第五十九話 懺悔と交渉
黒の世界に、俺は居た。
濁りも何もない、『黒』だけの世界。
それは無。
命を照らす光さえも容赦なく喰らい尽くす……孤独という名の暗黒。
その完全な闇の中で、俺は膝を抱えて蹲っていた。
「俺は……俺のせいで死んだ人たちのために、この世界で生きる……生きて償うと、決めた」
消え入りそうな俺の声。それに答えたのは、紛れも無い『俺』自身だ。
「いや違う。お前の本心はそんな事のためなんかじゃない。本当は帰りたいんだろ? 俺を“俺”と認めてくれる、大切な家族の元に。…罪も重責もない俺だけの鳥籠に」
――帰りたい。帰りたくて仕方ない。でも、それではただ逃げてるだけだ。俺は一生後悔するだろう。そして、真に幸福な人生は永遠に訪れることはない。
またしても別の『俺』が、俺に囁く。
「じゃあ、お前にとって真の幸福ってのは何だ? 生涯をかけて罪を償うことか? 異世界と向き合って自分の弱さを痛感することか? それとも、己の力を過信して欲望のまま自由に生きることか?」
全部だ、と俺は答えた。いや、答えた、はず……。
「俺は、セレスを守りたい。彼女と約束したんだ……俺はもう守られる立場じゃなく、誰かを守るための“俺”でいようって……」
喉に何かがつっかえた。
それは偽りの本音だと、『俺』たちが俺に囁きかけてくる。
『嘘よ。キリヤ君……あなたはあたしを守ってくれなかった……』
蹲る俺の目の前に、セレスが亡霊のように姿を現す。
『自分が傷つくのが怖かったから。あなたはあたしを置き去りにして逃げてしまったの…』
「そ、それは……君が逃げろと俺に言ったから……」
闇の深さが、一段と増したような気がした。
恐ろしいほど悲しい表情をしたセレスが、再び無に帰す。代わりに現れたのは、見たこともない怒りの形相を浮かべたアレク。
『お前のせいだキリヤッ! お前のせいでセレスが死ぬんだ! ……お前は、俺の大切な家臣を見殺しにした!』
「ち、違う……」
――違わない。確かに俺は逃げた。彼女の命より、自分の命を優先してしまった。
と、耳を震わす銃声と共に俺の左肩を一発の銃弾が貫いた。
「がッ……!」
一瞬にして呼吸が詰まる。虚無の黒に鮮血が飛び散り、瞬く間に足元を血溜りが侵食する。
俺を撃ったのはアレンさんだった。アレクの背後からぬうっと姿を現したアレンさんが、氷のような冷たい表情のまま銃を構えている。
『痛いでしょう、殿下? ですが、デルクレイル嬢はもっと痛い目に会っているのですよ? 貴方に裏切られたという事実が、彼女の心を粉々に打ち砕いたのです。それを全て知った上で、貴方は最低の結末をデルクレイル嬢に与えてしまった!』
「やめろ!」
『俺』たちは叫んだ。
心が痛い。張り裂けそうに痛い。でも、セレスはもっと心を痛めているのだ。
わからない。俺はどうすればいい。彼女を助けに行くのか。助けたらどうする? 謝るのか? 彼女は俺を許すのか? もし生きていなかったら? 罪を償って俺も死ぬ? 嫌だ、死にたくない……生きたい。帰りたい。駄目だ、帰れない。生きて罪を償う? 何故? 俺に、生きる資格はあるのか?
俺は後退った。
アレクとアレンさんから……罪の意識から逃げるように、後ろに……もっと深い闇に……。
『キリヤ様……』
そして、俺の無防備な背中は何かに当たって止まった。
ゆっくりと後ろを振り返る。そこには――
「アル、テミス…さん……」
『キリヤ様……いいえ、キリヤ・カンザキ。私は失望しました。あなたがそこまで堕落した人だったなんて……』
「お、俺は……!」
『言い訳は聞きたくありません。もう、私の前から消えてください』
表情の欠片もない能面な彼女の顔が、俺を無情に見下ろす。玉座の間で初めて彼女と対面した時でも、こんな無表情で俺を見たことはなかった。
その目は、拒絶を意味していた。俺は人として彼女に見放されたのだ。
『消えないのですか? では、私が処理します』
腰に下げられたレイピアを引き抜く。
それを胸の高さで構えて、動けなくなった俺の心臓に狙いを定めた。
素早い刺突が繰り出され、そして――
「ッ……!?」
虚無の世界に色が甦った。
目を瞬き、しばらく呆然としながら硬直する。
――ゆ、め……?
