森の防衛線
**2033年4月22日 午前5時17分 山岳バイオステーション「種間共生研究センター」周辺防衛ライン**
夜明け前の闇が、森に重く張り詰めていた。センタードームの全天候型太陽電池モジュールは、未だ微弱な夜明けの光を捉え、施設の最低限の電源を賄っていたが、その表面は冷たく無機質に輝いていた。中央シェルターの監視・制御室では、**ソラ**が複数のモニターに張りつくようにして立っていた。彼女の目の下には疲労の影がくっきりと刻まれている。右手は、ステーション外周のセンサーネットワークのステータスを表示するタッチスクリーンの上で震えていた。
`<< 警告: 大規模電波妨害 (Jamming) 検出 >> 周波数帯域: 2.4GHz, 5.8GHz, GPS帯域`
`<< 外部通信途絶 >>`
`<< センサーノード #7, #12, #15: オフライン >>`
「…来た」ソラの声は乾いていた。彼女の左手が即座に全館放送スイッチを叩いた。「全員、レベル1戦闘配置! 第一波、西側森林境界より接近中! ドローン群、煙幕展開予測!」
その警告が響き渡るよりも早く、事態は動いた。
**シュッ! シュッ! シュッ!**
無数の小さな発射音が森の西側一帯から同時に鳴り響いた。PRの小型ドローン群が、車両サイズの煙幕弾発射機から放たれたのだ。弾頭は地上すれすれで炸裂し、濃密な白煙(視界遮断と赤外線妨害成分を含む)が、瞬く間にステーション西側の森林と外周フェンスを飲み込んだ! 煙は不気味な速さで広がり、センタードーム群をも覆い隠さんばかりの勢いだった。警報サイレンがけたたましく鳴り響く中、煙の中から自動小銃の断続的な発砲音が聞こえ始めた。武装兵の侵入が始まっていた。
「バリアシステム、起動! 独立電源、全出力に!」ソラが制御卓に向かって叫んだ。外周フェンス沿いに設置された高電圧バリアと、ドーム間を結ぶエネルギーフィールド・バリアが、青白い火花を散らして起動した。しかし、煙幕は視界を奪い、センサーを撹乱する。バリアの死角を突かれる可能性が高い。
* * *
「ブルーアイ! 行くぞ!」**ジャビール**の声が、メインゲート近くの掩体壕から響いた。彼の傍らで、**ブルーアイ**が低く唸った。ハイイロオオカミのオス。頭部に装着された金属製フレーム(RSF:電波感応システム)のLEDが、不気味な青白い光を放ち始めていた。彼は首を左に鋭く振り、大きな耳をピンと立てて、煙の向こうから聞こえるドローンのプロペラ音と、かすかな無線通信のノイズを捉える。
「ガルル…」ブルーアイは四肢を踏ん張り、胴体を低く構えた。頭部フレームのアンテナが微かに振動する。彼のRSFシステムは、PRのドローン群や兵士が使用する特定の通信周波数帯(2.4GHz, 5.8GHz帯)を標的にしていた。高度なAGI支援型の学習フィルタリングにより、敵味方の識別も可能だ。
「ロック、シエラ! 側面を固めろ!」ブルーアイが短く吠えた。部下の二頭が即座に反応し、左と右に散開した。
ブルーアイは深く息を吸い込み、全身の筋肉を緊張させた。頭部フレームのLEDが最大輝度に達した瞬間――
「ウォォォオオーン!!!」
ブルーアイの吠え声が、RSFシステムの起動信号となった! 頭部フレームから、指向性の強い強力な電磁パルス(EMPノイズ)が、煙幕の奥深くめがけて放たれた! それは単なるジャミングではなく、特定周波数帯に特化した、通信機器の回路を過負荷に陥らせる破壊的な干渉波だった。
煙幕の奥で、ドローンのプロペラ音が突然、不自然な高音に変わったり、失速する音が複数聞こえた。兵士の無線からは、ノイズに埋もれた怒声や混乱した叫び声が漏れた。PRの通信・誘導システムが、一瞬で無力化された!
