第一話 煤煙の街と、手癖の悪い案内人
大陸の東。
かつて「炎の四天王」イグニスが支配し、灼熱の山々が連なっていたその土地は、今や見るも無残な変貌を遂げていた。
地面という地面は剥き出しの鉄板や廃棄された歯車で埋め尽くされ、草木の一本も生えていない。
大地には無数のパイプが血管のように張り巡らされ、至る所からシューッという排気音と、ガシャンガシャンという金属の駆動音が、大地の鼓動の代わりに響き渡っている。
そこはもはや自然の荒野ではなく、暴走した文明に食い尽くされた「鉄の墓場」だった。
そんな、油と鉄錆の匂いが充満する一本道を、一人の少女が歩いていた。
燃えるような赤い髪をポニーテールに結わえ、背中には巨大な登山用リュックサック。
リディア・クレセントである。
彼女の足取りは、この陰鬱なディストピア的風景に似合わず、まるでハイキングに来たかのように軽やかだった。
「わあ、すごいですねアビスさん! 見てください、あそこの黒い山! 噴火してますよ! 火山でしょうか?」
リディアが指差した先には、確かに山のように巨大な円錐形の黒い塊があり、その頂上からモクモクと煙を吐き出していた。
「……あれは『ボタ山』だ。工場から出たゴミや燃えカスを積み上げただけの、ゴミの山だ」
「えっ、そうなんですか? すごい、人間がゴミで山を作っちゃったんですね!」
「……お前のその、物事を全てポジティブに解釈する脳みそが羨ましいよ」
リディアの背負ったリュックサック。
その上蓋の隙間から、ひょっこりと顔を出している黒い毛玉があった。
つぶらな瞳に、愛らしい短い鼻先。
ふわふわの黒毛に包まれたその姿は、どこからどう見ても愛玩犬の「ポメラニアン」である。
だが、そのポメラニアン――かつて世界を恐怖で支配した魔人アビスは、死んだ魚のような目をして、深いため息をついた。
(……最悪だ。空気が悪すぎる)
アビスは、敏感な犬の嗅覚で、空気中に漂う微粒子を感じ取り、不快げに鼻を鳴らした。
かつて自分が倒した炎の四天王イグニス。
奴が文字通り消滅した後、この領地は急速な産業発展を遂げたと風の噂には聞いていたが、まさかここまで環境が悪化しているとは思わなかった。
(これでは、自慢の漆黒の毛並みが煤で汚れてしまうではないか……)
アビスは顔をしかめ、リュックの中に潜り込もうとした。
今の彼は、「呪い」によって犬になっているわけではない。
前回の旅の最後で、呪いの元凶であった「黒い聖剣」は破壊された。
つまり、アビスはいつでも好きな時に、本来の魔人の姿に戻ることができるのだ。
にもかかわらず、なぜ彼がこうして犬姿で狭いリュックの中に丸まっているのか。
理由は単純。
「歩くのが面倒だから」そして「犬の姿の方が、リディア(暖房器具兼乗り物)に運んでもらえるから」である。
「アビスさん、大丈夫ですか? ちょっと空気が悪いですね。マスクしましょうか?」
「不要だ。……それよりリディア、あんまり揺らすな。酔う」
「あ、ごめんなさい! 抜き足差し足……!」
リディアは、アビスの正体も、彼が自分の意思で犬になっていることも知っている。
その上で、「アビスさんは魔力温存のために省エネモード(犬)になっているのね! 賢い!」と、極めて好意的に解釈していた。
アビスにとっては、まさに王侯貴族の輿に乗っているようなものである。
多少の揺れと、運び手の頭の悪さを除けば、だが。
「見えてきましたよ! 『蒸気都市ヴァルカン』です!」
リディアが声を弾ませて指差した先。
荒野の果てに、巨大な鉄の塊のような都市が鎮座していた。
城壁は鋼鉄の板をつぎはぎして作られ、内部からは無数の煙突が天を衝くように伸びている。
街全体が一つの生き物のように、呼吸をするように蒸気を吐き出し、唸りを上げていた。
◇
都市の内部は、外から見る以上に混沌としていた。
石畳の道路は油で黒光りし、蒸気機関で動く荷車や、奇妙な機械仕掛けの義手や義足をつけた人々が行き交っている。
通り沿いの露店では、歯車の形をしたパンや、真っ黒なスープ、そして用途不明のジャンクパーツが売られていた。
「へえー! 面白い街ですね! 見てくださいアビスさん、あの人、腕から蒸気が出てますよ!」
「……騒ぐな。田舎者丸出しだぞ」
リュックの中から顔だけ出し、アビスは周囲を冷徹に観察していた。
活気はある。
