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異界の古代魔道士  作者: 焔場秀
第二章 東国動乱
70/73

第六十五話 全ての破滅を呼び出すモノ

 魔術とは本来、詠唱と印による儀式的な準備段階を経て初めて発動が可能になる魔道技術である。

 それは魔道学の祖エリュマンが定義し、魔術の素養がある人間、もしくはその逆の者であれ例外なく適用されるものだ。

 つまりは避けて通れぬ手段。いくら魔術の道を究めようと、操れる魔力の量が多かれ少なかれ、魔術の才能があろうとなかろうと変わりはない。

 魔術とは万能であれ、されど完璧ではないのだ。

 しかし、そんな奇跡の技を完璧に使いこなす者がいるのだとしたら…。


 “法則”に縛られない者たちがいる。

 彼らは世界の管理者『時の賢者』によってフィステリアの地に生み落とされ、賢者が要求する“救済の使命”を果たすことを役目とする旅人。

 神ならざる者であり、人ならざる彼らたちのことを、この世界の人間たちはいつしかこう呼ぶようになった。


 ――古代魔道士エンシェントウィザード

 

 彼らの魔術に人の定義は存在しない。

 魔道学という絶対の法則に縛られない彼らは、魔術の使用に印や詠唱を用いないのである。

 故にただの人は彼らに及ばない。彼らは人を超越する存在であり、同時に人が敵う相手ではない。


 たとえそれが誤った手段で得た力だとしても……。

 万能の術を有する彼らはいつでも、この世界の影の支配者であり続ける。


「ククク……そらそら、次が来るぞ」

 それはもはや、戦いと呼ぶにも馬鹿馬鹿しい“本気の遊び”だった。

 少なくともこの戦闘の主導権を握っているガードナはそう思っているに違いない。

 

 彼が両手を振るうと同時、空間に出現した無数の針がヴィヴィアンたちの隠れる広間の支柱に殺到する。

 本来は単発ずつでしか発射できないこの魔術。しかし、古代魔道士の力を発揮するガードナにそんな制限は存在しない。

 銃弾並みの速度を伴う魔力の針は、瞬く間に支柱の側面を凶器の棘で覆いつくした。

 『ポイズンアロー』と呼ばれるこの魔術。針の先端には即効性の猛毒が仕組まれており、素肌を少しでも掠れば全身が瞬く間に毒に犯されてしまう。

 元より強力な魔術であるが、数が単発であるのと、飛ばすときは手動照準が必要であるために実戦向きとは言い難いのであるが……。

 それを大量に一斉発射できるのであれば、その制圧能力は他の高等魔術にも引けをとるまい。

 実際、これのせいでヴィヴィアンとシンは防戦一方に追い込まれていた。

「畜生……おいガードナ! そんな卑怯な魔術使わないで、正々堂々俺たちと勝負しやがれ!」

 身を隠し続けることに痺れを切らしたジンが、隠れていた支柱から顔を出してガードナに叫ぶ。

 その要求に対する返事は否。刹那、顔を出した彼のすぐ傍を一本の槍が通過した。

「笑止。暗殺者のお前が正々堂々などという言葉を口にするとは思わなかったぞ。なんだ、ヴィヴィアンの信頼に浮かれて騎士道でも志しているのか?」

 ジンはすぐ頭を引っ込めると、向かいの支柱に隠れるヴィヴィアンに肩を竦めてみせた。

「生真面目過ぎる奴もどうかと思うが、皮肉しか言えん奴はもっと好かんな」

「冗談を言う余裕があるなら、この現状を切り抜ける作戦の一つや二つ考えてください…!」

 後ろ手に、ヴィヴィアンは魔道拳銃を支柱の影から数発撃ち込む。

 命中した手ごたえはない。無論反撃のつもりだが、こんな散発的な発砲では威嚇射撃にもならない。

 ガードナの方もヴィヴィアンたちの必死な抵抗を面白がってあえて積極的な攻撃を避けているだけなのだろう。正直言って、彼が本気でヴィヴィアンたちを潰しにかかれば今頃無残な屍を晒すことになっているはずだ。

