影を貸す夜
1914年の初冬、帝都モスクワの裏通りに小さな影絵劇場があった。
『夜のパノラマ座』――看板の文字は半ば剥げ、客足はまばら。
イグナート・ダヴィドヴィチはそこで雑用係として雇われた。十七歳、孤児院を出たばかり。住み込みで働けるなら、場所は問わなかった。
初日の夕暮れ、楽屋裏で彼はそれを見た。
白い幕に映る影絵。鳥が羽ばたき、木が揺れ、人が踊る。ただの黒い輪郭なのに、そこに呼吸があった。
「誰がこれを?」
イグナートは幕の裏へ回り込む。
灯りの前に、一人の青年が立っていた。二十代前半、黒い髪、細い指。手だけが動き、影が生まれる。
「サムイル・イズライロヴィチです」
青年は振り向かず、影を操りながら言った。
「影絵師。よろしく、イグナート」
「どうして僕の名前を」
「支配人から聞いた。それに――」
ようやく振り向いた灰色の瞳。笑っているのか、困っているのか定かでない表情。
「君の足もとを見れば分かる」
イグナートは自分の影を見た。いつもどおり、床に伸びている。
「何が?」
「綺麗な影だ。誰にも貸したことがないね」
意味は分からない。けれど胸の奥が、微かに温まった。
劇場の仕事は単純だった。掃除、切符のもぎり、幕の上げ下ろし。客は少なく、公演は週三度。昼間、サムイルは姿を見せない。夜だけ、灯りの前に立つ。
影絵の演目は古典ばかり――『火の鳥』『雪娘』『皇帝サルタン』。それでもサムイルの影は他と違う。まるで本物の命を帯びていた。
ある晩、灯りの補充で舞台裏に入ったイグナートは、床を二度見した。
「あれ?」
灯りの真下に、サムイルの影がない。
「見えたか」
いつもより低い声。
「影が、ない……?」
「ああ」
サムイルは灯りを消した。暗闇の中、輪郭だけが月明かりで浮かぶ。
「僕には影がない。だから、借りている」
影のない者は、言葉も半分しか届かない。
楽屋の隅で、サムイルは語った。
「八歳のとき、腸チフスで死にかけた。孤児院で。三日三晩、熱に浮かされて、四日目に目が覚めた」
「奇跡的に?」
「そう呼ばれた。でも目覚めたとき、影だけが戻らなかった」
イグナートは息を呑む。
「影がないと、どうなるんです」
「徐々に薄くなる。存在が、霧みたいに」
サムイルは手のひらを月明かりにかざした。透けはしない。けれど、どこか頼りない。
「だから借りる。死者の影を。彼らはもう使わないから」
「どうやって?」
「影絵を通して。影は形を残す。僕がそれを纏う」
イグナートは幕を見やった。そこに映っていた美しい影たちは――
「全部、誰かのもの?」
「そう。靴屋、娼婦、兵士、詩人。みんな死んで、影だけ残った。僕はそれを一晩ずつ借りて舞台で使い、翌朝に返す」
借りた影で立つ者は、自分の名前を二度呼ばれる。
「じゃあ、今の影は?」
「昨夜亡くなった時計職人。指先が器用で、影絵に向いている」
サムイルの指は、長く繊細で、確かに職人のそれに見えた。
「明日は?」
「分からない。死は予測できない」
風が窓を叩いた。
「怖くないんですか」
「怖い。でも、怖さより孤独の方が重い」
サムイルは微笑んだ。それは、誰かから借りた笑顔かもしれない。
その夜から、イグナートは楽屋に通うようになった。
サムイルは毎晩、異なる影を纏った。背の高い影、猫背の影、足を引きずる影。影が変わるたび、話し方も立ち方もわずかに変わる。
「今日は誰です?」
「元兵士。右脚を戦争で失った」
サムイルの右脚が、微かに内へ向いた。
「影は記憶も連れてくる?」
「少しだけ。匂い、痛み、好きだった食べ物――そういうもの」
