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軋む牙、癒えぬ翼



**2033年4月21日 午前8時03分 中央シェルター内**


分厚いコンクリート壁に囲まれたシェルター内部は、人工的な光と低周波の換気システムの唸り音が支配していた。**カルノス**の檻は、広いシェルター空間の中央に設置され、頑丈な合金製バーで囲まれている。彼は檻の奥、最も暗い隅にうずくまっていた。巨大な頭部を低く垂れ、短い前肢(第II指と第III指がほぼ同長)をわずかに震わせていた。鼻孔はひくひくと動き、閉鎖空間に充満する自分自身の獣臭、消毒薬の匂い、そして遠く離れた森の匂いの欠如を嗅ぎ分けている。本来、広大な縄張りを単独でパトロールするハンターにとって、この狭い檻は耐え難いストレスだった。


突然、カルノスは頭を持ち上げた。小さな目が、檻の外に現れた人影を捉えた。警備員が、遠隔操作の給餌ロボットを操り、檻の奥に肉の塊を運び入れようとしていた。ロボットのモーター音と、肉の匂いが、カルノスの神経を逆なでした。


「ウゥゥ…」低いうなり声が喉の奥から漏れる。カルノスはゆっくりと立ち上がった。筋肉質の後肢が踏ん張り、オピストプビック(後傾)の恥骨がその動きを支える。彼は肉塊には目もくれず、ロボットと警備員を睨みつけた。警戒と怒りの混じった感情が、脳波モニター(頭部ハーネス経由)に高周波の乱れとして表示された。


ロボットが肉塊を置き、後退し始めた。その動きが引き金になった。


「ガァアアァァーーーッ!!!」


地響きのような咆哮がシェルター内に炸裂した。カルノスは爆発的な加速で檻の柵めがけて突進した! 強靭な右後肢で地面を蹴り、体全体を左肩から合金バーにぶつける!


**ドゴーン!!**


鈍い金属音が響き渡った。檻全体が微かに揺れた。カルノスは一瞬後ずさりしたが、すぐに再び突進を繰り返した。今度は短い左前肢を伸ばし、柵の隙間からロボットを引っかこうとする! 鋭い鉤爪が金属を削るキィキィという不快な音を立てた。肉塊は無視され、踏みつけられていた。彼の攻撃は、檻そのもの、そしてそれを管理する存在への激しい拒絶だった。


「やめろ! カルノス!」檻の外、少し離れた安全ゾーンから、**リュウ**が鋭く鳴いた。彼はカルノスの檻の正面に立ち、全身の暗褐色の廓羽を逆立て、虹色の冠羽を最大限に広げて威嚇ディスプレイを見せつけていた。長い尾は硬直化させ、ゆっくりと左右に振り、緊張を表している。リュウの社交的な性格は、この脅威に対しては毅然とした態度へと変わっていた。彼はカルノスの攻撃が、シェルター内の平和、特に傷ついたプテロスを脅かすことを理解していた。


カルノスはリュウの威嚇に一瞬、動作を止めた。小さな目を細め、鼻面をわずかに右に傾けてリュウの匂いを嗅いだ。喉の奥で「グルル…」という威嚇音を響かせる。二頭の捕食者が、頑丈な柵を隔てて対峙した。緊張がシェルター内に張り詰めた。


* * *


シェルターの反対側、壁際に設けられた柔らかいマットの上では、**プテロス**が静かに横たわっていた。彼の巨大な右翼は、伸長した第4指(翼指)を保護するため、軽量の炭素繊維製スプリントと伸縮性のある生体適合性ネットで体幹部に沿って固定されていた。裂けた翼膜プロパタギウムには、透明な保護シートが貼られ、その下で組織の再生が促されていた。ノタリウム(癒合した胸椎)が支える胴体は動かせたが、翼の固定により、自由な姿勢変換は制限されていた。


「おはよう、プテロス」**ケイ**がそっと近づき、マットの左側に腰を下ろした。彼女の手には、小さなボウルに入った水と、柔らかいブラシがあった。「今日は翼のチェックと、お掃除の日だよ。痛くしないからね」


ケイは左手をゆっくりと伸ばし、プテロスの首の付け根、骨質のトサカの根元付近の皮膚に触れた。そこは鱗ではなく、比較的柔らかい表皮だった。プテロスは初め、首をわずかに左に引いて警戒したが、ケイの手の温もりと、優しい声に徐々に緊張が解けていった。彼は大きな目を半分閉じ、喉の奥で「プゥ…」という低い、満足げな音を立てた。


ケイは慎重に、保護シートの端を剥がし、翼膜の裂傷部分を観察した。「わあ…綺麗に治り始めてる! 赤みも引いてるよ」彼女は水を含ませたスポンジで、傷口の周囲を優しく拭いていった。プテロスはその感触に、首をわずかに右に傾け、ケイの手の動きを追うように見つめた。かつて空を支配した翼竜が、今は一人の少女の手に癒しを委ねている。


その時、シェルターの天井近くにある換気口の格子に、小さな影が止まった。**トビ**だ。彼は警戒しながらも、プテロスとケイの様子をじっと見下ろしていた。嘴には、小さな赤い木の実(ヤマボウシの実)をいくつか咥えていた。


トビは軽く羽ばたき、プテロスのマットの右側、少し離れた床に静かに着地した。彼は嘴に咥えた実を一つ、そっと床に置いた。そして、プテロスとケイをチラリと見て、すぐに視線をそらした。


