第五十八話 救出の代償(セレスver)
このお話は、第五十七話のセレス視点の話です。
『常闇より来たれ、万物を滅する鋭利なる黒刃。シャドウエッジ』
苦しまぎれに発動したセレスの魔術は、住民の盾となるヴァレンシア兵士を越えて襲撃者たちに襲い掛かった。
しかし、味方への巻き添えを考慮して放たれた魔術は殺傷力に乏しい。こちらを狙撃する武装集団も瓦礫を盾に散開していたため、決定的な反撃には至らなかった。
「あきらめない……絶対に……!」
セレスは自分に喝を入れて、再び魔術の詠唱に入る。
ここで引いたら、生存者を助けた意味がなくなってしまう。全滅は絶対にあってはならない。なんとしても逃げ遅れた市民を街の外に逃がす。そしてそのためには、封じられた門を開こうと頑張ってくれているキリヤの背中を守らなくてはならなかった。
襲撃による被害は想像以上に大きいように思う。
最初の一発の発砲によってアロンダイト支部の局長が射殺され、その後散発的に放たれた銃弾も最後尾の護衛を務めていた騎兵六名に直撃し、そのうち二人が落馬して絶命。即死を免れた四名も重症を負い、後退の最中に息絶えてしまった。
市民を守りながらの退避に加え、地理的な劣勢も被害拡大に繋がったのである。平原街道に繋がる城門前まで撤退を完了した頃には、三十名いた殿部隊は半数以下にまで脱落していた。
セレスは不審に思った。
武装集団の襲撃によって味方の後方がここまで被害を被っているのに、何故先行した部隊から一兵も増援が送られてこないのだろう、と。
原因はすぐに判明した。
「門が閉まってる…!?」
救援作戦以前は開いていたはずの城門が完全に閉じられていたのだ。木製の大扉には特殊な魔術結界が張られ、門を開閉するための機能の尽くが制御できない状態になっていた。
これでは、援軍を呼ぼうにも街に入ることすらできないのだから当然である。住民の多くは避難を済ませたようだが、取り残された住民たちも決して少なくない。
キリヤはすぐさま馬を下りて城門の封印解除に向かった。生憎と扉を封じる魔術結界はセレスも見たことのない類のもので、手伝うにしても彼の役に立ちそうにない。
必然的に、キリヤが門を解放するまでの間、セレスは後方守備の援護に回る運びとなった。
『不動の壁よ、マジックウォール』
セレスの詠唱によって、半透明の薄い壁が兵士たちの眼前に出現する。
物理攻撃を遮断する魔術障壁だ。破城槌のような攻城兵器はさすがに無理だが、魔道銃や弓矢の攻撃であれば跳ね返すことができる。
(これでしばらくは銃弾も通用しないはず……)
もし襲撃者たちが接近戦に切り替えたなら、それはそれで一気逆転のチャンスだ。元より敵陣を切り崩す戦闘に特化したアレン騎兵隊のこと、接近戦の錬度ならばこちらの方が上回っているだろう。
要は、キリヤが城門を開くまで敵の攻撃を防ぎ切ればいい。
城壁側を背に、膠着状態に入った今なら持ち堪えることも難しくない。
――ただし、セレスの魔術障壁がずっと維持されればの条件付きだが……。
異変が起こったのはしばらくしてのことだった。
「な、なんだあれは…!?」
取り残された住民の一人が、突然空を見上げて叫んだ。釣られてセレスも空を仰ぐ。
「なっ……!?」
セレスは絶句した。
星空を覆いつくすような、巨大な網目がそこにあった。
いや、正確には、蒼い光線を発する大きな魔術円陣がアロンダイトの上空に覆い被さっていたのである。
「な、なによ……あれ……」
セレスは目を疑った。魔道学的に有り得ない現象だ。あんな巨大な術式、維持するだけでも相当の負荷を伴うはずなのに……。
そして、ただならぬ現象はそれだけでとどまらず、
「っ……障壁が!」
セレスの展開した魔術障壁が、根っこのような亀裂を走らせて壊れ始めた。
急いで魔力を送り込むが間に合わず。型を制御できなくなった魔術の壁はボロボロと崩壊し、最後には跡形も無くなって空気中に霧散してしまった。
ならば、と再び呪文を詠唱するが今度は魔術自体具現化されないではないか。
(魔力が還元されてる……!?)
