第六十三話 罠
※残酷描写ありです。ご覧の際はご注意ください
「おかしい」
ロベリアがそう言葉を漏らしたのは、俺たちが城壁の東側から王城の裏庭へ潜入を果たした時だった。
“おかしい”と言っても、別に面白いとか滑稽だとか、そういう類のものではない。無論そんなことではないことぐらい俺にもわかっていたが、彼女の拍子抜けした顔を見るとそう思わざるを得なかった。
「おかしいとは、一体何が?」
錆びて赤黒く変色した鉄製の柵を押し開け、庭園に侵入したロベリアの後ろを俺が続く。
ゴーレムとの戦闘を避けるため、隠密行動に徹し始めてから十数分。ロベリアの誘導に従って貴族街を大きく迂回しながら進んでいた俺たちは、城下に流れる一つの水路を発見し、そこから城内への侵入に成功していた。
水路と言っても汚水を流すための下水道のようなもので、見つけた当初は城壁の開口部分に鉄柵が固定されて塞がっていたために侵入経路としては利用できそうにもなかったのだが……まあなんだかんだあって無事に城内の敷地に入ることができた。
高貴な淑女ロベリアの名誉のためにあまりその経緯は語らないが、あえてヒントを出すなら彼女の馬鹿力に助けられたとでも言っておこう。ただし俺のこの発言に対する不名誉の是非の追及は無しってことで。
城下の惨状が嘘みたいに、城内は綺麗な状態で保管されているようだった。しばらく前まで庭師によって丁寧に整備されていたのだろう、石板の道沿いを連ねる木々や花壇付近の芝生に至るまで綺麗な状態が保たれていた。
もっとも庭園の環境の善し悪しが発覚したところで俺たちのこの状況が良くなるとは限らないのだが……。むしろ、もっと雑草が生い茂っていてくれた方が身の隠し場所としては最適だったろうに。
まあその話はともかく。問題は先ほどのロベリアの発言だ。
無事城内への潜入が叶ったというのに、どうして彼女はこんなに不安げな表情を浮かべているのだろう。
「わからないか、キリヤ。私達がどうしてこうにも容易く城内に侵入できたのか、疑問に思うべきだろう」
え? いや、だって。正面は監視が厳しいんだろ? だから監視の目がない裏の入口から城内に侵入しようってことになって――
……うん? 待てよ。
俺は周囲を見回した。
鳥のさえずりも虫の鳴き声も聞こえない庭園は、寂しいくらいの静けさに包まれたままだ。俺たち以外に生物がいるとは思えず、それはつまり、隠密行動を必要とする俺たちにとって最高の状況と言えるのだろうが……。
「まったく、誰もいない」
そう、そもそもの違和感の元はそれだ。何故、“監視の目がない”と決め付けていたんだ。何故、ここには“俺たち以外に誰もいない”んだ?
「誰の目にも留まらず城内に侵入できるのならそれに越したことはない。だが、それはあくまで監視の目をやり過ごした上での話だ。いくら裏門とはいえ、外部からの侵入を見越して見張りをつけるぐらいは――いや、……」
ロベリアは頭を振って俺に視線を合わせた。
「むしろ通用口としてあまり利用されない裏門だからこそ、侵入者に対してもっと厳戒すべきではないか」
途端にこの場所が恐ろしくなった。
その言葉の裏に隠された意味を、理解できないほど馬鹿な俺ではない。
「つまり、この場所は、単に放置されていたわけではなく、意図的に無防備な状態を演出していると?」
