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新たな風、異質なる影



**2033年4月12日 午前9時17分 山岳バイオステーション「種間共生研究センター」周辺森林**


春の陽光が、新緑の葉を透かし、針葉樹の鋭い影を地面に刻みつけていた。空気は冷たく澄み、遠くから聞こえる沢のせせらぎと、無数の鳥のさえずりが森の静けさを際立たせていた。山岳バイオステーション「種間共生研究センター」の巨大なドーム群は、森の谷間に溶け込むように建ち、その曲面ガラスには全天候型超高効率太陽電池モジュールが魚の鱗のように敷き詰められていた。曇天でも微かな光を貪欲に捉えるその表面は、今、眩いばかりの光を反射し、まるで地上に落ちた星屑の帯のようだった。


センターから東に約500メートル離れた、苔むした巨岩が点在する小高い丘の上。**アキラ**は、陽光を浴びて微かに温もる岩肌に、左後肢を折り畳んで座っていた。全身を覆う暗褐色から黒のコンター・フェザー(廓羽)が、柔らかな春風にそよぎ、細かい羽音を立てる。彼はゆっくりと長い首を伸ばし、虹色に輝く頭部の冠羽を立てた。光の角度によって青から緑、紫へと移ろう構造色は、警戒と同時に周囲への存在を示すディスプレイだった。彼の右の大きな眼窩には、横長の瞳孔を持つ眼球が収まっており、強膜輪がはっきりと見て取れた。その視界は、人間の8倍ともいわれる解像度で、森の奥深くまで切り込んでいた。前方視野は狭いが、左右の広大な単眼視野が死角をほぼ消し去っていた。


アキラは細長い吻をわずかに左へ傾け、鼻の穴をぴくぴくと動かした。匂いの風向きを確かめる動作だ。彼の脳裏には、この森の詳細な認知地図が浮かんでいた。餌場になりそうな小動物の巣穴、安全な避難経路、水場の位置、そして…縄張りの境界線。彼の鋭い四色型色覚テトラクロマシーは、紫外線領域を含む広い波長を識別し、木々の葉の微妙な健康状態や、小さな哺乳類が残した尿の痕跡さえも捉えていた。今日は、いつもとは違う匂いが混じっている。湿った土と腐葉土、針葉樹の樹脂、そして…遠くから漂う、かすかに甘酸っぱい、腐敗し始めた肉の匂いだ。


「アキラ、おはよう!」


明るい声が森に響いた。丘のふもとから、白いワンピースを着た少女が、軽やかな足取りで登ってきていた。**ケイ**、現在12歳。かつて地震で家族とはぐれ、アキラと運命的に出会った日系カナダ人の少女だ。彼女の顔には、震災とその後の苦難を乗り越えた強さと、アキラへの深い信頼が刻まれていた。ケイはアキラの前に立ち止まり、右手をゆっくりと差し出した。掌には、小さな透明容器に入った、ゆで卵の白身を細かく切ったものがある。アキラは警戒の冠羽を少しだけ寝かせ、首を伸ばし、細長い吻の先端にある角質の嘴で、慎重に白身をつまみ取った。彼の歯列は鋭く、前後縁には獲物の肉を切り裂くための鋸歯が確認できたが、今は優雅に餌を扱っていた。


「今日もいい天気だね。リュウはドームの西側の水場にいるみたい。トビも一緒だよ」

ケイはアキラの左側に腰を下ろし、背中を巨岩にもたれかけた。彼女はアキラが右に傾けた首の角度や、冠羽の微妙な立て方から、彼の気分や警戒レベルを読み取る術を身につけていた。アキラはケイの言葉に反応し、長い首をゆっくりと右方向、ドームのある西側へと向けた。その動きに合わせて、硬直化した尾の基部がわずかに右に振れ、バランスを取った。尾椎の長い前関節突起と血道弓が重なり合い、強靭な靱帯で固定された構造は、高速走行や急旋回のための進化の証だったが、今は優雅な動きを支えていた。


「ケイちゃん、そこにいたか」


車椅子のモーター音が静かに近づいてきた。**ハルオ**、現在73歳の元生物学者だ。左脚が不自由なため、高度な自律走行機能を持つ電動車椅子に乗っている。白髪の頭に深い皺が刻まれ、鋭い観察眼を持つその目は、今は優しさに満ちていた。ハルオは車椅子の右アームレストにあるタッチパネルを左手人差し指で軽く叩き、車椅子を停止させた。


「カルノスの行動解析データ、やっぱりおかしいんだよな。昨夜のセンサーログ、餌場を巡回した後、北東の境界線で異常に長く留まっている。ストレス反応も通常値を超えていた。何か気になるものがあったのか…」

ハルオは顎に右手を当て、考え込むように遠くの森を見つめた。アキラはハルオの声を聞き、冠羽を完全に立て、首を完全に直立させて警戒態勢に入った。ハルオが口にした「カルノス」という名前は、彼にとって未知の脅威を意味していた。ケイも表情を引き締め、アキラの反応を一瞥した。


