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らのべ・らぶこめ

作者: さば缶

 午後の放課後といふものは、概して何とも言へぬ倦怠けんたいの趣がある。

殊に、春の長き日が終はらぬうちから、学窓に柔らかき夕光がさし込む頃となると、教場に残る生徒の影もまばらに、まるで芝居の終はつた後の舞台の如く寂寥せきりょうとしたものである。


「……君、まだゐたのか。」


 唐突にかう声をかけたのは、坂本青嵐さかもとせいらんであつた。

彼はいつもながらの鷹揚おうようさで鞄を肩にひつさげ、実に無遠慮に私の机辺きへんに近づいてきた。


「ああ、今、帰らうと思つたのだ。」


 私はさう答へながら、未だに筆箱の蓋すら閉じずにゐたことを、己が不精さのあらはれかと、密かに顔を赤らめた。


 名は、望月透子もちづき とうこ

己ながら旧めかしい名だと思ふが、家の事情といふやつは往々にして理不尽である。


「それならば、僕と一緒に帰らう。せつかくのらのべ談義でもしながら、あの桜並木を歩かうではないか。」


 彼がいふ「らのべ」とは、世に云ふ軽妙洒脱けいみょうしゃだつな小説、女子などが好んで読むやうな恋物語を指してゐる。

然れども彼の口から「らぶこめ」などといふ語が飛び出すことも屡々(しばしば)あり、これを耳にすると、どうにも妙な気分にさせられるのだ。


「――青嵐君は、かうした放課後に、何時も『らぶこめ』などを語るのが好きなのか。」


「ふむ、好きといふよりは、透子とさういふ話をしてゐると、何だか心が和らぐからな。」


 彼の眼は穏やかに、しかも少しく哀しげに笑んでゐた。

さうして、その声の内には、何とはなく叙情的な趣があり、私はまた、己の頬が火照るのを止むる術を知らなかつた。


「ところで、透子は恋などをしたことがあるのか。」


 唐突なる問いに、私は驚きを以て彼を見やつた。

然れども青嵐は、別段変つたことを聞いた風もなく、微かに眼尻めじりを緩めてゐる。


「……恋? あまり、そのやうなことを考へたことはない。」


「では、僕は透子に一つの話をして聞かせやう。」


 かういふ彼の調子は、まるで朗読でも始めるかのやうであつた。

そして、二人は自然と歩きながら、校庭を後にし、桜並木の小径へと足を進めた。


「あるところに、ひとりの男がゐた。彼は無愛想で、恋といふものを知らなかつた。されど、或る日、彼は一人の少女と出会ふ。その少女は、春の宵に咲く桜の如く、あまりにはかなく、あまりに美しかつた。」


「……らのべの筋のやうだな。」


「左様。だが、この話は、誰のことを語つてゐるか、透子は分かるか。」


 私はその意を察して、胸をかれたやうな気持ちがした。

そして、彼の面差しを盗み見ると、その眼はまつすぐに私を射てゐた。


「……私か。」


「否、我が身のことだよ。」


 青嵐はさう言ひつつ、桜の花の一片を手に取り、静かに吹き飛ばした。

その白き花弁は、春の夕暮の薄紅の空へと舞ひ上がり、たちまち見えなくなつた。


「透子と歩くこの帰り道が、僕にとつては、まさに『らぶこめ』のやうなものなのだよ。」


「……それは、冗談だらう。」


 私はさう言ひながらも、声音は冴えぬものとなり、言葉も消え入りさうになつた。


「いや、至極まじめだ。」


 青嵐は、かう言ひながら、私の手をそつと取り、その掌に己が指を重ねた。

春の冷たさは未だに残るといふに、その手は温かであつた。


「桜は、いづれ散る。けれども、この『らぶこめ』は、まだ始まつたばかりだ。」


 私は彼の眼の中に、静かな炎を見るやうに思つた。

そして、その瞬間、何故かしら涙がこぼれさうになつた。


「青嵐君は、まるで『らのべ』の登場人物のやうだな。」


「さうか? だが、透子がかたわらにゐるなら、それも悪くない。」


 さう言つた時、二人の間に、そよ風が吹き過ぎた。

それは、桜の花びらを無数に巻き上げ、まるで夢のやうに我々を包んだ。


 春の暮れなずむ学園の帰り道、かくして望月透子と坂本青嵐の『らぶこめ』は、第一章を終へたのである。

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