だが、その活気はどこか病的なものだった。
行き交う人々の目は死んでおり、疲労の色が濃い。
路地裏や建物の陰には、痩せ細った子供たちや浮浪者がうずくまり、通りを歩く富裕層を睨みつけている。
極端な貧富の差。
急速な技術革新がもたらした歪みが、この街には充満していた。
(……やれやれ。面倒な気配しかしないな)
アビスがあくびを噛み殺そうとした、その時だった。
雑踏の隙間を縫うようにして、一人の少年が近づいてきた。
年齢は十歳前後だろうか。ボロボロのキャスケットを目深に被り、煤で汚れた大きなシャツを着ている。
彼は、周囲の景色に見とれてキョロキョロしているリディアの背後へ、音もなく忍び寄った。
(……ほう)
アビスだけが、その少年の接近に気づいていた。
気配の消し方は、素人にしては上出来だ。
少年は、人混みに押されるふりをしてリディアの背後にぶつかり、その衝撃に紛れて、リュックのサイドポケットに手を伸ばした。
そこには、リディアの財布が入っている。
鮮やかな手並みだった。
指先がポケットの留め具を外し、革袋の感触を捉える。
だが。
ガブッ。
「――っ!?」
少年――テトは、悲鳴を上げそうになるのを喉の奥で押し殺した。
財布を掴もうとした彼の手首に、何かが食らいついていたのだ。
痛みはない。
甘噛みだ。
だが、万力のように決して外れない強烈な拘束感。
テトは恐る恐る視線を上げた。
リュックの隙間。
そこから、一匹の黒い犬が顔を出していた。
愛らしいポメラニアン。
しかし、その瞳だけが、深淵の如き真紅に輝き、テトの魂を射抜くように見つめていた。
『……おい、小僧』
脳内に、直接響く声。
低く、威厳に満ちた、絶対者の声。
『その財布には、俺様の「おやつ代」が入っている。……その汚い手を離せ』
「――ひっ!?」
テトは今度こそ、短い悲鳴を上げて飛び退いた。
尻餅をつき、地面の泥水を跳ね上げる。
周囲の通行人が、何事かと一瞬こちらを見たが、すぐに関わり合いになりたくないと目を逸らして通り過ぎていく。
「い、犬が……喋っ……!?」
テトは震える指でリュックを指差した。
しかし、その時にはもう、黒い犬は何食わぬ顔で「ワンッ」と可愛らしく鳴いてみせていた。
あの真紅の瞳の輝きも、ドスの利いた声も、幻だったかのように。
「あら? どうしたの?」
背後の騒ぎに気づいたリディアが、くるりと振り返った。
尻餅をついている薄汚れた少年を見て、彼女はきょとんと首を傾げる。
そして、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「ああ、アビスさんと遊びたかったの? ごめんねー、この子、ちょっと人見知りなのよ」
「は……?」
テトは呆気にとられた。
この姉ちゃん、気づいていないのか?
今、自分がスリを働こうとしたことにも。
そして、自分が背負っている犬が、どう考えても普通の犬ではないことにも。
「お腹空いてる? これ食べる?」
リディアは、懐から先ほど露店で買った「歯車パン(硬すぎて釘が打てそうな代物)」を取り出し、テトに差し出した。
無防備すぎる。
あまりにも、警戒心がなさすぎる。
この街で、こんな隙だらけの態度で歩いている人間は、三秒で身ぐるみを剥がされるか、カモにされて骨までしゃぶられるのがオチだ。
……普通なら。
(……こいつ、ヤバい)
テトの野生の勘が警鐘を鳴らしていた。
この姉ちゃん(カモ)の背後にいる、あの黒い犬。
あれがヤバい。
リュックの隙間から、じっとこちらを見ている視線。
「バラしたら殺す」という明確な殺気が、テトの心臓を鷲掴みにしていた。
「い、いいよ……いらねえよ……」
テトは立ち上がり、後ずさりした。
逃げよう。
関わったらダメな奴らだ。
だが、その時だった。再び、脳内にあの声が響いた。
『待て』
テトの足が、見えない力で縫い止められたように動かなくなる。
金縛りだ。
『逃げるな。……貴様、この街の地理には詳しいか?』
テトは冷や汗を流しながら、コクコクと首を縦に振った。
『よし。なら案内しろ。俺様たちは宿を探している。条件は三つだ。一つ、風呂が広くて清潔なこと。二つ、飯が美味いこと。三つ、ベッドがふかふかであること。……案内すれば、さっきの無礼は不問にしてやる。報酬も弾んでやろう』
(な、なんなんだよコイツ……!)
