第四十九話 策略と誤報(前編)
ランスロット王国西部、ヴァレンシア王国と国境を成す急勾配な山の上に建造された国境砦は、ランスロット王国をヴァレンシアの侵略から守る唯一絶対の防衛線と言える。
さすがに大国相手の防衛戦を想定して造られた石造砦。難攻不落の要塞とは言いがたい構造だが、小国が抱える国境砦にしてはなかなか完成された出来であった。
万の軍勢相手に篭城するなら、二千の兵士と五百の弓があれば一月以上はもつだろう。山を登って敵が砦に攻め入ろうものなら、城壁上から岩を落として足止めさせることも可能かもしれない。無論、この砦が完成されて今まで、ヴァレンシア王国がこの砦を介してランスロット侵略を図ったことは一度もない。なので砦に詰める兵士たちが、ヴァレンシアの軍勢相手に万事優勢な戦略的地位を築けるといえば、それはこの砦の責任者でさえ云と首を縦に振ることは難しいはずだ。
「隊長、奴ら全然動きませんね……」
その砦の城壁下層部、一定間隔に空いた銃眼から顔を覗かせる二人の人間がいる。夜明け前という早い時間帯、寝起きを叩き起こされて沈んだ表情を浮かべる若い男の方はこの国境砦の副隊長だ。
対して――
「こんなに暗いと奴らも下手に動けんだろ。それに…あの数じゃ到底この砦は落とせん……」
無精ひげを撫でながら外の暗がりを睨みつける痩せ体型の男は、この砦の総合監督者である。正式役職名はヴァレンシア方面ランスロット防衛軍国境警備隊隊長という長い肩書きがあるのだが、本人自身「総合責任者」と自称しており、部下たちも「隊長」としか呼ばないので表面上大した意味はもたない。
副隊長が望遠鏡から目を離して隊長を振り返った。
「まさか…援軍を待っているのですか?」
「どうだろうな……すでに別働隊が待機しているなら、夜明けと共に攻撃を始めることも考えられる。明るくなったら魔道銃の威嚇射撃も可能だからな。つっても、暗闇のなか無謀な奇襲を敢行するほどヴァレンシア軍も馬鹿じゃないか……。あぁ? ほんと何であいつら動かねぇんだ……?」
「……結局わからないんですね」
「うるせぇ……俺は今まで大国の犬共相手の戦いなんてしたことがないんだ。戦法もろくに知らないのに、奴らが何を企んでるかなんてわかる訳ねぇだろうが」
二人が見つめる先に並ぶ数百の松明の明かり。
山の中をうごめく無数の人工の光は、深夜のうちに行軍してきたヴァレンシア王国軍のものである。
寝静まった砦内部に敵襲を告げる警笛が響き渡り、兵士たちが慌てて武装して城壁上に駆けつけて来た時には既にあの陣容だ。渓谷を一つ跨いで対峙するように、向いの山の頂におよそ二千のヴァレンシア軍が陣形を整えていたのである。
いつか報復の攻撃を受けることは警備兵隊長も想定していたが、まさかリディアでの惨敗戦から三日も経たぬうちに攻めてくるとは砦の兵士たちでさえ夢にも思っていなかったことだろう。この国境砦に詰める警備兵隊員の数は総勢で五百。ヴァレンシア軍の兵力とは四倍の差だが、篭城戦に持ち込めば切り抜けることも不可能ではない。ただしこの場合問題となるのは、篭城するために必要とする十分な兵糧が蓄えられているかどうかだ。
「副長、食料庫に溜めてある兵糧は――」
「何度も言うようですけど、あと三日も持ちませんよ」
「…………」
危機的状況であるのはまず間違いない。
……いっそこの砦を捨てて別の街へ撤退するべきか。
すでにアロンダイトへ向けて、伝報水晶で援軍の派遣要請を始めているが、これも時間との勝負だろう。先ほどから緊急通信を繰り返しているが、首都の魔道管理局からまったく応答がない。最初こそ水晶の故障ではないかと疑われたが、再度点検してもその兆候はないという。
「はぁ…援軍だけが唯一の助け舟だってのに……首都の魔道管理局は何やってんでしょうね」
「さぁな。上層部の考えることなんて俺が知るかよ……」