プテロスの大きな目が、突然鋭く光った。床に転がった赤い実を捉えたのだ。彼の視界には、紫外線領域を含む鮮やかな色としてその実が映っている。本能的な「獲物」認識の信号が、一瞬、脳裏を走った。首が無意識に前方に伸び、固定された胴体をわずかに起こそうとする動きが見えた。喉の奥で、かすかに「カッ」という音がした。


トビはその動きに驚き、一瞬で後ろに飛び退いた! 両翼を広げ、警戒姿勢を取り、小さな冠羽を逆立てた。心臓がドキドキと高鳴る。捕食者と獲物という、種を超えた本能の溝が一瞬で浮き彫りになった。


ケイはそのやり取りに気づき、優しく言った。「大丈夫だよ、トビ。プテロスは君を襲ったりしない。ただ、その実が…珍しかったんだと思う」


ケイは床に置かれた実を拾い、プテロスの眼前にゆっくりと差し出した。「ほら、見て? トビが持ってきてくれたんだよ。食べてみる?」


プテロスはケイの手のひらの実をじっと見つめた。獲物としての認識は薄れ、好奇心が勝った。彼は細長い首をゆっくりと伸ばし、先端の角質の嘴で、慎重に実をつまみ取った。嘴をわずかに上下に動かし(主に蝶番状の顎関節による)、実を砕き、飲み込んだ。大きな目がトビの方に向いた。そこには、もはや捕食者の威圧感はなく、むしろ興味と、わずかな感謝のようなものが見て取れた。


トビはその視線に少し戸惑い、冠羽を寝かせた。彼は慎重に一歩、また一歩とプテロスに近づき、残りの実をマットの端にそっと置いた。そして、すぐに飛び立ち、天井近くの配管に戻っていった。しかし、今度は距離を置きながらも、プテロスとケイを見守り続けていた。


* * *


**同日 午前10時 シェルター監視・制御室**


分厚い防弾ガラス越しに、シェルター内の光景が一望できた。**ソラ**は複数のモニターの前に立ち、特にカルノスの脳波データと、プテロスの固定された翼の状態を記録した画像を交互に見比べていた。彼女の左目のARディスプレイには、培養網膜プロトタイプから得られた、プテロスがトビの運んだ実を見つめ、嘴で拾い上げる瞬間の低解像度映像がループ再生されていた。


「…面白い」ソラが呟く。彼女は映像を一時停止し、プテロスの首と嘴の微妙な動きを拡大した。「獲物認識から物体認識への切り替えが、視覚情報と嗅覚情報の統合で瞬時に行われている。脳波のこの小さな変動…ここだ」彼女はARウィンドウ内の波形の一点を指さした。「視覚野と嗅覚野がほぼ同時に活性化し、次いで前頭前野の活動が抑制される。本能的な反応から、認知的な『好奇心』への移行を示唆している」


**ハルオ**が車椅子でソラの横に寄り、モニターに映るプテロスの映像を見つめた。「翼竜類の脳は、飛翔という高度な運動制御のために小脳が発達しているが、大脳半球も予想以上に機能分化していたようだな。特に視覚情報処理は…」ハルオは車椅子のタッチパネルを操作し、翼竜類の推定脳函モデルを表示させた。「飛翔中に獲物を識別し、障害物を回避するには、高速な認知判断が必要だったはずだ。プテロスの反応は、その名残かもしれん」


ソラはうなずき、視線をカルノスの檻を映すモニターに移した。カルノスは再び隅でうずくまり、時折、低く唸っている。給餌ロボットが運んだ肉塊は、無視されたままだった。「一方でカルノスは…」ソラはため息をついた。「ストレスと閉塞感が限界に近い。隔離が長期化すれば、心身共に深刻なダメージを受けるでしょう」


ハルオの表情が曇った。「アロサウルス上科の彼にとって、縄張りと自由な移動は生存そのものだ。檻は彼の存在を否定しているに等しい」ハルオはカルノスの荒い呼吸を映す映像を見つめながら続けた。「リュウの威嚇は、少なくとも群れ(ここではステーション)の秩序を守るための行動だ。しかし、彼らの根本的な葛藤を解決するものではない」


その時、制御卓のメインコンソールが警告音を発した。`<< 外部センサー異常 #4 >> 西側森林境界 / 電波干渉(周波数帯域: 2.4GHz, 5.8GHz) / 低確率:ドローン群の能動妨害`


ソラとハルオの目が一瞬で合った。ソラの右手が素早くコンソールを操作し、該当エリアの監視カメラ映像と、ステーション全体のセキュリティステータスを呼び出した。


「…来るのか」ソラの声は緊張に張り詰めていた。彼女の左手が、密かにコートのポケットの中の、小型の緊急用ビーコンに触れた。


シェルター内で、檻の中のカルノスが突然、頭をピンと上げた。鼻の穴を激しくひくひく動かし、何か遠くの、人間には感知できない匂いを嗅ぎ取っているようだった。その小さな目には、再び狂暴な光が灯り始めていた。一方、マットの上のプテロスも、首をゆっくりと左に回し、シェルターの分厚い扉の方を見つめた。大きな目が細まり、警戒の色が濃くなった。彼ら超感覚の持ち主たちは、壁を隔てた外界に迫る危機の気配を、人間より早く、鋭く感じ取っていた。軋む牙と、癒えぬ翼が、静寂の中で次の嵐を予感させた。

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