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原始の咆哮、カルノス


**2033年4月15日 午前2時48分 山岳バイオステーション「種間共生研究センター」家畜小屋周辺**


深夜の冷気がステーション周囲の森に張り詰めていた。満月の光が全天候型超高効率太陽電池モジュールの表面を鈍く照らし、曇天時と同様に微弱な光子を効率的に捕捉していたモジュール群は、今は静かにエネルギーを蓄えていた。センタードームの制御室では、微弱な照明が点るコンソールの前に**ソラ**が座っていた。23歳のトランスジェンダー女性、黒髪を短く切りそろえ、作業着の上にホワイトコートを羽織っている。彼女の指は、複数のタッチスクリーン上を素早く滑っていた。左目の前には、培養網膜カメラのプロトタイプ開発データを表示する拡張現実(AR)ウィンドウが浮かんでいる。


「…低照度下での神経節細胞の信号ノイズ、まだ課題だな」ソラは顎に左手を当て、右人差し指でARウィンドウ内のスパイク列データを拡大表示させた。マイクロ電極アレイ(MEA)からの生データは、バックグラウンドノイズに埋もれがちだった。「量子ドット増感層の効果はあるけど、神経信号の増幅段階で…」


彼女の思考は、センサーアレイの端で点滅する警告アイコンによって遮られた。家畜小屋エリアの赤外線モーションセンサーが反応している。ソラは眉をひそめ、左手でメインスクリーンを操作し、該当カメラ映像を呼び出した。曇りガラスのようなモノクロ画像に映るのは、ゆっくりと柵に近づく、巨大で温源を示すシルエットだった。


「…カルノス」ソラの声は緊張を含んでいた。彼女は即座にセンター内の非常警報サイレントモードを起動するボタンを右手人差し指で押し、同時にハルオと警備チームへの通話ラインを左手親指で開いた。「ハルオさん! 家畜小屋、侵入者! カルノスです!」


* * *


家畜小屋から数十メートル離れた、太いカシの木の枝上。**トビ**は全身の茶褐色の羽毛をふわっと膨らませ、寒さと警戒心から身を縮めていた。彼の小さな冠羽はピンと立てられ、鋭い目が月明かりに微かに光っていた。ネオアンキオルニス特有の比較的長い前肢は、枝にしっかりと掴まり、体を安定させていた。彼は突然、首を右に鋭く捻った。鋭敏な聴覚が、遠くではあるが、重い足音と…低いうなり声を捉えたのだ。トビの心拍数は一気に上昇した。木の葉の陰にさらに身を潜めようと、右足をわずかに引いて体を左に傾けた。獲物ではなく、あの巨大な脅威の匂いだった。


* * *


家畜小屋の頑丈な金属柵の外。**カルノス**はゆっくりと近づいてきた。彼の右後肢の裂傷は、無理な移動で再び深くなり、歩くたびに微かに震えていた。月明かりが、彼の鱗と原始的な緑褐色のプロトフェザーを鈍く照らし出し、傷ついたハンターの威容を不気味に浮かび上がらせた。彼は地面に鼻面を近づけ、左に、次に右に細長い吻を振りながら、鼻の穴を激しくひくひく動かした。家畜の温かい体温、糞尿の匂い、藁の匂い…そして飢え。強烈な空腹感が、負傷による痛みや警戒心を凌駕していた。彼は低く「ウゥ…」という唸り声を喉の奥で響かせながら、前傾姿勢を強めた。短い前肢の指(第II指と第III指がほぼ同長)は、獲物への突進に備えて地面を軽く掻いた。


カルノスの小さな目が、金属柵の継ぎ目部分を凝視した。彼の脳は、獲物への最短経路を計算していた。アロサウルス上科としては発達した大脳半球だが、その思考はネオルニトサウルスのそれより直截的で、即物的だった。群れを組まず、孤高で獲物を狙うハンターの本能が全開だった。


「ガオオオッ!!」


突然の咆哮とともに、カルノスは強力な後肢で地面を蹴った! オピストプビック(後傾)の恥骨構造と発達した尾筋が爆発的な推進力を生み出す。彼は体全体を柵めがけてぶつけるのではなく、狙いを定めた継ぎ目部分に、右肩から突撃した!