まだ冴えない意識の中、俺は反射的に自分の胸元を見下ろした。
清潔感のある無地のシャツに覆われた上半身に、刺し傷や血の跡は見当たらない。あれは夢だったのだろうか? それにしても、肩の痛みが酷く鮮明だったような――
「ここ、は……」
ぼやけた視界がはっきり輪郭を伴ってくると、俺が今どんな状態にあるのかも徐々にわかってきた。どうやら俺は、寝台らしき縦長の台の上に仰向けに寝かされているらしい。布でできた簡易な天井が視線の正面にあることから、おそらく頑強な建物の内部でないのだろうが、だからといって人が生活できる住居でもなさそうだ。
首を左右に動かして視界を変えてみる。やはりというべきか、寝台以外に家具はまったく見受けられない。
――と、その時。
「――お言葉ながら、これ以上の作戦継続は不可能かと存じ上げます。直ちに本国への撤退命令を」
「撤退だと? ふん、ここまで来て大人しく引き下がれるか。ようやくあの忌々しい能面男が本性を現したのだ。奴を討たずして帰還するなど考えられん!」
何やら話し声がする。
この天幕の外だろうか。若干の怒号が混じる平穏じゃないその会話に、俺は身体を緊張させて耳を傾けた。
「しかし殿下、まずは皇帝陛下に事の顛末とアロンダイトの状態をご報告申し上げるべきです。陛下の懐刀と名高いアインハルド殿を一軍の任意で討伐するなど、いくら裏切りの前科と殿下のご決断があれ私には承知しかねます!」
「ならば、将軍は部下たちを連れて先に帝都へ帰還するがいい。後は私が独断で処理する」
「は?」
「ここで退けば、奴は大手を振ってまんまと逃げ果せるだろう。そんな事態にはさせないと言っているのだ。奴がアロンダイトに篭る今こそ最大の好機。復活したゴーレムもろともこの“月華姫”が屠ってくれる」
「な、何を無茶な! 忘れたんですか? ゴーレムはたった一体で国家の首都を滅ぼすような化け物ですよ!? 仮に我が軍の鉄砲大隊が束になってかかったところで、奴らの集中砲火に遭って殲滅させられるのが落ちです! 要の魔術も効かないのですから、無敵も同然だし…」
「だから先に帰れと言っている。この軍の実質的指揮権は君にあるんだ。これ以上私の我が侭に付き合う必要はないし、部下たちを危険に晒す道理もない。先に帰って、父上とあの陰険なギルマンにこう報告して差し上げろ。『馬鹿で無謀で戦闘狂なロベリアは、裏切り者アインハルトを仕留めるべく一人ランスロットに残りました』とな」
「そんな命知らずも甚だしい台詞が私の口から飛び出すようなら、今ここで殿下を説得してでも引き止めてやりますよ……って、殿下! 聞いておられるのですか!?」
聞き耳を立てて外野の話を聞いていた俺は、突如人型の影を浮かび上がらせた薄布の壁を見てびくっと肩を震わせた。丁度こちら側に入ろうとしていたのだろう。布一枚隔てた向こう側で入口の垂幕に手をかける形でシルエットが動きを止める。
「後で書状をしたためておく。将軍はそれを持って氷爛帝殿に登城せよ。父上もきっと納得してくれよう」
「遠い目をして言伝をお願いしても駄目です! たとえ陛下がお許しになっても、私の軍人としての誇りと責務に関わ――」
最後まで聞き終えるのを待たず、出入り口の垂幕がバサリと開かれた。同時に外の日光が屋内に侵入し、暗がりに慣れた俺の目を容赦なく差す。
「まったく、分からず屋め……」
