奪われた瞳
**2033年4月22日 午後10時48分 山岳バイオステーション「種間共生研究センター」 神経科学研究室**
戦闘の傷跡が生々しいステーション内は、警戒レベルが最高度に引き上げられていた。ドームの外壁にはバリケードが強化され、警備員の巡回が頻繁に行われている。しかし、中央シェルターから離れた研究棟の神経科学研究室は、相対的な静けさに包まれていた。**ソラ**は、戦闘中にプテロスとカルノスから収集した膨大な神経データの解析に没頭していた。彼女の目の前には、培養網膜カメラの最新プロトタイプ基板と、それを制御するポータブルコンソールが広げられていた。基板上には、マイクロ流体チップ内で培養された網膜オルガノイドが微かに脈動し、マイクロ電極アレイ(MEA)からの信号がコンソール画面に流れていた。
「…カルノスの扁桃体活動低下、前頭前野活性化のタイミングは、リュウの匂い認識と完全に一致している」ソラは顎に左手を当てながら、右手人差し指でARディスプレイに浮かぶ脳波と行動ログのタイムラインをスクロールさせた。「プテロスの視覚-運動統合データも、予測モデルを大幅に上回る反応速度を示している。この生体アルゴリズムをドローン自律AIに応用できれば…いや、そんなことは」
ソラは自らを戒めるように首を振った。彼女の視線は、コンソールの隣に置かれた小型クライオ容器に移った。そこには、プテロスの治療中に非侵襲的に採取された粘膜細胞から作成した、ソラ自身のiPS細胞ストックが保管されていた。倫理委員会の承認を得たバックアップ計画の一環だったが、今は重苦しい罪悪感を呼び起こす。
* * *
**同日 午後10時52分 ステーション西側森林境界**
突然、闇を引き裂く閃光と轟音が炸裂した!
**ドッカーン! ドッカーン!**
大規模なIEDの爆発が、ステーション西側フェンス沿いの2箇所で同時に起こった! 炎と土煙が舞い上がり、強化されたバリケードの一部が吹き飛んだ。警報サイレンがけたたましく鳴り響く。
「西側境界、大規模破壊工作! 敵襲、第二波!」警備隊の無線が悲鳴のように飛び交った。
「ドローン群、低空より接近! 煙幕展開!」佐藤隊長の声が緊迫する。
**ビィーーーーン!** 無数のプロペラ音が接近し、煙幕弾が発射され、再び外周一帯が白い煙の壁に覆われ始めた。陽動だ。規模は第一波より大きく、ステーションの注意と戦力を西側に集中させるための巧妙な囮だった。
* * *
**同日 午後10時55分 研究棟 空調ダクト内部**
ステーションの天井裏、複雑に張り巡らされた空調ダクトの内部。埃と静寂が支配する空間に、かすかな金属の軋む音が響いた。ダクトの継ぎ目パネルが、内側から慎重に外され、二つの黒ずんだ迷彩服姿の人影が、蜘蛛のように静かに研究室の天井裏スペースへと降りてきた。PRの**特殊工作員**、AlphaとBravoだ。装備は最小限。小型ジャミング装置、盗聴・改竄ツール、そして非殺傷性のスタンガンと拘束用具。彼らの動きは無駄がなく、訓練の極致を示していた。
Alphaは右手で小型スキャナーを掲げ、床下の研究室の様子を確認した。熱源一つ、ソラのものだ。左手で合図を送ると、Bravoが天井パネルをミリ単位でずらし、隙間から極細のファイバースコープを差し込んだ。ソラの位置と、ターゲットである培養網膜プロトタイプ基板の位置を確認する。
* * *
**同日 午後10時57分 神経科学研究室**
ソラは西側の爆発音にハッと顔を上げた。彼女の右手が即座に制御卓のセキュリティモニターを呼び出そうとした。その時――
