第十話 恵みの正体
「……おい、下僕二号」
「はいっ! ここにおりますアビス様!」
宿場町『ゴールデン・ウィート』を出発し、さらに西の教団本部へと向かう馬車の中。
アビスが不機嫌そうに声をかけると、例によって馬車の天井から、ヤモリのように張り付いていた魔術師の女が顔を覗かせた。
「あの『黄金小麦』とやらについて、もう一つ確認だ。あれに含まれている魔力は、間違いなくバザルトのものなんだな?」
「はい、魔力波形鑑定の結果、99%以上の確率で『大地の四天王バザルト』の因子と一致しました。おそらく、アビス様に倒されたバザルトの死骸……砕け散った破片が大地に還り、その養分を小麦が吸い上げたのでしょう」
女は早口で解説しながら、重力無視でアビスの顔の近くまで降りてきた。
近い。
眼鏡が当たりそうだ。
「近えよ、無礼者。……あと、テメエの名前だ」
「は、はい? 私の名前ですか?」
「長い。呼びにくいんだよ、『セレスティア』なんて舌を噛みそうな名前は」
アビスは鬱陶しそうに手を払った。
「今日からテメエは『セレス』だ。その方が呼びやすい」
その瞬間。
女――セレスの動きがピタリと止まった。
眼鏡の奥の瞳が、カッ!と見開かれる。
「セ……セレス……? アビス様が……私に……愛称を……!?」
プシューッ!!
彼女の頭頂部から、蒸気のようなものが噴き出すのが見えた気がした。
顔が熟したトマトのように真っ赤になり、彼女は天井からボトッと床に落ちた。
「あぁっ……! 素敵……! 『おい、お前』でも『下僕二号』でもなく、私だけの特別な名前……! これはもう、事実上のプロポーズでは!? いや、主従の契約!? ありがとうございます! 一生その名前で生きていきます! 墓石にもそう刻みます!」
セレスは床を転げ回りながら奇声を上げ始めた。
リディアは「わあ、よかったですねセレスさん!」と無邪気に拍手し、御者台のテトは「……ただ面倒くさがられただけだろ」と冷めた目で手綱を握り直した。
アビスは、そんな騒ぎを無視して、窓の外に広がる黄金の麦畑を冷ややかな目で見つめた。
「……フン。バザルト、か」
アビスの脳裏に、つい先日の記憶が蘇る。
リディアに封印を解かれ、共に世界を巡った旅の記憶。
その道中、彼の前に立ちはだかった四人の裏切り者たち。
その中でも、『大地のバザルト』は最も堅牢な防御力を誇ると豪語していた男だった。『我が体は大地そのもの! 呪いで弱体化した貴様の魔法ごときで傷つくと思うな!』
そう吠えた岩石の巨人を、アビスはどうしたか。
魔法すら使わなかった。
ただ、その拳を指一本で受け止めて、額をデコピンの要領で指先で弾いた。
それだけで、自称「不動の城塞」は砂利のように砕け散ったのだ。
「……俺様に、指一本で粉砕された三下だ。あんな図体だけの岩石の魔力ごときで、最強になった気でいるとはな」
アビスは鼻で笑った。
所詮、バザルトはアビスにとっては路傍の石ころ以下の存在だった。
その「石ころ」の養分を吸った小麦を食べ、力を得た人間たち。
アビスからすれば、「小バエが普通のハエに進化した」程度にしか見えない。
「だが、ハエも大量に集まれば羽音が五月蝿え。……さっさと巣を焼き払って、静かな食事環境を取り戻すぞ」
◇
数時間後。
一行は、この地方の中心都市『ハーベスト・シティ』に到着した。
そこは、宿場町以上の異様な熱気に包まれていた。
街の中央広場には、黄金色の小麦を模した巨大な祭壇が築かれ、その周囲を金色のローブを纏った集団が取り囲んでいる。
『大地教団』の信徒たちだ。
彼らは広場に集まった市民に向かって、パンを配りながら演説を行っていた。
「さあ、食べるのです! この『黄金パン』こそが、大地の神が我らに与えし奇跡の糧!」
「食せば病は癒え、老人は若返り、弱き者は獅子の力を得るでしょう!」
「力こそ正義! 力を得て、この乱世を生き抜くのです!」
配られるパンに群がる人々。
それを食べた直後、彼らの体から湯気が立ち上り、筋肉が隆起したり、皮膚が岩のように硬質化したりする現象が起きる。
「うおおお! 力が湧いてくるぞォ!」
「すげぇ! 俺の手から火が出た!」
「ヒャッハー! これで隣町の奴らをぶちのめせるぜェ!」
力を得た市民たちは、興奮状態で叫び声を上げ、互いに殴り合ったり、建物の壁を破壊して力試しを始めたりしている。
治安など崩壊していた。
ここはもはや街ではない。
魔力という薬物に酔っ払った者たちの、巨大な闘技場だ。
「……うわぁ。世紀末ですね」
リディアがドン引きした顔で言った。
「みんな目が血走ってますよ。あれが副作用ですか?」
「ええ。闘争本能のリミッターが外れています」
セレスが眼鏡を直しながら冷静に分析する。
「バザルトは生前、好戦的な性格でしたからね。その『残留思念』ごと一緒に食べてしまっている状態です。……言わば、質の悪い集団ヒステリーですわ」
「迷惑な話だ」
アビスは不快げに吐き捨てた。