(だが、これはチャンスでもある)

 相手が本気を出して戦っていないということは、自分たちのことはいつでもどうとできると絶対の自信があるということ。それはつまり、そう思い込んでる心の油断でもある。どうにかして彼を引き付けることができれば、その隙を突いて一気に仕掛けることができるかもしれない。

 勿論これには危険が付きまとう。

 成功する可能性の低さもそうだが、何より一発勝負なので失敗すれば間違いなく死ぬだろう。さらにこの作戦には、もう一人の協力者も必要不可欠だ。

 ヴィヴィアンは自分が考えた作戦について、暗殺者ジンに伝えようと試みた。

 声に出して説明すればガードナに勘付かれる恐れがある。ヴィヴィアンは視線でジンに訴えかけ、何とかその同意を得ることができた。


『一か八か、賭けるしかなさそうだな』

 ジンは口だけ動かして意見を伝える。

 確実性のない行動には反対するかと思いきや、彼はあっさり了承してくれたのだ。とはいえその表情には苦渋の色が見え隠れしている。危ない賭けに乗る事は彼にとって勇断だったに違いない。つまりそれほどまでに、現状が停滞しているということなのだろう。この状態を打開するためには、こちらから打って出るしかないのだと。

 ヴィヴィアンとジンは、お互い仕掛けるタイミングを計りながら粘った。

 ガードナが魔術を発動する直前、あるいはその直後。一番隙の多い瞬間を狙って、飛び出す頃合を見極める。

 そして、その時はやってきた。


『今だ!』

 狙うは魔術後の隙だ。

 ジンの合図に合わせて、ヴィヴィアンは支柱の影から飛び出してそのまま横に走り抜ける。走り際利き手に持った銃を伸ばして三発魔力弾を発砲した。

 弾はいずれもガードナの脇を通過し命中することはなかったが、それでも相手の気を引き付けることには成功したようだった。

「そこか!」

 ガードナの右手に電撃の帯が迸り、走るヴィヴィアンに向かって断ち放つ。

 間一髪、別の支柱の影に滑り込んだ彼女が電撃に撃たれることはなかった。支柱の石壁に直撃した電撃の帯は、獲物に絡みつくこともできずにうねりながら消失する。

「ふん、どうやら私の気を引いたつもりのようだが、残念だったな…!」

 しかし、ガードナは背後から近づくジンの存在に気づいていた。

 短剣を突き出すジンに対して、ガードナは魔力障壁でこれをはじき返す。

 隙を作ってしまったのはジンの方だった。体勢を崩してがら空きになった彼の懐に、ガードナが放った岩槍が突き刺さる。

「愚作な……そんな不意打ちで私を出し抜けるなど――」

「あるわけないと思ったか?」


「……ッ!」

 声がしたのは後ろからだ。

 咄嗟に振り返ったガードナの眼前を鋭く尖った刃が閃く。

 先の攻撃はフェイクであった。ガードナの魔術を受けたのはジン本人ではない。ジンの所有する魔道具の一つ、『殺来の空身ダミーカウンター』が身代わりとなったのである。

 いわば二重の奇襲攻撃。本物のジンは、既にその反対側に回り込んでいた。

「はッ……!」

 ジンの突き出した短剣の刃がガードナの右目に深々と突き刺さる。その手に感じる重みはフェイクでもなければ偽物でもない。それは確かな手ごたえをもって、ガードナに致命傷を負わせたことを実感させた。

「ぐああああ!!」

 あまりの激痛に絶叫を上げるガードナ。彼は傷口を押さえて頭を激しく振り、その場で体勢を崩した挙句地面を何度も転げまわった。

 かつての味方とはいえ、暗殺者を生業とするジンに同情の余地はない。無防備になったガードナをここぞとばかりに押さえ込み、その首元をダガーで掻っ切る。

 声にならない断末魔を上げ、喉から大量の鮮血を飛び散らせながら、やがて彼は黙した。

 