* * *
煙幕は濃く、可視光線をほぼ完全に遮断していた。しかし、煙の粒子は紫外線(UV)領域の波長を完全には遮らない。**アキラ**と**リュウ**は、センタードーム西側のエントランスを守る位置にいた。二人とも、警戒のため冠羽を最大限に立て、青紫の構造色を煙の中で微かに光らせていた。
「キッ…」アキラが低く鳴いた。彼の四色型色覚は、煙を通り抜けるわずかな紫外線を捉え、周囲の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。しかし、それ以上に鋭敏なのは嗅覚だった。鼻孔を激しくひくひく動かし、煙の化学的な匂い、火薬の匂い、そして…汗と金属と油の混ざった、人間特有の匂いを嗅ぎ分ける。
「左、三人。20メートル。移動中」アキラが首をわずかに左に傾け、複雑な警戒音(短い高音と低いうなり声の組み合わせ)を発した。それは、警備隊との間で事前に決められた、方向と距離、人数を伝える合図だった。
ほぼ同時に、リュウも首を右に鋭く振った。「右、二階建て構造物陰。二名。静止。…爆発物の匂い」リュウはより低い周波数のうなり声で伝達した。彼の嗅覚も、アキラと同等に鋭く、IED(即席爆発装置)の火薬成分をかすかに検知していた。
警備隊は二人の鳴き声を頼りに、煙幕の向こうへ正確な制圧射撃を開始した。PR兵士の驚きの叫び声が聞こえた。
* * *
煙幕の範囲外、ステーション東側の巨大な杉の樹冠上。**トビ**は、細い枝にしがみつき、全身を震わせていた。煙と銃声、そして未知の脅威の匂いが彼を恐怖でいっぱいにしていた。しかし、ケイやリュウを守りたいという思いが、恐怖に打ち勝っていた。
「ピィッ! ピピッ!」トビは甲高い警戒音を発し、飛び回りながら、煙の外縁を移動するPR兵の動きを追っていた。彼の小さな体と優れた動体視力は、煙幕の影響を受けにくかった。
突然、トビの目が、森の地面とフェンスの境目付近で、不自然に盛り上がった落ち葉の塊を捉えた。一人のPR兵が素早くそこに何かを埋め、カモフラージュしている! トビはすぐに認識した。IEDだ。
「キキキキッ――!!!」トビは最大限に甲高く、長く続く警戒音を発した。それは「危険爆発物・位置特定」の合図だった。同時に、彼はその場所の真上を旋回し、複雑な8の字飛行パターンで位置を強調した。
警備隊の狙撃手がトビの合図を捉え、即座にその地点へ警告射撃。土煙が上がり、カモフラージュを施そうとしていたPR兵が慌てて後退した。未設置のIEDが無力化された。
* * *
中央シェルター上部の緊急用ハッチが静かに開かれた。そこから、**プテロス**の大きな頭部と、固定された巨体が慎重に持ち上げられた。彼の右翼には、新たに装着された「AGI制御型筋肉補助装置」が組み込まれていた。損傷した伸長第4指と翼膜を保護したまま、飛行に必要な筋肉群(特に大胸筋と上腕三頭筋)の動きを検知・補助する、軽量のアクチュエーターユニットだ。首には、カルノスと同じ培養網膜カメラ付き脳波モニタリング装置のハーネスが装着されていた。
「…行くぞ、プテロス。ゆっくりでいい」**ケイ**の声が、ハッチ下から聞こえた。彼女の顔は緊張に引き締まっている。
プテロスは深く息を吸った。補助装置のAGIが、彼の筋肉の微弱な活動電位を読み取り、右翼のアクチュエーターが滑らかに作動する。完全な飛行は不可能だが、跳躍と短距離の滑空、そして姿勢制御が辛うじて可能になった。彼は強力な後肢でシェルターの屋上を蹴り、補助装置の推力も借りて、体を煙の立ち込める戦場上空へと押し上げた! 左翼は大きく広げてバランスを取り、固定された右翼は最小限の動きで姿勢を調整する。
「グオォ…!」風圧と痛み、そして高所への恐怖が混ざった声が漏れたが、プテロスは飛翔を続けた。彼の優れた視覚(高解像度・広視野)が、煙の上から戦場全体を見下ろした。下方では青白いバリアの光がちらつき、無数の閃光(銃撃)が点在し、小さな影(兵士)が動き回っている。その映像と、彼の脳波パターンが、リアルタイムでシェルターのソラのモニターに送られていた。