術者本人の魔力が枯渇したわけではあるまい。属性変換さえ感じられない不可視の異常……力場そのものが変化したと考えるのが妥当か。
で、あるならば――
セレスは空に浮かぶ巨大な円陣を見上げた。
(あの方陣が、この街全体に特殊な術式を展開している……?)
アロンダイト全域があの魔術円陣の支配下になっているとすれば、こちらが呪文を唱えても魔術が発動されないのも頷ける。
「デルクレイル嬢! あれは一体何なのです!?」
と、血相を変えたアレン・キムナー中佐がセレスの元に走り込んできた。
事情を知らない人が彼に迫られたら、その豹変っぷりに腰を抜かすかもしれない。というのも、どうやらこの青年軍人は二重人格者らしく、戦いのことになると性格が荒々しくなるのである。
「あたしもよくわからないわ。ただ、あの方陣の影響で魔術が使えなくなったのは確か」
「ええ!? い、いやしかしっ、殿下は魔術を使っておられますが!」
セレスはキリヤを振り返った。
確かに、こちらに背を向ける黒髪の魔道士は城門の魔術結界相手に魔力を操っている。だが〝魔術”ではない。空気中の魔力を圧縮させて、それを城門にぶつけることにより結界の効力を低下させているだけなのだろう。術式が組めない現状それしか方法はないだろうが、並の魔道士が同じことをすれば魔力摩擦で大爆発を起こしてしまうかもしれない。古代魔道士だからこそ可能な反則技、というものだろうか。
「……キリヤ殿下はあたしたち普通の魔道士と違って少し特別なの。だから、普段通り魔術を使えるのだと思う」
かなり説得力に欠ける説明だったが、アレンはすぐに信じたようだ。彼の関心はキリヤから、再び上空の魔術円陣に向けられる。
「是が否でも我々をここから出さないつもりか……くそっ! あの武装集団は一体何者なんだ……!?」
「アレンさん。気持ちはわかるけど、今は市民たちをここから一刻も早く逃がすのが先決だと思うわ。そしてそのためには、殿下が出口を破るまでの時間を稼ぐ必要がある」
頼みの綱はキリヤだ。彼が封じられた城門を突破するまで、自分たちが市民とキリヤを守らねばならない。
(それが結果的に、命を捨てることになっても……)
セレスはアレンと視線を交差させる。
彼女の瞳の奥にどんな覚悟を見たのか、アレンはその揺ぎ無い眼差しにすっと表情を変えた。
「デルクレイル嬢……貴女は……」
「魔術を封じられた魔道士は最低最弱なんて皮肉があるけど、魔道士みんなその言葉通りだと思ったら大間違いね」
そう得意げに言い放って、セレスが懐から取り出したのは複雑な術式が張り巡らされた黒い正立方体。
「あたしの作った魔道具……これで、敵の隊列を無茶苦茶にしてやるわ」
不敵な笑顔を浮かべる彼女の表情に、アレンはとある男の面影を抱かずにはいられなかった。
作戦はこうだ。
市民の壁となるヴァレンシア兵士が、アレンの号令と共に一気に攻勢に転じる。すると敵は接近戦に持ち込まれまいと激しい銃撃戦を展開することだろう。敵の監視の目が前方に集中し、側面の注意が散漫になったその隙にセレスが迂回路を移動して敵の後方に回り込み、そこで秘策を発動させる。
危険な賭けであるのは違いない。成功すれば時間稼ぎどころか武装集団を撃退することも可能かもしれないが、失敗すればそのリスクは計り知れないのだ。何より市民を守る盾がなくなるのだから、どこかに潜んでいた敵の別隊が市民に襲い掛からないとも限らない。
(けど、何もしないより希望はある……)
