北への航跡
**2033年4月25日 午前3時20分 茨城県 鹿島港 埠頭F-7**
冷たく湿った潮風が、夜明け前の闇に包まれた巨大な埠頭を吹き抜けていた。岸壁には、老朽化した中規模コンテナ船「北光丸」が静かに横づけされていた。船体は錆びとペンキ剥がれが目立ち、エンジンの低いアイドリング音だけが不規則に響いていた。この船は、**ジャビール**がシリア難民時代に物資輸送で縁があった、反骨精神あふれる船長・岡田の船だった。
「時間だ。急げ」**ジャビール**が低く言った。彼は迷彩服の上に防寒ジャケットを羽織り、大型リュックを背負っていた。その横で、**ソラ**が最後の装備チェックをしていた。彼女の顔は蒼白で、奪われた「瞳」への焦燥感が深い皺を刻んでいたが、目は決意に燃えていた。右手でタブレット型端末の防水ケースを確認し、左肩に掛けた医療キットのストラップを締め直した。
「全員、順番に。静かに」ジャビールが船尾に設けられた、目立たない補助ハッチを開けた。
まず、**ブルーアイ**が頭部のRSFフレームをわずかに左に傾け、周囲の安全を確認してから、四肢を踏ん張り、軽やかに船内へと飛び乗った。部下の**ロック**と**シエラ**がそれに続く。三頭のオオカミは、船倉内の暗がりに溶け込むように身を伏せた。
次に、**アキラ**と**リュウ**が慎重に近づいた。二人とも警戒のため冠羽を立て、青紫の構造色が港のわずかな照明に微かに浮かんでいた。彼らは優れた平衡感覚(発達した内耳と硬直化した尾による)を持ち、船の揺れには比較的強い。アキラが左前肢を踏み込み、強靭な後肢で軽く跳躍、船倉の床に着地した。リュウも滑るように続いた。長い尾が着地時の衝撃を吸収し、ほとんど音を立てなかった。
**トビ**は、リュウの背中にぴったりとしがみついていた。揺れる船への恐怖で、小さな体が微かに震えていた。リュウが船倉内に着地すると、トビは素早く飛び降り、近くの積荷の陰に身を隠した。彼の小さな冠羽は緊張でピンと立っていた。
「さあ、お前たちの番だ」**ケイ**が優しく声をかけた。彼女は**プテロス**の左側を歩き、固定された右翼を支えるように手を添えていた。プテロスは、AGI制御型筋肉補助装置を外され、翼は保護ネットと軽量スプリントで体幹に固定された状態だ。彼は細長い首を不安そうに左右に振り、大きな目で船という未知の巨大構造物を見つめていた。喉の奥で「クゥ…」と弱々しく鳴く。
「大丈夫だよ。すぐに終わるから」ケイがプテロスの首の付け根を優しく撫でた。**ハルオ**が電動車椅子で後ろから見守り、車椅子の右アームレストにあるタッチパネルを操作して、船倉入口への補助ランプの角度を調整した。
プテロスは深く息を吸い、強力な後肢を踏ん張った。ノタリウム(癒合胸椎)を軸に体を前に傾け、固定された翼のバランスを取りながら、慎重に跳躍した。左翼を広げて揚力を得ようとするが、固定具が邪魔で十分に動かせず、着地は重くなった。船倉の金属床が「ドスン」と鈍く響いた。プテロスはよろめき、首を大きく右に振ってバランスを取った。ケイがすぐに駆け寄り、体を支えた。
最後に、**カルノス**が近づいた。彼は船という閉鎖空間に明らかな不快感を示していた。鼻面をひくひく動かし、油と錆びと海水の強烈な匂いを嗅ぎ分けている。短い前肢をわずかに上げ、後肢で地面を掻いた。ジャビールが慎重に合図を送ると、カルノスは低いうなり声を一つ上げ、突進するような勢いで跳躍し、船倉内へと飛び込んだ! 着地の衝撃で船体が微かに揺れた。彼はすぐに船倉の最も奥で暗い隅を見つけ、うずくまるようにして身を伏せた。小さな目は、入り口を離れたハルオと船外を見据えていた。
ハルオは車椅子をゆっくりと後退させ、岸壁に立つ岡田船長を見上げた。「…後は頼んだ」
「任せとけ、親父さん」岡田船長は無造作に手を挙げた。彼の顔には、この危険な密航を承知で引き受ける男の意地のようなものが見えた。「北の海は荒れてるが、『北光丸』はな、見た目に反してしぶといんだ」