 呆気ない終焉である。

 本当にそうだろうか。自分で殺めておいて何だが、ジンは役目を遂げた実感を持てそうにない。

「終わった……のですか?」

 支柱に隠れていたヴィヴィアンが、拳銃を構えながら恐る恐る姿を現す。

 銃を持つ手が震えている。興奮や恐怖で身体が昂ぶっているのだろう。あるいはその震えは、尊敬する上司を失った悲しみの作用か。

 ――いや。きっとどちらとも違う。

「彼は……ガードナ様は、死んだのですか?」

「あ、ああ。その、はずだが……」

 おかしい。なぜだ? その問いに対する明確な返答をしてはならない気がする。

 ガードナが死んだ? こんなに呆気なく? これだけの事を一人でやってのけたあの男が、たかが人間如きの毒牙に裂かれて命を落としたと?

 ジンは床でぴくりとも動かなくなったガードナを見下ろした。

 噴き出した鮮血が広間の地面に大きな血だまりを広げるそれを、ジンは慎重に観察する。

 脈、心臓の鼓動、呼吸、瞳孔。人の生死を判別するありとあらゆる身体機能を調べつくして、それが既に死体であるということを理解する。そう、あくまで生命学的な論理上は。

 ――ガードナの死体に異変が起きたのはその時だった。


 突然、ガードナの身体が激しく波打ったのである。

 

「!?」

 いや、正しく表現するならそれは飛び跳ねたというべきだろう。

 喉を掻っ切られて息絶えたはずのガードナが、仰向けに倒れたまま唐突に胴体を持ち上げたのだ。

「な!? 動いてる……!」

「まだ生きてるのか!? だが、これは……」

 ヴィヴィアンとジンは警戒してすぐさま距離を取った。

 あるいはこの時、ガードナの肢体を切りつけて再び動きを止めさせるという手もあったのだが……ジンはあえてその行動を試さなかった。

 なにやら嫌な予感がしたのである。そしてその予感は、見事に的中することになった。

「…っ! 伏せろ!」

 ジンの警告に従い、ヴィヴィアンは咄嗟に身を屈む。

 その瞬間だった。ガードナの死体が急速に膨張を始めたと思いきや、炎を吹き上げて爆発したのである。

 威力自体はそれほど大きくはなかった。爆風はあったが吹き飛ばされる程でもない。道連れにするにしても規模が小さすぎる。

 だが問題なのはその爆発ではなかった。むしろその爆発に気を取られてしまった二人の隙こそが、致命的な失態であったと言うしか他にない。 

 彼らの足元には密かに魔術陣が仕掛けられていた。それは突然効果を発動して、ジンとヴィヴィアンをその場に磔にしたのである。

「ぐっ! しまっ――」

 捕らえられてからでは何もかもが遅かった。動きを封じられた二人は、魔術陣の影響をじかに受けて体内の魔力を吸い取られる。

 ――『マジックドレイン』。対象者の魔力を吸い取る無属性魔術だ。用法は主に魔力摩擦で暴走した魔道士の沈静化に役立たれるが、使い方次第によっては生命を弱らせて行動不能にすることもできる。

 人間が体内に宿す魔力は、血管を流れる血液と同じく生命維持に無くてはならない存在だ。それを一度に大量に失ったとあれば、死にはせずとも身動きできないくらい衰弱してしまうのは必至。魔術の効果が切れる頃には、ジントヴィヴィアンは地面に力なく横たわっていた。

 静まった広間に、手を叩く乾いた音が響き渡る。

「いやいやお見事。さすが、というべきか……あの自爆トラップを発動させるまで粘るとは大した実力だ。なかなか良い連携だったぞ、素直に感心した。ククク……」

「ガー…ドナ……貴様……ッ!」

 