アレンさんの怒号で、守備に徹していた兵士が一斉に動き出す。作戦の打ち合わせなんてまったくしていないのに、彼らはさも当然のように敵の潜む方向へ突っ込んだ。
その行動力だけで、兵士たちはアレンに全幅の信頼を置いているのだと理解できた。これが、アレン率いる騎兵隊が『王国の黒き尖兵』という別称で畏怖されている由縁か……。
無論、セレスとてただ黙って見ていたわけではない。
混乱した市民がいつ散り散りに逃げ出すかわからないため、これは時間との勝負でもある。
隙を見計らって通りの脇に飛び込み、かつては住宅地だったのだろう家屋の瓦礫を乗り越えて土が剥き出しになった路地を全力疾走する。不幸中の幸いか、上空に展開する巨大な円陣が光源となって周囲は仄かに薄暗く、まったく見えないということもなかった。
索敵の手がかりになるのは銃声だ。発砲音が響く方角に耳を傾け、視界と聴覚だけを頼りに突き進んでいく。
そして――
「いた……!」
瓦礫の隙間から顔を覗かせたセレスは、その視線の先に銃を構える男の後ろ姿を映し出していた。
男はヴァレンシア軍の突然の攻勢に焦っている様子で、弾の再装填や構えて狙いを定める動作にも微塵の余裕も感じられなかった。それは同時に、背後への警戒が疎かになっている証でもある。
セレスは視線を少し右に向けた。
するとそこにも、地面に伏せた状態で銃を構える男が一人。さらに奥、屋根の残骸の上にも二人。その手前、石垣跡の陰にも数人程潜んでいるようだ。
(いきなりの反撃に慌ててはいるけど、出鼻を挫かれたというわけではなさそうね……このまま押し返せるならそれに越したことはないけど、やっぱり出るしかないか……)
セレスはローブの裾に手を入れて、中から手の平サイズの黒い小箱を取り出した。
普通の箱ではない。術式によって固定化された魔道具……いわゆるマジックアイテムである。箱に魔力を注入することによって術式と連結し、あらかじめ内包された魔術内容を具現化させて魔術が発動する仕組みだ。
発動者は魔力を注ぐだけなので、実際に呪文を唱えるより手間はかからないのだが、魔力量が極端に制限されるので殺傷威力には乏しい。そのため攻撃系の魔術に転用されることはあまりなく、緊急時の補助魔術や妨害魔術が主である。
そしてセレスの所持する黒い小箱……これには敵を錯乱するための魔術が詰まっていた。正確には、発動者を除く全方位広範囲の敵対者に恐怖の状態異常を付加させる妨害魔術だ。ただし発動地点はこちらで決定することはできないので、武装集団全員を巻き込むためには敵のど真ん中に移動する必要があるが……。
(時間は限られ、チャンスは一度きり……失敗すれば、それで全てが終わるかもしれない)
セレスは深呼吸して気持ちを落ち着かせると、飛び出す間合いを見つけるため敵の後ろ姿をじっと睨みつけた。
肩がとてつもなく重たい。緊張で全身の筋肉が強張っているのも原因だろうが、何より自分の行動ひとつで味方の存亡が左右されると思うと責任感で押し潰されそうだ。
(キリヤ君やアレンさんも、こんなに重たい責務に苛まれているのかしら……)
キリヤは今、市民たちと逃がそうと門の開封を頑張ってくれている。そしてアレンも、騎兵の命を預かる隊長の身だ。すべき事は違えど、責任という重石に縛られる自分と彼らに差異はない、とセレスはそう思い込んだ。
『せいぜい大手を振って帰れるような手柄を立ててくるんだな』
