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異界の古代魔道士  作者: 焔場秀
第二章 東国動乱
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間幕 第六十一話 ヴィヴィアン

 その日は朝から雨だった。

 降りしきる雨粒から身を庇うため、少女はボロボロに汚れた麻布を頭からすっぽり覆う。

 冷たい床石に腰を下ろし、誰の民家かもわからぬ建物の壁に背中を押し当て、少女はぎゅっと目を瞑った。

 所々ほつれて穴が空いた服。寝不足を窺わせる落ち窪んだ瞳。ボロ布から覗く亜麻色の前髪は何日も手入れが行き届いていないのか、ボサボサに絡まって少女の顔に張り付いていた。寒地の寒さに震える彼女の裸足は泥に塗れ、その爪は割れて血が滲んでいる。

 見るからに酷い様相であった。普通なら今すぐ彼女を病人の対象として保護しても良さそうなものだが、それが叶うほどこの街の住人は弱き者に対する慈悲を持っていない。路地裏に身体を丸めて座る少女の姿に、表通りを行く街の住人たちは目を留めることすらないのである。仮に目に留まったとしても、その曇った目に不憫の色を宿すことはないだろう。

 少女のような底辺の生活を余儀なくされた者はこの街に数限りなくいる。誰しもが己とその家族を養うのに精一杯であり、見ず知らずの他人に情けの手を差し伸べるほど裕福な暮らしをしているわけでもなかった。

 相手が例え子供でも、例外ではない。それがこの街の掟。何一つ変わりない冷徹な日常だった。


「寒い……」


 少女は呟き、俯いていた顔を上げる。

 吐く息は白く染まり、小さく動いた唇も乾燥しひび割れ紫色に変色していた。


「お腹、空いたな……」


 掠れた声を発し、少女は震える手で腹部を撫でる。

 もうかれこれ、二週間ほどまともな食べ物を口にしていない。この肌を刺す寒気で今まで空腹を紛らわせてきたが、そろそろその我慢にも限界が近づいていた。

 何か食べなければ……そう思い至ってその場で立ち上がった少女は、行き先を確認するわけもなく路地裏からふらふらと抜け出す。

    

 悪天候だというのに、街の表通りは労働者や買い物に行く者で賑わっていた。それもそのはず。貧しいこの街に、一日たりとて穏やかな休息はない。その日その日を生きるための金を稼ぐため、あるいは命を繋ぐため、人々は職場や露店に足を運ぶのである。


「…痛ぇな……おい! 気を付けやがれ!」

 

 俯いて歩いていたのが原因か、向かいから歩いてきた男と接触してしまった。

 とはいえ肩を掠めただけなのだが、相手は機嫌が悪かったらしく形相を変えて少女に強く当る。

  

「っ……ご、ごめんなさい……」

 

 理不尽な怒りに違いないが、男から暴力を振るわれるのは少女にとって好ましくなかった。咄嗟に謝罪の言葉を口に、その場で何度も頭を下げる。

 やがて男が舌打ちをしてその場を離れると、少女もようやく頭を上げてとぼとぼと歩みを再開した。

 もはや怒声を浴びせかけられることにも慣れてしまった。殴られなかっただけずっとマシである。


 おぼつかない少女の足取りは、やがて街の大きな露店広場に差し掛かった。

 この街唯一の市場だけあって、雨の中でもその活気が物凄い。

 人と人とがひしめき合い、混み合うその騒々しさを少女は少し離れた場所から無感動な瞳で眺める。

 彼女の手に握られているのは、昨日路地の汚水溝で拾った銅貨が一枚。無論、それぽっちのお金でこの街の食べ物を買うことはできない。


「…………」


 しかし、引き返すこともまた出来ぬ話だった。

 もはや立って歩くのも辛い。今日中に何かを口にしないと、本当に餓死してしまうかもしれないのだから。

 意を決して、少女は人の群れの中に足を踏み出す。

 押され引かれ。人の波に振り回されること数分。痩せ細った少女の身体は、誰かの肘打ちによって一つの露店の前に投げ出された。

 中年の男性が経営する果物屋だった。

 台の上に丁寧に並べられたバスケット。その中にもぎたてであろう瑞々しいフルーツが詰められている。種類はそれほど多くはなかったが数は充実しているらしい。大きな籠いっぱいに積まれたりんごの山盛りを見つけて、少女は思わず生唾を飲み込んだ。