テトは心の中で絶叫した。
魔獣? 妖精? いや、もっとおぞましい何かだ。
ただの犬が、こんな具体的かつ贅沢な宿の条件を指定してくるわけがない。
『返事は?』
アビス(犬)が、ニヤリと口角を上げたように見えた。鋭い牙がキラリと光る。
「や、やります……案内しますぅ……!」
テトは泣きそうな顔で承諾した。
これが、彼と「最恐の魔人」との出会いだった。
◇
テトの案内で、リディアたちは街一番の高級ホテル『鋼鉄の休息亭』にたどり着いた。
蒸気機関を模した豪華な外装と、ガス灯が輝くエントランス。
明らかに、テトのような少年が近づいていい場所ではない。
「ここなら、風呂も飯も最高だよ。……高いけど」
「ありがとうテトくん! 助かったわ!」
リディアはポケットから金貨を一枚取り出し、テトの手に握らせた。
テトは目を見開いた。
金貨一枚といえば、テトのような孤児なら半年は遊んで暮らせる大金だ。
「い、いいのかよ!? ぼったくるつもりはねえぞ!?」
「いいのいいの。アビスさんが満足する宿を見つけてくれたんだから、これくらい当然よ」
「あ、ありがとう……!」
リディアは手を振り、ホテルへと入っていった。
アビスもリュックから顔を出し、テトに一瞥をくれる。
『精進しろよ、小僧』という念話を残して。
テトは、しばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。
変な二人組。
でも、悪い人たちじゃなかった。
テトは金貨を握りしめ、路地裏へと駆け出した。
早くみんなのところへ戻ろう。
今日はご馳走だ。
だが、テトはまだ知らなかった。
この街の危機が、すぐそこまで来ていることを。
◇
一方、ホテルのスイートルーム。
チェックインを済ませ、重厚な扉が閉められた、その瞬間だった。
リディアが背負っていたリュックサックから、黒い影が飛び出した。
影は空中で回転し、黒い霧と共に膨れ上がる。
そして、ふわりと音もなく絨毯の上に着地したのは、黒いポメラニアン――ではなかった。
漆黒のコートを纏った、長身の青年。
月の光を切り取ったかのような銀髪に、深紅の瞳。
整いすぎた顔立ちには、万物を睥睨するような冷徹さと、気怠げな色気が同居している。
魔人アビス。その本来の姿である。
「……あー、肩が凝った」
アビスは、ボキボキと首を鳴らしながら、優雅な動作でソファへと腰を下ろした。
その仕草一つ一つが、絵画のように美しい。
リディアは、リュックを下ろしながらクスクスと笑った。
「お疲れ様です、アビスさん。やっぱり、ずっとリュックの中だと窮屈ですか?」
「当たり前だ。お前の歩き方は無駄に上下動が激しいんだよ。もう少し貴婦人のように淑やかに歩けんのか」
「えへへ、善処します!」
リディアは全く悪びれずに答えると、ルームサービスのメニューをアビスに手渡した。 アビスは長い足を組み、人間離れした美しい指先でメニューをめくる。
「……ふん。悪くないラインナップだ。この『最高級蒸気ステーキ』とやらを三人前。焼き加減はレアでな。あと、年代物の赤ワインもだ。埃っぽい喉を潤す必要がある」
「あ、私もお肉食べたいです! 五人前でお願いします!」
「……お前は少しは遠慮というものを覚えろ」
アビスは呆れたように言いながらも、口元には微かな笑みを浮かべていた。
彼は、犬の姿でいること自体は嫌いではない(楽だから)。
だが、やはり食事や酒、そしてこうしてふかふかのソファでくつろぐ時間は、人間の姿でなければ味わえない至福の時だ。
犬の舌では、ワインの芳醇な香りも、肉の繊細な旨味も完全には理解できない。
美食への探求心。それこそが、彼がわざわざ人間の姿に戻る最大の理由だった。
しばらくして、ボーイがワゴンを押して部屋に入ってきた。
アビスは素知らぬ顔でソファに座り、リディアは「連れの人です」と笑顔で紹介した。
ボーイは、入室時にはいなかった黒衣の美青年に一瞬目を丸くしたが、リディアがチップ(金貨)を弾んだことで、余計な詮索はせずに恭しく料理を並べて去っていった。
犬の姿でチェックインしたはずが、部屋には人間がいる。
そんな些細な矛盾も、金とアビスの放つ「王者の風格」の前では些細なことに過ぎなかった。
「いただきます!」
「……うむ」
リディアが肉にかぶりつく横で、アビスはナイフとフォークを使い、芸術的な手さばきでステーキを切り分けた。
口に運ぶ。
肉汁とソースのハーモニーが広がる。
「……悪くない」
アビスは満足げに呟き、ワイングラスを揺らした。
窓の外には、煤煙に沈む街の夜景が広がっている。
混沌とした街並みも、こうして高みから見下ろし、美酒と共に味わえば、一興に過ぎない。
「でも、さっきの子、大丈夫かな」
リディアが、口の周りをソースだらけにしながら呟いた。
「あ? あのスリの小僧か?」
「スリ? 何のことですか?」
「……いや、何でもない」
アビスはため息をつき、ワインを一口飲んだ。
この天然勇者は、財布を抜かれそうになったことすら気づいていないらしい。
まあ、いい。
あの少年からは、したたかさと、同時に危うさを感じた。
この街の闇に、深く関わっていそうな危うさを。
(まあ、俺様には関係のないことだ)
アビスはそう結論づけ、二切れ目の肉を口に運んだ。
今はただ、この休息を享受するのみ。
世界平和?
知ったことか。
俺様は、ただのペットであり、今は休暇中の魔人なのだから。
――しかし、絶対者の休息は、長くは続かないのが世の常である。
窓の外。
遠くの工場地帯から、不穏なサイレンの音が、亡霊の悲鳴のように鳴り響き始めていた。