「…ッ……なんで陛下の言葉が思い浮かぶのよ……!」
脳裏に反芻した声。それは、セレスがラズルクの森調査前に、王宮でアレクから投げかけられた言葉であった。
まるで期待した様子のない馬鹿にした態度だったが……いや、そんな態度だったからこそ、セレスはアレクに一矢報いてやろうと頑張れたのである。
(これはきっと、大嫌いな王様からの挑戦状よ……ええ、そうに違いないわ)
冷め切った心に、フツフツと闘志の炎が煮えたぎってきた。
動くことを躊躇っていた肢体にみるみる力が篭り、プレッシャーで揺れ動く瞳に活力が甦る。
「ああもう! こそこそするなんてらしくないわよ全然!」
銃声にも劣らない叫び声を上げて、セレスは隠れていた瓦礫を飛び越え走り出した。
その進行方向にいたのは、セレスが一番最初に姿を確認した武装集団の一人……。
相手もこちらの存在に気付いたのか、振り返って驚愕に目を見開いた。
「な、なんだお前ッ! いつからそこに――」
「ちょっとあんた! あたしに蹴られなさい!」
男の言葉を遮り、理不尽な要求と共にセレスは地を蹴って飛び上がる。
筋力のない魔道士が、物理攻撃で敵に致命的ダメージを与える一番良い手段とは何か? 大半が、比較的クセのなく軽い武器を携帯すると答えるだろう。だがしかし、セレスの場合はそうではなかった――
月光を受けて淡く輝く白いローブが舞い上がり、セレスを見上げる男の顔に深く暗い影を落とす。男は未だに現状がどうなっているのか把握していない様子で、ただただ、空から振ってくる金髪蒼眼の少女を見つめるのみだった。そして――
「セレスキィーック!!」
「んがッ!?」
引力に引き寄せられるがまま落ちてきたセレスのブーツの底が、その全体重を伴って男の無防備な顔面に直撃した。
足が地面を離れ、飛び蹴りが炸裂するまでの時間僅か一秒半。
この一部始終に反応にできた者は皆無で、結果展開はセレスの思い描い通りになった。
(いける……!)
後方に仰け反った男の顔の上で、セレスは空中で膝を曲げて身体を小さく折りたたむ。彼女が見つめる視線の先には、倒壊した建物から生まれたのだろう、瓦礫の小山があった。
「飛べぇぇぇええええ!!」
躊躇なんてしていられない。失神した男が地面に崩れ落ちるよりも先に、男の顔面を踏み台にしたセレスが脚をバネに再び空中へと飛び上がった。
街が、人の動きが、銃声が、悲鳴が、炎の揺らめきが、ゆっくりと流れる時間の中で酷く鮮明にセレスの五感に反応する。自分のいる世界と隔離されたかのように……そう、まるでガラス越しに外の景色を見ているような、なんとも言えない不思議な感覚……。
やがて、セレスの身体は小さな弧を描いて小山の頂上付近に落下した。
自身に起きた不可思議な現象に戸惑いながらも、片手に握られたキューブに魔力を注ぎ込む。
周囲を見渡すことができて、なおかつ敵集団の中心部分に近いこの場所でなら、魔道具の効果は最大限発揮されるに違いない。
黒の小箱に印された術式が赤く発光するのを確認したセレスは、それを天高くに掲げて完了呪文を唱えた。
『発動。デビルビジョン』
次の瞬間、けたたましい金切り声と共に小箱から紫色の“何か”が姿を現した。
全部で三十匹。尖った尻尾とコウモリの羽根を有するそいつらは、“インプ”と呼ばれる悪魔系統の魔獣である。実体を持たない存在であり物理的な介入は無理だが、見た者を恐怖状態に陥れるという特殊能力を持っている。
……キキキキキキキキ!