そう愚痴を零し、テント内に入ってくる突然の闖入者。逆光ではっきりした容姿は窺い知れないが、声からして女性であるのは間違いないようだ。テントの外に頭だけ突き出し、何やら一言放ってくるりとこちらに向き直る。俺と初めて目が合ったのはその時だった。
「む……」
その人物は血のように紅い目をしていた。暗がりでもわかる真紅の双眸が俺の存在を認めて僅かに見開き、次の瞬間には鋭く尖る剣のように目を細める。
「目を覚まされたか……。どうかな、身体の調子は?」
女性の人影が俺に話しかけた。俺を気遣ってくれているようだが、なんだろう……上辺の質問とは別に、まったく違う返答を俺に求めているような気がしてならない。
「あ…いや」
何か話さなければ…。そう思って口を濁しているうちに、その女性は寝台の傍に歩みを進める。
「貴公がアロンダイト市の外れで倒れているのを私の侍女が発見したのだ。早期治療の甲斐あってなんとか一命を取り留められたようだが、後遺症が残る危険性もあるらしい。体調が万全でないならしばらく安静にされた方が良いだろう」
「後遺症……」
不吉な言葉に思わず自分の両手を見下ろした。一命を取り留めたということは、危うく命を落しかけたということだ。意識がなかったとはいえ、生死の境を彷徨っていたなんてゾッとする話だ。
なんだか恐ろしくなって、本当に後遺症はないか首と腕を回して動くことを確認することにした。ついでに寝台の上で膝を曲げて脚の状態も確認。よし、動く。少なくとも運動機能に支障はない。
「……どうやら大丈夫そうだな。ふっ……あの瀕死の状態から改善するなんて大した生命力だ。無論、祈祷師の高度な治療術も賞賛に値するが、貴公の生への渇望こそ何より貴公を生かすための特効薬と成り得たかもしれないな」
ほとんど独り言のように、女性の影は俺を見下ろして話し続ける。口調こそ柔らかいものの、その目は言い知れぬ眼力を伴って俺の顔を凝視していた。
さすがに気まずくなって、俺は硬く閉じていた口を無理矢理開く。
「あ、あの――」
「その仮面はどうなっているのだろう?」
「え……はい?」
いきなり話題を変えられて俺はうろたえた。質問を突然遮られたのも原因だが、まったく見当違いの質問を寄越されて動揺してしまったのだ。
「その黒い仮面、この天幕に貴公を搬送するまでずっと顔にくっついたままだったのだ。意識不明者の表情がわからないのは何かと不便もある。取り外そうと色々試行錯誤したのだが、まるで貴公の顔の一部であるかのように張り付いたまま剥れない。何か、カラクリでも仕込んでいるのか?」
ああ、そういえば仮面被ったままだっけ?
例の滅んだ村で少女に仮面を弾かれて以来、故意に外そうとしない限り剥れないように魔術で固定化していたのだ。ついでに視界も広くして快適に調整したから、仮面を装着していても全然違和感がないのでしばらく存在に忘れていた。
「これは…その、魔術で固定を。容易に外れると色々困るので」
俺の曖昧な説明が伝わったのだろうか。女性は感心したように何度も頷く。それがあまりにもわざとらしかったので、反応に鈍い俺さえ怪訝に思ったほどだ。
「魔術とな。なるほど…やはり貴公は魔道士であられたか。いや、報告書の内容だけではさすがに信じられなかったのでね。本人の口から聞いてようやく納得がいったよ」
「……あの、どこかでお会いしましたか?」
俺を誰かと勘違いしているのか。それとも、俺の正体を知った上で何か聞きだそうとしているのか。
わからない。わからないことだらけだ。一体此処は何処で、彼女は何者なんだ?
