失われた手紙
分かっていないのは僕だけだった。今でも繋がらない電話の保留音を聞くと思い出す。
とうもろこし畑が湖からの湿り気を帯びた夜風がたなびいていた。その端に背の低いミカンの木が一本だけ立っていて、実がならない程度に枯れていた。
ぼくは、その木から100歩もいかない家で育った。平屋の、3人で住むには大きい家だった。指で数えられるほどの小さな人間関係の、その窮屈な村の中心には、古い音楽ホールがあって、その外にはとうもろこし畑が広がっていた。
採算の取れていないそのホールでは定期的に地元の自称音楽家による演奏会が開かれ、手拍子さえも立派な楽器として舞台に立つ、呂律が回らない村人に紛れて、真央は、そこでよくピアノを弾いていた。知っている音楽家はモーツァルトくらいだったから、彼女が何を弾いているのかは知らなかった。よく眠れそうだな、と考えていたくらいだ。それを言うと真央は楽譜を持つ手を震わせて悔しそうだった。
僕が小学校を卒業する頃、彼女は突然村を離れることになった。それでも音楽ホールでは演奏が続く。手拍子ばかりの。いつしか音楽ホールには近寄らなくなって、いくらかよく眠れない日が続いて、そうして、やっと僕の町からピアノの音が消えたことを知った。
いつか、演奏会が終わった後、市場で買った、熟したミカンを食べながら、トウモロコシ畑で話したことを忘れない。
「いつか、このトウモロコシ畑くらいの人々の前で演奏したいの。都会に行くと、それができるんだって。」
「その、電話の待ち時間の音楽で?」
「やめてよ。大きなコンサート会場で、遠くの客席の顔が見えないくらい広いところで、みんなに私のピアノを届けたいの!」
僕はトウモロコシ畑と、僕に聞かせてくれたらそれでいいのに。と、思ったが、言えなかった。それから、一緒に3人で住むには大きな家程の大きな家で一緒に暮らしたいことも。でも、それは言い出すことが出来なかった。
そうして、彼女はこの村に帰ってこなかった。女性たちの井戸端会議では、都会に負けたということだけがささやかれていた。
成人の日にタイムカプセルを掘り出すことになった。枯れたミカンの木の下に埋めておいたタイムカプセルを僕たちは晴れ着を汚し、土まみれになって掘り出した。当時、同学年の村の子どもたち全員で埋めたものだ。その中に、真央が書いた手紙が入っていた。
「10年後の世界では、もう100万人くらいのステージに立てたかな私。私は、悠人がいつも私のピアノを褒めてくれたこと、本当にうれしかった。本当に好きだったんだ。」
立てなかったよ、立てなかったんだよね?その手紙を読んだ瞬間、胸の奥が熱く揺れた。僕は……僕は、楽譜を埋めていた。彼女がいなくなってから辞めた、こっそりしていたピアノの練習。その楽譜だった。旧友との話をそこそこに切り上げて、そうして、音楽ホールに足が向かった。行ってみると、そこには半分崩れたホールと、風に揺れるとうもろこし畑が広がっていた。
それぞれの家で成人をお祝いしているせいか、人気はない。崩れた天井から差し込む月光の中、埃をかぶったピアノがひっそりと佇んでいる。誰もいないはずのそこには、不思議と彼女の影が残っているような気がした。
僕は楽譜を置き、恐る恐る鍵盤に手を伸ばし、一音鳴らしてみる。驚くほど調律が乱れていたが、彼女が弾いていたときの面影が微かに残っている気がした。
「真央、僕も、ずっと好きだったんだ。」
誰もいないから、胆大心小にそっと言える。
声に出した瞬間、過去と今が交わるような不思議な感覚に襲われた。とうもろこし畑が風に揺れる音が遠くから聞こえる。
彼女の夢を思い出しながら、僕は思いを馳せた。
今さら遅い、彼女がいないこの村で、彼女の夢の続きを思い出したかった。音楽ホールの崩れた壁越しに、月光が優しく差し込む中、僕はまた一音、鍵盤を押した。
僕だけの「愛のあいさつ」
ささやかに鼻を打つような、柑橘系の音に、トウモロコシ畑の聴衆が穏やかに眠りについた気がした。