悪魔たちは一斉に甲高い声を上げ、直後、四方八方に飛び散った。
「ひィイ! な、なんだこいつらは!?」
「や、やめろ! こっちにくるな! う……うわああああ」
インプに集られ、恐怖に陥った襲撃者たちが銃を取り落として逃げ始める。連中にとって場所が悪かったのも災いして、効果は瞬く間に広範囲に及んだ。
(よし! これなら……)
武装集団は完全に烏合の衆と化した。これでしばらくは、味方に危害を及ぼすこともあるまい。
しかし安心するのはまだ早いだろう。武装集団は無力化できたとはいえ、魔術を封じるあの巨大な円陣が気がかりだ。また余計な面倒に巻き込まれる前にさっさと退散しよう。
喚き声を上げて走り去る襲撃者の一人をやり過ごし、セレスは瓦礫の小山を慎重に滑り降りる。遠目に開かれた城門を確認できてようやく、強張った彼女の表情が初めて緩んだ。
「良かった。キリヤ君、城門の開封に成功し――」
――ドスンッ。
突如、セレスの全身を強い衝撃が襲った。
「ぐっ……!」
脳が激しく揺さぶられ、視界が一瞬で暗転する。肺を圧迫され咳き込んだ時にはもう遅い。セレスは何者かに背後から突き飛ばされて前から転倒し、頑強な腕によってうつ伏せに地面に押さえつけられていた。
「っ……ごほっ……けほっ…!」
空気を取り入れようとして失敗し、激しくむせ返す。
拘束から逃れようと必死に身を捩るが、自分を押さえつける腕は想像以上に力が強く、まったくびくともしなかった。
「よくも好き勝手してくれたじゃねぇか……えぇ?」
知らない男の声に、セレスは首だけを動かして真上を見上げる。
「おかげで俺の可愛い部下どもが狂っちまった。どう責任取ってくれるつもりだ? なぁ、魔道士の嬢ちゃん?」
厳つい髭面の大男が、残忍な笑みを浮かべてセレスを見下ろしていた。髭面の仲間だろうか、大柄な体の後ろに、剣を握る男が三名ほど付き従っている。
「そんなっ……全員魔術にかかってたのにどうして……ッ!」
言い知れぬ絶望感のなか、セレスが搾り出した言葉は男の笑い声によって半ば遮られる。
「傭兵をなめちゃいけねぇ。俺たちゃあ戦場のプロだ。戦の“い”の字も知らねぇような乳臭ぇガキがこそこそ罠を張ったところで、どうにかなるもんじゃねぇんだよ……。“もしも”のための伏兵は常等手段だってな」
そう言って、セレスを無理矢理立たせる髭面の大男。ただし両腕の拘束は解かれることはない。男は傍にいた仲間から縄を引ったくり、それをセレスの細い手首に何重にも巻き付け始めた。
魔術を使わせないための処置であると、セレスはすぐに理解した。だが、それがわかったところでどうにもならないのも事実。印と詠唱は魔道士の要…それを封じられてしまえば上級魔道士のセレスといえど只の無力な少女に等しいのである。
抵抗できない非力な自分に苛立ちを覚えながら、セレスは震える声で言葉を紡ぐ。
「あ、あんたたちが傭兵ですって……!? 軍の救援部隊を民間人ごと襲うような奴らが、傭兵……?」
一体どこの所属なの? そう質問を繰り出そうと口を開きかけた時、巨漢の太い指がセレスの顎を掴んだ。強制的に顔の向きを変えられ、視界いっぱいに男の厳つい髭面が映し出される。
セレスは途端に口を噤み、底知れぬ恐怖に戦慄した。男の顔にではない。野蛮な男たちに取り囲まれているというこの現状に、だ。
「……なんだい嬢ちゃん。言いたいことがあるなら俺の目を見て話しな……」
「…………」
セレスは何も言わない。
彼女は気付いてしまった。今の自分の状況は、限りなく危険なものだということ。そして、目の前にいる髭面の意思一つで、自分の運命は如何様にもなるということに……。
「あ、あたしを、どうするつもり……?」
思わず口に出して、セレスはすぐに後悔した。
男が意地の悪い笑みを浮かべたのだ。
「ヘヘ……さて、どうしたもんか。“新しい雇い主”から歯向かう奴は全員殺せと仰せつかってるんだが――」
大男は目を細めて、セレスの全身を嘗め回すように眺める。
その不躾極まりない視線に、セレスは怒りよりも恐怖を感じた。