 柱の影からすっと姿を現したのは、先ほど爆発で四散したはずのガードナだった。

 彼は生きていた。しかも爆発に巻き込まれた形跡も見受けられなければ、ジンが切り付けた右目や喉元にも傷の跡が残っていないではないか。

「一体どうやって……。あなたは……確かにジンさんによってとどめを刺されたはず……なのに…」

 ヴィヴィアンの疑問に、ガードナは冷徹な微笑を浮かべて答える。

「なに、ちょっとしたトリックだよ。先ほどジンが使った魔道具同様、自分の偽者を仕組んで戦わせていただけだ。倒したと油断しているところを不意を突いて攻撃……。とはいえ、お前たちは私のダミーに薄々気づいているようだったから、“人形”に少しばかり細工を施してもらったがな。爆発に気を取られていたお前たちに罠を仕掛けるなど造作もないこと」

「……はっ、まんまと裏の裏を掛かれたってわけか」

 ジンは膝立ちになってガードナを睨みすえた。その手にはまだダガーがしっかりと握られている。

「わざわざありがとよ、自分からカラクリを全部話してくれて。おかげで、今度こそ、お前を確実にし止め……られる……」

「今度だと? クク…その身体で一体何ができるというのだ?」

 ガードナが横に手を振り払うと、ジンの身体は弾かれたように後ろに吹き飛ばされた。

 背中から支柱に激突し、うめき声を上げて再び地面に伏す。

「ジンさん!」

 うつ伏せのまま体を起こしたヴィヴィアンが悲鳴を上げた。

 大理石の床に顔を押し付けたジンはぴくりとも動かない。受け身を取る体力さえ残っていなかったはずだ。そんな無防備な状態で硬い壁に叩きつけられたのだ、一たまりもないに決まってる。下手をすれば、本当に……。