「辛くないですか」
「慣れた。他人の人生を一晩だけ生きる。悪くない」
けれど、ときどきサムイルは疲れた顔をした。
「今日の影は重い」
「重い?」
「自死した男。首を吊った。その瞬間の息苦しさが、影に残っている」
イグナートは言葉を失った。
十二月のある夜、雪が降り出した。
薪を運ぶイグナートの前で、灯りの前に立つサムイルの体が小刻みに震えている。
「サムイル?」
返事はない。
「今日、誰も死ななかった」
「え?」
「借りられる影がない。僕の影がない。だから――」
輪郭がぼやけ、月明かりを透かすように薄くなる。
「消える……?」
「まだ大丈夫。明日になれば、誰か死ぬ」
「そんな言い方……」
「事実だ」
イグナートは拳を握った。
「僕の影を使ってください」
サムイルが顔を上げる。
「何だって」
「僕の影。貸します。僕は生きている。誰かの死を待たなくてもいい」
「できない」
「なぜ」
「生者の影を借りたら、君も薄くなる」
「少しくらい、平気です」
「イグナート――」
「あなた、一人で十年も耐えてきたんでしょう。少しくらい、誰かに頼ってもいいじゃないですか」
一つの影を分けた夜から、二人の夢は同じ色を見る。
長い沈黙ののち、サムイルは小さく頷いた。
「……ありがとう」
灯りの前に、二人で立つ。
「どうすれば?」
「君の影と僕が重なればいい」
サムイルがイグナートの背後に立つ。二つの輪郭が床で重なった。
「息を合わせて」
「はい」
吸って、吐いて。
次の瞬間、イグナートの体が震えた。
「あ……」
何かが抜けていく。温かなものが、するりと背中から離れる。
サムイルの輪郭がくっきりした。
「借りたよ」
床を見ると、イグナートの影は少し薄い。けれど、まだ在る。
「平気?」
「平気です。あなたは?」
「久しぶりだ。生者の影は、温かい」
サムイルは自分の手を見つめ、それからイグナートを見た。
「ありがとう、イグナート」
その声は借り物ではない、サムイル自身のものだった。
それから毎晩。
死者の影が見つからない夜は、イグナートが影を貸した。
不思議なことが起き始める。
イグナートが眠ると、サムイルの夢を見る。孤児院の白い壁、熱に浮かされた夜、影のない自分を笑う子供たち。
サムイルが眠ると、イグナートの記憶が流れ込む。雪の中で拾った子猫、初めての温かいスープ、孤独な誕生日。
「君の好きな食べ物、黒パンと蜂蜜だろう?」
「どうして知ってるんです」
「夢で見た。七歳の君が、施しでもらったやつ」
イグナートは息を呑む。
「僕も……あなたの夢を見ました。孤児院の、あの日」
「どの日?」
「目が覚めて、鏡を見て、影がないって気づいた日」
サムイルは目を伏せた。
「そうか……」
影を分けた者は、心臓の拍も分け始める。
ある晩、舞台裏で転んだイグナートが膝を擦りむいた。
その瞬間、離れた楽屋でサムイルが「痛っ」と声を上げる。
「君、怪我をした?」
「どうして分かるんです」
「君の痛みが、伝わった」
別の夜。サムイルが冷たい水で手を洗うと、離れていたイグナートの指先がひんやりした。
「これ、まずいんじゃ……」
「ああ。まずい」
二人は向かい合う。
「影だけじゃなく、全部が混ざっている」
「どこまで混ざるんでしょう」
「分からない。こんなのは初めてだ」
混ざり合う境界で、二人は新しい名前を探し始める。
それでも夜ごとの共有は続いた。
イグナートの影は少しずつ薄くなる。だが怖くない。むしろサムイルの輪郭がはっきりするのが嬉しかった。
十二月も押し詰まった夜、サムイルが言う。