**ドガン!!**


金属の歪む鈍い音が夜の森に轟いた。柵の継ぎ目が大きく湾曲した。中のヤギたちが恐怖に駆られた鳴き声を上げ、暴れ回る。


* * *


センタードームから、二つの影が疾走していた。**アキラ**と**リュウ**だ。非常警報の振動とソラの緊急連絡で飛び起きた。彼らの優れた夜間視力(桿体細胞の高密度配列と四色型色覚によるコントラスト感度の高さ)が、月明かり下の地形をくっきりと捉えていた。


アキラはリュウの右斜め後方を走っていた。長い尾を硬直化させてバランスを取りながら、強靭な後肢が地面を力強く蹴る。彼は家畜小屋の方向を鋭く見据え、鼻孔をひくひく動かした。風に乗って、カルノスの獣臭と、歪んだ金属の匂いが確かに流れてきている。警戒と闘争心が混ざり合った感情が、冠羽を最大限に逆立てさせ、青紫の構造色を月光に煌かせた。喉の奥から低い警戒音が漏れた。


「キッ…」リュウが左側から短く鳴き声を上げた。アキラと目が合い、微かにうなずく。互いの動きを予測し、連携する意思が通じ合っていた。リュウは加速し、アキラの左前方へと抜け出した。彼の左前肢の縞模様が、滑らかな走行の中で流れるように動いた。


* * *


**ドガン!! ギィィ…!!**


二度目の衝撃。カルノスの執拗な攻撃で、金属柵の継ぎ目がついに破断し、大きく外側に跳ね飛んだ。隙間ができた。カルノスの咆哮が勝利を宣言するように響く。


「メェェーッ!!」


恐怖に駆られた一頭のヤギが、できた隙間から外へ飛び出そうとした!


その瞬間だった。


「リュウ! 右から!」アキラが鋭く鳴いた。意味を持つ複雑な音節の連なりだ。


リュウはアキラの指示に反応し、疾走する勢いのまま、強力な後肢で地面を蹴ってジャンプ! 体を左に捻りながら、右足の特大の鎌状爪を振りかぶった。その軌道は、飛び出してきたヤギをかわし、ちょうど隙間へ突進しようとするカルノスの顔面めがけていた!


カルノスは咄嗟に頭を引き、リュウの鎌状爪が空を切る。しかし、そのわずかな隙に、アキラが雷のように動いた。リュウの牽制でカルノスの注意がリュウに向いた刹那、アキラは左側面から、低い姿勢で滑るようにカルノスの左後肢めがけて接近! 左前肢を踏み込み、体を右に捻って、右後肢の鎌状爪を、カルノスの負傷している右後肢の裂傷めがけて、鞭のようにしならせて蹴り込もうとした!


「ガッ!」


カルノスは驚きと怒りの咆哮を上げた。リュウの牽制が思わぬ方向からのアキラの急襲を許してしまった。彼は無理やり体勢を崩し、左後肢で踏ん張って体を右に流し、アキラの蹴りをかわそうとした。鋭い爪先が、カルノスの右大腿部の裂傷の縁をかすめ、固まった血の塊と鱗の破片を少し剥ぎ取った。


「ギャオオオッ!!」激痛にカルノスの咆哮がさらに狂暴さを増した。痛みが彼の戦闘本能を極限まで研ぎ澄ました。彼はかわした勢いを利用し、体を半回転させ、巨大な尾を棍棒のようにアキラめがけて振り回した! 血道弓が発達した尾の一撃は破壊力絶大だ。


アキラは予測していた。カルノスが体を流した瞬間、彼はすでに後ずさりしていた。尾が頭上を通過する風圧が羽毛を揺らした。アキラは着地と同時に、再び低い威嚇姿勢を取り、喉を震わせて「シャァーッ!」と鋭い警告音を発した。リュウもカルノスの右側面に位置を取り、鎌状爪を構えて牽制する。二人はシンクロするように、ゆっくりと半円を描くように動き、カルノスを挟み込む形を作り出した。