 

「いらっしゃいいらっしゃい! 新鮮な果物はいかがかな。農薬や魔術加工など一切なしの安心安全なリドルの果物店だ。さあ買った買った!」


 市場の騒音に負けないくらいの店主の販促が、果物屋の前に一人、また一人と客の足を集める。りんごに見惚れていた少女もまた、そのうちの一人として客の中に紛れ込んでいた。

「もし。その葡萄を二房いただけるかしら?」

 と、買い物籠を下げた女性が店主に声をかけた。

 女性が指差す先には、盆の上に緩衝材で包まれた紫色の葡萄が置かれている。


「お! 毎度あり! こいつはヴァレンシア南部の農地で栽培された大粒葡萄だよ。国外への出荷がとびきり少なくてね。手に入れるのにどれだけ苦労したことか…!」


 腕を顔に押し当て、店主は言葉に嗚咽を含ませながら泣き真似を披露した。まばらであったが、店の周りで少なからず笑いが沸き起こる。元より笑いの種が少ない静かな街だ、話題に花を咲かせる原因を確かめようと他の客たちまでもが果物屋の前に押しかけた。

 一度に大勢の接客を余儀なくされた店主はというと、その対応に追われて周囲に対する注意が散漫になってしまっている。

 しめた、と少女は思った。やるなら今しかない――!

 きっかけは十分だ。空腹という欲求に突き動かされ、最後まで繋ぎとめていた理性が少女の心の奥底で弾け飛ぶ。

 少女は手を伸ばし、籠に詰まれた赤い果実をその手に掴んだ。手にひんやりと馴染む確かな感覚。躊躇なんてしていられない。少女はすぐさまりんごを自分の元へ引き寄せると、瞬時に懐に忍び込ませた。

 刹那の硬直。心臓が早鐘のように激しく鼓動を打つ。

 見られたか、誰かに。

 自分の犯行を見た奴はいたか。

 しばらくそのまま固まっていたが、いつまで経っても自分を泥棒扱いする者は現れない。そればかりか、自分に不審な目を向ける者すらいなかった。皆買い物することに忙しいのだろう。彼らが向ける視線はあくまで販売棚に陳列された商品にあり、決してボロ布を纏った薄汚い少女ではなかった。

 

 ――大丈夫。誰にも見られてはいない。

 

 周囲の騒音が、いつも以上の騒がしさをもって少女の鼓膜を振わせる。

 今の自分は確かな現実だ。今見る光景も、懐に押し当てられたりんごの重みも……。 

 真冬の寒気に当てられ、緊張で火照った顔が徐々に冷たさを取り戻していく。

 後悔はない。が、生まれて初めて盗みを働いたことに対する罪悪感だけは確かに少女の良心を傷つけていた。


 せめてこれだけはとばかりに、握っていた泥だらけの銅貨を商品棚の上にそっと載せる。

 店主をこっそり窺うと、彼は対応と会計に必死でこちらにまったく気付いていない様子であった。  

 少女にとっては好都合だった。未だ冷め切らぬ興奮を押し殺し、身体を丸めて踵を返す。


 ――と。

 

「っ……!」


 まったくもって浅はかだった。

 背後が完全に死角となっているとわかっていたはずなのに、その場を立ち去ることばかりに気を取られて人の接近に気付けないでいたのだから。

 接触した衝撃は大したことではなかった。

 しかし不意をつかれた少女は、失態にもその懐からりんごを手放してしまったのである。かじかんだ両手を放れ、雨に濡れた石床を転がる赤い果物。買い物に夢中になっていたはずの客たちはよりにもよって、この時ばかりは足元を滑る派手な丸い赤に目を奪われた。

 

「な……お、おい!」

 

 最初に気付いたのは果物屋の店主だった。

 驚いた表情で床に落ちたりんごを見つめ、それから剣呑な色をした目が少女の怯えた顔に向けられる。 この時、大人しく自白して街の憲兵にでも連行されていたら、獄中で食事にありつけていたのだろうか。

 わからない。正常な思考を欠いて動揺していた少女に、目前に突きつけられた問いに答えるだけの余裕もなかった。


 ――逃げろ。


「そいつはうちの商品だぞ!? アンタ金は払ったのか!」


 ――急いで逃げろ、早く!