何もかも開き直ったような顔をした二人が、戦略的な作戦の話し合いをするわけでもなく、ただただ砦の外で揺れ動くヴァレンシア軍の影を眺める。
五百名のランスロット兵士が臨戦態勢で息を潜める砦内部は異様なほど物静かだ。皆戦う覚悟ができているのだろう。士気が高いのは良いことだが、勝てる見込みのない戦いに部下たちを投入してよいものか隊長も計りかねている。まだ視界も暗い未明のうちに、撤退して戦力を整えた方が勝算は上がるのではないか。
(兵たちを無駄死にさせるくらいなら、いっそこの砦を奴らにくれてやった方が――)
「隊長…!」
背後から小さく声をかけられて、警備兵隊長はすぐに現実へ意識を切り替えた。
振り返ってみると、目の前で一人の兵士が息を切らして片膝を突いてる。兵士は手に頭の大きさくらいはある水晶を抱え、絶望と恐怖をごちゃ混ぜにしたような何とも形容し難い表情を浮かべていた。
不幸な報告はもう聞き慣れたものだ。ついにヴァレンシア軍の援軍が駆けつけてきたのか、と大体想像のつく最悪な展開を隊長は予想した。
しかし、内容はそんなことよりももっと酷い形で覆されることになる。
「ほ、報告します! 今し方、音信不通だった王都アロンダイトより救難信号が……!」
耳鳴りが酷い。激しい心臓の鼓動に息が詰まりそうだ。
「アロンダイトから救難信号? 待て! 救援を要請したのは俺たちの方だぞ?」
しかしその兵士は首を横に振り、状況を把握し切れない隊長を責め立てるように言葉を吐き出した。
「王都が何者かによって無差別攻撃を受けているとのこと! その猛攻たるや勢いを増しとどまる事を知らず! すでに街は火の海と化しております! これをご覧ください!」
そう言って兵士が差し出した伝報水晶には、ランスロット軍部の暗号文章を用いた文面が走り書きのような荒さで入力されていた。
切羽詰った状況であるのは間違いなさそうである。
「こ、これは本当なのか? 本部からの確認信号は!? 一般通信は開いているのか!?」
「本部からは相変らず音沙汰なし…! この救難信号はランスロット国内全ての軍部隊に向けて送信されているようです。一般通信は、まだ試しておりません……」
「貸せ!」
隊長は通信兵から伝報水晶を引っ手繰ると、情報漏れ覚悟で秘匿通信をランスロット内の一般通信に切り替えた。
これが軍部の誤作動であれば、王都に被害の情報はないはず。文字が表示された水晶に指を滑らせながら、ランスロット国内の他の街にリンクして、隊長は魔道管理局支部の現状を手当たり次第を調べていった。
異常なし。異常なし。異常なし……どこも異常はない。敵の襲撃被害は、どこにも確認されていない。
やはり救難信号は管理局の送信ミスが原因だったのだ。他の街に被害報告は入っていないではないか。
しかし、最後に王都の魔道管理局へ通信を繋げた途端、明らかに平常じゃない量の魔力波が水晶に流れ込んだ。水晶の表面に表示された赤い文字が高速で下方にスクロールされ、また新たなメッセージが文面欄の上段に受信され、一秒と経たず更新されていく。
「な、なんだこれは……!」
王都の魔道管理局をはじめ、傭兵ギルド、商人ギルド、兵器工場、果ては貴族院や王城警備隊。アロンダイト内のあらゆる組織から連続して送られる救難信号の数々。
個人の名が記される件名は、貴族が私有する伝報水晶から送られたものであろう。一般向けの緊急通信であるから、この文面はランスロット国内にある全ての伝報水晶に送信されているはずだ。身近に助けを求める宛てがないから、他の街に向けて救援を求めたのだろう。
横から顔を覗かせた副隊長が、水晶に流れる文章を読みながら顔を青くしていく。
「こ、これ……まさか全部、アロンダイトから送られてきた救援要請ですかっ!? 一体、首都で何が起きてるんですか!」
「知らんっ! 俺が知るわけないだろう!」
一体誰のしわざだ?
