プロメテウスの目
**2033年4月20日 午前10時15分 山岳バイオステーション「種間共生研究センター」 神経科学研究室**
研究室は静謐な緊張感に包まれていた。中央の実験卓では、マイクロ流体チップ内で培養された網膜オルガノイドが、特殊な顕微鏡下で微かに脈動していた。無数の神経節細胞が、制御された光刺激に反応し、複雑な電気信号の花火を散らす。**ソラ**はその生体データと、隣のモニターに表示されるカルノスの脳波・頭部カメラ映像を往復し、細長いプローブでオルガノイドの位置を微調整していた。彼女の左人差し指は、ARディスプレイ上に浮かぶ信号ノイズフィルタリングのパラメータを微調整していた。
「…視覚と嗅覚の統合ポイントは、内側膝状体周辺か? それともより高位の連合野…?」ソラが独り言のように呟く。彼女の右手首には、非侵襲型脳波モニターが装着され、自身の集中状態を計測する緑色のLEDが点滅していた。
突然、研究室のメインスクリーンとソラのARディスプレイが、同時に深紅の枠で縁取られた警告表示を点滅させた。`<< 最高機密 / 緊急 / AGI倫理委員会 直通通信 >> 生体認証による本人確認必須`
ソラの心臓が一瞬止まった。この通信プロトコルは、極めて限られた重大案件にのみ使用される。彼女はすぐに実験卓から離れ、部屋の隅にあるセキュリティブースへと急いだ。指紋、網膜、声紋認証を経て、ブースの分厚いドアが閉じる。内部は電磁シールドされ、完全に外部から遮断された空間だ。
スクリーンに浮かんだのは、アバターではなく、**エリカ・ヴォス博士**の実映像だった。AGI倫理委員会の議長を務める女性で、厳しい面差しに深い知性が宿る。背景は委員会のシンボルマークが浮かぶ簡素な部屋だ。
「ソラ・タナカ博士」ヴォス博士の声は低く、緊迫していた。「通信は量子暗号化済みだが、時間は限られている。『プロメテウスの目』に関する決定的な情報を掴んだ」
ソラは無言でうなずき、右手でタッチパネルを操作し、録音・記録モードを最大セキュリティ設定にした。
「貴方の懸念は正しかった」ヴォス博士が続ける。「PRが奪った培養網膜プロトタイプ技術は、純粋な監視ツールではない。彼らはこれを、**自律型殺戮ドローン群の生体センサーコア**として転用する計画だ。コードネーム『プロメテウスの目』」
スクリーンが切り替わり、解析されたデータの断片と、推測されるシステム図が表示された。
「彼らは、プロトタイプの生体組織を、持続的な過負荷状態で駆動している」ヴォス博士の声に怒りが混じる。「本来なら数ヶ月持つ組織を、冷却と栄養供給を犠牲にしてまで、極限の感度と処理速度を引き出そうとしている。目的は一つ、『特定の生物シグネチャ』の高速識別と、それに基づく**自律的な致死攻撃の実行**だ」
ソラの背筋に冷たい汗が伝った。彼女の左手が無意識に机を握りしめた。「『特定の生物シグネチャ』…それは?」
「第一目標は、貴方のステーションにいる『人間の遺伝子操作によって生み出された不純な生命体』」ヴォス博士の言葉が鋭く突き刺さった。「具体的には、ネオルニトサウルス(アキラ、リュウ)、ネオアンキオルニス(トビ)、ネオジュラヴェナトル(カルノス)、そして翼竜個体の、特徴的な体温パターン、運動特性、羽毛/鱗の反射スペクトル、さらには…脳波パターンさえも登録されている可能性が高い」
画面に、アキラたちの赤外線映像や行動解析データが、PRのドローンが取得したと思われるデータと並べて表示された。酷似していた。
「そして第二目標は」ヴォス博士が一呼吸置いた。「この技術の開発責任者である、貴方自身だ、ソラ博士。貴方を拉致し、技術の完全な掌握と、『プロメテウスの目』のさらなる性能向上を図っている」
ソラは喉がカラカラになった。自分の研究が、自分と、守ろうとした生命たちを抹殺する兵器へと転化されようとしている。彼女の右手が震えながら、ARディスプレイを操作し、ステーションのセキュリティ状態を確認した。