「そういえば、自己紹介がまだだったな――」
女性の影が踵を返して歩き出す。何処に行くのかと黙って様子を見守っていると、彼女はテントの入口にかかった垂幕を手で素早く払い除けた。
「うわっ!」
ずっと聞き耳を立てていたのだろうか。垂幕を掩蔽物にして隠れていた全身甲冑の男が、窮屈そうに身体を丸めた体勢で驚いて跳び上がる。その男は慌てた勢いのままテント内に倒れこんできたと思うと、鎧の重さに耐え切れず顔面から地面に突っ伏した。
「がっ……!」
こんな展開になってしまっては、もはや絶句する以外に反応する手段がわからない俺。現在進行形で何かとんでもない事態が展開されているはずなのだが、それを理解するための頭が働かない。
ただ一人、この状況でも冷静な態度を崩さない例の女性は、倒れて呻く鎧男には目もくれずひたすら俺を凝視していた。
そして次に彼女が放った言葉は、今度こそ俺を文字通り黙らせるに至った。
「お初にお目にかかる。私はグルセイル帝国皇帝ギルランディの次女、ロベリア・ツォル・グラーヌ・グルセイルと申す者。正式な場でないとはいえ、貴公にお会いできて光栄だ。ヴァレンシア王国のキリヤ王子殿」
外から漏れ出した陽光が女性の影に色を灯す。
氷雪のような白銀の長髪。綺麗に整った顔立ちにうっすらと浮かぶ微笑。飾り気のない無骨な漆黒の鎧に身を纏うその美女は、俺に向かって恭しい敬礼を披露した。
氷と鉄の生まれる国、グルセイル帝国。
エリュマン大陸北部一帯を支配下に治める新興国家にして、『四大国家』の一つに数えられる大国である…ようだ。ピロから聞いただけなのでそれ以外に詳しい事は知らない。しかし氷と鉄って言うくらいだから、結構寒い地方の国で、尚且つ鉄鉱石とかの金属類産出が盛んなんだろうということは無知な俺でも大体想像がつく。
そして重要なのは、今その国の皇女とテーブル一つ隔てて対面しているということだ。皇女の名前はロベリア。現グルセイル皇帝の次女なのだという。
彼女はこれまでの経緯について俺に詳しく教えてくれた。俺が瀕死の状態でアロンダイト市郊外の草地に倒れていたこと。幸運にも、街の周囲を偵察していたロベリアの侍女が俺を発見し、すぐに治療を施して一命を取り留めたこと等。下手をすれば命を落としていたかもしれない事態に、全然記憶にない俺は彼女の話を聞く間終始顔が引きつっていたのは言うまでもない。ちなみに現在俺たちがいる場所は、アロンダイトからそう遠く離れていない草原地帯の帝国軍野営地であるらしい。帝国の軍隊が何故ランスロット国内にいるのか。俺が疑問に思って首を傾げるよりも早く、ロベリアは自らその理由を語ってくれた。
「ヴァレンシアの陰謀によって壊滅状態にあるアロンダイトを救援、という忌々しい善行シナリオの皮を被ったランスロット王国首都の制圧作戦。我々は昨晩、孤立状態にあるアロンダイト市を圧倒的兵力をもって占拠する予定だったのだ」
遅めの朝食を摂るロベリアは、手元のパンを千切って口に放り込みながら苛々と顔を顰める。その行儀の悪さに侍女が注意しようとするが、それを遮る形で背後に立っていた鎧姿の男がすかさず口を挟んだ。
「殿下。他国の王子の前ですぞ!」
「今更隠す必要もない! アインハルトが帝国を裏切り、禁忌とされる古代兵器を復活させられた現状で作戦もクソもあるか。普段から気に食わない男だと思っていたが、まさかここまで性根が腐っていたとはな…!」
ガチャガチャと音を立てながら、空になった受け皿を奥に突き出すロベリア。彼女の侍女はため息を吐きながらそれを受け取り、代わりにコップ一杯の水を差し出した。
ロベリアは篭手をつけたままの手でコップを掴み、頭を上に逸らして一気に飲み干す。言動といい態度といい中々に男らしい皇女であるが、外見が美人なので色々と台無し感が拭えない。
――って、何を考えてるんだ俺は…。
「とにかく、あの男は我が軍を離反した。しかもツァーロイ総参謀長発案の作戦を私利私欲のために利用した上でだ。そうだな、カイウス将軍」
「は、はい。殿下の仰る通りです……」
か細い返事をしたのは、天幕の隅で椅子に腰掛ける重装備の青年である。彼は俺が目覚めたばかりの時にロベリアと口論をしていた相手だ。倒れた拍子に強打した顔面がまだ痛むのだろうか、それともみっともないことをした自分を恥じているのか、部屋の端で口数少なく大人しくしている。