ハルオはうなずき、ケイとジャビールに最後の視線を送った。ケイはハルオに向かって大きく手を振り、ジャビールは無言で敬礼のような仕草をした。補助ハッチが静かに閉じられ、重い締め付け音が響いた。エンジン音が大きくなり、「北光丸」はゆっくりと岸壁を離れ、闇に沈む太平洋へと船首を向けた。
* * *
**2033年4月27日 午後10時15分 オホーツク海 公海上**
「北光丸」は、濃霧と時化る灰色の海に揉まれながら、北へと進んでいた。船倉内は、船の揺れとエンジンの振動、それに積荷の軋む音が絶え間なく響いていた。**カルノス**は最も奥の隅で、明らかに体調を崩していた。彼は首を低く垂れ、細長い吻を床に擦りつけるようにしてうずくまっていた。時折、体を痙攣させるように震わせ、「ウゥ…」という苦しげなうめき声を漏らした。アロサウルス上科の平衡感覚は、複雑な三次元的な動きには適しておらず、船の不規則な揺れは彼の内耳と脳を激しく苛んでいた。短い前肢は無力に広げられ、尾も力なく床に垂れていた。
「かわいそうに…水でも飲む?」**ケイ**が慎重に近づき、ボウルに入った水を差し出した。カルノスはケイを一瞥したが、すぐに目を背け、さらに深くうずくまった。ケイは諦め、ボウルを床に置いた。
船倉の中央付近では、**プテロス**が固定された翼をわずかに動かし、不快感を表現していた。大きな体を支える後肢を交互に動かし、バランスを取ろうとしている。船の縦揺れのたびに、ノタリウム(癒合胸椎)を支点に体が前後に傾き、保護ネットで固定された右翼のスプリントが微かにガタついた。彼は首を長く伸ばし、天井を見上げ、自由な空への憧れをにじませた。
一方、**アキラ**と**リュウ**は比較的落ち着いていた。二人は積荷の陰に並んで座り、長い尾を硬直化させて体を支え、船の揺れに合わせて微妙に重心を移動させていた。時折、目配せを交わし、複雑ではない鳴き声でやり取りする。彼らの優れた空間認識能力とバランス感覚が、この環境でも機能していた。**トビ**はリュウの背中と積荷の隙間を行き来し、時折、小さな警戒音を上げながら周囲を見張っていた。
船倉の入口近く、積まれたコンテナの上では、**ブルーアイ**が鋭い目を光らせて見張りを続けていた。頭部のRSFフレームは低電力モードで稼働し、周囲の電波状況(特にPRの監視網)を監視している。ロックとシエラが船倉の左右をパトロールしていた。
「…位置情報」**ソラ**がタブレットの画面を**ジャビール**に見せた。GPS代替の慣性航法と、限定的な衛星通信(ブルーアイのRSFが微弱な信号を捕捉)による位置表示だ。「間もなく、ランデブーポイント。潜水艦ドローン『海影(Umikage)』との合流だ」
ジャビールはうなずき、船倉の壁を伝わるエンジン音の変化に耳を澄ました。「エンジン停止だ。そろそろか」
* * *
**同日 午後11時03分 オホーツク海 濃霧海域**
「北光丸」は完全にエンジンを停止し、濃霧の中に浮かぶ幽霊船のようだった。波が船体を揺らす音だけが不気味に響く。船尾のハッチが静かに開かれ、ジャビールとケイが外の暗がりを覗いた。冷たい霧と潮の匂いが船倉内に流れ込んだ。
「見えるか?」ジャビールが囁くように言った。
「…あそこだ」ケイが指さした。波間の闇の中に、かすかに青白い光が一瞬、規則的に点滅した。合図だ。
すぐに、波の下から、黒く鈍い光を放つ巨大な魚影のようなものがゆっくりと浮上してきた。全長約15メートルの**潜水艦型ドローン「海影」**。その形状はマンタやエイを思わせる流線型で、表面は光を吸収する特殊なコーティングと、音響吸収材で覆われている。推進は、外部プロペラを持たないマグネトハイドロダイナミック(MHD)方式。海水を電磁力で直接後方に噴射するため、極めて静粛性が高く、熱痕跡も最小限に抑えられる。