「そう捉えるのが妥当だろう、今のところはな。……この先何があるかわからない。もし私達の居所が既に敵に知られているなら、いつ何処で襲撃されても何ら不思議ではないということを肝に銘じておいて欲しい」
「……ああ。万全を期す」
何をどう抜かりなくするというのか。いまこの瞬間にも俺たちの行動が敵側に筒抜けになっているかもしれないと思うと、不気味過ぎてまともに歩くことさえ難しそうだというのに。
恐らくその辺りの不安を察していないのだろう銀髪皇女さんは、俺の返事を聞くや否や微笑を浮かべて力強く頷いたのだった。
「心強い言葉だ。私も君に背中を預けられるというもの」
むしろ俺の背中を守ってください。その方が断然心強い。
ちくしょう…魔術使えたら防御膜とか張って幾らでも対処のし様があったのに、あの能力を封じられただけで俺はこんなにも無力なのか。
とはいえ魔力自体は操れるみたいなんだよな。それを上手く応用すれば何とかなれそうな気もするが………。
試しに手を開いてそこに魔力を流し込んでみると、白色の帯のような霧状の魔力の素が可視化されて指先から流れ出た。
白は無属性の証。属性変化がなく、一番濃度の薄い魔力なのだそうだ。これが段々と集まって濃度が濃くなると黄色に変色し、緑、青となって、最後には黒になるらしい。
もっとも、魔道士の素養のない一般の人間が身体に取り入れて平気な魔力は青色が限界のようで、それ以上の紫色は、魔力を主食とする魔獣でさえ凶暴化させてしまう程の脅威を秘めているのだという。
これはセレスから聞いた話じゃない。ピロが……あの精神体の脳内居候が俺に教えてくれたこの世界の知識だ。
――ピロ……あいつなら、今のこの状況を覆すための挽回の策とか持っているのだろうか。そういえば昨晩からずっとピロの声を聞いていない。数時間声が聞こえなくなることぐらいなら多々あったが、ほぼ丸一日まったく応答がないというのは初めてじゃないか?
試しに念を押して呼んでみる。
――おいピロ~……ピロさん? 聞こえたなら返事をしてくれ。ヘルプミー。
………………。
反応無し。まあそれが普通なんだけれども、俺にとっては普通ではない。異常だ。正常なのに異常である。
「キリヤ、庭園の向こうに通路がある。恐らく中庭の方に繋がっているのだろう。ここに留まっていても仕方ないから、とりあえず行ってみよう」
偵察に行っていたらしいロベリアが戻ってきて、庭の先へ行くよう俺を誘導した。
彼女の指差す先を目で辿っていくと、突き当たりの壁に確かにトンネルのような暗闇が口を開けていた。その奥の出口は闇に覆われて見えなかったが、もしロベリアの言うとおり中庭に繋がっているなら、そこから建物内に潜入することができるかもしれない。
壁をぶち破って派手に入城するより遥かに利口的だろう。罠が張られている可能性も否定できないが、ここで限られた時間を潰すことに比べたら、やはり進むべきである。
「ああ。行こう……」
同意して、そちらの方に足を一歩踏み出した時だ――
――キリヤ……くん……。
――頭の中で、少女の声が聞こえたのは。
「っ…!?」
聞き間違いか、と一瞬耳を疑った。
何故ならその声の主は俺が良く知る人物のものであり、今この時も敵の手に捕まっているはずだろうから。
――何処なの……キリヤくん……。
「セレス……ッ!」
聞き間違いなんかじゃない。頭に微かに響くこの声は、確かにお嬢のものだ!