 いずれ捕まってしまうことも承知だったはずなのに。

 犯罪者として責められる自分の立場を想像した途端、浮き足立って誰の声も聞こえなくなった。

     

 ――逃げるんだ、今すぐに!


 今まで感じたことのない恐怖が、少女の足を奮い立たせて広場のさらに外へと誘う。

 固まった客たちを押し退け押し入り、果物屋の店主から逃げようと足を動かす。


 もっと走れ。もっと速く――!


 すぐ後ろで男の怒声が轟いた。

 まずい。追いつかれる――!


 そう危機感を抱いて走る速度を上げようと踏ん張るも、寒さと空腹で衰弱し切った少女の足の速さでは高が知れていた。

 路地裏に差し掛かったところで後ろ髪を鷲掴みにされ地面に引き倒される。


「ぐっ…!」

「このっ……盗っ人がッ!」


 頭を激しく揺さぶられ、軽い吐き気を伴い少女の口から苦しまみれの嗚咽が漏れる。二度、三度と硬い地面に顔を押し付けられたかと思えば、朦朧とした意識のまま頬に平手打ちを浴びる。


「クソッタレ! 肥溜めに住み着くような乞食の分際で……その汚い手で俺の大事な商品に触りやがって…! このっ…このっ……!!」

「……ぁ……あぐっ……くっ…!」


 もはや悲鳴を上げて助けを求める気力も残っていなかった。為す術もなく、男に暴力を振われるまま痩せた身体に赤い打撲痕を刻んでいく。

 果物屋の店主は、まるで人が変わったような形相で少女を殴り続けていた。先程店の前で笑いを取っていた愛想の良い男性とは思えない。

 こんな鬼気迫る態度を見せられたら、殴られずとも怯えて泣き崩れてしまうのが常人の反応というものだろう。

 しかし、被害の当事者である少女は苦痛の呻き声を漏らすことはあれ、その瞳が恐怖で揺らぐことはなかった。いや、確かに店主から逃げている少しの間恐怖を感じたのも事実だ。だがそれはあくまで捕まらないことを前提とした一時の情動であり、既に抗え切れず地面に押さえつけられた彼女の感情など無感動にも等しい。


 これも、少女の日常の一部といえた。

 人の怒りを買って暴力を振われるのはもはや慣れてしまっていたのである。憲兵が介入するか、あるいは少女が先に力尽きるまで……ただ、この痛みから解放される術はない。


 ――今日も、それで全て解決されると思っていた。

 

 ――それなのに…… 


「っ…な、なんだアンタ!?」


 それなのに、よもやこんな落ちこぼれに関わる変わり者がいるなんて……。


「失礼。たまたま通りかかったら、なんとも乱暴な場面に出くわしてしまったものでね。このまま素通りしてしまうのもなかなかに抵抗があったんだ。だからすまないけど――」


 少女の暗く濁った瞳が、驚きで見開かれる。

 路地の薄暗がりに映る長身の人影。その人物は、少女を殴りつけるために振り上げられた店主の腕を掴んで止めていた。


「――私にも納得のいく事情を話していただこう。それでも尚暴力に訴えかけるというのであれば、私が街の憲兵に通報させてもらうが?」

 

 長身の脅し文句に、店主は息を詰まらせて唸る。

 しかしそれでも、店主は自分に非がないことを自覚していたのだろう。すぐさま怒りに顔を歪ませ、汚い言葉を罵りながら、少女が自分の店から盗みを働いたことを告げた。

 

「ふん……憲兵に通報するなら勝手にしやがれってんだ! 犯罪を犯したのはこの小娘だ! こいつが罪に問われるに違えねぇ!」


「…………」

 その通りだ。

 裁判のないこの街の法律では、先に罪を犯したものが犯行の原因として犯罪者にされる。たとえ被害者が盗人を殴り殺してしまったとしても、被害者側が殺人罪として罪に問われることはないのだ。

 少女が盗みを働いたという証拠は、あの場にいた客全員が証人として証明できる。つまり、少女がここで生きるも死ぬも、全てこの店主の行動次第だということだ。

 少女も、それを理解していたからこそ、無抵抗で店主の暴力を受け止めていたというのに……。この長身の人は何故、“犯罪者”である自分を助けたというのか。     

  