**パン! ガシャン!**
頭上で鋭い金属音がしたかと思うと、天井パネルが二つ、いっぺんに外れ落ちた! ソラは反射的に椅子から飛び退き、背中を壁に押し付けた。
「動くな」冷たい声が響いた。降りてきた二人の工作員(AlphaとBravo)が、スタンガンをソラに向けている。Alphaはソラとプロトタイプ基板を、Bravoは出口と通信コンソールを睨む。
「…PRの犬か」ソラの声は震えていたが、諦めてはいなかった。彼女の左手が、背後にあるコンソールの非常通報ボタンを探った。
「その手は止める」Alphaが素早く前進し、スタンガンの先端をソラの胸元に突きつけた。Bravoは素早くプロトタイプ基板とポータブルコンソール、そして隣の小型クライオ容器を奪取用ケースに押し込んだ。ソラが開発した装置は、物理的接続がほとんどなく、容易に持ち運び可能だった。
「データも頂く」Bravoがコンソールに接続ツールを差し込み、ソラの生体認証(指紋・網膜)をバイパスする高度なクラッキングツールを起動した。画面が高速でスクロールし、暗号化された研究データ(神経符号化モデル、オルガノイド培養レシピ、行動データ、そして…ソラ自身の網膜スキャンデータを含むキャリブレーションファイル)が次々とコピーされていく。
「やめろ!」ソラが叫んだ。彼女は左足で床を蹴り、体を右に捻ってAlphaの脇をかわそうとした! 同時に右手で、Bravoが操作するコンソールのケーブルを掴みに伸ばした。
「効かないわ」Alphaの動きは速かった。彼はソラの動きを予測し、左足を一歩踏み込み、ソラの右手首を鉄のような握力で掴んだ! ソラの左手がAlphaの顔面を掻こうとするが、Bravoがすかさずソラの左腕を背後に捻り上げた!
「ぐっ…!」ソラの顔に苦痛の表情が走る。彼女の両腕が背後で拘束され、口に粘着テープを貼られそうになったその瞬間――
「ガッ…!?」Alphaが突然、奇妙なうめき声を上げた。彼の視線が、研究室のドアの方へと向く。ドアは閉まっているはずだったが…。
* * *
**同日 午後10時58分 研究棟 廊下**
**カルノス**は、シェルター内の退屈と、西側の爆発音に刺激され、ブルーアイの監視の目を盗んで脱出していた。彼は研究棟の廊下を、短い前肢をぶら下げ、後肢でゆっくりと歩いていた。鼻面を左右に振りながら、様々な匂いを嗅ぎ分ける。薬品の匂い、機械の匂い、そして…ソラの匂いだ。彼はソラの匂いを、シェルターで何度も嗅いでいた。その匂いが、今、強く、しかもソラ特有の「平常時」とは異なる「ストレス」や「恐怖」の汗の匂いを帯びていることに気づいた。
「ウゥ…?」カルノスは首をかしげ、匂いの源である研究室のドアに鼻面を近づけた。ドアは頑丈だったが、わずかな隙間から、ソラの匂いに混じって、もう一つ、全く未知の、危険な人間の匂い(油、火薬、金属)が流れてきている。
* * *
**同日 午後10時58分 神経科学研究室内**
Alphaがドアを凝視する奇妙な動作に、Bravoも一瞬手を止めた。その隙に、ソラが拘束を緩めたBravoの腕を振りほどこうとしたが、Alphaが素早く反応した。
「時間だ。連行する」AlphaがBravoに指示し、スタンガンをソラの首筋めがけて構えた。
その時だった。
**ドゴオオーン!!!!!**
研究室の頑丈な金属製ドアが、外側から信じられないほどの衝撃で跳ね飛んだ! 歪んだドアが壁にぶつかる轟音と共に、巨大な影が煙塵と共に室内へなだれ込んできた。**カルノス**だ! 彼はドアめがけて体当たりしたのだ!