周囲を見回して、声の出所を探る。
声の出所を探る? 一体どうやって? その声は俺の頭の中に直接届いているのだし、聴覚に頼って発見することなんて不可能に決まっている。しかし、焦燥や困惑が一度に押し寄せ、逸る気持ちに冷静さを失ってしまったその時の俺に、そんな当然の真理を認識する余裕なんてこれっぽちもなかった。
「キリヤ? 一体どうしたのだ?」
ロベリアが怪訝な表情を浮かべて俺を見る。
彼女にも話さなければ。近くにセレスがいるかもしれないと、伝えなければ。
けれど今話を始めたら、頭に響くお嬢の声が自分の声でかき消されてしまいそうで……そう思うとなかなか切り出せなかった。
そしてまた、あの少女の声が頭の中で俺の名前を呼ぶ。
――会いたいよ、キリヤくん……。
「セレス……いま、今助けに行く……!」
「なっ……ま、待てキリヤ!」
気付けば、ロベリアの脇をすり抜けて走り出していた。
進路を阻む苗木などの障害物を避けながら、目前に見据えたトンネルの中に足を踏み入れる。
迷いなんて抱かなかった。たとえこの道の先に敵の包囲網があったとしても、その足を止めることなんて考えられなかった。
すぐ近くにセレスがいる。彼女が俺に会いたがっている。理由はそれで十分だ。俺はお嬢のために、この場所までやって来たのだから。
短く見積もっても、三十メートルぐらいの距離はあっただろうか。とにかくその短いようで長かったトンネルを抜け、再び広い空間に出た俺が見た光景は、先ほどの庭園より遥かに広い中庭の一画であった。
四方を空中回廊が囲む中庭。その奥の、本城に続く門扉の前に、一人の男が立ちはだかるように待ち構えている。
ここからでは表情は窺えないが、外見的にかなりの巨漢であるのは間違いない。侵入者を警戒するための番人なのだろうか。それにしても、たった一人で扉を守るというのは防衛面に関しても心もとない気がするが。
――セレスの声は、あの方向から……。
確証はなかったが、何となくそんな気がする。
意を決して進もうとすると、不意に肩を掴まれた。強い力で引き戻され、危うく後ろから倒れそうになる。
なんとか片足で踏ん張って体勢を立て直したが、突然身体を触られた俺としては驚かずにはいられない。
慌てて背後を振り返れば、そこには険しい表情を浮かべたロベリアの姿があった。
「この場所は危険だ。すぐに引き返そう」
「え……しかし、あそこには俺の仲間が」
「捕まった魔道士のことか。何故、そこにいるとわかるのだ?」
「声がした。彼女の声が、頭の中で……」
ロベリアは怪訝そうな表情を浮かべて、俺の顔を――仮面に覆われたままの顔をまじまじと眺めた。まるで、俺の頭がどうかしたのではないかという風に。
まあ当然だよな。いきなり仲間の声が頭に聞こえたなんて、信じる方がどうかしている。
「それが本当だとしても、やはりここから先に行くのは危険だ。直感がする……私の勘が、罠であると告げている」
「…………」
彼女は至って真剣な顔だ。俺の話を信じたかどうかは別として、これ以上進むことに拒否を示している。
俺はロベリアから視線を外して、再び本城前の大男に目をやった。
見張りはたった一人。あの男さえ突破できれば、後は城の中に潜入して捕まったセレスを助けるだけだ。確かに罠である可能性も否定できないが、今更引き返して別の経路を探すのでは遅すぎる。
――助けて……苦しい……キリヤ君――
「っ……!?」
やっぱり行くしかない。お嬢が俺の助けを待っているのに、もたもた敵の目をやり過ごしてる場合じゃない。
「危険でも……それでも、俺は引き返せない」
「キリヤ……」
「セレスは……俺の大事な友人なんだ。彼女を、これ以上苦しませてはおけない」
もはや迷いはない。
俺はロベリアの制止を解き、男のいる本城の扉に向かって歩き始めた。しばらくして、俺の後ろに足音が続く。ロベリアも俺を止めることを諦めたらしい。