「魔道士の女は滅多に手に入るもんじゃなくてな。ここで殺しちまうのはなかなかに惜しいのよ……」
「っ……!」
「嬢ちゃんを除いて二人だったか。一番最初は確か、中原の小国に勤めていた従軍魔道士だ。戦場で足を痛めて逃げ遅れたらしくてな、仕方なく運んでやった『お礼』に一晩共にしたのさ。二人目は……あ? おいフス! 二人目の魔道士は誰だった?」
フスと呼ばれた小柄な男が下品な笑い声を上げて答える。
「お頭、魔道士ギルドの」
「ああ! そうだったそうだった。護衛の依頼にやってきた魔道士ギルドの女。そいつが妙に鼻につく態度だったもんだから、少し可愛がってやったんだよ。そしたらあの女、途端に態度を変えて泣きながら俺に謝るんだぜ……ヘヘヘ、あの時は愉快ったらなかったなァ……」
こんなの、おかしい。狂ってる。こいつは、危険だ。
本能が警報を鳴らす。今すぐここから逃げろ、と頭が肢体が告げてくる。
――と、不意に伸ばされた巨漢の手がセレスの結われた髪を掴んだ。
「うぅ……!」
そのまま思いっきり後ろに引っ張られる。手加減なんてあったものじゃない。あまりの痛みに目元から涙が溢れ出した。
「さあ大変だ、嬢ちゃんのせいで大事な獲物がみんな逃げちまったぜ……。一体どうやって責任を取ってくれるんだろうなァ……」
「ふざけんじゃ……ないわよ……」
涙で歪む視界のなか、精一杯眉を吊り上げて男の顔を睨む。
「先に…突っかかってきたのはそっちでしょ! あんたたちのせいで……あたしの仲間が大勢犠牲になったっていうのに……!」
「おいおい……戦場にその発言は相応しかねぇな。俺たちは依頼主の命令通りに任務を遂行した。ただそれだけだぜ?」
“依頼主”という言葉に、セレスははっと顔色を変えた。
そういえば先ほども、“新しい雇い主”がどうという話があったが……。
「……あんたたちに、こんなろくでもない命令をする依頼主は誰?」
「けっ……生意気な小娘だ。守秘義務って知らねぇのか? 教えられるわけがねぇだろ」
そう言い放って、巨漢はセレスの掴んだ髪を乱暴に振り払う。
バランスを崩したセレスは、体勢を整える間もなくそのまま地面に倒れこんだ。硬い地面に全身を強く打ちつけ、鈍痛に呻き声を上げる。
一方、彼女を取り囲む男達からは一斉に嘲りの笑い声が上がった。
為す術もないセレスは、しかし何か打開策はないかと周囲に視線を這わせる。
(――何でもいい。何か、隙を突く手段は……)
武器になりそうなものは……いや、縄を断ち切れる突起物でも構わない。両腕さえ自由になれば、いくらでも現状を覆すことができる……。
「しっかし、なんでこのガキは魔術を使えたんでしょうね、お頭。あの馬鹿デカい魔法陣は魔道士の魔術を封じ込めるって、ガードナの旦那が言ってませんでしたっけ?」
「はっ…馬鹿が。嬢ちゃんが使ったのは魔道具とか言う玩具だ。それがあれば、魔道士じゃなくても魔術が使えるようになるんだよ」
「へぇ、そいつは便利っすねェ~……あ。でもそれってつまり、まどうぐっていうのを使えばこの街でも魔術が使えるワケでしょう? 頭上のアレ、欠陥魔術ってことになるんじゃないですか?」
「フス! てめぇは本当に馬鹿だな。あの魔法陣は魔術を封じるだけの能力じゃねぇ。もっと凄い力が隠されているのさ」
「も、もっと凄い力? そいつは一体……」
「へへ……知りたきゃ自分の目で確かめるんだな。旦那の予定通りに事が進めば、明日には拝めるはずだぜ」
巨漢とその部下の会話は、地面で蹲るセレスの耳にもしっかりと届いていた。
街の上空を浮遊するあの魔術円陣、あれが魔道士の魔術を封じるものだということは確信できた。しかし、それに隠された“もっと凄い力”というのが何かわからない。それに、時折出てくるガードナという名前。話の筋から察するに、その人物はもしや傭兵を自称するこの男たちの“依頼主”とやらではないだろうか。
「おい! お前!」
「っ…!?」
男の怒鳴り声に、セレスはびくっと肩を震わせた。
――しまった! 気付かれたか…!