「イグナート、もうやめよう」
「どうして」
「君の影が、もう半分しかない」
灯りの下の影は、確かに薄い。
「平気です」
「平気じゃない。このままでは君も影を失う」
「それなら、二人とも同じじゃないですか」
「違う。君は生きている。影を失う必要はない」
「でも――」
「僕は一度、死にかけた。君は違う」
イグナートは首を振った。
「あなたも生きている。影がないだけで」
「それは――」
「僕、決めました」
一歩、近づく。
「全部、貸します。僕の影、すべて」
「何を言っている」
「そうすれば、あなたは完全になる。もう誰からも借りなくていい」
「君が消える」
「消えません。あなたの中にいます」
二つが一つになる夜は、名前も溶けて新しくなる。
サムイルの目が大きくなる。
「本気か」
「本気です」
「どうして、そこまで」
イグナートは、自分でも驚くほど静かに答えた。
「あなたと一緒にいると、初めて一人じゃないと思えるから」
雪が窓を叩く。沈黙が熟した。
サムイルは手を伸ばし、イグナートの頬に触れる。
「君は優しすぎる」
「優しさじゃありません」
「じゃあ、何だ」
イグナートは答えなかった。ただ、その手が温かいと思った。それは、自分の影の温度だった。
大晦日の夜。劇場は休演。
二人だけの舞台で、最後の影絵をすることにした。
「何を演る?」
「即興。君と僕の物語」
灯りがともる。イグナートが前に立ち、サムイルが背後に重なる。
「準備はいい?」
「はい」
「じゃあ、全部もらうよ」
「どうぞ」
息を合わせる。吸って、吐いて。
温かなものが、するりと抜ける。今度は、すべて。
イグナートの影が、サムイルへと流れ込む。
幕に映る影が、一つになった。
二人の輪郭が重なり、溶け合い、新しい形を結ぶ。
鳥でも木でも人でもない。ただ、美しい何か。
体が軽くなる。足が床から浮きそうだ。
「サムイル……」
「ここにいる」
背後から腕が回る。
「怖い?」
「怖くない。温かい」
「それは君の影の温度だ」
「今は、あなたのものです」
影をすべて渡した者は、光の中へ消える。
影をすべて受け取った者は、はじめて地に立つ。
イグナートの輪郭が透け、月明かりが体を通り抜けた。
「イグナート、ありがとう」
「僕、消えるんですか」
「消えない。僕の中にいる。ずっと」
「ずっと……」
「ああ。君の影といっしょに」
最後に、イグナートは笑った。
そして光になって溶けた。
* * *
1914年の大晦日が明けた朝。支配人が楽屋に入ると、サムイル・イズライロヴィチが一人で立っていた。
「おや、イグナートは?」
「辞めました。昨夜」
「急だな」
「ええ。故郷に帰るって」
支配人は肩をすくめた。「そうか。まあ、雑用係ならすぐ見つかる」
サムイルは窓外の雪を見た。灯りをつける。床に、自分の影がくっきり映る。
十年ぶりの、自分だけの影。
けれど、よく見ると――
影は一つなのに、輪郭は二重に見えた。重なり合う二つの形。
サムイルは小さく微笑んだ。
「いるね、イグナート」
影が、かすかに揺れた。
その夜から『夜のパノラマ座』の影絵は、さらに美しいと評判になった。まるで二人で演じているような、温かさと寂しさの混じった影。
客は増えた。だが誰も気づかない。舞台裏でサムイルが時おり、誰もいない空間に話しかけていることを。
「今日はどれを演る?」
影は答えの代わりに、床で形を変えた。
「そうだね。それがいい」
そして夜ごと、二つで一つの影が、幕の上で踊り続けた。
一つの影に宿った二つの魂は、もう離れることを知らない。
(了)