「アンタもこの餓鬼を庇うってんなら、共犯者として憲兵に言いつけてやるぞ! あぁ? 冷たい牢獄で冬を越したかねえだろ!? わかったらさっさと失せな」


 人影は何かを考え込むかのように沈黙した。

 その顔が一瞬こちらを一瞥したような気がして、少女は震える瞼を細めて人影の顔を見つめ返す。

 再び人影が店主に視線を移した時、その人物はこう言い放った。


「この娘が盗んだ盗品の金額はいくらだ?」

「なに?」


 まったく予想外の問いを投げかけられ、店主が不意を突かれたように目を瞬く。

 人影はそれに構わず言葉を続けた。

 

「この少女が盗んだりんごの値段は値かと聞いている。私が代わってその値段の倍の金額を払ってやる。それなら問題あるまい? 何なら店そのものをやり直せる分の金を出してやろうか」

 

 人影は懐から袋を取り出すと、それを店主の前で左右に振ってみせる。袋はりんごの倍くらいの大きさの膨らみがあった。じゃりじゃりと重厚な金属音を奏でるそれの中身は言うまでもない。

 

「ここに十万エルン入っている。馬と馬車一式揃えても釣りが出る額だ。あなたも商人の端くれなら、これが何を意味するか理解いただけるだろう?」

「あ、ああ……!」


 店主の手が誘われるように伸び、ぱんぱんに膨らんだ袋をぶん取る。震える手で紐の封を解き、袋の中身を覗き込んだ彼は、悲鳴とも歓声とも似つかぬおかしな奇声を上げた。


「た、確かに間違いねぇ! こりゃ全部本物の金貨だっ! だ、旦那! ほ、ほほんとにこんな大金を、俺が貰ってもいいんで?」

「……ああ、好きにするといい。ただし、この少女を憲兵に突き出さず、身柄を解放するという条件を飲んでくれた場合の話だが」

「は、はい! そりゃもちろん。この金に比べたらりんご一個なんて安いもんでさ! ど、どうぞ。この娘っ子のことは好きにしてくだせぇ」


 一端の商人にはまるで手が入らぬ大金を前にすっかり腰の低くなった店主は、金の入った袋を胸元で抱えてそそくさと狭い路地を後にした。


 再び静けさを取り戻した路地裏。

 人気のない空虚な場所は今の少女のもっとも好む環境であったが、嵐のように過ぎ去った出来事を前になかなか心を落ち着かせられない。

 その感情は……動揺? 自分を救った謎の人物を前に、少女は明らかに混乱していた。 

 

 と、

「もはや、起き上がる気力さえ残っていないか?」


 地面に蹲る少女の目の前に、雨粒を弾く黒い革靴が現れる。

 ぼーっとしたまま頭を上げると、髪を後ろに撫で付けた若い男が屈んでこちらに手を伸ばしていた。

 少し逡巡したのち、少女は恐る恐るその手を掴む。

「どうして…」

 ――どうして助けたの? 困惑の表情を隠せない少女の顔は、そんな素朴な疑問を投げかけていた。

 対して少女を助けた男は、しばらく間を空けてから返答を寄越した。


「君が暴力を受けているのが見るに堪えなかったからね。か弱い女の子が男に乱暴されているのに、無視できる道理があるかい?」

「…………」

「こう見えても私は帝国政府の人間なんだ。この街へは執政官の監督役として派遣された。官庁に向かう際、偶然にもこの場面に出くわして――」

「嘘!」


 少女は即座に否定した。

 そんなはずがあるか。官庁で働く政務官のような上位職の人間が、お供もつけずこんな薄汚い路地に足を運ぶはずがない。食事に飢えた乞食を救うために、十万エルンもの大金を手放したのだ。普通に考えて有り得ない。おかしい。

 神の使いである聖職者であれ、そんな気前の良いことはしないだろう。

  

 少女の予測はほぼ当っていた。

 男の柔和な笑みがすっと鳴りを潜め、狂気すら感じる無表情に成り代る。


「自分の命が助かったことへの安堵よりも先に、自分を助けた相手を疑心するか。なるほど、伊達に惨めな暮らしを余儀なくされているわけではないらしい。何故、私が嘘を吐いていると思った?」


