第四十八話 姿なき嘲笑
ちょっと待て。あれが狼だと?
疲労のせいで俺の口はおかしくなったのか? なんだって俺は、あんな馬鹿デカい化け物を狼と思ったんだろう。
「銃兵部隊、隊列を整えろ! 奴を狙撃する! あ、いや待て…ここから撃てば味方に当たる。やっぱり前に出ろ、前! おい、早くしないか!」
「くそったれ! 歩哨どもは何をしていたんだ! あんな近くまで魔獣に接近されても気付かんとは」
魔獣……。
ああ、間違いない。
あの巨大な体躯と闇夜に光る赤い双眸。それに空気を振動させた重たい咆哮。あれが狼によって表現されたものだというなら、俺は二度とこの世界の夜間を街の外で過ごしたりするもんか!
――おいピロ! さっきお前、魔獣は光や臭いで刺激されると怒り狂うとか言ってたな!?
《ええ、言いましたね》
――一つ確認しておきたい。あの魔獣は俺たちの行軍のせいで襲ってきたのか?
《…肯定しかねます。実は、あの魔獣――》
ピロの言葉は最後まで続かず、代わりに俺の視界を支配したのは暗い影を落とす白銀の鎧だった。
「さあ殿下! あの魔獣は兵士たちが始末してくれるでしょうから、お早く天幕の中へお戻りください」
軽く180cmを超える偉丈夫が、俺の眼前に立ちはだかって行く手を塞ぐ。
周りの慌ただしさなんてまったく気にならないのか、他の護衛騎士たちも魔獣の方ではなく俺の行動に注意を向けているようで、その瞳からは「何が何でも通さない」という強い決意がにじみ出ていた。
――ちっ。是が非でも俺を先に行かせたくないらしい……。
《ま、王国に仕える騎士としては当然の働きでしょう。命に代えても王族を守るのが彼らの責務であり誇りあり、存在価値そのものなのですから》
――じゃあ聞くがな。俺が手を出さずに、あの魔獣がこっちの犠牲ゼロで退治される確立は?
《とても凶暴な魔獣です。追い払うだけでも、かなりの出血を強いると思いますよ》
――だったら、俺が行ってあの魔獣を倒せばいい! 勝利条件は死傷者を出さないこと!
せっかく人間離れした“力”があるのに、それを持て余して黙って見守るなんて俺にはできない。俺自身が変わる為に、誰かの助けになると決めたんだ。こんなとこで躓いてられるかよ!
「飛べ!」
俺は騎士の手を逃れて素早く後ろに下がると、魔術行使の呪文を一言唱えた。
騎士たちがあっと声を上げるがもう遅い。瞬間、脚にかかる負担が一気に減少して、俺の身体は地面から三メートル離れた空中に浮かんでいた。
「ちょ、ちょっとキリヤ君!?」
ずっと後ろで見ていたのだろうか。セレス嬢が垂幕の間から顔を出して俺を凝視している。その顔は驚きや不安ともつかない表情をしており、まだ何か言いたそうに口をパクパク動かしていた。
「少し行ってくる……」
「え? あ、うん。行ってら……って違――」
ヴゥン!
騎士やお嬢の制止が始まるのも待たず、俺は宙で脚を蹴って前方に飛び出した。
眼下の景色が一瞬にして後ろに流され、反対に暗がりで暴れる魔獣の姿がより鮮明になる。身体能力向上のお陰でかなり良くなった視力で目標を睨み据えると、魔獣の付近に人影を三人見つけることができた。逃げることができずに、魔獣の最初のターゲットにされた兵士たちだろう。幸いにも彼らはまだ魔獣の餌食になってはおらず、手元の得物で勇敢に戦っている。
《時間稼ぎのつもりでしょうが、あの魔獣相手に普通の武器は通用しません。このままじゃ応援が到着する前にやられてしまう……。キリっち、ここから魔術で奴を攻撃しましょう!》
――ええっ!? いや、俺、二ついっぺんに魔術を操ったりなんて器用なことできないぞ?
《攻撃魔術の方は小生がコントロールします! キリっちは、利き手をあの魔獣に向けて一言呪文を叫んでください》
――叫ぶだけでいいんだな? よしわかった! 頼むぞピロ!
俺は空中で急停止すると、右の手の平を巨大な黒狼に向けて腕に力を込めた。
「お、おい。ありゃ何だ!」
いきなり上空に現れた黒尽くめの魔道士に、地上にいた兵士たちが仰天して空を仰ぎ見る。魔獣の襲撃に気が立っていた彼らは、さらに出現した怪しい人物も敵と見なしたらしい。真下にいた兵士たちは一斉に俺に向かって武器を構え、瞬時に警戒態勢を取った。
――ピ、ピロ!? 俺の足元がやばいくらい物騒になってきたんだが……!