「なに!?」AlphaとBravoが絶叫した。彼らの訓練は、警備員や高度なセキュリティシステムを想定していたが、巨大な先史時代の捕食者の突入は想定外だった。
カルノスは小さな目を血走らせ、侵入者であるAlphaとBravoを鋭く睨みつけた。ソラの「ストレスと恐怖」の匂いが、この二人から強く発せられていることを嗅ぎ取っていた。喉の奥から「ウゥゥゥ…」という低く危険な唸り声が響く。彼は体を低く構え、右後肢に体重をかけて突進の体勢に入った。
「くそっ! 奴を止めろ!」AlphaがBravoに叫び、スタンガンの照準をカルノスに移した。
しかし、Bravoはプロトタイプとデータを詰めたケースを抱え、ソラの拘束を維持しながらは動けない。Alphaがスタンガンを発射しようとした瞬間、カルノスが動いた! 爆発的な加速で、まずは邪魔な実験卓めがけて突進し、卓を短い前肢で薙ぎ払いながら、Alphaとの間にあった障害物を一掃した!
「ぐえっ!」Alphaは飛び散るガラスと金属片の中でよろめいた。スタンガンの照準が狂う。
ソラはBravoの拘束が緩んだ隙に、左肘をBravoの腹部に強く打ち込み、体を捻って脱出した! 彼女は床に転がり、壁際に身を隠そうとする。
「撤退だ! 目的は達成した!」Alphaが叫び、スタンガンを乱射しながら出口(破壊されたドア)へと後退した。Bravoもプロトタイプケースを抱え、ソラを置いてAlphaの後を追った。二人は破れたドアから闇の中へ消えていった。
カルノスは逃げる二人を追おうとしたが、研究室の狭さと散乱した障害物が邪魔をした。彼は出口で立ち止まり、逃げ去る工作員を憎しみに満ちた目で見つめ、咆哮を一つ上げると、振り返ってソラの元へゆっくりと歩み寄った。
ソラは壁際で震えていたが、カルノスの目には攻撃の意思は見えなかった。むしろ、ソラの負傷がないかを確認するように、細長い吻をソラの方へ伸ばし、鼻の穴をひくひく動かした。
「…カルノス」ソラの声は震えていたが、恐怖だけではないものが混じっていた。「ありがとう…」
カルノスは「フンッ」と鼻を鳴らし、ソラの周囲をぐるりと一回りすると、再び破れたドアの外へと消えていった。警備員の足音と叫び声が近づいてくる。
* * *
**同日 午後11時15分 中央制御室**
制御室は重い沈黙に包まれていた。スクリーンには、研究室内の惨状と、奪取されたプロトタイプ・データのリストが表示されていた。ソラはハルオとジャビールの前で、奪取されたクライオ容器について説明していた。彼女の顔は蒼白で、右手が無意識に左腕(工作員に掴まれた箇所)をさすっていた。
「…あのクライオ容器には、私のiPS細胞ストックが入っていました」ソラの声は虚ろだった。「バックアップ計画の一環で、私の網膜組織を培養する可能性に備えたものです。彼らは、私の生体認証をバイパスしただけでなく…私自身の網膜細胞の『原石』を手に入れた」
ソラはスクリーンに映し出されたデータリストの一点を指さした。「そしてこれ。『Retina_Calibration_Subject_Sora』…私の網膜特性を詳細にスキャンしたキャリブレーションデータです。これは、プロトタイプを『私の視覚特性』に最適化するための鍵でした」
彼女の拳が握りしめられた。「彼らは、プロトタイプを『プロメテウスの目』に転用するだけではありません。私自身の生体組織と視覚特性データを組み合わせることで、私が開発したシステムを…私自身を欺くための『鍵』を手に入れたのです。私の目で、私が守ろうとした生命たちを…探知し、殺戮するために」
ハルオは深いため息をついた。「…奪われたのは『瞳』だけではない。技術の倫理そのものだな」
ジャビールが制御卓を拳で叩いた。「奴らがカムチャツカに逃げ帰ったのは間違いない。あのプロトタイプとデータが完全に掌握されれば…」
ソラは奪われた瞳の行方を思い、絶望的な虚脱感に襲われた。しかし、その絶望の底で、カルノスが破れたドアから現れた時の光景が浮かんだ。あの原始の捕食者が、匂いだけで彼女の危機を感じ取り、駆けつけてくれた事実が、わずかな希望の光を灯していた。奪われた瞳を取り戻すために、その牙が再び必要になるかもしれない。