 男の目が細められ、低い声色を乗せて少女の目を貫く。

 少女はその視線に怯えるように顔を逸らしたが、頑として言葉を返そうとはしない。

 

「ふ……まあいい。何にせよ、もし君が私に泣きついていたら、その時はそのままこの場所に捨て置くつもりであった。だが、その小生意気な猜疑心があれば、あるいは私の役に立ってくれるかもしれんな」

  

 男は着ていたコートのポケットに手を突っ込むと、中から綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出した。何をするのかと警戒する少女を前に、男はそのハンカチを誰でもない少女本人の頬に当てがり切り傷を拭き始める。


 予期せぬ行動に動揺を隠せない少女。その反応とは打って変わって冷静な態度を崩さない男は続けざま少女に質問を投げかけた。


「名は何と言う?」


 変わらず、少女は無言を維持する。


「答えたくはないか……それとも、答える名が無いのか?」

「私をどうするつもり?」

「質問を質問で返すのは関心しないな。初対面の相手を警戒するのも大事だが、それが露骨過ぎるのもよろしくない。たとえば心を開いた風に見せかけ、相手の信用を手駒に取ることも重要と言えるだろう」


 何が言いたいのか、少女には理解できなかった。とはいえ、男の方も少女に回答を求めて語ったわけでもない。

 互いの吐息さえ聞こえてきそうなほどの触れ合う距離。男を警戒する少女と、その少女の怪我を手当てする男という奇妙な構図は、紛れもなく少女の沈黙によってさらに沈鬱な空気を作り出していた。


 しかしながら、居心地が悪いのは少女の方である。何処の誰かもわからない者に助けけてもらった挙句、こうして顔の傷を手ぬぐいで拭かれているのだから不気味なことこの上ない。

 こちらから話を振るのも気が引ける。いっそこのまま逃げ出してしまおうかと考え始めたその時、何かを捻るような奇妙な音がこの重々しい沈黙を払い去った。


 きゅるるるる……。


「おや?」

「あっ……!」


 静かな空間に突然鳴り響いた腹の虫に、少女の顔が真っ赤に火照る。

 気持ちも幾分か落ち着いて油断していたのだろう。身体の力を抜いた拍子に、何も詰めていない腹が食べ物を求めて泣き声を上げたのだ。

  

 忍び笑いを耳にした少女が慌てて顔を上げると、それまで表情を消していた男が口を歪めて肩を震わせていた。最初に顔を合わせた時の柔和な笑みでこそなかったが、彼が二度目に見せた新しい表情であったのは間違いない。


「ククク……心の方は頑固といえど、どうやら身体は正直者のようだな」


 男はその場で立ち上がると、地べたに座り込んだままの少女を手招きした。


「着いてきなさい。贅沢料理とまではいかないが、腹を好きなだけ満たせる分の食事くらいご馳走してやろう」

「私はっ……行かない。行きたくありません……」

「人の好意は素直に受け取っておくべきだ。たとえそれが相手を利用する結果になったとしてもな。せっかくの好機をみすみす逃すなど愚の骨頂でしかない」


 男はイタズラっぽく笑った。それはとても子供に見せられる類のものではなかったが、どうも嘘を吐いているようにも見えない。


「まあ、自分の名を名乗らず着いて来いというのもあれだな……。理由わけあって真名は伏せているが――」


 首を捻って、彼は少女と目を合わせた。


「――今はガードナという名で通っている。以後お見知りおきを。お嬢さん」



 頬に当たる冷たい感触が、ヴィヴィアンを現実世界に引き戻した。

 瞼を開いて見た景色は薄暗く、まるで先ほどの夢のように沈鬱な空気に包まれている。

 少し横になって体力を養うつもりが、いつの間にか眠ってしまったらしい。頬を刺激する硬い肌触りは、アロンダイト王城の無骨な石床のそれであった。

「…………」

 身体を起こし、周囲を見回す。

 監視の目を逃れて選んだ休息場所は、雑多なガラクタが積まれた物置部屋だった。低い天井や部屋の隅を支配するくもの巣や埃が、その場所がどれだけ放置されていたのかを容易に物語っている。