木の上で、**トビ**は恐怖で硬直していた。あの巨大な捕食者と、守るべき仲間たちの激しい攻防。彼の小さな体は震え、枝に掴まる両前肢の爪が無意識に深く食い込んでいた。飛び立つことも、鳴くこともできなかった。ただ、目を大きく見開き、息を殺して見守るだけだった。


カルノスは左右に振られるネオルニトサウルス二人を睨みつけ、低く唸り続けた。鼻の穴はひくひくと激しく動き、敵の位置と匂いを必死に探っている。彼の動きは力強いが、ネオルニトサウルスたちの連携した動きと、こちらの動きを読んで先回りするような知的な戦術の前には、単純な力業が通用しない苛立ちが感じられた。負傷した右後肢が、微かに震えている。


「…今だ!」アキラがリュウへ向けて短く鳴いた。


合図と同時に、二人は全く逆の動きに出た。アキラは突然、カルノスの正面から大きく左に飛び跳ね、羽ばたきはしないが、前肢の長い廓羽を広げて視覚的な威嚇ディスプレイを見せつけた! 虹色の冠羽は月光を反射して不気味に輝く。


カルノスの注意は、大きく動いたアキラに引きつけられた。その瞬間、リュウは音もなく、地面すれすれの姿勢でカルノスの右真横まで一気に詰め寄った! リュウの狙いは、カルノスの攻撃の軸となる、踏み込む足=左後肢だった。彼は左足を踏み込み、体を右に捻り、右足の鎌状爪を、カルノスの左膝裏の腱めがけて、精密無比な動きで蹴り上げようとした! 獲物を無力化するための、神経学的に理にかなった一撃だ。


カルノスはアキラの威嚇に気を取られ、リュウの動きに気づくのが一瞬遅れた。彼は咄嗟に左後肢を引こうとしたが――


「グゥッ…!?」


リュウの鎌状爪の鋭い先端が、カルノスの左膝裏の腱を、深くはないが確かに掠めた! 激しい痺れのような痛みが走り、カルノスの左後肢が一瞬、力なく地面に落ちた。


その隙を逃さず、アキラが動いた。威嚇の姿勢から一転、低く素早く滑るようにカルノスの正面へ突進! 特大の第二趾爪を振りかざすのではなく、細長い吻を大きく開き、鋭い鋸歯状の歯を見せつけながら、カルノスの顔面めがけて威嚇咬み(フェイント)を見せた! その動きは、カルノスの攻撃を封じるための心理的な圧迫だった。


左後肢の痺れと正面からの強烈な威嚇。カルノスのバランスは崩れた。彼は右後肢に体重をかけ、体を左に流してアキラのフェイントをかわそうとしたが、痺れた左後肢が思うように動かず、よろめいた。


「今だ! 網!」


ハルオの声だった。電動車椅子で駆けつけたハルオの合図と同時に、待機していた警備チームが、高張力ポリマー製の捕獲網を射出した。二方向から放たれた網が、よろめいたカルノスの体に絡みついた。


「ガァアアァァーーーッ!!!」


捕らわれたことへの怒りと屈辱、恐怖が入り混じった、地の底から湧き上がるような原始的な咆哮が夜の森を引き裂いた。カルノスは狂ったように暴れ、網を食い破ろうと鋭い歯で噛みつき、短い前肢で引っかいた。しかし、網は頑丈で、彼の動きは大きく制限された。警備チームが慎重に近づき、鎮静剤を打つ。咆哮は次第にうめき声へと変わり、やがて巨大な体が崩れ落ち、重い音を立てて地面に伏した。荒い息遣いだけが、深夜の静寂に残った。


* * *


**同日 午前5時30分 ステーション隔離観察室**


巨大な強化ガラス越しに、鎮静から覚めつつある**カルノス**の姿が見えた。頑丈なケージ内には、自然に近い土と岩、水場が再現されているが、彼にとっては明らかに狭すぎる檻だ。右後肢の裂傷は手当てされ、包帯が巻かれている。左膝裏の引っかき傷も消毒済みだ。彼の首には、特殊なハーネスが装着されていた。ハーネス中央には、小さなカメラユニットと、頭蓋骨に接触する複数の電極パッドが配置されている。**培養網膜カメラつき脳波モニタリング装置**だ。