恐る恐る上に目を向ける。顔を怒らせた髭面がこちらを……見下ろしていない。男の視線は真っ直ぐ前に向いていた。
安心するのも束の間、誘われるようにセレスの顔もそちらに傾く。
ゴーレムの攻撃を免れた石畳の街路に、その人物はいた。
「え……」
――だが、それは、明らかに居てはいけない人物で……。
「どうして……」
セレスの口が掠れた声を吐き出し、街路にいる人物の名前を弱々しく呟いた。
「キリヤ、くん……」
夜の闇よりも深い、黒尽くめの格好で馬に跨る男。
紛れもない。キリヤ・カンザキその人だった。
「何者だ! そこで何してやがる!」
再び巨漢が怒声を飛ばし、腰に下げたホルスターから魔道拳銃を引き抜いて構えた。大柄な身体と相まって小型の拳銃はまるで玩具のようだったが、実際問題それは玩具ではなく、殺傷力を秘めた武器なのだということを知るセレスは警戒を露わにする。
巨漢に続き、取り巻きの男たちも魔道銃に手をかけるとさすがのセレスも構わずにはいられなかった。
「キリヤ君逃げてッ!」
彼女の精一杯の願いがキリヤに届いたかはわからない。だが、轟いた一発の銃声を合図に漆黒の魔道士は馬首を反転させた。手綱を振るい、馬が嘶いて発進する。
「ちっ……逃がすなっ! あいつを撃ち落せ!」
男達が一斉に発砲を始めた。
弾丸の軌跡が闇のなかに幾重にも光線を生む。傭兵の割りに銃の錬度は大したことないのか、銃弾のほとんどはキリヤの位置とは見当違いな方向へ飛んでいった。数発程度は正確にキリヤを掠めはしたが……直撃していないのか? キリヤが落馬することは遂になかった。
「くそが! てめぇらの目玉は耳の後ろにでも付いてんのか! なんで一発も当たらねぇんだ!」
キリヤに逃げられたことに腹を立て、巨漢はその怒りを部下たちにぶつける。
対して、ボスの理不尽な怒りを買った部下たちは戸惑うばかりだ。
「し、しかしですねお頭。俺たちゃあ、まだ銃を持って日が浅い。こんな暗闇で馬を飛ばす奴を撃ち落そうなんざ至難の業ですぜ?」
部下を代表して、フスという名の小柄な男が進み出て反論する。
「なんだと? てめぇ……俺に逆らおうってのか!?」
拳銃を片手に、逆上した大男がフスの胸倉を掴んで持ち上げた。
実はこの男が放った銃弾の一発がキリヤの肩を貫通していたのだが、そんなこと皆知る由もないので誰もフォローができない。
フスが「ひぃィ!」と情けない悲鳴を上げ、その目線が助けを求めてギョロギョロと左右に動く。と、フスの動揺する目が地面に横たわるセレスの姿を捉えた。しめたとばかりに、フスはセレスを指差して必死に言い訳する。
「お、お頭! こいつだ! このガキがあいつに余計なことを言ったんだ! 俺はちゃんと聞いたぜ。このガキ、どさくさ紛れに奴に逃げろって叫んだんでさ!」
「…………」
セレスは何も答えない。
事実間違ってはいないので反論する要素がなかったのも要因のひとつだが、何よりキリヤが無事逃げ果おせたことに安堵している部分もあったのだ。
「……小娘、おめぇの仕業か?」
巨漢のギラつく双眸がセレスを真上から見下ろす。
セレスはそれを果敢にも睨み返し、
「だったら、なに?」
鳥肌を誘うような冷笑を浮かべた。
この現状に怯えて声も出ないと思っていたのだろうか、豹変したセレスの態度に巨漢はたじろく。
しかしそれも一瞬で、目くじらを立てる大男はセレスに拳銃の銃口を向けた。
「あまり図に乗るなよ……今のお前を生かすも殺すも俺の判断次第だ。次そんなナメた口聞いたら……わかってるな?」