 個室に窓は一切なく、唯一の光源は持参した魔道灯の光だけ。部屋の中央に置かれたそれに目を辿っていくと、その奥の壁に背中を当てて腕を組む黒い人影を発見した。

 “彼”も眠っているのか、俯くその姿勢はまったく微動だにしない。夜の住人アサシンとはいえ、夜しか巡ってこない場所で長時間睡眠を怠るのは不可能なのだろう。感情の起伏とは別に、彼のもっとも人間らしい一面を見た気がしてヴィヴィアンは苦笑を浮かべた。

 ――と。


「何が可笑しい?」


 眠っていたはずの“傷の男”が突然口を利いたので、ヴィヴィアンは驚いて肩を震わせた。


「なっ……起きていたのですか……」

「交代で見張りを立てるように言ったのはお前だぞ。俺まで眠ったら一体誰が危険を知らせられる?」

 

 もっともである。自分で提案したことを忘れ、そればかりか人の顔を見て浮かれるなんて愚か者の極みだ。「寝ぼけるな」と罵倒されなかっただけまだマシだろう。

 ヴィヴィアンは羞恥で顔が赤くなるのを隠すように俯き、傷の男に小さな声で謝罪して自分も壁に背中を預けて気持ちを落ち着かせた。



 魔道具“シェードマント”を使用しアロンダイト王城内に潜入してほぼ半日。

 ヴィヴィアンと“傷の男”は城内の何処かにいるはずのガードナを探し、ひたすら迷路のような通路を歩き回っていた。

 目的はもちろん、ゴーレム暴走の件をガードナに問い詰めるためである。もしゴーレムによる王都攻撃がガードナによる陰謀であれば、それは帝国参謀省の意向に従わない完全な反逆となる。たとえ十年間共に仕事をこなした上司とはいえ、ヴィヴィアンに許容できる問題ではなかった。


 命を賭してでも止める覚悟はできている。

 そう、決意している、つもりだ。


「悪い夢でも見たのか?」


 不意に、傷の男がヴィヴィアンに話しかけた。

 必要以上言葉を発しない男であるだけに、唐突に口を利かれると自分でもどう返答してよいものか判断に困る。その内容が、他人ひとを気遣っているようであるのなら尚更。


「と、突然どうしたのですか?」

「答える気がないのなら別に構わん。ただ……眠っている間、随分とうなされていたんでな」

「…誰がです?」

「アンタ以外に誰がいる」

「…………」

  

 ……もしかして、心配してくれていたのだろうか。

 ヴィヴィアンは彼の顔をまじまじと見た。

 暗がりに浮かぶ男の表情は上手く読み取れない。元より感情の起伏が小さい彼のことなので、顔をはっきり視認できたとしても何を思っているのか理解できるはずもないのだが……今回は少し、様子が違っていた。


「いや、やはり何でもない。忘れてくれ」


 そして一方的に話を途切らせて、男は口を閉ざす。

 こうなってはもはや真意を聞き出すのは不可能だろう。とはいえ、このままうやむやにするのもヴィヴィアンとしては抵抗があった。

 一瞬の迷いの後、彼女は静かに言葉を紡ぐ。


「……あなたの言うとおり、確かに私は夢を見ていました。悪い夢―――と一概に決め付けるつもりはありませんが……そうですね。今思い返せばあれは、“悪夢”だったんでしょうね」

 

 昔を懐古するかのようなヴィヴィアンの横顔を、男は訝しげに眉を顰めて見つめる。

 

「懐かしくも、屈辱に満ちた過去……。私が閣下……ガードナ様と初めて出会った時の思い出です」

「アンタと旦那の出会いだと。ふん……大体想像がつく。大方、貴族に扮した旦那に言い包められて今の職に就いたんだろう?」

「ふふ…半分正解です」

「となると、アンタはそんな残忍な詐欺師に騙された純心な貴族嬢ってところか?」 

「どこの悲劇のヒロインですか。残念ながら、そんな絵になる物語じゃありません」


 ヴィヴィアンの皮肉の返しに、傷の男も声色を軽くして答えを投げかける。


「だったら親のコネか。参謀省務めの上官ともなると、それなりに権力を有しているものだからな。貴族の社交界で好い顔を取り繕って、上流階級のご機嫌取りなんてよくある話だ。あの男ならやりかねん」