中庭はかなり広い構造だったが、それでも端から端まで見渡せないほどの規模ではない。中庭に足を踏み入れてから向こうも俺たちの存在に気付いていたはずだが、俺たちが段々と近づいてくるのがわかるとさすがにどっしり構えていた体勢を変え、腰に帯びた大剣を抜いて構えた。
刃の長さだけで150cmはある、太い刀身の大剣だ。前にも似たような剣を持ったヴァレンシア兵士を見たことがある。ピロに教えてもらった情報では、確かバスタードソードという両手剣だったはず。
両手持ちで初めて力を発揮する武器のようだが、あの大男はその大物剣を片手で軽々と持ち上げている。とんでもない怪力の持ち主であるのは間違いない。
「そこで止まりやがれ」
ある程度距離を詰めた頃合だろうか、巨漢の方からこちらを制止する声が上がった。
酷いダミ声の、決して良いとは言えない汚い口調である。容姿に関しても、城の騎士には似ても似つかない格好をしており、どちらかといえば盗賊というイメージの方が強かった。いや、実際そういう職種の人間なのだろう。セレスを拘束した連中の外見とよく似ている。恐らくはこいつがその一味であるというのも。となると、帝国軍を離反した傭兵集団というのは――
「此処をどんな場所か弁えた上でいるんだろうな、小僧。一体何しにきやがった?」
腹の奥に響くような声で、男は俺に問い詰める。
ふざけた返答をすればそれだけで、剣が俺目掛けて飛んできそうだ。そんな迫力を間近に感じて、俺は生唾を飲み込んで慎重に言葉を選ぶ。
「仲間を助けに来た……ここに囚われているのはわかっている。直ちに解放しろ」
解放しろと言って、はいそうですかとなる訳が無い。
それは分っている。だから、これは事前確認だ。
俺の命令口調が気に食わなかったのか、大男は髭面の顔を歪めて歯をむき出す。
「解放しろだァ? ハッ……何を言ってやがるのかさっぱりだな。仲間? 一体何のことだ?」
「とぼけるな。ここにいるんだろ? 金髪の、白いローブを纏った少女だ。知らないとは言わせない」
「なんだとォ……」
この手の荒い男は挑発に乗りやすいタイプだ。わざわざ力押しで突破せずとも、言葉で怒らせて奴を上手く扉から引き離すことができれば何とか城内に侵入することができるかもしれない。
――隙を突いて、奴の懐をすり抜ける。
あの体躯だ。大柄な武器を所持しているところも鑑みるに小回りの攻撃は得意としていないはず。あの大剣が振り下ろされる寸前を狙って一気に走りぬけ、攻撃範囲の死角に逃げ込めれば、そのまま次の攻撃の溜めに移る前に扉まで行けるかもしれない。
――一か八かだ。魔術を使えない今の俺にはこれしない…!
幸いこっちには凄腕騎士のロベリアがいる。情けない話、もし俺がヘマをしでかしても彼女が助けてくれるだろう。いや、そもそも彼女がこの男を倒してしまうかもしれない。
一連の行動の脳内シミュレーションを終え、俺は再び巨漢の番人を挑発した。
「どうした? 俺は白ローブの金髪少女と言ったんだ。彼女をここに連れて来い。それとも、俺の言っている言葉の意味さえ理解できないのか?」
「……上等だ。小僧……」
――かかった!
明らかに形相を変えた大男が、バスタードを肩に担いで大股でこちらに近づいてくる。
奴の身体に隠れていた木製の門扉が露わになり、本城への入口が無防備に晒された。
「良いだろう。そんなに知りたきゃ教えてやろうじゃねぇか……」
一歩、また一歩。巨大な図体を誇張するかのように、丸太のように太い足で地面を踏み締めながら、番人は俺に向かって歩いてくる。
距離はまだそれなりに離れているのに、体格差があれなのでかなり近くに男の存在を感じた。これは恐怖心か。あまりの迫力に今にも逃げ出したくなる。
それでも腰を抜かさなかったのは、今の俺がかつてのような弱虫ではなくなったからだろう。ただ日常を過ごすだけの生きる理由の無いつまらない人生の俺じゃない。今の俺には生きる使命……理由がある。大切な友達を救うという、大事な使命が……。
「てめぇの探してる仲間はなァ……」