その時、教団の幹部らしき大柄な男が、アビスたちの方に近づいてきた。
全身を金色の鎧で固め、背中には巨大なハンマーを背負っている。
その肌は土気色に変色し、岩石のような質感になっていた。
「おい、そこの黒服! なぜ配給のパンを受け取らん!」
男はアビスの前に立ち塞がると、上から目線で睨みつけた。
「この街で生きるなら、大地教団の加護を受けるのがルールだ。それともテメェ、異端者か? あァ?」
男の背後には、同じく強化された取り巻きたちがニヤニヤしながら集まってくる。
テトが青ざめてリディアの後ろに隠れる。
「ひぃっ……! 姉ちゃん、こいつらヤバいよ! さっきの宿場町の奴らより強そうだ!」
だが、アビスは男を見上げることすらせず、自分のコートについた砂埃を払っていた。
完全なる無視。
羽虫の羽音に対する反応だ。
「……おい、無視してんじゃねえぞコラァ!!」
男が激昂し、石のように硬化した拳を振り上げた。
「俺は教団の幹部、『鉄壁のグルド』様だぞ! この鋼鉄の肉体は、我らが『聖女』様から直々に賜った奇跡の力だ! 貴様ごときヒョロヒョロ、デコピン一発で……」
「……デコピン?」
アビスの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
その深紅の瞳が、男を射抜いた。
「テメエ、今……デコピンと言ったか?」
「あ、あァ? そうだ! 俺様の最強の指でお前の頭蓋骨を……」
「……フッ、ハハハハハ!!」
アビスは突然、腹を抱えて笑い出した。
その笑い声は美しく、そして底冷えするほど恐ろしい。
「傑作だ。三下の魔力の残りカスを拾って食った程度の分際で、この俺様に『デコピン』だと? 身の程知らずにも限度があるぞ、ゴミ虫」
「な……ッ!?」 グルドの顔が怒りで真っ赤になる。
「言わせておけば……! 死ねェ!!」
グルドは自慢の剛腕を振りかぶり、アビスの顔面めがけて突き出した。
岩石化した拳。
戦車砲並みの威力がある(と本人は思っている)一撃。
リディアが動こうとした。
だが、アビスは動かない。
ポケットから手を出すことすらしない。
ただ、「見た」だけだった。
アビスの深紅の瞳が、ほんの少し細められ、迫りくる拳と、その背後の男を視界に入れた。
ただそれだけの行為。
だが、そこに乗せられた「魔力の圧」は、生物が耐えられる限界を遥かに超えていた。
――ギチチチチチチッ……!
異様な音が響いた。
グルドの動きが空中で静止する。
彼の拳が、腕が、そして全身の筋肉と骨格が、見えない万力で全方向から締め上げられたように軋みを上げたのだ。
「あ……? が……ぁ……?」
グルドの目が見開かれる。
アビスの視線。
ただ見られているだけなのに、全身の細胞が恐怖で死滅していくような感覚。
世界そのものが、自分という異物を排除しようと収縮してくるような、絶対的な威圧感。
「テメエごときに、指を使うのも面倒だ」
アビスは吐き捨てるように言った。
「目障りだ。潰れろ」
その言葉が、世界への命令となった。
ドヂャアァァァァァァッ!!
次の瞬間、グルドの全身が弾け飛んだ。
斬られたのでも、殴られたのでもない。
風船をプレス機で押し潰したかのように、全身の血管と細胞が一斉に破裂し、赤い霧となって四散したのだ。
あとに残ったのは、地面に散らばる「かつてグルドだったもの」の肉片と、歪んだ金色の鎧だけ。
断末魔の叫びすら上げる暇はなかった。
「……汚ねえな」
アビスは、コートの裾に飛んできた血を一瞥すると、不快そうに魔力で焼き払った。
「ひッ……!?」
「あ、兄貴が……破裂した……!?」
取り巻きたちが腰を抜かし、失禁しながら後ずさる。
彼らの自慢の「鋼鉄の肉体」も、アビスの前では紙風船ほどの強度もなかったのだ。
「……なんだ。脆いな」
冷徹な声。
「本物のバザルトは、少なくともデコピン一発分の強度はあったぞ? その劣化コピーのテメエらは、視線にすら耐えられねえのか。シャボン玉以下だ」
アビスは、足元の肉片を踏みつけ、広場の奥にある巨大な教会を睨み据えた。
「おい、セレス。行くぞ」
「は、はいっ! アビス様!」
セレスが震える手でメモを取りながら駆け寄る。
『○月×日、アビス様、視線のみで敵を爆殺。その残虐性、プライスレス』
「あそこに、このふざけた小麦をバラ撒いている元凶がいるはずだ。さっきの肉塊が言ってたな……『聖女』と」
アビスの目が、獲物を見つけた猛獣のように細められた。
「俺様の食卓を汚し、三下の力を借りて神気取りとは、いい度胸だ。その『聖女』とやらに、本当の地獄(教育的指導)を教えてやる」
「お供します、アビス様!」
セレスは忠犬のように尻尾(幻覚)を振ってアビスの後を追う。
リディアとテトも、顔を見合わせて苦笑いしながら続いた。
広場には、最強の幹部が一瞬にして「染み」に変えられたことに呆然とする信徒たちだけが残された。
彼らの信仰(力こそ正義)は、より強大で理不尽な暴力の前に、音を立てて崩れ去ろうとしていた。