「ハルオさん、あの匂い…今朝からずっと気になってたんだけど、腐った肉みたいな…」

ケイが言いかけたその時。


**ドサッ!**


森の奥深く、北東方向から、重い物が倒れるような鈍い音が響いた。同時に、カラスが一斉に不気味な鳴き声を上げて飛び立つ。


アキラの反応は即座だった。全身の筋肉が瞬間的に緊張し、軽量ながらもしなやかな骨格が攻撃態勢へと移行した。彼は左前肢を一歩大きく踏み出し、胴体を低く構えた。特大化した第二趾の鎌状爪(長さ約10cm)が無意識に地面を掻き、土を少し跳ね上げた。頭部は音のした方向へと固定され、両眼の瞳孔が鋭く細まった。左右の広い単眼視野で周囲の動きを捉えつつ、わずかな両眼視野で音源の距離感を計測しようとしている。冠羽は最大限に立てられ、青緑色の虹色が陽光を反射して強く輝いた。喉の奥から、低く唸るような「グゥ…」という警戒音が漏れた。


ケイは反射的に立ち上がり、アキラの背中側、右斜め後方に位置を取った。ハルオは車椅子のタッチパネルを素早く操作し、センター本部へ緊急通報を送信すると同時に、車椅子に搭載された小型カメラドローンを起動させた。ドローンの無音プロペラが回転を始め、森の上空へと静かに上昇していく。


「…来たな」ハルオの声は緊張に張り詰めていた。


森の闇から、一つの影が不気味な静けさをもって現れた。


**カルノス**だ。


ネオジュラヴェナトルのオス個体。全長約3メートル、アキラやリュウより一回り大きく、より原始的なアロサウルス上科の特徴を色濃く残していた。頭部は大きく、鋭い歯がむき出しの口から粘り気のある唾液が糸を引いている。目はアキラたちより小さく、視覚よりも嗅覚に頼っていることが伺えた。全身の大部分は鱗に覆われているが、背中から尾にかけて、そして前肢の付け根付近には、緑褐色の毛状の原始的な羽毛プロトフェザーが粗く生えていた。アキラたちコエルロサウルス上科のような複雑な正羽は持たない。その体躯は筋肉質で、特に後肢が発達していた。恥骨は明らかに後方へ傾斜し(オピストプビック)、坐骨の先端には坐骨足が確認できた。前肢は短く、後肢の長さの約1/3ほどしかなく、3本の指(第I, II, III指)のうち、第II指と第III指の長さがほぼ同じだった。尾は長く、血道弓が発達し、走行時のバランサーとして機能している様子が伺えた。


カルノスはゆっくりと歩み寄ってきた。右後肢、大腿部に深い裂傷があり、黒ずんだ血が固まっていた。左前肢の爪も一本折れかけている。飢えと痛み、そして恐怖と警戒心が混ざり合った、荒々しい気配を全身から放っていた。彼は細長い吻を地面すれすれに左右に振りながら、鼻の穴を激しくひくひく動かし、アキラやケイ、ハルオの匂いを嗅ぎ分けようとしていた。喉の奥から「ガァ…ガァ…」という、湿った威嚇音が漏れる。アキラはそれに応えるように、さらに低い唸り声を響かせ、鎌状爪を備えた第二趾をわずかに上げて見せた。


カルノスはハルオの車椅子の左前方約10メートルで立ち止まった。小さな目を細め、まずハルオを、次にケイを、そして最大の脅威であるアキラをじっと睨んだ。彼はゆっくりと頭を右に傾け、左目でアキラを観察する。アロサウルス上科としては比較的大きいとされる大脳半球が、今、獲物か脅威か、戦うか逃げるかの判断を高速で処理している様子が伺えた。彼の尾はゆっくりと左右に振られ、筋肉の緊張が伝わってくる。


「…ゆっくり後退だ、ケイ。刺激するな」ハルオが囁くように言った。彼は左手で車椅子のジョイスティックを慎重に操作し、車椅子をゆっくりと後退させ始めた。ケイもアキラの後方で、一歩、また一歩と後ずさりした。彼女の右手は、ポケットに入れた小型の緊急用ホイッスルを握りしめていた。


その動きが、カルノスの緊張の糸を切った。


「ガオオオッ!!」


突然の咆哮とともに、カルノスは強力な後肢で地面を蹴り、真っ直ぐにハルオの車椅子めがけて突進した! その動きは爆発的で、短距離での加速力はアキラたちを凌駕していた。アキラの優れた動体視力(フリッカー融合頻度100Hz以上)をもってしても、その突進は一瞬の出来事だった。


「ハルオさん!」ケイの悲鳴が森に響く。


アキラは反応した。突進するカルノスの進路を遮るように、左後肢で地面を強く蹴り、体を左斜め前方へと放り出した。長い尾を鞭のようにしならせてバランスを取りながら、空中で体勢を整え、鎌状爪を備えた右足の第二趾を、カルノスの右脇腹めがけて振り下ろそうとした!