反政府抵抗組織? いや、過激派の連中はすでに王都の治安維持部隊によって大方弾圧されている。たとえ健全な状態であっても、小規模な組織でアロンダイトを壊滅させるとは思えない。つまりこれは、もっと大規模な組織による計画的な陰謀……。
「くそっ!」
どちらにせよ、今から王都に急行しても間に合わないだろう。せめて王家の人間だけでも無事でいてくれたら良いが――いや、王族が助かっても、国の心臓部が滅んでしまえばランスロットは一環の終わり。肉体が死ねば、杖もただの棒切れに過ぎない……。
絶望的だった。
あまりのショックに、足に力が入らず地面に尻餅を突いてしまう。
事情を知らない砦の兵士たちは、そんな隊長の様子を窺って不安を隠せないようだ。物静かだった砦内に、ざわざわと騒々しさが戻ってくる。
しかし、それらの騒動を一気に飲み込んでしまう新たな悪報が、篭城の兵士五百名を震撼させた。
「な、南西の渓谷に敵の増援を確認ッ!」
敵を確認したのは櫓で見張りをする兵士か。
消沈した隊長に代わり、副隊長が慌てて城壁に走り寄って銃眼から望遠鏡を覗かせる。
「黒髪と金眼の王妃像……ま、間違いない! ヴァレンシア王国の国旗を掲げています! 数は……五百……千……二千……い、いやっ、もっといる……!」
やがて肉眼の兵士たちにも、その増援の姿を目に焼き付けることができた。
数え切れない松明の明かりに照らされているから、嫌でも目に付く。曲がりくねる渓谷の底を俄然として突き進む白銀鎧の兵士たちが、ゆっくりとその全貌を現したのだ。
「…………」
誰も何も喋らない。
一時期万を超える大軍を擁した小国の兵士たちとはいえ、名実ともに古代から多大な軍事力を誇るするヴァレンシア王国の大軍を前に、凍りついたように動けなかった。
=======【キリヤ視点】=======
さながら岩山をくり貫いて造った天然建造物だと、俺は馬上で腰を擦りながら思った。
山頂に聳える砦は見るからに頑強そうで、正攻法で落とすにはかなりの出血を強いられそうな高い城壁と鉄の城門。地上から駄目なら上空から魔獣に乗って砦内部に侵入することもできそうだが、あの見張り塔に銃兵や弓兵を配置されると狙い撃ちに合って上手くいかないだろう。後は遠距離から魔術で砦をぶっ壊す荒っぽい方法だが――
《対魔術用の結界も完備してあるようです。これはなかなか、城壁を壊して砦内に侵入するのも難しいですよ。やっぱり兵糧攻めが効果的ですかね……》
――おっといけない。たまに忘れがちになるが、俺たちはあの砦を攻略するために来たんじゃないんだ。ピロ、攻城戦術だか何だか知らないが、物騒な入れ知恵を俺に押し付けないでくれ…。
俺がアレクから依頼されたのは、軍隊をランスロットの国境沿いに展開させることだ。それにその作戦の指揮も直接はアレンさんが取るから、俺にどうこう言う筋合いはない。
谷底を抜けて山麓に入り、先に到着していたらしいファーボルグ将軍旗下の精鋭軍二千と合流したのが今から約一時間前。
計一万の大軍となったヴァレンシア軍は、今後の作戦に備えて少し早めの朝食を摂ることになった。夜通しの強行軍からやっと解放されたこともあり、篝火を炊いて焚き火を囲む兵士たちの表情は比較的柔らかい。目の前の景色に無骨な砦がなければもっと穏やかな朝食会になっただろうが、こればかりは如何ともし難い。
「砦のランスロット兵士に目立った動きはないようです」
俺の隣に馬を並べて小型の望遠鏡を覗いていたアレンさんが、俺に振り返って望遠鏡を手渡した。
「右の見張り塔に監視の兵士が三名。左の塔にも同数確認できます。今のところ城壁の上に兵士はいませんが、砦一階部分の銃眼に弓兵が配置されているようです。こちらは正面のみで数は十五名。魔道士の姿は見当たりませんでした」