 ヴィヴィアンの顔から血の気が引いた。

「い、嫌……」

 広間に哄笑が響く。

「もう少し楽しませてもらえるかと思ったが、所詮はこの程度か。ふん、“人間如き”が神となった私に敵うはずもない」

 ガードナはジンから視線を外すと、城下を一望できる大窓の方へ向き直った。窓の縁に立ち、恍惚な表情を浮かべて空を見上げる。

「もうすぐ……もうすぐだ! 私の悲願……世界再創生実現の第一歩が! 世界の完全破壊ラグナロクの完成は近い」

 ガードナは横目でヴィヴィアンを一瞥した。

「せっかくだ、お前たちにもその一端を拝む権利をやろう。そこで這い蹲りながら見ているがいい。この腐った世界を崩壊させる、希望の破滅をな」

 その言葉を合図にするかのように、広間中の窓ガラスが一斉に眩い光を発した。

 いや、正確には窓の外の景色が一気に明るくなったのだ。

 暗闇の王都アロンダイトの夜が明ける。夜明けの光……されど、それはヴィヴィアンたちにとっての希望の光にはなり得ない。

 街の光景が明るみにされ、上空を浮遊するゴーレム達もさらに鮮明に映し出された。破壊の騒音を奏でながら飛翔するそれらは、昨晩よりさらに数を増しているように思える。

 かつての大戦の再現が、もうすぐ開始されようとしている。その準備段階は、すでに最終段階を迎えていたのだ。

 街を覆う結界が崩れ始め、ゴーレムを閉じ込めていた監獄が世界に放たれようとしている。

 ――そして、空が裂けた。


                  ============== 


 ラナの深い昏睡は、現実の騒々しさによって打ち解かれた。

 朧けな意識のまま、重たい瞼を持ち上げる。

 霞む視界が徐々に鮮明になり、少女の瞳に映し出されたのは布の天井。

「…………」

 ここは何処だろう。ラナはまずそんな事を思った。

 自分の記憶にない、まったく知らない場所だ。

 首を横に動かして周囲を確認する。それから身体を起こし、そこで初めてラナは自分の身体に毛布が掛けられていることに気がついた。

 誰かに寝かされていたのか? それとも、自分の意思によってここで睡眠を摂っていたのか。

 ラナは額を手で覆って俯く。

 いますぐに思い出せそうにない。今まで長い夢を見ていたような気分だった。実際、夢の一つや二つ見ていたのかもしれないが、今となってはそれすらも定かではない。

 ただ一つわかるのは、その夢は決して好いものではないということだろう。

 頭の隅にまだ残っている。人々の悲鳴や断末魔が、殺気に満ちた怒号が、頭の中で反響を繰り返していた。

「あぁ……うっ…!」

 脳裏に焼きついているのは、人間が流す鮮血の赤。それが、見慣れた故郷を炎と共に真っ黒に染めていく。一体どれほど汚せば気が済むのかというくらい、その醜い色は緑と小麦色の村を完全に塗りつぶした。

 背後に迫る怒りの声を聞きながら、ラナは誰かに手を引かれて走っている。

 それは温かくて優しくて、それでいてすぐにでも掻き消えそうな命の光を灯しながら、確かにラナのか弱い命を繋いでいてくれた。

 村の炎も届かない薄暗い森の奥で、ラナは手を引かれた相手を見つめる。

 その人は何かをラナに囁いていた。内容までは聞き取れないが、確かに何かを話し、ラナはそれに応答して頷いて――


 遠ざかる兄を、ただ不安げに見守る自分がいた。


「…っ……兄さん!」

 ラナは痛む頭を抑えながらその場で立ち上がった。

 毛布を押しのけ、ふらふらと閉じられたテントから抜け出す。

 まず彼女の五感を刺激したのは日中の眩しい陽の光だった。眩しさのあまり、目を閉じて手の甲で顔を覆う。

 それから、大勢の人々が作り出す騒音がラナの鼓膜を震わした。多くは怒鳴り声と悲鳴の類だったが、中には幾つか泣き声も含まれている。血の臭いも……若干だが鼻を掠める。

「……ここ…は……」

 肌を撫でる風に覚えがある。だが、景色に見覚えがない。此処はラナの知っている故郷の村ではない。

 日の眩しさに慣れてきた目で周囲を見渡せば、そこはランスロットの広大な草原に敷かれた、人の野営地の一画だった。

 即席のテントがあちこちに設けられ、その下に包帯を巻かれた怪我人が寝かされている。

 何か、ただ事でない事態が起こったことは明白だった。その原因がなんであるかも、ラナ本人も薄々把握することができる。村を襲ったあの傭兵集団が、何か関係しているのかもしれない……。

 忙しく行きかう人々(医者だろうか、教会の神父のようなクロークを着ている)たちの間を縫って、ラナはテントに寝かされた怪我人たちを一人一人確かめながら歩く。

 服装や外見の特徴から判別する限り、怪我人のほとんどはランスロット人のようだが、いずれもラナには見覚えのない人たちだった。

 この人たちは一体何があって怪我を負ったのだろう。やはりラナの村と同じく、傭兵どもに襲われてしまったのだろうか。

 わからない。目覚めたばかりで思考が混乱しているというのもあるが、この騒々しさの中では落ち着いて考えることもできそうにない。

 村の人たちはどうなったのだろう……ラナにとっていま一番必要な情報は彼らの安否である。何より家族は無事なのだろうか。それを確かめるまでは、じっとなんてしていられない。

 こうあっては自分から訊ねるしか聞き出す手段はなさそうだ。ラナは近くにいたクローク姿の男性に歩み寄ると、勇気を出して話しかけた。

「あ、あの……」

「くっ……祈祷術だけじゃ完治できない。誰か、止血用の包帯を持っている者はいないか?」

 話しかけた直後、その男性がいきなり立ち上がったのでラナは驚いた。

 相手も背後に立つ少女の存在に気づいたのか、怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げる。

「君は? もしかして、この人のお知り合い?」

 そう言って指し示すのは、先ほどまでクロークの男性が治療に専念していた怪我人だった。かなり年配の老人のようで、苦しそうに歪める顔以外、全身を血が滲んだ包帯で巻かれて仰向けに横たわっている。