目の前に迫った男を前に、俺はぐっと全身に力を込める。
男の髭面が邪悪に歪み、悪魔のような笑みを形作った。
そして――
「もうこの世にいねぇのさ」
瞬間、背中に強烈な痛みが走った。
背中? 何故。どうして。
巨漢は変わらず、至近距離で俺を見下ろしていた。その顔は、ずっとふてぶてしい笑みを浮かべたまま。
何が起きたかも理解できず、俺は痛みの衝撃に身を任せるままうつ伏せに地面に倒れ込んだ。
「ぐっ……!?」
背中が焼けるように熱い。痛みに震えながら首を捻って後ろを振り返ると、すぐ傍に血で濡れた剣の刀身が目に入った。
-―そうか。俺……斬られたのか。
巨漢の仕業ではない。奴の行動は俺がずっと見張っていたけど、あの状況で俺の背を斬りつけるのは不可能だった。
では誰が俺を斬った? 潜んでいた敵の仲間がこっそり俺の背後を取ったというのか。いいや、そんなの有り得ない。この状況で、俺に気付かれず背後を取れる人物は、一人しかいない。
「ふふふ……」
血塗れた剣をだらしなく垂らし、俺を斬った犯人―――ロベリアは、愉しそうに唇の端を吊り上げた。
「だから引き返そうと言ったのだ。わざわざ罠があると警告までして知らせてやったのに、君という奴は先に進むと言って聞かないのだものなぁ…」
我慢できないと言った風に、彼女は天を仰いでゲラゲラと下品な笑い声を上げる。
それは、帝国皇女としての品格の欠片さえ感じぬ粗暴な態度だった。変貌したロベリアの様子に、俺は驚愕を通り越して不気味な違和感を覚える。
「ロベ…リア……いや、違う。お前は誰、だ……?」
ロベリアの姿をした何かが、ひたりと笑い声を止めて俺に視線を戻す。
長い銀髪に赤い双眸、黒い鎧などの外見的特徴は完全にロベリアのもの。しかし、俺が見ている前でその容姿は劇的に変化を始めた。
彼女の全身が、突然泥人形のように崩れたのである。
化かしていた着ぐるみを剥ぐ具合で、女騎士の様相がみるみるうちに解け始める。
俺が唖然とするのも束の間、気付けばロベリアがいた場所に小柄な男が立っていた。
「ヒヒ……こいつはすげえや! 何にでも変身できる魔道具あるから試してみりゃ、こうも上手く魔道士一人仕留めることができるなんてよ! ヒャハハ! どうだったよ、俺の完璧な変装」
細身な身体に不釣合いな長剣を持ち、ニタニタと気味の悪い表情を浮かべながら俺の頬を突付く。
「……ああ? どうした? 吃驚し過ぎて声まで出ねえってのか?」
「……ロベリアは……本物の彼女は、何処にいる…?」
「アンタに同行していたお姫さんはまだあっちにいるぜ? アインハルトっつー魔道士と殺り合って、今頃あの世じゃねーか? ヒャアハハ!」
男が剣で指し示した方向に目をやると、そこには俺が走り抜けてきたトンネルの通路があった。
ただ、俺が通ってきた時と様子が違う。トンネルの入口部分がバリアーのような膜で覆われていて、通路を断絶して人の通行を封じている。
つまり、それは、俺とロベリアの協力行動が完全に分断されたことを意味していた。
本物の彼女の安否は知れず、俺に関しては袋の鼠となって敵の足元に転がっている。絶体絶命。覆しようが無いと言っていい程に、本当に最悪な状況だった。
そして、この最悪な状況に追い討ちをかけるように、奴らは俺に“あるもの”を見せようとしていた。
「おい小僧。向いの回廊を見てみな。面白いものが見れるぜ」
巨漢が指し示す方向は、中庭を望む空中回廊の一つだった。
背中の出血と絶望に意識を失いそうになりながらも、俺はその廊下の……二階で動く人影を睨みつける。
奴らの仲間だろうか。軽装鎧の男たち数人が、屈んで何かを持ち上げようとしていた。
一体何をしているんだ。わからない。どうせろくでもないことに違いないが、俺の視線は吸い込まれるようにそこに集中してしまった。
やがて一人の人間が、木の板に括り付けられたまま回廊の桟に掲げられた。
その姿を見て俺は言葉を失う。有り得てはならない、信じられない。俺の五感全てが現実として認識することを拒む。