「…プテロス、上空より戦況監視中」ソラが必死にモニターを見つめながら無線で報告した。「煙幕西縁、敵増援ドローン群、低高度で接近! 数…10以上!」
* * *
中央シェルター内。**カルノス**は、外部の轟音、爆発音、そしてプテロスが飛び立った時の風切り音に、完全に激昂していた。
「ガァァァアアアーーーッ!!!」
彼の咆哮は、シェルターの壁を震わせた。負傷した右後肢の痛みも忘れ、狂ったように檻の合金バーに体当たりを繰り返す! 左肩から突撃し、次は頭部から、そして巨大な尾を棍棒のように振り回して柵を殴打する! 血道弓が発達した尾の一撃は破壊力が絶大で、バーが歪み、固定ボルトにひびが入る音がした。
「落ち着け、カルノス!」檻の外、安全距離を取った警備員が叫んだが、まったく通じない。
リュウが檻の正面に駆け寄り、威嚇の姿勢を見せたが、カルノスの狂乱は止まらない。むしろ、リュウの存在が彼の怒りに油を注いだ。
「ドゴオオーン!!!」
ついに、歪みに歪んだ檻の扉の蝶番部分が、カルノスの執拗な体当たりと尾の殴打に耐えきれず、金属の悲鳴を上げて破断した! 扉が内側に倒れ込み、煙と火薬の匂いが充満する外部の空気がシェルター内に流れ込んだ。
「しまった!」警備員が銃を構えるが、遅すぎた。
カルノスは解放の咆哮を上げ、破れた檻からなだれ込んだ! 彼の小さな目は血走り、鼻の穴は興奮で大きく開いていた。戦場の騒音と、侵入者(PR兵)の匂いが、彼の攻撃本能を極限まで刺激していた。彼はシェルターの出口を目指して突進し、途中にあった備品の棚を短い前肢で薙ぎ払った!
シェルターの分厚い防護扉が、自動バックアップシステムによりわずかに開いていた(プテロスの離脱のため)。そこから漏れる光と匂いが、カルノスを引き寄せた。
「止めろ!」警備員が警告射撃(天井めがけて)を行ったが、カルノスはまったく怯まない。彼は強力な後肢で地面を蹴り、破れた檻の破片を跳ね飛ばしながら、狭い通路を出口へと突き進んだ!
* * *
ステーション西側、煙幕が幾分薄れたエリア。数名のPR兵が、ジャミングで機能不全に陥ったドローンの残骸の陰に身を隠し、無線の復旧を試みていた。
「クソ…通信が全く…! あの狼のジャマーが…!」
その時、彼らの背後で、コンクリートの壁が崩れるような轟音がした! 振り返った兵士たちの目に映ったのは、煙の中から現れた、巨大な鱗と原始的な羽毛に覆われた怪物の姿だった。
「な、なんだあれは!?」
「ガオオオオッ!!!」
カルノスの咆哮が兵士たちの悲鳴を飲み込んだ。彼は狂乱の勢いで突進し、真っ先に驚愕して立ちすくんだ兵士に襲いかかった! 鋭い歯が迷彩服を引き裂き、短いながらも強力な前肢の鉤爪が防弾チョッキを引っかいた! 兵士の絶叫が煙の中に消えた。
他の兵士が慌てて銃口を向け、引き金を引いた!
「ダダダッ!」
銃弾がカルノスの周囲の地面や壁を跳ね飛んだ。一発がカルノスの左肩付近をかすめ、鱗と原始的な羽毛を引き裂いた!
「ギャオッ!」激痛にカルノスが後退したが、傷は彼をさらに狂暴にした。彼は次の兵士めがけて尾を振り回し、その勢いでバランスを崩した兵士に、鋭い歯での噛みつきを狙った!
「カルノス! ダメだ!」アキラの鋭い鳴き声が響いた。彼とリュウが煙の中から飛び出してきた! カルノスの暴走が味方の警備隊の位置をも危険に晒していた。
アキラはカルノスの左側面を狙い、牽制の威嚇咬みを見せた。リュウは右側から、鎌状爪を構えて進路を遮ろうとする。しかし、カルノスの狂乱は収まらない。彼はアキラとリュウの存在を邪魔者としか見なさず、唸り声を上げて威嚇し、再びPR兵に襲いかかろうとした!
煙と閃光と咆哮が渦巻く戦場の一角で、制御不能な原始の獣が牙を剥き、味方でさえもその凶刃に巻き込まれようとしていた。上空では、プテロスが痛々しい滑空を続け、その大きな目が地上の混乱を捉え、ソラのモニターに映し出していた。