ていうか、みっともないことをしたという点では、俺が一番恥じるべきなのだろうが。
――セレス…。
彼女を見捨てて逃げた俺に生きる資格はあるのか。あの悪夢を見てから、心中に渦巻いていた疑念が俺を戒める。あんな悪漢どもに取り押さえられたセレスが、今も無事でいるとは思えない。あるいは例の村の人々のように、辱められて殺されてしまっていたら……。
俺は首を振って不吉な考えを振り払った。
――やめろやめろ縁起でもない! お嬢は生きてるに決まってる。あの魔物の森を生き抜いた彼女が、そう簡単に死ぬはずがない……。
死ぬ…はずがない。
「セレス……!」
テーブルの下で、両膝を掴む手にぐっと力を込める。
さっきから頭が痛い。包帯の巻かれた左肩が熱を帯びたように熱くなる。必死の形相を浮かべるセレスと、焼ける街並が脳裏に甦った。考えれば考えるほど、あの時の記憶がより鮮明に……。
「逃げて」と叫ぶお嬢の顔を最後に、馬の手綱を後ろに引いて無理矢理馬首を回す。背中に飛ぶ男たちの怒号。耳をつんざく銃声が響き渡り、俺は体勢を低く構えて馬を走らせた。そして――
「キリヤ王子。ご気分が優れぬのか?」
「っ……!」
現実の声が、俺を忌々しい回想から引きずり出す。
俯いていた顔を上げると、天幕に集まった面々が一様に俺を見つめていた。
「肩で息をしておられるぞ。それにその汗」
顎を伝った一滴の汗を、俺は咄嗟に手の甲で拭い取る。何も問題ない風に誤魔化すつもりだったがもはや手遅れのようだ。全員の視線に晒されながら、俺は膝に手を置いてひたすら沈黙に徹する。
「…私も少し気が動転しているようだ。風にでも当たりながら話すとしよう。その方がご気分も優れるだろう」
そう言って椅子から立ち上がったのはロベリアだ。鎧の上から掛けていたナフキンを取り、俺にテントの出口を指し示す。
「参られよキリヤ王子。軍の野営地を散歩するというのもおかしな話だが、こんな息の詰まる所で談議するよりずっと快適だろう。皆もそれで良いな?」
皇女の提案に集まった全員が立ち上がる。満席一致。幾人か不満げな表情をしている者もいたが、口に出して異を唱えようとまではしなかった。
柔らかい風が吹く草原を、俺と皇女は肩を並べて歩いていく。緩やかな丘陵を登りながら右下に視線を落すと、帝国軍の野営地を確認することができた。やはり一万以上の大軍なだけあって、その規模はかなりのものである。武器を引っさげる兵士たちがいなければ、仮装イベントの野外フェスティバルと言われても信じていたかもしれない。その陣容を見ているだけで普通に圧巻されてしまった。
丘の上から帝国軍の野営地を眺めながら、俺はロベリアにこれまでの経緯と、何故自分が瀕死の状態で倒れていたのかを話した。
ランスロットにはアロンダイト市民を救うためにやってきたこと。その代表に俺が選ばれたこと。アロンダイト市内で救助活動中に謎の武装集団に襲われて撤退を余儀なくされ、逃げる最中に肩を撃ち抜かれたこと等。敵国の大将、ましてやその皇族に詳細を話すというのは部外者である俺も正直言って気が引けた。しかし自分には命を救ってもらった恩義があるし、このまま黙っていても事態が善い方向に収束しそうになさそうにないので、知らせておくべきは話しておこうと思ったのだ。
ロベリアは終始無言で俺の話を聞いていた。その真剣さたるや話し手の俺さえ息を飲むほどで、俺が言葉に詰まって説明を途切れさせても、彼女は急かさずじっと俺の顔を見つめていた。
ただ、途中立ち寄った村の人が皆殺しにされていた話をすると、彼女はその表情を途端に険しくさせた。
何か心当たりがあるに違いないのは確かだった。いや、あってもらわねば困る。なにせその村を襲った集団、何の因果かグルセイル帝国軍所属の傭兵団らしいのだから。
全てを話し終えると、ロベリアは深々とため息を零して肩を落とした。
さっきまでの研ぎ澄まされた表情はどこにいったのか、俺の話を聞き終えた彼女はとても疲れた顔をしている。
「――なるほど。事情は大方把握した。キリヤ王子が重症を負った原因は例のゴーレムではなく、アロンダイト市で突然襲撃を仕掛けた謎の武装集団の凶弾であると?」