「あぁ…………」
「白いローブを纏った金髪の少女……小僧、てめぇが探していた仲間ってのはあの餓鬼のことだろ?」
見間違いであって欲しいと、どれだけ思ったことか。
しかしそこに見えるのは確かに俺が探し求めていた少女だった。純白ローブの金髪少女。空のように蒼い大きな瞳と頭の両端で結んだ髪が特徴の、ヴァレンシアの天才宮廷魔道士。
セレス・デルクレイル。俺の友達の、無惨な姿がそこにはあった。
「クク…どうだ? 大事な仲間の憐れな姿を見た感想は?」
挑発のつもりなのだろう。本当なら冷静に受け流すべきなのだろうが、怒りで頭に血が上った俺には無理な話だった。
「お前らッ! セレスに何をしやがった! 彼女を放せ、今すぐに!」
「おう怖。こいつ、今までの態度が嘘のように豹変しやがったぜ。ヒヒ……あの小娘の声が頭の中で聞こえた、なんて訳のわからんことを言う野郎だからな。お頭、こいつ頭の中イっちまってんでさ!」
俺の激昂を面白がるように、小柄な男の方が俺の背中を踏みつける。
言葉に出来ないほどの激痛が背中を駆け巡った。あまりの痛みに、口から絶叫を迸らせて。
傍にいた巨漢が口を開く。
「あの小娘を放して欲しいなら、てめぇが自力で助け出すんだな。おら、どうした? 俺たちを倒さねぇ限り大切な仲間のところに辿り着けねぇぞ」
「く……ちくしょう…ッ!」
――すぐ目の前にセレスがいるのに、こんなところで……。
どうにかして立ち上がろうとするが、全身の痛みと意識の朦朧でなかなか身体がいうことを利かない。悔しくも、回廊に縛り付けられたままのセレスを見上げることしかできなかった。
「おいおいどうしたよぉ? 早く助けねぇと、大切な彼女が段々破廉恥な姿になっちまうぜ?」
小柄な男がボスと思わしき巨漢に目配せする。
その脅迫はどういう意味か。嫌な予感を抱き、しかし地面から起き上がれない俺が取った行動は、ただ叫び制止を呼びかけるだけで……奴らの企みをどうすることもできずに見ているしかなかった。
巨漢が回廊に手を上げて合図を送ると、待ってましたとばかりにそこにいた男たちがナイフを手にセレスの傍に集まる。
今度こそ、俺の嫌な予感は確信に変わった。
「や、やめろ!」
俺の言葉による抑止も虚しく、目の前で、男たちの凶器がセレスのローブを乱暴に切り裂く。
腕、腰、胸、脚、襟元、背中。彼女がお気に入りだと言っていた白い羽織りは、瞬く間に切り傷を作ってボロボロになっていく。
つなぎの部分も切り離されると、後は重力に従って地面に落ちるだけだ。魔道士の象徴でもある衣がセレスの身体を離れ、俺のすぐ傍にぼろきれとなって落下した。
「…………」
「くく……絶望し過ぎてもう言葉も出ねぇか? だがよ、本番はこれからだぜ」
ローブを失い、ブラウスと革ズボンの姿になったセレスにはもはや肌身を守る術がない。このまま、またあのナイフで切り付けられれば、次は素肌に傷を負うことになってしまう。
それだけはあってはならない。女の子なんだぞ、彼女は。服を剥がされて、平気なはずないじゃないか。
「お願いだ……もうやめてくれ……セレスを――彼女をこれ以上傷つけないでくれ……」
懇願だろうと泣き落としだろうと何だって良い。友達の恥辱を黙って見ているぐらいなら死んだ方がマシだ。代わりに俺がどんな屈辱にだって堪えてやる。だから……だからもう、セレスを傷つけるな。
「けっ……お前みたいな善人面した奴らがいるから、略奪や強姦はやめられねぇんだよ」
「ヒヒ……そういや、ランスロットのちいせぇ村にもいやしたね、こういう奴」
村と聞いて、真っ先に思い至ったのはアロンダイトの郊外の焼き払われた名も無き村のことだった。
こいつらがあの惨事の原因だということは既に気付いている。あそこで死んでいた人たちが、こいつらに虐殺されたという事実も。
「ほう……どんな奴らだ?」