アレンさんの報告を聞きながら、俺も望遠鏡で砦を観察する。
朝陽の逆光でよく見えなかったが、確かに人影らしきものが塔の最上階で動いていた。銃眼にも弓兵がいるとのことだが……無理だ。小さすぎてわからん。
「万全な戦闘態勢ってわけでもなさそうね。それとも、あの数が最大戦力なのかしら……?」
傾斜に突き出した大岩に登っていたお嬢が、手で日傘を作り砦の方を睨みつける。
砦の兵士も俺たちを偵察しているなら、厳つい軍団に混じるこの小柄な少女が奇怪に見えたに違いない。外見十二歳くらいの少女が屈強な兵士たちに混じって戦争ごっこ? 何だそりゃ。伝説にするには真実味に欠けるし、笑い話のネタにするには少し装飾が必要だな。
「敗戦で大幅な戦力低下を被った小国といえど、国境砦の守備に二十人余りの警備兵しか配置しないというのはさすがにあり得ないかと。恐らく他の兵士たちは、我々と同じく食事の席についているのではないでしょうか」
「うーん…結界はそれほど強力じゃなさそうね。死霊呼んで砦の中探らせることも可能だけど、召喚用の魔道具は持ってきてないのよねぇ……」
ローブの内側をごそごそとかき回していたお嬢が残念そうに嘆息する。彼女は身軽に岩の上から飛び降りると、手を払ってアレンさんに向き直った。
「どうする? 向こうが仕掛けてこないならこっちも作戦遂行に支障はないけど、援軍とか呼ばれると厄介かも」
「はい。……せめて目前の障害だけでも取り除ければ良いのですが、砦の攻略は……」
言いよどんで、アレンさんがちらりと俺を見る。
その目は「砦を落とした方が作戦遂行に有利だ」と語っていたが、生憎とアレクからは正当防衛以外の武力行使は厳禁と注意を受けている。
俺が黙って首を横に振ると、アレンさんは小さく目で頷いて了承してくれた。
「仕方がありません。作戦内容に絶対条件が含まれる以上、我々に出来る行動の範囲内で任務を遂行するしかないでしょう」
そう言い聞かせて馬首を返したアレンさんの顔には、いつもの控えめな笑顔があった。
「陣地に戻りましょうか。まずは朝食を摂り、それから作戦会議ということで」
国境砦からランスロット軍の使者がやってきたと報告を受けたのは、俺とお嬢が仮設テントで早い朝食を摂っていた時である。
特に会話らしい会話もなく、冷めた朝飯を口に運びながらお嬢の独り言(彼女は俺に話しかけていたつもりらしい)を何となく聞いていたら、険しい表情を浮かべたダリスさんが俺たちの元に現れたのだ。
「お食事中申し訳ありません。先ほど、国境砦よりランスロット軍の使者を名乗る者が我が軍の陣営に」
お嬢がむせた。
喋れなくなった彼女に代わり、俺が質問する。
「使者? 一体、何のために……?」
「詳しい内容は小官も聞き及んでおりません。現在、ファーボルグ将軍がその使者を連れてこちらに参っているところです。何でもその者は、我が軍の指揮官に面会を求めているようでして……」
つまり俺と話したがっていると……。
はぁ……ファーボルグのおやっさんとアレンさんで対応してくれればいいのに。指揮官ってのも難儀な役職だよなぁ。いっそ王子命令とかで軍の指揮権を将軍に譲ったりできないかな。
護衛の騎士さんが聞いたら卒倒しそうな願いを胸中で吐露してから、俺は向いの席でむせ続けるセレス嬢に水の入ったコップを差し出した。
「……セレス、水だ」
「ゴホッ…あ、ありが……グフッ……ごめ、ん……!」
コップを受け取ったお嬢が一気に水を喉に流し込む。
ダリスさんはそんな俺たち二人を、何か意味深な表情で眺めていた。
「あの……殿下?」
と、遠慮がちに話しかけてきた。
「何だ?」
「失礼ながら……その……お二方は普段からも仲がよろしいので?」
仲がよろしい?