「……はい」
「そしてその者らは王子殿のお仲間を捕らえていて、現状お仲間の生死も不明のまま」
「…………」
いっそこの時点で俺を殴ってくれたらどんなに楽だったか。
仲間を見捨てて逃げ出した俺に被害者面する権利はないだろう。しかしロベリアの言動に含まれる俺に対する哀れみが、一層俺を非難しているようで心が苦しかった。
「謎の武装集団について、キリヤ王子は心当たりは御ありか?」
紅い双眸が俺を正面から見つめる。
今更はぐらかしても仕方ない。俺は正直に答えた。
「…村を襲った連中と同じではないかと」
「では、その者らの正体について何かご存知か?」
「連中の持っていた銃器に、短剣を加えた狼の紋章が…」
俺の言葉に、皇女は驚くこともなければ否定することもしなかった。
ただ一言「そうか」と答えて、俺から目を逸らす。
俺の能力、『映像投影』を行使して垣間見た決定的な証拠だから間違いない。短剣を加えた狼の紋章。これは帝国内のみで製造されている兵器の商標印であるらしく、国外での販売及び持ち出しは全て禁止されているという。それなのに村を襲った連中は帝国製の銃器を所持していた。その不可解な点から導き出せる可能性、矛盾や合理性を鑑みて推測すれば考えられることは恐らくただ一つ。
「フェンリルの烙印はアスフォード国営兵器工場で製造された兵器のみに押される。辺境の賊風情の手に渡るほど普及してはいないのだ。もしキリヤ王子の仰るそれが本当であれば……いや、今更疑う余地もないな」
ロベリアは静かに、そしてはっきりと俺の予想を代弁した。
「その者らは間違いなく、我が軍に同行していた傭兵団の一味だろう」
奴らの正体を証明できたところで、特に怒りらしい感情も沸かなかった。
確かにあの時は、残虐な行為を楽しむ連中を殺してやりたいと憎む程冷静さを欠いていた。その感情は今も変わらないし、できることなら俺がこの手で連中に報いを受けさせてやろうとも思っている。だが今
一番憎いのは非道な傭兵どもよりも、セレスを置いて逃げたこの俺自身だ。
「……二日前、傭兵団の一部隊が行方をくらましたのだ。我々は斥候を放って彼奴らの居所を探ったが、一向にその足取りを掴めることができなかった」
ロベリアは遠い目のまま自分の足元ばかりを見つめていた。何故か気まずくなって、俺も草原の地平線に視線を向ける。
皇女の静かな声は続いた。
「だが……そうか。彼奴らめアロンダイトにいるのか……。ふん、なるほどな」
俺の視界の隅で銀糸が舞う。
それがロベリアの髪の毛だと気付いた時には、彼女はいつの間にか俺の目の前に立っていた。
「っ…!?」
あまりの突然のことに、俺は言葉を失ってその場で立ち尽くす。ロベリアはそんな俺の反応を気にも留めず、それとも俺のリアクションに気付かなかったのか、極真面目な表情で俺に顔を近づけた。
「キリヤ殿。私と交渉しまいか?」
「は…はい?」
「何卒協力してほしい案件がある。貴公にとっても利益となり得るはずだ」
その真剣な雰囲気に、俺は思わず首を縦に振ってしまった。
=======【カイウス視点】=======
既に昼食時も過ぎ、昼休憩を終えた帝国軍兵士たちが各自小隊長の指示に従い訓練を始める。
四方から号令や掛け声が飛び交う中、帝国軍第三師団副師団長のカイウス将軍は師団長である皇女ロベリアの私用テントへ足を運んでいた。
ロベリアのテントへ向かう理由は他でもない。カイウスはロベリア本人に用事があったのだ。
彼女の侍女から居場所を聞き、歩いて向かうことおよそ五分。兵卒が共同で使用している大型天幕の脇を抜け、即席の拒馬が置かれた傾斜を登る。前方に一際大きな天幕を確認すると、カイウスは重たい鎧を無理矢理持ち上げて胸を張った。
ロベリアが衣食住と作戦会議室を両用するその天幕は、言うなればこの帝国軍の司令塔である。外観や雰囲気が他のテントと一線を越えているのはもちろんのこと、それを取り巻く警備の数が厳重なのも言うまでもない。
周囲を警戒する多くの騎士たちの視線が行き交うこの聖域で、軍の副師団長ともあろう男が無様な姿を晒して良いはずがなかった。