 面識はない。村に住んでいたかもしれないが、少なくともラナの知る人物ではなかった。

「し、知らない」

 首を振って否定し、相手の応答を待つ前にすぐにその場を離れる。

 いや、仮に知る人物だったとしても、平静を保ってその場にいられたかどうか……。

 血を見ると思い出してしまう。穏やかな村を襲った男たちの、得物にやられて倒れる村人の流す血の色を……。

「うっ……!」

 考え出すと気持ち悪くなってしまった。むせ返りそうな胃液の逆流に、ラナは耐え切れず口元を押さえてうずくまる。

 後ろから声がかかったのはその時だった。

「大丈夫ですか?」  

 女性の優しげな声色と共に、ラナの背中に手が添えられる。

 背中をさすりながら、その女性はラナの俯く顔を覗き込んだ。

「大丈夫? 気分が悪いの? 困ったわ、手の空いているお医者様はおられるかしら?」

 若い女の人だった。ラナの母親より十歳は年下だろうか。その若さに反して、甘えたくなるような、そんな母性も感じさせる。

 何か言おうと思ったが、喉を刺激する熱い感覚に再び口を閉ざす。

「おねえちゃん、ドコかいたいの?」

 目の前にひょっこり顔を出すのは、五歳くらいの幼い少女。

 この女性の娘だろうか。膝を抱えて、不思議そうな表情を浮かべたままラナを見つめる。

 ラナも少女を見つめ返した。背中をさする温かい手が懐かしい。何故か目頭が熱くなった。

「おねえちゃん、ないてるの?」

「うっ……うう……」

 涙で視界がぼやけても、ラナの背中をなでる手は止まらなかった。


「リィノ、水筒のお水をお姉ちゃんに分けてあげて?」

「うん!」

 それからしばらくして、ラナの吐き気と動揺は幾分か落ち着いた。

 優しく介抱してくれた女性のお陰だろう。その後場所を移し、ラナたち三人はいまラナが目覚めたテントの中で腰を下ろしている。

 ラナ自身もう一人で大丈夫だと断ったのだが、子連れの女性の方が無理をするなと聞かず、ここまで一緒に来てくれたのだ。

 女の子から差し出されたコップ一杯の水を礼を言って受け取り、そのまま一気に飲み干して喉を潤す。

 生ぬるい水だが、口の中の気持ち悪い感覚を洗い流すには十分過ぎる代物だった。

「ありがとう。もうだいじょうぶ……です」

「本当に? 私達に気を遣ってない?」

 念を入れて訊ねる女性に、ラナは素直にうなずく。そうしてようやく信用してくれたようだ。

「ふう…良かった。大した事なくて安心したわ」

 ラナがもう一度礼を述べると、女性は心底ほっとした様子でやんわりと微笑んだ。

 女性は自分のことをアンナと名乗った。その傍らにいる女の子の名前はリィノ……アンナの娘であるらしい。

 二人ともラナと同じランスロット人。ただ出身地は違うようで、この母子は王都のアロンダイトから避難してきたという。

「そう……じゃああなたは、アロンダイトの出身じゃないのね?」

 ラナも身元のことや事情について一通り話すことにした。

 自分が“ヘイネ”という村の出身であること。その村が傭兵たちに襲われてしまったこと。自分は森に隠れていて、運良く傭兵たちに見つからなかったこと。

 話しているうちに心細くなり、ラナの目から再び涙が溢れ出してくる。アンナはそんなラナを黙って抱きしめてくれた。

 迷惑だということはわかっている。こんな所で泣いている場合じゃないということも。

 でも、その親身な好意がラナには苦しくて嬉しかった。ラナの溜まりに溜まった不安や恐怖、絶望感といった負の感情が、涙と嗚咽に変わって洗い流されていく。

「あ、あたし……友達を助けることができなくてっ……怖くて、逃げ出して……うっうぅ」

「…………」

「兄さんと逃げたけど……でも、村に戻るって言って……は、離れるの嫌だったけど……あたし、止められなくて……ッ!」

「……うん」

「ごめんなさい! ほんとうに……ッ……ごめんなさい……ッ!」

 耐えず涙を流すラナを、アンナはひたすらに受け止めてくれた。そればかりか、彼女まで一緒に泣いてくれていた。