どこをどう見たら俺とセレス嬢がそんな仲睦ましい姿に見えるんだよ。
「いや、別にそんなこと――」
「そうなんですよ!」
俺の否定の言葉を遮り、お嬢が椅子を蹴り倒して立ち上がる。
「実はあたし、昔にキリヤ王子と離宮でお会いしたことがあって、それから色々仲良くさせてもらってたんです! だから、王子とは身分的な隔たりはあんまりないっていうか……友人関係というか――」
閃いた!って顔をしたお嬢が満面な笑みを浮かべて俺を見つめる。
「そ、そう! あたしとキリヤ殿下は友達なんです! 魔術で意気投合しちゃったぜ!って感じで、お互いの趣味とか職種で仲良くなったりするアレですよ!」
どういうアレだ。
俺の内心のツッコミはともかく、このまま放っておくとお嬢の弁解嵐はさらに凄んできそうだ。
ついに疑問を投げかけた張本人のダリスさんが、両手を振ってセレスのマシンガントークを辞めさせた。ふむ、ダリスさんは俺側に属する人間かな。危険を察して未然に事態を防ぐ察知能力はズバ抜けているようである。
「じ、実に納得のできるご経歴でありました。なるほど。主従の関係を超えて、職業柄友情を分ち合う機会に出くわしたわけですな。いや、お二人の友情に土足で足を踏み入れる軽率な発言、どうかお許しを」
ダリスさんは膝を突いて一礼すると、そのまま逃げ出すように天幕を後にした。
…………。
この気まずい沈黙も今となっては慣れたものだ。
喋りすぎて荒い息を繰り返すお嬢そっちのけで、俺は食後のお茶を啜る。
ランスロットの使者とやらは、ファーボルグさんが直々にこちらへ連れてくるようだから急ぐ必要もないだろう。
「…………」
「……座ったらどうだ?」
俺が一声かけると、立ったままだったセレスがゆらゆらと椅子に腰掛けた。
「ごめん、キリヤ君。誤魔化すことに必死になって、とんでもない大嘘言っちゃった……」
「愚を犯したのは俺も同じだ。今回はどっちも悪いということで、この失敗はお互いなかったことにしよう」
「うん。賛成」
再び静かになったテントに、魔道士たちの茶を啜る音だけが虚しく響く。
「俺たちに、降伏する?」
「……は。ヴァレンシア方面守備、ランスロット国境警備大隊五〇一名は、ヴァレンシア王国に無条件で降伏いたす所存です」
使者がこの陣地にやってきた目的は、俺たちヴァレンシア軍に降伏を願い出るためであった。
長年敵対関係にあった国とはいえ、宣戦布告もなしに降伏を申し出るとはファーボルグ将軍も予期していなかったようである。俺が「降伏」という二文字を口に出した途端、彼はその巨漢を震わせて驚愕を再現した。
「な、なんと……」
それは他の面子も同じようで、俺の周りを囲む近衛騎士たちやセレス嬢、使者をここまで護送した兵士たちも各々いろんな表情で驚きを表現している。
俺は別にそんな驚くほどでもないと思うが……。一万の軍隊が目の前に現れたら、さすがに膝を突くしかないんじゃないか? 五百の兵士じゃ、篭城しても勝ち目はないだろうし。
俺の疑問には、ピロが答えてくれた。
《彼らは国に仕える兵士です。戦って負けるのと、戦わずして負けるとではまったく意味が違います。昨日キリっちに言いましたよね。近衛騎士は、命をかけて王族を守ることが本分だって》
ああ、聞いた……。
そのものが誇りだとか存在価値とか言ってたな。俺には理解できないけど……。
お互いに犠牲が出ないことは良いことだろ?