「父親と娘の子連れを襲った時でさぁ。父親の方を地面に押さえつけて、その目の前で娘を犯してやったんすよ。そしたらその親父……泣きながら俺に頭下げるんですぜ。“娘だけは殺さないでください、お願いします!”ってな具合で……ヒヒヒ! 嗚呼……アレは愉しかったなぁ」
耳鳴りが酷かった。
出血多量で身体が機能不全に陥っているのもあるが、それ以上にこの男どもに対する怒りが原因で。
俺の脳裏には、あの村で唯一生き残った少女の姿が浮かび上がっていた。
残酷な傭兵どもの脅威から逃げるため、一人怖い思いをしながら森の中に潜んでいた少女。鎌を振り回して錯乱していた彼女は、もう家族や友人と二度と生きて会うことは叶わないのだ。
一人ぼっちの少女。孤独な少女。彼女はきっと、ずっとあの森で助けが来るのを待っていたはずだ。
愛する人と必ずまた会えると信じて、じっと耐え忍んでいたはずだ。
それなのに――
「おいおめぇら! いつまで焦らしてやがんだ! さっさとその服を剥ぎ取ってしまえ!」
「よおよおキリヤ君。ちゃんと目に焼き付けておくんだぜ。てめぇのダチが裸体を晒される瞬間をな」
髪を掴まれ、無理矢理回廊の方に目を向けさせられる。
そこには、服を切り刻まれ、ほとんど裸体と言っていいほどに素肌を晒したセレスの姿があった。
俺の脳裏で、彼女の身体と、村で強殺された少女の死体が合致する。
一緒だった。何もかも。
助け及ばず恥辱される光景が。
何もできず見ていだけの役立たずな俺が。
「どうして、動けないんだよ……」
――俺は何のためにここにいるんだ。
「助けに来たんじゃなかったのか……」
――セレスと約束したんだろうが。
「こんなところで終わっていいのかよ…」
「ああん? 何ぶつぶつ言ってやがんだ?」
――使命がなんだ。古代魔道士がなんだ。
「俺に力を……」
「命乞いなら受け付けないぜ。ほら、その高そうな仮面だけ形見としてもらっておいてやるよ」
――友達を守れる力を…!
瞬間、世界の時間が止まった。
傭兵たちが、ゴーレムが、空の魔法陣が、一斉にその動きを止めている。恐らくこれは、ただの人間が踏み入れてはいけない領域――次元、なのだろう。その特殊な秩序の中で俺だけが、変らず時間経過の法則に従っていた。
この感覚を覚えている。
これは“向こうの世界”で、俺が初めて“あの子”にあった時に感じた、不思議な空間の雰囲気によく似ている。
『似ている、のではなく。本当に、私が作り出した世界』
停止した巨漢の影から、質素なドレスを身に纏った古風な少女が姿を現した。
銀髪紅眼の無感動な少女。外見だけならロベリアと共通するところもあるが、その実体は人間を遥かに凌駕する高みの存在である。
彼女の姿を拝んだのはこれで二度目だったか。一週間前に初めてあった時以来、まったく変わっていない。
『ここで、あなたを死なせるわけにはいかない』
彼女の白く小さな手が、俺の血まみれの背中を撫でる。
するとどうだろう、大きく開いた生々しい切り傷が、最初から存在し無かったかのように綺麗さっぱり癒えていた。痛みが和らぎ、身体にいつもの調子が戻ってくる。
――大丈夫、動ける。
『あなたの魔術回路に細工をした。これでこの結界の中でも、魔術が使える』
――そうか。ありがとうな……。
『礼には及ばない。私は、私の役目をまっとうしただけ』
途端、銀髪少女の姿が消失する。
それがきっかけだった。
世界に再び時間の流れが生まれ、俺という存在を巻き込んで進み始める。
俺はまず顔面に伸びてきた小男の手を払い除け、髪を掴んだもう片方の手を魔術で吹き飛ばした。
「へ……」
それは比喩でも何でもない。文字通り、“奴の利き手の肘から下を消し去った”のである。
素っ頓狂な声を上げて、自分の無くなった腕を見下ろすのは小柄な男だ。
まさか俺が反撃してくるなど思いもしなかったのだろう。奴は信じられないものを見るような顔で、己の消えた手を見つめている。
このまま放っておけば、すぐにでも切断部から血が噴き出して奴はパニックになるだろう。恐怖と痛みに絶叫を上げて、その辺を転げ回るかもしれない。