「…いつ?」ソラの声はかすれていた。
「情報源によれば、準備は最終段階。襲撃は48時間以内の可能性が極めて高い」ヴォス博士の映像が少し乱れた。「自衛隊・警察への極秘情報提供は済んでいるが、大規模部隊の展開には時間がかかる。貴方のステーションの防衛能力と、地理的知識が勝敗を分ける」
通信は突然、ノイズの奔流に飲み込まれ、ヴォス博士の映像が歪んだ。
`<< 外部からの高強度ジャミング検出 >> 通信終了`
深紅の警告表示だけが、不気味に点滅し続けた。
* * *
**同日 午後1時 センター 戦略会議室**
重い空気が張り詰める会議室。円卓には、**ソラ**、**ハルオ**、**ジャビール**、警備責任者の佐藤隊長、そしてリモートで自衛隊情報将校の姿がモニターに映っている。壁面スクリーンには、ステーションの詳細な構造図と、周辺地形の3Dマップが表示されていた。
「…以上が、AGI倫理委員会からの極秘情報の概要です」ソラが結論を述べた。彼女の顔は蒼白だが、声は冷静を保っていた。「PRの目的は、アキラたち『再現古生物』の抹殺、そして私の拉致。手段は、培養網膜技術を悪用した自律攻撃ドローン群『プロメテウスの目』と、地上部隊による強襲です」
「クソッ…」ジャビールが拳を握りしめ、机を軽く叩いた。「街の復興現場で見たあの紋章…奴らがここまで来ているとは」
「自衛隊第32普通科連隊、及び県警SATが、ステーションから5キロ地点に極秘展開を開始している」モニターの将校が報告した。「しかし、PRのジャミング能力と、ドローン群による先制攻撃を考慮すると、防衛ラインの最前線は、あくまで貴施設の持つセキュリティシステムと、地形を熟知した貴方たち自身となる」
ハルオが車椅子を前に進め、構造図の一点を右手人差し指で指し示した。「まず、カルノスとプテロスの保護を最優先せねばならない。彼らは隔離区画にいるが、この区画は外部攻撃に脆弱だ」
「移設先はここだ」ジャビールが即座に3Dマップ上にマーカーを打った。ドーム構造の中心部にある、分厚いコンクリート壁に囲まれた旧非常用シェルターだ。「核シェルター並みの防御性能がある。通気と監視カメラは確保するが、外部との物理的接続は遮断可能」
「了解した」佐藤隊長がうなずく。「移設は直ちに実行する。鎮静が必要か?」
「カルノスには必要だろう」ハルオがため息をついた。「プテロスは翼の固定中で大人しいが…ストレスを与えるな」
ソラがARディスプレイを操作し、セキュリティシステムの詳細をスクリーンに投影した。「ステーションの防御の要は二つ。一つは、全天候型太陽電池で駆動する独立電源のバリアシステム。もう一つは…」彼女は一瞬ためらった。「…『彼ら』の超感覚による早期警戒と、状況認識能力だ」
スクリーンに、アキラ、リュウ、トビ、そしてブルーアイの群れの姿が映し出された。
「アキラとリュウの視覚・嗅覚・空間認識能力は、ドローンのセンサーを凌駕する可能性がある。トビの機動性と警戒能力、ブルーアイのRSF(電波感応)ジャミングは、PRの通信・制御システムに打撃を与えられる」ソラの目が、各々の能力値データを表示するウィンドウを追う。「彼らを単なる『保護対象』ではなく、防衛戦力の『一員』として位置づける必要がある」
「…危険すぎる」ジャビールが眉をひそめた。
「危険を承知でここに残ったのだ」ハルオの声が静かに響いた。「彼らにも、守るべき群れ(ファミリー)がある。その意志を尊重すべきだ」
リモートの将校が口を開いた。「非公式ながら、動物たちの行動パターンと能力を、防衛プランに組み込んだシミュレーションを走らせた。結果は…一定の戦術的優位性を確認した。特に、ドローン群への対抗手段として有効だ」
* * *