 ラナの話を聞くうちに、アンナは気づいていたのだろうか。ラナの家族や知り合いは、この野原の避難所に最初からいないことを。

 もはや救える見込みのない相手の無事を願う十四歳の少女の、孤独を憐れむがためのアンナの涙だった。

 不思議そうに首を傾げるリィノの顔を見て、アンナはさらにラナの肩を強く抱きしめる。

 ラナはまだ、家族が生存していることを信じている。

 当たり前だ。誰だって、大切な身内の死を受け入れたいと思うはずがない。少なくとも、大切な人の死に顔を拝むまでは。

 国境砦に詰める夫の安否を心配していたアンナも同じ気持ちだった。そして、その不安を吐露できる相手がいないというのは本当に辛い。辛過ぎて、結局一人で強がって自分から孤独になってしまう。この少女もアンナと同じであった。

「……怖かったわよね。ずっと……一人で苦しかったのね」

「うぅ……うああ……ううぅ…ッ!」

「もう大丈夫だから。私達が傍にいるわ……だからもう、悲しい思いはしなくていいの」

 その言葉で安心したのか、ラナは嗚咽を洩らしながらも、段々とその涙を収めていった。

 今にはまだラナに休息は必要だ。少なくともアンナはそう思える。

 それが結局ただの気休めになったとしても、心に深い傷を負っているこの少女にこれ以上余計な負担を与えてはいけない。

 ラナの身内の安否はわからずとも、それだけはアンナも確信できた。

「おねえちゃん、おねんねしたよ」

「……ええ、寝かせてあげようね」

 胸元に当たる少女の寝息が、アンナには外の喧騒よりも遥かに大きいものに聞こえていた。



「アンナ! 何故お前がここに……!?」

 ラナが深い眠りに落ちて、十数分が経過した頃だった。

 喉が渇いたと言う娘のためにテントを出たアンナは、丁度向いからやってきた兵士姿の男を見て目を丸くした。

「まあ! あなたこそどうして?」 

 兵士姿の男――ザット・オランドは、一瞬バツが悪そうに顔を顰めたあと、少し眉を吊り上げてアンナに迫る。

「用事が終わってお前たちのテントに来てみれば、もう小一時間は戻ってないと伝えられた。心配になって行方を聞いて回れば、ここにたどり着いたってわけさ」

「そ、そう……心配をかけてごめんなさい」

 ザットはアンナの妻だ。ランスロットのリディア侵攻やゴーレムの王都攻撃でお互いにしばらく消息を確認できないでいたが、アンナたちがこの野営地に避難してきた時、ヴァレンシア軍の捕虜として同行していたザットと奇跡的な再開を果たしたのである。

「パパ!」

 父の姿を認めて抱きつく愛娘リィノの頭を撫でるザットは、アンナと、その背後にあるラナの眠るテントとを交互に見比べて怪訝に眉を顰めた。

「そこのテントに、何か用か?」

 彼のその質問があまりに含みあるものだったので、今度はアンナの方が怪訝に首を傾げる。

「用も何も……体調の優れない女の子がいたからここに連れてきただけですわ。その子、自分からこのテントに入ったのだけれど、何か問題だったかしら?」

「なっ……彼女目を覚ましたのか!?」

 疑わしげな様子から一変、急に仰天したザットの様子にアンナも目を丸くした。

「まあまあ。何をそんなに驚いているのよ。あなた、ラナのこと知ってるのですか?」

「知ってるも何もあの娘は――!」

 興奮して早口で捲くし立てそうになり、かと思えば途端に口を閉ざすザット。そんな夫の挙動不審な態度に、アンナはもはや見過ごすこともできない。

 父の顔を見上げて首を傾げるリィノを自分の元に引き寄せ、アンナは静かにザットに問いかける。

「あの子……ラナは、自分の辛い過去を語ってくれたの。その、故郷の村が傭兵に襲われたって……」

「……っ!?」

「その反応、やっぱり何か知っているのね。あなたは昔から感情が顔に出るからすぐにわかるわ。答えて頂戴、一体ラナをどうする気ですか? あの子のご両親は今どこに? あなたは何か知っているんでしょう?」