《そういう考えもキリっちの優しさなのでしょう。ですが、兵士とは祖国のために戦うことを目的とした職業。国境砦を守りきることができなければ、今度はその後ろに控える街や村が危険に晒される。勝ち目のない戦いであっても、侵攻されるまでできるだけ凌いで、大切な家族が逃げるまでの時間を稼ぐくらいはできるのですよ……》
あ……!
俺の頭の中で、昨晩お嬢に言われた強烈な言葉が反響する。
――その犠牲がキリヤ君のためになるのなら、あたしは『仕方がない』と一言で片付けても構わないと思ってる。もちろん宮廷魔道士のあたしも、陛下やディーナ様、そしてキリヤ君を守るためなら命だってかけるつもりよ――
彼らにも守るべき大切な人がいる?
だから、国境を守護する役目を背負う警備隊が、呆気なく降伏するのは予想外だったというのか。
「こちらが、我が国境警備兵隊隊長より預かった書状です。どうぞ、ご確認ください」
使者は懐から封筒を取り出すと、不慣れな手つきで俺に一枚の紙を差し出した。
何の変哲もない普通の紙である。危険がないことを確認してから手紙に手を伸ばそうとすると、代わりに間に入ったファーボルグ将軍がそれを受け取った。
「失礼。まずは私が拝見しよう」
彼は折りたたまれた手紙を慎重に開いて、その文面にゆっくり目を通していく。いきなり横入りされて使者も怒ってるのかと思ったが、別段そうでもないらしい。無感動と無関心が合わさったような能面な表情で、じっと地面に膝を突いて俯いている。
「なに?」
その時、手紙に綴られた降伏文を黙読していた将軍から疑問の声が上がった。
何事かと、使者を含め俺たちが一斉にファーボルグ将軍に視線を移す。彼は不機嫌そうな表情を浮かべて、手紙を穴が空くほど睨みつけていた。
そのただ事じゃない様子に、使者は愚か俺でさえ恐怖に顔が引きつりそうになる。
「使者殿……」
「は、はい。何でしょう?」
「国境砦を我が軍に譲り渡すという内容はわかる。国境警備兵隊員五〇一名全員の身柄の安全の保障も了解した。しかし、“王都アロンダイトへの無差別攻撃中止の要求承諾”というのは一体どういう事か?」
はい?
何だそれ。そんな作戦初耳だぞ?
真っ先に声に出して反応したのはセレス嬢だ。
「ちょ、ちょっと待ってよ……。アロンダイトってランスロット王国の首都でしょ? 国の中心部で無差別攻撃って……なによそれ。あたしらヴァレンシア軍がやってるってこと?」
それに異を唱えたのはファーボルグ将軍。
「あり得ぬ。我がヴァレンシア王国軍は東部作戦時にリディア王国の国境を跨いだだけで、貴国ランスロットへの不正侵入は一切していないぞ!」
んん? どういうことだ? お互いの主張に齟齬がある。一体どっちが真実なんだ?