**同日 午後4時 隔離区画通路**
金属の床が重い車輪の音と足音で響く。**カルノス**が頑丈な移送用ケージに閉じ込められ、油圧リフトで運ばれていた。彼は鎮静剤で朦朧としながらも、檻の狭さと未知の状況に激しく抵抗し、短い前肢で金属の柵を引っかき、低いうなり声を上げていた。頭部のハーネスに取り付けられた培養網膜カメラが、彼の荒い動きに合わせて揺れる。
「落ち着け、カルノス…すぐに広い場所へ…」**ケイ**が移送ケージの右側を歩きながら、声をかけたが、その声は届かないようだった。彼女の右手は無意識に胸のあたりで握られていた。
そのすぐ後ろでは、**プテロス**が特製のストレッチャーに固定され、ジャビールたちが慎重に運んでいた。彼の巨大な翼は保護ネットで体幹に固定され、伸長した第4指を衝撃から守るため、クッション材で丁寧に包まれていた。プテロスは首だけをわずかに動かし、天井の照明や、通り過ぎるドアを、大きな目で不安げに追っていた。喉の奥で「クゥ…」と弱々しく鳴く。
「大丈夫だよ、プテロス」ケイが振り返り、ストレッチャーの左側に歩み寄り、左手をゆっくりと伸ばして彼の首の付け根の羽毛に触れた。「安全な場所へ移るんだ。すぐに良くなるから」
プテロスはケイの手の温もりに、首をわずかに右に傾けた。大きな目に映る恐怖が、ほんの少し和らいだように見えた。
* * *
**同日 午後6時 中央シェルター内**
厚さ50センチのコンクリート壁に囲まれた広い空間。天井には太陽光パネルからの独立電源による照明が灯り、一隅には給水設備と換気システムが唸りを立てていた。**カルノス**はシェルター中央の広いケージ内で、鎮静剤の効果が切れたのか、再び狂暴さを取り戻しつつあった。彼は新しい環境の匂いを嗅ぎ回り、頑丈な檻の鉄柵に鼻面を擦りつけ、時折、不満げな咆哮を上げていた。頭部のハーネスが、彼の動きを記録し続けている。
一方、ケージから少し離れた場所に設けられた柔らかいマットの上には、**プテロス**が横たわっていた。翼の固定は解除されていないが、体を動かせる範囲は広がっていた。彼は首を長く伸ばし、大きな目でシェルターの高い天井を見上げていた。飛行本能が、閉ざされた空間を本能的に拒絶しているようだった。彼はゆっくりと頭を左に傾け、ケージ内で暴れるカルノスの方を一瞥し、すぐに視線を戻した。
ケージの外、監視ブースからその様子を見つめる**ソラ**と**ハルオ**。
「…まるで、戦火を避ける動物たちのようだな」ハルオが深いため息をつき、車椅子のアームレストを右手で軽く叩いた。「本来、自由であるべき生命を、人間の争いのせいで檻に閉じ込めるとは」
ソラはモニターに表示される、カルノスの脳波パターンと、プテロスのバイタルデータを見つめていた。「ヴォス博士は言ってました。『プロメテウスの目』が恐れるのは、生きた感覚器官そのものだと。彼らは、完璧な機械的センサーよりも、進化が磨いた生物の感覚と知性を恐れている」
彼女はARディスプレイを操作し、シェルターのセキュリティシステムと、ステーション外周のセンサーネットワークを接続した。一つのウィンドウには、ステーション上空を警戒飛行する自衛隊の哨戒ドローンの映像が映る。
「でもハルオさん」ソラの声は決意に満ちていた。「彼らの感覚は、兵器に転用されるためにあるのではない。生き延び、仲間とつながるためにある。その可能性を…私は信じています。たとえPRが『プロメテウスの目』で迫ってきても」
ソラの右手が、コントロールパネルの上で静かに拳を握りしめた。スクリーンの隅、外周センサーの一つが、ごくわずかな電波干渉を検知したことを示す黄色いアイコンが点滅していた。それは、遠くで蠢き始めた脅威の、最初の気配だった。隔離されたシェルターの中で、カルノスが突然、鋭く咆哮を上げ、プテロスが警戒して首をピンと立てた。彼らの鋭い感覚は、既に迫り来る影を捉え始めていた。