ハーネスの配線は、ケージ外の制御卓へと繋がっていた。**ソラ**がその前に立ち、複数のモニターを注視している。一つは、カルノスの頭部に取り付けられたカメラからの映像(低解像度でノイズが多い)。もう一つは、脳波(EEG)と、頭部の筋電図(EMG)の波形。そして三つ目は、それらのデータをリアルタイムで処理するAIによる解析画面だ。


「…動き始めた」ソラが呟く。


ケージ内で、カルノスがゆっくりと頭を持ち上げた。彼は首を不自然に捻り、新しいハーネスの違和感を感じているようだった。小さな目は、ガラス越しのソラたちを、警戒と憎悪に満ちて睨みつけた。喉の奥から「ウゥ…」という低いうなり声が漏れる。モニター上の脳波パターンが、警戒と怒りを示す特徴的な高周波成分(ベータ波)の増加を示した。


「落ち着け、大丈夫だ…」ハルオが車椅子でソラの横に寄り、ケージ内のカルノスに語りかけるように言った。ハルオはモニターではなく、直接カルノスの体を見つめていた。「見てごらん、ソラ。彼の骨格、特に骨盤帯。典型的なアロサウルス上科の特徴がよく出ている」


ハルオは車椅子のタッチパネルを操作し、カルノスの3D骨格スキャン画像をメインモニターに表示させた。骨盤部分を拡大する。


「まず、恥骨(Pubis)だ」ハルオは拡大された画像を指し示した。「明らかに後方へ傾斜している。これがオピストプビックだ。獣脚類の中でもより原始的なグループに多く見られる特徴で、後のコエルロサウルス類でより顕著になる進化形とは方向性が異なる。そして前肢」ハルオは前肢の骨格を表示させた。「ご覧の通り、非常に短い。大腿骨の長さの…ほぼ3分の1だろう。そして指骨。第II指と第III指の長さがほぼ同じだ。これはティラノサウルス類や私たちの友達(アキラ、リュウ)のような、より特殊化したグループとは大きく異なる点だ」


ハルオの解説は、専門的でありながら情熱に満ちていた。「おそらく、彼の感覚世界は我々やアキラたちとも違う。大きな頭部と鼻腔。嗅球のサイズも相対的に大きいはずだ。視覚よりも、嗅覚に大きく依存したハンターだった祖先の名残だろう。この隔離状態…彼は本来、群れを形成せず、広大な縄張りを単独でパトロールする生き物だ。この檻は、彼にとっては耐え難いストレスだろうな」


ケージ内のカルノスは、ハルオの声には全く反応せず、依然としてガラス越しの人間たちを睨みつけていた。しかし、彼は突然、鼻面をケージの床に擦りつけるような動作を始めた。床に撒かれた、鎮静剤や消毒薬の匂いを嗅いでいるのだ。ソラはそれを見て、ハッと息を呑んだ。


「…ハルオさん」ソラの声に驚きが含まれていた。「見てください、脳波とカメラ映像の同期解析です」


ソラがモニターを指さす。カルノスが床の匂いを嗅いだ瞬間、脳波パターンに微妙な変化(主に嗅覚野と関連する領域の活動増加)が現れ、同時に頭部カメラの映像も、匂いの源である床の一点へと焦点が(AI補正により)自動的にシフトしていた。粗い映像ではあったが、その動きは明らかだった。


「視覚情報と嗅覚情報…彼の脳内で、これらがシームレスに統合され、空間認識や対象認識に使われている可能性が高い」ソラは興奮気味に言った。「MEAで直接神経節細胞の信号を捉えられれば、もっと詳細な神経符号化が解析できるはずです。視覚と嗅覚の統合処理…これは、単なる画像認識を超えた、環境の『意味理解』に繋がるかもしれません。『プロメテウスの目』が狙う自律判断の根幹そのものです…」


ソラの目は、危険な技術の可能性と、それを解き明かす科学者の好奇心とがせめぎ合っていた。一方、ケージ内のカルノスは、無意味に檻の壁に頭を打ちつけ始めた。ハーネスの電極が微かに光る。彼の脳波は、深いストレスと絶望を示すパターンを示していた。原始のハンターは、知性と技術の檻の中に閉じ込められていた。

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