第十四話 絶対零度の門番
北への山道を進むにつれ、気温は急激に低下していった。
吐く息は白く染まり、馬車の窓には氷の結晶が張り付いている。
ついに、外は猛吹雪となった。
「さ、寒いですぅ……! まだ秋のはずなのに、ここはもう真冬ですよ!」
リディアが毛布にくるまりながらガタガタと震える。
御者台のテトも、鼻水を垂らしながら中に入ってきた。
「無理無理! 外にいたら凍っちまうよ! 手綱は魔法で固定してきたけどさ!」
車内の気温も氷点下に近い。
アビスは不機嫌そうに腕を組み、窓の外の白い闇を睨みつけた。
「……チッ。魔力で体温を維持するのも面倒だ」
アビスはそう呟くと、ポンッという軽い音と共に姿を消した。
代わりに、座席の上にちょこんと現れたのは――。
艶やかな黒い毛並み。
つぶらな瞳。
愛らしい、手のひらサイズの黒い仔犬だった(中身は魔人)。
「わぁっ! ポチさんモードです!」
リディアが歓声を上げ、すぐさま仔犬アビスを抱き上げた。
「あったかぁい! やっぱり冬はこれが一番ですね!」
「ワン(省エネだ。あと俺様を湯たんぽ代わりにするな)」
犬アビスはリディアの腕の中で丸まり、居心地良さそうに欠伸をした。
この姿なら、表面積が小さいので体温が奪われにくく、さらにリディアの体温も利用できる。
合理的かつ怠惰な選択だった。
だが、その光景を見て、一人の女が限界突破した。
「は……はうぅッ……!?」
セレスである。
彼女は目を見開き、眼鏡を曇らせ、鼻血を垂らしながら硬直していた。
「な、なんという……! なんという愛らしさ……! 最強の魔人が、あえて最弱の仔犬の姿をとるというギャップ! その無防備な肉球! 濡れた鼻先! リディアさん! 場所を代わってください! いえ、代われ! その尊い黒毛の塊に、顔を埋めてスーハースーハーさせてくださいぃぃッ!!」
セレスが襲いかかろうとした瞬間、犬アビスの前足が動いた。
バシッ。
鋭い肉球パンチがセレスの眼鏡を弾き飛ばした。
「フギャッ!?」
「グルルルル……(近寄るな変態。臭いが移る)」
「ああっ! 肉球での折檻! ありがとうございます! この痛み……一生忘れません!」
セレスは床に転がりながら、至福の表情で悶絶した。
その様子を見て、テトが心底冷めた目で呟いた。
「……なぁ、アンタさ」
「なんですの、少年」
セレスは鼻血を拭いながら起き上がった。
「アンタ、本当に『人類最強の魔術師』なのか? ただの変態にしか見えないんだけど。アビスの旦那も嫌がってるぜ?」
「フフッ、何も分かっていませんね」
セレスは眼鏡を拾ってかけ直した。
「嫌がっている? いいえ、これは『愛のムチ』です。アビス様は、私の信仰心を試しておられるのです。そして私は、その試練に応える義務がある!」
「いや、絶対違うと思うけど……」
テトはリディアに助けを求めたが、リディアは「よしよし、ポチさん可愛いですね~」と犬を撫でるのに夢中で聞いていなかった。
◇
そんな騒がしい馬車が進むこと数時間。 猛吹雪の向こうに、巨大な影が現れた。
旧リュミエール領への入り口。
険しい山と山の間に築かれた、巨大な氷の城壁だ。
かつては国境警備兵が詰めていた場所だが、今は人の気配がなく、代わりに――。
ズズズズズズ……。
城門の前に、高さ十メートルはある氷の巨人が三体、仁王立ちしていた。
その全身はダイヤモンドのように硬い氷で構成され、猛吹雪と同化している。
「侵入者ヲ検知。排除シマス。排除シマス」
機械的な声が響き、ゴーレムたちが動き出した。
リュミエールが生前に設置した、自律型の防衛システムだ。
主がいなくなった今も、その命令に従って外部からの侵入を拒み続けているのだろう。
「うわっ、デカい! しかも三体も!」
テトが叫ぶ。
「どうする姉ちゃん! 強行突破する?」
リディアが剣に手をかけた時、腕の中の犬アビスが「ワン」と鳴いた。
彼はリディアの腕から飛び降りると、セレスの足元にトコトコと歩み寄った。
そして、前足でセレスのローブをクイクイと引っ張り、ゴーレムの方を顎でしゃくった。
「ワン(行け、変態。役に立つところを見せろ)」
セレスの脳内に、アビスの意図が直接伝わった。
「はっ……! まさかアビス様、私にご指名を!?」
セレスが感涙にむせぶ。
「『寒くて動きたくないから、代わりにテメエが片付けろ』という崇高なご命令ですね! お任せください! このセレス、命に代えても道を切り開いてみせます!」
「……都合のいい解釈だな、アンタ」
テトが呆れる横で、セレスは吹雪の中へと歩み出た。
ゴーレムたちがセレスに反応する。
「脅威レベル、B。排除行動ニ移行」
巨大な氷の拳が、セレス目掛けて振り下ろされた。
だが、セレスは動かない。
ただ、眼鏡の奥の瞳を、アビスに向ける時とは違う、冷徹な魔術師の色に変えただけだ。
「……アビス様が見ておられる前で、私の邪魔をするとは。万死に値しますわ」
彼女が杖を掲げた。
その先端に、吹雪を吹き飛ばすほどの熱量が収束していく。
「消えなさい。氷塊ごときが」
彼女の唇が呪文を紡ぐ。
「――『紅炎爆砕』!!」
ドォォォォォォォォォォン!!
世界が赤く染まった。
セレスの杖から放たれたのは、太陽の欠片のような極大の熱線だった。
それは一直線にゴーレムたちを貫き、後方の城門ごと消し飛ばした。
ジュワァァァァァァ……。
爆音の後、そこには何も残っていなかった。
三体のゴーレムも、巨大な城壁も、一瞬にして蒸発し、白い蒸気となって空へ消えたのだ。
雪景色の中に、焼け焦げた道が一本だけ続いている。
「……すげぇ」
テトが口をあんぐりと開けた。
ただの変態だと思っていた女は、間違いなく「人類最強」の火力を有していた。
「いかがですか、アビス様! 少し焼きすぎましたが、これなら馬車も通れますわ!」
セレスが満面の笑みで振り返り、尻尾を振る犬のように褒め言葉を待っている。
犬アビスは、あくびを一つ噛み殺すと、再びリディアの腕の中に飛び込んだ。
「ワン(まあまあだな。合格だ)」
「ああっ! その冷淡な反応! たまりません!」
セレスは身悶えし、リディアは「すごいですセレスさん! これなら北の国も楽勝ですね!」と無邪気に喜んだ。
こうして、一行は難所である「絶対零度の関所」を、セレスの火力(とアビスへの愛)によって物理的に突破した。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
城門の向こうに広がるのは、さらに過酷な「死の世界」だった。