使者のほうはというと、将軍の完全否定に戸惑ってしまったようだった。「これはヴァレンシアを貶めるための策略か…」と兵士の誰かが呟き、それが波紋となって広がりランスロット軍の使者を中心に険悪なムードが出来上がる。
事態を重く見た使者が、尻込みしながら弁解する。
「わ、私に詳細は知る由もありません! その書状は、私が隊長より直接手渡されたものです! 内容のほどは、今の今までまったく聞かされておりませんでした!」
「それが真実だという証拠はない。実は貴殿がその隊長と結託し、殿下のお命を狙おうと接近を計ったのではないか?」
俺の隣にいた近衛騎士が、肩を怒らせて使者に詰め寄る。その手は腰の剣に伸びており、今にも狙いを定めようと目を鋭く研ぎ澄ませていた。
本当に斬りかかりそうな勢いだから、さすがに止めないとまずいだろう。
「やめろ」
俺が一声かけて手を振ると、その騎士は足を掴まれたかのようにぴたりと動かなくなった。
他の騎士たちも一緒だ。王族のことになるとすぐに頭に血が上る近衛騎士六名を、その場から動けないように地面に括りつける。
「なっ!? こ、これは一体……!?」
突然身動きが出来なくなったことに、騎士たちは驚きを隠せない。
《“敵国の兵士とはいえ、彼は国境警備隊を代表してここに参った使者殿だ。ヴァレンシアの品位を下げるような真似はよせ。あまりオレに恥をかかせるなよ、わかったか堅気でいじり甲斐ない騎士共!”…はいキリっち、りぴーとあふたーみー》
「敵国の兵士とはいえ、彼は国境警備隊を代表して単身ここに参った使者殿だ。疑心暗鬼になる気持ちもわかるが、軽率な行動でヴァレンシアの品位を下げるのはよせ」
ピロが口達者であることに危険を感じるのは今に始まったことじゃない。こういう無茶振りな返答にも対応できるように、俺自身会話パターンを模索していたのだ。品位の欠片さえないピロの台詞に比べれば、無難にリメイクできたのではないかと思う。
近衛騎士たちを見れば、彼らは俺の言葉を真摯に受け止めて恐怖に震え上がっているようだった。王子を怒らせたとでも思っているんだな、きっと。
かといって、俺のことを情もない鬼畜人種と思われるのも嫌だ。十分反省しているようなので、さっさと魔術を解いてやる。
「これからは気をつけるように。お前たちの失態のせいで、騎士団長の面目を潰したくはないだろう」
「ひっ……そ、それだけはご勘弁を…!」
どんだけ怖いんだよ。まあ、同情はするが……。
「わかったなら、大人しく下がっていろ」
「は……!」
ちょっと前までの自分には考えらないような命令口調で厳つい騎士たちを丸め込む。それもこれも、このチートな魔術能力を手に入れて強気になってる証拠だろう。態度を改めるべきかと思うときもあるが、王子の身分に慣れるためにも丁度良いかもしれない。まあ、相手が気さくに接してくれるならそれに越したことはないけど…。
大人しく後ろにつく近衛騎士たちを見届けてから、俺はファーボルグ将軍に向き直った。
「将軍。書状の真偽については、一度砦の責任者と話し合いの席を設けて確認したほうがいいかと。このままじゃ埒が明かない」
「は。いや、しかし……陛下勅命の作戦はどうなさるおつもりですか? 到着次第軍を展開させよとのお達しでしたが……」
「む……今は誤解を解くほうが先だ。ヴァレンシアが他国から目の仇にされたら、作戦どころじゃない」
「確かに……はい、仰るとおりです。では、ただちに陛下にも事の報告を――」
自分を納得させるように真剣な眼差しで砦を仰ぎ見る将軍。
やがて一礼してから、彼は使者と部下たちを伴い幕舎へと引き返していった。
「…………」
ふとセレスと目が合う。
彼女は何か言いたそうに口を開き、結局何も告げぬまま黙りこんでしまった。