「お勤めご苦労様です。皇女殿下はお部屋におられますか?」
天幕付近で立ち止まったカイウスは、まず入口の前に立つ軽装鎧の騎士に声をかける。胸当ての下に青色の軍服を着用し腰に長剣を差すその騎士は、皇族の身辺警護を一任する帝室親衛隊のメンバーであった。
親衛隊の騎士はカイウスの挨拶に帝国式の敬礼をして答える。
「将軍もご苦労様です。皇女殿下でしたら中におられますよ。現在ヴァレンシアのキリヤ王子とお話をなさっているようです」
「キリヤ王子と?」
その名前を聞くと、カイウスは人目で見ても判るほどはっきりと顔を顰めた。
そもそも彼がロベリアの元に訪れたのも、キリヤ王子の事で忠言申し上げようと考えていたからである。
(なかなか上等な礼服を着ていたとはいえ、格好だけで王子かどうか確認する術はない。そもそも報告書にあった外見の特徴と一致しただけで、本人と断定するのは危険ではないか)
瀕死の重傷を負っていたキリヤがこの野営地に運ばれてきたときから、カイウスはキリヤ王子に対して大きな疑心を抱いていた。
いや、この場合不信感と呼んだ方がいいだろう。キリヤ王子の存在が帝国軍――引いてはロベリアに危害を与えるのではないか。そんな危機感を抱くほど王子が異質な存在に思えてきたのだ。
事実、キリヤ王子は現ヴァレンシア王国の第二王位継承者であるにも関わらず、少数の部隊だけを連れて敵地であるランスロットに赴くという愚行に出ている。アロンダイト市民を救出するためだか何だか知らないが、それで己が大怪我を負って離脱してしまっては話にならない。怪しむべき点はもっと他にもある。だがいちいちそれを掘り返したところでキリヤ王子の本性がわかるわけでもなく、むしろ怪し過ぎるからこうやってロベリアに注意を喚起しにやってきているわけだ。
(まあ、殿下と一緒にいるならそれはそれで好都合だ。この際彼の化けの皮を剥がしてやろう)
「作戦中止の件で、殿下に申し上げたいことがあります。私を中に入れてもらえませんか?」
カイウスが入室の許可を願うと、親衛隊の騎士は疑う素振りも見せずに快諾した。
「本作戦について、我々親衛隊は発言権を持っておりませんので。そういうことでしたらどうぞお入りください」
騎士が横に移動し、天幕の入口を空ける。
カイウスは短く騎士に礼を述べると、入口前に立って布越しにテント内に声を掛けた。
「お話中失礼致します。殿下、カイウスです。少しよろしいでしょうか」
無言。向こうからの返事はない。
カイウスは首を傾げた。おかしい。普段なら「入れ」の一言くらい返答が返ってくるのだが、今回は一向にその声が無い。
「殿下?」
今度はもう少し大きな声で呼びかけてみる。やはり返事がない。
嫌な想像が頭の中を駆け巡り、次の瞬間カイウスは入口の布を取り払ってテントの中に滑り込んだ。
部屋の中を見回し、そして――
「誰も…いない!?」
テントの中はもぬけの殻だった。人の気配どころか、人がいた形跡すら無い。
まさか自分は親衛隊の騎士に騙されたのか。そんな身も蓋もない疑惑を抱いてしまうほど、カイウスは今見ている光景が信じられなかった。
「ん? これは…」
ふとテーブルの上に目をやったカイウスは、錘で押えられた手紙を見つけてそれを取り上げた。
封を解くまま、半信半疑に紙を開いて書かれた内容に目を通す。彼の目が驚愕に見開かれたのはそれから数秒後のことだった。
「な、なな、なんですってりゅひいいい!?」
思わず絶叫するカイウス。驚くあまり舌を噛んでおまけに変な悲鳴を上げてしまい、彼の声を聞きつけた親衛隊が部屋に押し入って余計な混乱を招いてしまった。
カイウスが読んだ手紙は、確かにロベリアの直筆で書かれていたものだった。しかしその内容が、若い将軍の脳内に天変地異を引き起こした。
以下、手紙に書かれていた文章の全てである。
――この置手紙を読んだ者へ――
帝国の裏切り者たちを粛正するため、少し軍を離れる。
私が軍を離れている間、カイウス将軍に臨時で指揮を取れと伝えてほしい。
くれぐれも、キリヤ王子の陰謀などと勘違いしてヴァレンシア軍と事を構えようなどとしないように。
追記:交渉の末、キリヤ王子は私に同行してくれることになった。
――ロベリアより――
すみません、お待たせしました。