 続けざまのアンナの質問に、今度はザットが目を丸くする番だった。

「お、落ち着いてくれアンナ! そんないっぺんに聞かれたら答える方も答えられなくなっちまう! ほら、リィノも怖がっているじゃないか」

「落ち着くのはあなたの方よ、ザット。要領を得ない返事で誤魔化して! ……ねえ、本当に、あの子に酷いことしたりしてないのよね?」

「慈愛の女神と時の賢者の名にかけて。本当だ。俺はキリ……救援部隊の隊長の要請で、あの子の身辺警護を任されていたんだ。ヴァレンシア人の兵士より、同じランスロット人の俺が面倒を見た方が最適だろうって。それがまさか、家族の様子を見に戻りに行っている間に、こんな事になっているなんて誰が想像できる…?」

 一思いに一気に話して、すっきりした気持ちになったかと思いきや、ザットの心は罪悪感で一杯だった。幸い周囲の視線を集めることはなかったが、怯えた顔のリィノと、険しい表情のアンナに睨まれて二の次を告げなくなる。

「……それじゃあ、ラナのご家族は?」

 アンナがか細い声で言葉を紡いだ。それに対し、ザットは硬い口調で問いを返す。

「……確かめたわけではないが、恐らくもう……」

「……そう」

「なぁ、もうやめにしないか。彼女に限らず、今回の件で辛い思いをした連中はたくさんいる。同情するなとは言わないが……せめてリィノの前じゃあ、な……」

 リィノは目に涙を蓄えたまま、ずっと硬直していた。

 初めて見る両親の喧嘩に緊張してしまったのだろう。口論の内容を理解できたわけではないにせよ、少し大人げなかったのは間違いない。

「ごめんねリィノ。ママたちだけで話し込んじゃって。リィノ、ずっとパパとお話ししたかったものね」

 アンナがリィノを抱き上げると、ザットはその小さな頭を優しく撫でた。

「そうかそうか! じゃあ今日は待ちぼうけた分、うんとパパとお話ししような。国境砦を襲った魔獣を撃退したエピソードとか熱いぞ!」

「あなた! あまり子供に不適切な話は……」

「わかってるさ! ちゃんと脚色しておく」

「…………」

 しかし、リィノは一言も口を開かなかった。

 口を開くどころか、先ほどから硬直したままずっと父の顔を見つめているのである。

 さすがの両親も、この無反応に違和感を覚えた。

「リィノ?」

 リィノは、ゆっくりと手を持ち上げてザットを指差した。

 いや、違う。

 この少女の指差す先は父親の顔ではない。その目が見つめる先も、ザットの遥か上にあった。

「おソラ。バリバリ」

 空のある一点を指差したまま、抑揚のない発音で口を動かす。


「パパ。おソラわれちゃった」


 ザットとアンナは同時に空を見上げた。

 草原を吹き抜ける緩やかな風と、それに誘われる白い雲の背景に澄み渡る青い空が広がる。

 いつもと同じ。何の変哲も無いランスロットの青い天井。その一画が……“割れていた”。

「なっ……!?」

 比喩でもなんでもなく、空に大きなひびが入っていたのである。まるでガラスを砕いたかのように、青い景色が細かく分断され、中から夜のような漆黒が覗いている。

 異常気象と呼ぶべきか。まさかそんな、空が割れる天候なんて聞いたことがない。

 何よりその現象が発生している場所は、よりにもよって王都アロンダイトの方角なのだから。


「一体、俺たちの王都で何が起きているんだ……?」

 どうすべきかもわからず、ザットはただ、妻と娘をその手に抱くことしかできなかった――。

           

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