けど、わざわざそれを待ってやる義理もなければ、こんな奴に構ってる時間もない。
俺は右手を掲げると、呆然とした奴の顔目掛けて魔術を放つ。
「射出」
頭で思い描き、ただ一言声を発するだけでいい。俺の手を媒介に、収束された光の高出力レーザーが前方に打ち出された。
刹那、眩い閃光。
至近距離から魔術を受けた男は、頭部を丸ごと浄化されて力なく地面に倒れる。
「てめぇ!」
巨漢が怒鳴り声を上げ、持っていたバスタードで俺に斬りかかった。
「失せろ」
手を払い、大男の巨大な身体を大剣ごと吹き飛ばす。人の物理現象を完全に無視して飛んでいく巨漢は、二、三度地面と衝突を繰り返した末に壁に激突して止まった。
ぴくりとも動かなくなった男を確認し、次は回廊の方を見上げる。
二階から中庭での一部始終を見ていたのだろう、回廊にいた男たちは、皆がみな同じような表情を浮かべて固まっていた。
また人を殺してしまった。だが今は、殺人に対して罪悪感など一切感じない。
あるのは、殺戮を快楽にしてセレスを穢した傭兵への怒りだけ。
――セレス…今助ける。
「筋力強化」
地面を蹴り、高く飛び上がる。
全身の運動能力を飛躍的に上昇させる魔術だ。一回の跳躍で一気に二階の廊下に到達し、セレスを両端に挟んでいた男たちの首元を掴む。
抵抗する間は与えない。
そのまま傭兵二人の身体を持ち上げ、後方の中庭に向かって叩き付ける。僅かな悲鳴を上げ、その直後骨が砕ける鈍い音が階下で響いた。
「う、うわあああ!!」
生き残った最後の一人が、ナイフを構えて捨て身の突撃を繰り出す。
怖気づいて逃げなかったのは、長年傭兵として戦場に身を置いていたためか。だがそれも結局、敵の悪あがきでしかない。
俺は突き出されたナイフをかわして男の背後に回ると、その頭を両手で掴んで思いっきり後ろに捻った。
グギッという首の骨が折れる音が鳴り、男は白目を剥いて全身を痙攣させる。
それが留めだった。口元から赤い血を滴らせた男は、俺が手を放すと人形のように地面に崩れ落ちた。
死の静寂の中で、俺の荒い息だけが耳元を掠める。心臓がはやがねのように鼓動し、血液が全身を巡り巡っている。
――俺は、俺は生きている。俺が殺して、生き残ったんだ……。
殺害の興奮も収まらぬまま、俺は廊下の桟に縛られたままのセレスを解放に向かった。
手首と足首に括られた縄を板から外し、ぐったりするセレスの身体を腕に抱きかかえる。
彼女の身体は酷いものだった。
切り刻まれた服は原形をとどめておらず、その下に隠れた下着が露わになっている。布地をナイフで裂く時に肌まで直接切れてしまったのだろう。少女特有の白い柔肌は、刃物の切り傷によって出来た赤い筋を幾線も作っていた。
「すぐに治してやるからな……リバースシェル」
肉体再生の魔術を使い、彼女の身体を怪我する以前の状態まで修復していく。
対象者を白い繭に包み、中の者の時間を退行させる魔術がこのリバースシェルだ。治癒術で実際に怪我を癒すより、リバースシェルで肉体の時間を戻した方がより確実だ。ランスロットの村ではこの方法で村人の遺体を再生させたが、死人を生き返らせるには至らなかった。
だが、それほど外傷のないセレスならば……。
そう期待を抱いて、いざリバースシェルを施したセレスを腕に抱いて、俺はようやく彼女の違和感に気付いた。
「セレス……?」
怪我は完全に完治したのに、いつまで経ってもセレスが目を覚まさないのだ。それどころか、彼女から生の息吹さえ感じられない。
俺は恐る恐る、彼女の胸に耳を押し当てた。
そして、戦慄する。まさか、俺は夢でも見ているのだろうか。“セレスの心臓は鼓動を刻んでいなかった”。
――間に合わなかった。セレスを救えなかった。
途端に視界が霞む。
「あ……ああ……」
目元から溢れ出した涙はとめどなく流れ落ち、セレスの青白い顔を濡らした。
悲しみの慟哭が、王城の中庭に響き渡る。