しかしカルノスも獣脚類のハンターだ。アキラの動きを予測していた。突進の勢いを利用し、胴体をわずかに左に捻り、アキラの蹴りを間一髪でかわすと同時に、大きく開いた顎でアキラの首筋へと噛みつこうとした! 腐肉のような獰猛な息遣いがアキラの羽毛に触れた。


アキラは咄嗟に首を右に捻り、カルノスの顎をかわす。鋭い歯がアキラの左肩の羽毛をかすめ、数枚の廓羽が空中に舞った。アキラは着地と同時に後ずさりし、カルノスと距離を取った。喉の奥から「キィイーッ!」という警戒と怒りの混じった鋭い鳴き声を上げた。肩の羽毛が乱れ、心臓の鼓動が早まっているのが自分でも感じられた。


カルノスは一瞬アキラを睨みつけたが、本来の標的であるハルオの車椅子を再び視界に捉えた。車椅子は後退していたが、森の地形は平坦ではない。小さな根が車椅子の左後輪を阻んだ。


「くっ…!」ハルオが操作盤を叩く。車椅子のモーターが唸るが、動かない。


カルノスは獲物の動きが止まったのを確認し、再び突進の体勢に入ろうとした。その時――


「ストップ!!」


ケイがアキラの右斜め前に飛び出し、両手を大きく広げてカルノスを遮った。彼女の顔は恐怖で青ざめているが、目はしっかりとカルノスを見据えていた。右手には緊急ホイッスルが握られている。この小さな人間が、自ら進んで巨大な捕食者の前に立ちはだかったのだ。


カルノスは一瞬、驚いたように足を止めた。小さな目を細め、ケイという未知の存在をじっと見つめる。鼻の穴がひくひくと動いた。ケイの匂い、恐怖の汗の匂い、それでも立ちはだかる意志の匂いを嗅ぎ分けている。時間が一瞬、止まったように感じられた。


その刹那、上空から鋭い「ピィーッ!」という鳴き声が響いた。**トビ**、ネオアンキオルニスのオス個体だ。リュウの元から飛んできたのだろう。彼の小さな体(全長約1メートル)は、茶褐色の羽毛に覆われ、頭部にはネオルニトサウルスより小さい冠羽が逆立っていた。アキラやリュウに比べると前肢が長く、より鳥類に近いプロポーションだった。トビはカルノスの頭上すれすれを高速で飛び抜け、その風切り羽の音でカルノスの注意を引きつけようとした。カルノスは思わず上を見上げ、ケイへの突進が一瞬遅れた。


その隙を逃さなかった。


「リュウ、行くぞ!」


力強い声とともに、もう一頭のネオルニトサウルス、**リュウ**が森の木陰から飛び出してきた! アキラとほぼ同じ大きさ、同じ外見。全身を覆う暗褐色の廓羽、虹色の冠羽。唯一の違いは、左前肢の廓羽の縞模様が途切れていないことだった。リュウはアキラよりも社交的な性格で、今、その性格が現れたように、アキラと目配せ一つで連携を取った。


リュウはカルノスの右側面を狙い、強力な後肢で跳躍! 空中で体を半回転させ、左足の特大の鎌状爪を、カルノスの負傷している右後肢めがけて振り下ろそうとした。アキラはそれと同時に、カルノスの正面から、威嚇の体勢を見せつつ、牽制の動きを見せた。二人のネオルニトサウルスの見事な連携攻撃だった。


カルノスは窮地に立たされた。正面のアキラ、右側面から襲いかかるリュウ、頭上を飛び回るトビ、そして目の前には奇妙に勇敢な小さな人間。負傷した後肢の痛みも再び疼いていた。彼は一瞬、迷いの表情を見せた。それは、高度な認知能力を持つ捕食者特有の葛藤の瞬間だった。


「ガァ…!」低い唸り声を一つ上げると、カルノスは突如、体を左に捻り、リュウの攻撃をかわすと同時に、森の奥深くへと全速力で逃げ出した。強力な後肢が地面を蹴り、土煙を上げる。その背中には深い裂傷が生々しく見え、走るたびに血が滴っていた。彼の姿は、巨大なシダの陰に一瞬見え、そして深い森の闇に消えていった。


残されたのは、荒らされた地面、舞い散った羽毛、そして重い沈黙だけだった。ケイはその場に崩れ落ち、肩を震わせた。ハルオは安堵の息を吐きながら、ケイの元へ車椅子を寄せた。アキラとリュウは肩を並べてカルノスが消えた方向を凝視し、冠羽を立てたまま警戒を解かなかった。トビは近くの木の枝に降り立ち、甲高い警戒音を発し続けている。


ハルオは車椅子のドローン操作盤を見つめ、低く呟いた。

「…プロメテウスの目、か。どうやら、影はもう忍び寄っているようだな」


彼のモニターには、上空のドローンが捉えた森の映像が映っていた。その端には、人間の姿ではない、迷彩服を着た人影が、カルノスの逃げた方向へ消えていく一瞬が記録されていた。そして、その人物の右肩には、三本の赤い線が入った奇妙な紋章がほんの一瞬、映り込んでいた。


春の日差しが森を照らしていたが、丘の上には、新たな脅威の気配が、冷たい影を落とし始めていた。

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