「海影」の背面部にハッチが滑らかに開き、内部の明かりが微かに漏れた。ジャビールが合図を送ると、まずブルーアイの群れが、音もなく霧の中を跳び、滑り込むようにハッチへと消えていった。次にアキラとリュウが、優雅な跳躍で「海影」の背に着地し、誘導されるままにハッチへと入った。トビはリュウの背から飛び立ち、自らハッチ内へと滑り込んだ。
プテロスの移乗は困難を伴った。ジャビールとケイが補助ランプとロープで斜面を作り、プテロスを誘導する。プテロスは不安そうに首を振ったが、ケイの声に促され、強力な後肢で「北光丸」の船尾を蹴り、大きな体を「海影」の背へと躍らせた。固定された翼が風を切り、「ドサッ」という重い音を立てて着地した。ハッチ内へと誘導されるプテロスの大きな目には、狭い空間への恐怖がよぎった。
最後にカルノスだ。船酔いで弱っているが、ジャビールの合図に反応し、船尾へとよろめきながら近づいた。彼は「海影」の小さな背中を見下ろし、低く唸った。ジャビールが「海影」の背で手を叩き、注意を引く。カルノスは一瞬躊躇したが、船倉の嫌な揺れから逃れたい本能が勝った。彼は強引に後肢を踏ん張り、船尾から「海影」の背へと飛び移った! その重い衝撃で「海影」が大きく傾いたが、すぐにバランスを回復した。カルノスはハッチに吸い込まれるように消えていった。
ジャビールとケイが最後に移乗し、「海影」のハッチが密閉された。無音のまま、「海影」はゆっくりと海中へと沈んでいった。その直後、「北光丸」のエンジンが再始動し、船は何事もなかったかのように濃霧の中へと消えていった。
* * *
**「海影」内部 主船室**
「海影」の内部は、人間と動物たちがぎりぎり収容できる広さだった。壁面には無数の配管と制御盤が張り巡らされ、青白いLED照明が薄明かりを提供していた。中央の床には滑り止めマットが敷かれ、**アキラ**、**リュウ**、**プテロス**、**カルノス**がそれぞれのスペースを確保していた。**トビ**は天井近くの配管に止まり、警戒を続けている。**ブルーアイ**の群れは入口付近で休息していた。
**ソラ**が中央の制御コンソールに向かっていた。画面には、深海の闇を進む「海影」の周囲を捉えたソナー映像と、進路を示す海図が表示されている。目的地はカムチャツカ半島東岸、PRの国際拠点があるとされる荒れ果てた海岸線だった。
「深度300メートル。速度20ノット。外水温度、摂氏1度」ソラが淡々と読み上げた。「目標地点まで、推定12時間。熱痕跡、音響シグネチャーとも、探知限界以下を維持」
**ジャビール**がソラの横に立ち、海図上の一点を指さした。「この海域は、旧ソ連時代の廃棄物投棄場に近い。海底地形が複雑で、ソナー攪乱も期待できる。PRの水中監視網をかいくぐるには絶好のルートだ」
ソラはうなずき、目をコンソールから離し、船室の仲間たちを見渡した。アキラとリュウは並んで座り、時折、複雑な鳴き声で会話している。プテロスは目を閉じ、呼吸を整えようとしている。カルノスは相変わらず気分が悪そうだが、船の揺れがないためか、少し落ち着いているように見えた。ブルーアイがこちらを見つめ、微かにうなずいた。
「…あの『瞳』を取り戻す」ソラの声は静かだが、強固な意志に満ちていた。「私の過ちを、彼らの手で世界を傷つける兵器に変えさせるわけにはいかない」
ケイがソラの横に立ち、右手をそっとソラの肩に置いた。「みんなついてきてるよ。アキラも、リュウも、トビも…カルノスだって」
ソラはケイの手の温もりを感じ、深く息を吸った。奪われた自身の網膜スキャンデータとiPS細胞が、PRの手で「プロメテウスの目」の核心に組み込まれようとしている。それは、彼女自身の目が、アキラたちを殺戮するために使われることを意味した。
「海影」は、極寒のオホーツク海の深淵を、静謐な闇に包まれて進み続けていた。その先にあるのは、純血革命(PR)という狂信の牙城と、奪われた「瞳」の行方だった。12時間後、彼らは未知の戦場に降り立つことになる。