「まったく違います。外れもいいところ、ですかね」

 傷の男は降参だとばかりに両手を挙げた。

「ああわかった、俺の負けだ。で、真相はなんだ? 実は帝国に滅ぼされた小国のお姫様で、密かに帝国滅亡を企んでいる二重工作員なんてオチか?」  


 恐らく冗談のつもりで言っているのだろう。普段険悪な表情が絶えない彼の顔に、憎たらしくも楽しげな笑みが見え隠れしている。

 自分の事は必要以上に語らないクセに、他人の過去にはただならぬ興味を持つのか、とヴィヴィアンは素直は感想を抱いた。もっとも先に口火を切ったのは自分であるし、ここまで関心を持たれて何も話さないというのもおかしな話である。

 今となっては空虚な思い出だ。まんざらでもなさそうな苦笑を浮かべ、ヴィヴィアンはその真実を語った。

「彼との出会いはスラムの路地裏でした。彼の部下として働くことになったのも、その出会いの全てがきっかけと言ってもいいかもしれません」 

「スラム? 貧民街か……」 

「ええ。……私は孤児だったんです。戦争と流行り病で家族を亡くし、住み慣れた家を追い出されて路上生活を余儀なくされていました。もう十年以上昔の話です」


 昔。

 そう言葉では表現しても、彼女の記憶の中で十年というのは非常に短い間でしかない。

 両親の死という底知れない悲しみ。それに追い討ちをかけるように地主に家を奪われた時の絶望感。親の顔は忘れても、あの時の激しい負の感情だけは今でもしっかり脳裏に焼きついている。

 生きるために、親の形見さえ手放して食料を買うための金を見繕い、足元を流れる汚水を啜って喉を潤した。金が足りなくなれば着る物を売り、代わりにゴミ捨て場から襤褸ぼろ切れを拝借して身体に巻きつけるのだ。

 そして金が尽きれば、残飯を漁って日々の糧にする。そんな惨めな生活を繰り返しているうちにバチでも当ったのだろう。腐った物が腹に当って一日中もがき苦しんだこともあった。幸い大事には至らなかったが、それ以来残飯を食らうのが怖くなり水だけで命を繋いでいたのである。

 そしてその愚かな行為が、のちにガードナとヴィヴィアンを引き合わせる結果になった。

 

「愚行に偶然が重なっただけの話です。私が盗みを働いて、その店の店主の怒りを買って、挙句暴行を受けて……生きる気力も失い掛けていた私の元に現れた青年がガードナ様その人でした」

「…………」

「信じられますか? 彼は私を店主の暴力から救うために十万エルンもの大金を手放したんです。感謝より先に相手の正気を疑いました。何のとりえもない乞食の女を助けて、一体どんな見返りを期待しているのかと」


 ヴィヴィアンは自虐気味な笑みを浮かべ、額を手で覆い隠した。その下に映った彼女の瞳が一瞬泣きそうな顔を作った気がしたのは、恐らく見間違いではない。

 こういう不幸な身上話は、傷の男も同僚から耳にタコができるぐらい聞かされ続けてきた。かという彼自身、そんな境遇を経験したことがあるからなお更だ。

 だからこそわかる。あの男が善意のみでヴィヴィアンを助けることなど絶対に有り得ないだろうと。そしてその本心がなんであれ、ガードナの行為は彼女の人生を確実に歪めてしまったのだと。


「でも、今ならあの人が私を救ってくれた答えがわかる気がします。ええ……こんな規格外な事を平気でやってのけるあの人の考えが」


 微かに震える声を絞り出し、ヴィヴィアンはその顔を傷の男に向けた。

 綺麗に切り揃えられた前髪の下で、彼女の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。その頬が涙で濡れてはいなかったが、歪む表情のかたちは泣き顔のそれであった。


「あの方は、初めて私と出会ったあの日から狂っていたんです。あのとき掛けられた言葉の中に、善意も気まぐれも陰謀もなかった。私に名前を教えたあの時の笑顔は――」


『今はガードナという名で通っている。以後お見知りおきを。お嬢さん』


「狂気だけに魅了されていたのですから」

 