「そんなもったいぶって、結局何もやらず終いでしょ。なに? 実はあんた口だけで、無力な小娘一人殺せないヘタレ野郎じゃないの?」
刹那、セレスの顔が右から左に弾かれる。
巨漢が拳銃の柄で殴ったのだと頭が理解した時には、彼女の細身の体は男の片腕ひとつで宙にぶら下がっていた。
「魔道士のくせに行儀がなってないようだな、嬢ちゃん。ナメた口を聞くなと俺は言ったぞ? それとも言葉の意味がわからなかったか? 聞き分けの悪い餓鬼は殺すって言ったんだよッ!」
「だったら早く殺しなさいよっ! それともあたしを躾けて飼いならす算段でもしてるわけ!? もしそうなら、あんたの言いなりになる前にその薄汚い体を魔術で八つ裂きにしてやるわ! 骨ひとつ残らないように、ラズルクの森の魔獣たちの餌にしてね!」
「て、てめぇ……!」
「ナメた口を聞くなですって? そっちこそ、傭兵の分際であたしに命令するな! 大国の魔道士をなめるんじゃないわよ……!」
その罵倒が全ての引き金になった。セレスの眉間に冷たい銃口が押し突けられる。
髭面の男は完全に激昂していた。もはや、この男は誰にも止められまい。
死んだ、とセレスは確信した。人生の最後にしては虚しい終わり方だが、卑しい男どもに辱められて死ぬよりずっとマシだろう。
(みんな……ごめんなさい…!)
そして――
『殺すな』
何者かの低い声と銃声が交差し、頭の中で反響する。
しかし、セレスは死んでいない。確かに巨漢の魔道拳銃は銃弾を放った。だが、それは結局のところセレスの頭を撃ちぬくには至らなかったのだ。
目の前の髭面が驚愕に顔を歪める。同じように、セレスも驚愕に目を見開く。
いや、驚くのも無理はない。なにせ男が握っていた拳銃は、寸前で横から伸びてきた別の手が掴んでいたのだから。
本来セレスの頭を貫くはずだった弾丸は、その手の親指と人差し指に挟まるように抓まれていたのである。
『魔道士の滞在魔力は我が秘術の貴重な動力源になる。特にこの娘は、その内包量が著しく秀でていてな』
「ガ、ガードナの旦那……」
巨漢が呟き、セレスは謎の手を伝って視線を横に流す。
果たして、そこにいたのは――
『この娘は私が預かろう。逃がした連中に関しても不問にする。お前たちも城へ戻れ』
深い色のローブで全身を覆う人影。
格好からして魔道士だろうか。体格や声質は完全に男のものだが、それを取り巻く気配が不気味な様を呈している。
「し、しかし旦那。その女は――」
『言い訳は聞かん。私の言うとおりにしろ』
言葉は単調。だが、傭兵たちにはそれだけで十分だった。
あれだけ偉そうな態度を貫いていた巨漢でもさえも、そのローブ姿の男の物言わぬ圧力に腰を低くした。部下を引き連れ、そのまま廃街の闇の中に消える。
「あんたが……あいつらの親玉?」
大男の拘束を逃れたセレスは、地面に尻餅を突いてローブの男を睨みつける。
対して男は、少しだけ首を傾げてセレスを見下ろした。
『その呼称は好かんな。私はいずれこの大陸の覇者となる者……それ相応の呼び名を希望したい』
「は? あんた、何言っ……て……」
男の顔を月明かりが照らし、その素顔が彼女の前に晒される。
セレスは今度こそ、本当の意味で驚愕した。
『多大な名声と数多の称号を有すること限りなし。絶対神“賢者”の使徒である私の呼び名を』
「嘘……」
ローブの下。
薄ら笑いを浮かべる男の左目は、キリヤの瞳と同じ色をしていた。