテーブルの下に潜り込む。
ピキィッ……! パキパキパキパキッ!!
不吉な音が連続して響く。
サロンの壁に、床に、そして天井に、亀裂が走った。
それだけではない。窓の外に見える尖塔にも、城壁にも、巨大なヒビが入っていく。
「きゃあああっ! 城が! お城が割れちゃいます!」
リディアがパフェを守りながら叫ぶ。
「アビスさん! 落ち着いてください! お城が壊れちゃいます!」
「壊れる? ……知ったことか」
アビスが立ち上がった。
その背後には、漆黒のオーラが炎のように揺らめき、天井を突き破って空へと昇っている。
彼の怒りは、物理的な破壊を引き起こすほどに高まっていた。
「俺様の城だぞ!? 俺様が選び抜いた最高級の寝具と、熟成されたワインセラーと、静寂なる書庫がある、俺様の聖域だぞ!? そこが……勝手に溢れ出した魔力の、排水処理場になっているだと……!?」
アビスの深紅の瞳が、激怒に燃え上がった。
地脈の流れなど「小川」だと笑っていた余裕は消え失せた。
自分のテリトリーが汚されること。
潔癖かつ独占欲の強い魔人にとって、それは世界滅亡よりも遥かに重大な、万死に値する重罪だった。
ガラガラガラ……ッ!
アビスの怒気に耐えきれず、城の一部が崩落を始める。
このままでは、白銀城はアビスの怒りだけで更地になってしまうだろう。
「行くぞ」
アビスがコートを翻した。
「え? どこへですか?」
リディアが尋ねる。
「決まっている。『里帰り』だ」
アビスは南の空――遥か彼方にある故郷の方角を睨みつけた。
「俺様の留守中に、勝手に上がり込んでパーティを開いている不届き者がいるらしい。……不法侵入者には、きっちりと教育的指導をしてやらねばな」
「わあ! 里帰りですか!」
リディアが手を叩いて喜ぶ。
「久しぶりですね、アビスさんのお城! 冷蔵庫の中のプリン、まだ残ってるかな?」
「残ってるわけないだろ。何ヶ月経ってると思ってるんだよ。それより早く移動しよう! ここにいたら俺たちが生き埋めになる!」
テトが真っ青な顔でツッコミを入れる。
「セレス、転移の準備だ! 馬車ごと全速力で突っ切るぞ!」
「はっ! 仰せのままに! アビス様の『ブチ切れ里帰りツアー』、喜んでお供いたします!」
こうして、世界を巡る美食の旅は、唐突に最終局面を迎えた。
向かうは大陸の中央。
全ての始まりの地にして、最強の魔人の玉座がある場所。
そこで待つのは、四つの地脈が生み出した「招かれざる客」か、それとも――。