 不意に魔道灯の明かりが消えた。

 仄かな光を放っていたランプが、蓄えられていた魔力を使い切ってその役目を終えたのだ。一瞬にして暗闇に包まれた空間の中で、傷の男はすぐさま懐から予備の魔道灯を取り出す。

 何も見えない状況下での点灯作業はいくら手先が器用でも骨が折れる。ランスロットでの任務中、一日の大半を薄暗い地下で過ごしてきた傷の男でさえそれは例外ではない。金具をつけたり外したり、手探りで作業するうちに時間は刻一刻と過ぎていった。


「ちっ……いま使ってた物と型が違うのか。すまん、点けるまでしばらく待ってくれ」

「…………」


 ヴィヴィアンからの返答はない。突然のことで反応が遅れているのか。こんな時いち早く行動に出そうなものだが……。

 そんなことを考えながら、魔道灯をいじくる彼の手の甲を、ふと何か温かいものが触れた。

 それがヴィヴィアンの手だと男が気付くよりも先に、すぐ耳元で吐息が漏れる音を聞いて男は身体を硬直させる。

「お、おい……!」

「ごめんなさい……迷惑だとは思っています。でも、しばらくこのままでいさせて」

「…………」

 

 か細い声に、男は渋々身体の緊張を解いた。

 ほんの小さな接触。たったそれだけでも、彼女の感情が手に取るようにわかった。わかってしまった。


「すみません。本当に私はっ……一人じゃ何もできない愚か者ですね…」

「…………」

「結局覚悟なんてできていなかった! 私の決意は……私の甘えに勝てなかった…!」


 震えるヴィヴィアンの手が、さらに繋がりを求めるように強く握られる。男はそれに答えるように、彼女の手を握り返した。


「ヴィヴィアン。アンタは旦那のことをどう思っている?」

「信頼する、偉大な上司です。私にとってかけがえのない、兄のような人です…!」

「なら思う存分に話し合え。管理局でも俺はアンタに言ったはずだ。お前にとってそれが正しいと思うなら、それも一つの答えなんだろうと。旦那が最初から狂ってるって言ったな? もう正すことはできないとあきらめてしまえば、アンタは一生後悔することになるぞ。それでもいいのか?」

「いや…です。私は……あの人をあきらめたくない……!」

「だったらアンタの信義を貫いてみせろ、ヴィヴィアン。その結果がどうであれ、俺は本望を真っ当したアンタを誇りに思うだろう。他の誰でもない、アンタ自身の意志の強さだ」


 我ながら柄でもないことを言う、と男は苦笑を禁じえない。

 だがこの気持ちは全て本物だ。紛れもない、彼女に対する本音の全てだった。

 もはや、隠すまでもない。


「もし、旦那がアンタの想いを受け止めなかったその時は……うちのギルドに来るといい。公的に認められない暗殺者集団とはいっても、ギルド内の雰囲気はそれほど悪くはない。仲間意識が非常に強くてな、俺の紹介があればアンタもすぐに馴染めるようになるさ」

「……政府の人間である私を、あなたの仲間は受け入れてくれるでしょうか」

「逆にそういう人間であるからこそ、ギルドから欲しがられる場合もある。安心しろ、掟に従う限り人権は保障されてるから、身元を話したくなければ黙っとけばいい。仲間もギルド長も詮索はしない」

 

 暗闇から微かな笑い声が響く。

「ふふ……なんですか、それ。本当に暗殺ギルドなんですか?」

「裏でこそこそ生きる連中は、何事にも仲良くできないと駄目なこともある。何百年と続くギルドの歴史もその絆があってこそだ」

 しばらくの静寂。そして、ためらいがちに、彼女の声が耳を掠めた。

「そうですね……あなたの言う通りかもしれません」


 それから魔道灯に光が灯るまでの短い時間、ヴィヴィアンは一切口を開くことはなかった。

 結局ギルドに入るか否か、彼女から直接答えを聞くことも叶っていない。

 強く触れればすぐにでも壊れそうだった彼女のか細い声を思い出し、男は何か途方もない不安を胸の内に感じていた。 




お待たせ致しました、第六十一話です。


ここにきて、ようやくお金の単位を紹介することができました。

『エルン』です。 円⇒エン⇒エ“ル”ン

 はい、ごめんなさい…w


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