《時間がありません! 一気に魔術をぶっ放しますよ! 呪文の言葉は――》
――“聖なる雷剣よ…”――
始動の合言葉とともに、右腕全体が白い閃光に包まれる。
俺がその光に目を奪われる隙もなかった。眩い輝きは瞬時に手の平に収束し、高濃度の魔力の塊となって激しく渦を巻き始める。抑え切れなかった電力が光の渦から漏れ出し、バチバチと起こる放電は昨日の“ケラウノス”を連想させた。
自分が生き残るため、ありったけの魔力を注いで生み出された大量殺戮の魔術。あの時“賢者”に身体の自由を奪われていたとはいえ、悲惨な事態を招いてしまった根本たる原因は俺の不甲斐なさが決定的であったに違いない。
今でも後悔している。俺は紛れもなく大勢の人を殺め、その結果多くの悲しみを生んでしまったはずなんだ。俺みたいなちっぽけな人間にどんな償いができるかわからない。けど、誰かを守るためなら、この力も案外捨てたものじゃないと思える。
――卑屈になってばっかじゃ駄目だ。もっと強くならないと……。
《……あなたは着実に成長していますよ。人間臭い言い方になってしまうけれど、少なくとも今のキリっちは自らの意思で誰かを救おうとしている。そしてそれはきっと、立派な事なんだと思います》
皮肉のつもりか。まさかピロが俺を褒めるなんて思わなかった。
しかし、悪い気はしないな……。
――“ホーリィサンダー”――
右手から迸った雷の閃光が、空気を裂いて巨大な剣を形作る。
全長二メートルはあるだろうその雷の太剣は、落雷のような鋭い爆音を響かせて俺の手元を離れた。
「……っ!」
目にも止まらぬ速さで闇夜の宙を突っ切った光の刃は、獲物に飛び掛ろうと地表を離れていた魔獣の腹部を刺し貫く。魔術の衝撃で吹き飛ばされ、そのまま草原に叩きつけられた魔獣は何度もその巨体を転がしてやがて動かなくなった。奴が身を引きずった草原は無惨に抉られ、土がむき出しになっているのが見える。
――倒した……のか?
俺の下方にいた兵士たちのざわめきは魔獣を仕留めたことに対する歓声か、それとも謎の魔道士が放った未知の魔術に恐怖する悲鳴か。どっちでもいいが、俺に武器を向ける兵士がいなくなったことは安心すべきことなのだろう。
《強力な魔術とはいえ、周囲の兵士たちに被害を被らないよう威力は抑えていましたから……生死の確認は、一応しておいた方が良いでしょう》
兵士たちの騒ぎが静まらないうちに、俺はさっさと現場に向かって飛んでいって魔獣が横たわる近くの草地に着地した。
幸い、死者や重傷者は皆無のようである。前方で一人の兵士が、うつ伏せに身体を倒したまま頭を持ち上げていた。彼の視線の先にあるのは、今し方仕留めた魔獣に対してか。
俺も釣られるように顔を上げて、黒こげになった巨大な狼を振り向く。
奴はまだ死んではいなかった。感電して思うように動かない四肢をよじらせ、大きな口から唾液と血を吐き出して低く唸っている。雷の剣が刺し貫いた腹部からはどくどくと黒い血が溢れ、体躯の周囲に大きな血溜りを作っていた。
「あれ……まだ動くのか?」
仮に生きていたとしても、もう完全に虫の息だと思っていたのだ。
まさか起き上がろうとしているとは想定外で、思わずとぼけた疑問を声に出してしまった。
《ふむ…傷口の大きさや出血量から見て、瀕死であることは間違いないでしょう。我々が手を下さなくても、勝手に息絶えてくれますよ》
随分残酷な物言いだが、人間の心情を多く理解していないピロとしてはかなり気を使った言葉なのだろう。いや、むしろこの世界の人間は、魔獣の死に対してなにも感じないかもしれない……。
――最後の悪あがきみたいに、俺たちを襲ったりしないかな?
《心配には及びません。“ホーリィサンダー”の付加効果で『聖戒』の状態異常に罹っていますから、とても攻撃ができる状態じゃないですよ。あ、『聖戒』っていうのは、分かりやすく説明しますと一種の麻痺症状みたいなものです》
――はは……とことん剣と魔法の世界だな。実は俺、ゲームの世界に迷い込んでるんじゃないのか。
《要領を得てそんな馬鹿げた事を言っているのですか? 三次元の存在が、何がどうやって二次元に迷い込むことができるのです?》
――なに真に受けてんだよ! 冗談だって、冗談!
お前の慕う賢者サマがそれを可能にしそうだけど?といういやらしい質問をするのは自重した。あまりピロを怒らせて、不機嫌に頭の中で騒がれるのも面倒だからな。
その時、ドスンと鈍い音を立てて魔獣が再び前屈みに倒れた。
今度こそ本当に力尽きたのか、腹の底から搾り出すような唸り声はもう聞こえない。逆立っていた刺々しい黒い毛や尻尾もしな垂れ、身動きもしなくなった。
《生命反応消失。あの魔獣……完全に息絶えたようです》
ピロの静かな報告が聞こえる。
俺はやっと安堵のため息を吐いて、ゆっくりと視線を下ろした。魔獣は倒せた。兵士たちも皆無事だ。少し無茶なことをしてお嬢たちを困らせてしまったけど、俺の行動の結果が誰かを守ることに繋がったのならまったく後悔はしていない。騎士たちには後で謝っておこう。俺が無傷で帰還すれば、彼らだって許してくれるだろう。
「なぁ……お、おい、あんた」
ふと近くで声がして、俺は顔を上げた。
前方には、槍を杖代わりに立ち上がっていた兵士が恐る恐る俺を眺めている。先ほどまでうつ伏せで地面に倒れていた男だ。そういえばこの兵士、さっき魔獣に危うく襲われそうになっていなかったっけ? 怪我はないのだろうか?
人見知りな自分を押さえ込み、勇気を振り絞って男に尋ねてみる。
「無事か? どこか、怪我は?」
ただし、できうる限り簡潔に纏めた率直な問いかけである。
男は一瞬出鼻を挫かれて怯んだが、そこはどうにか心配してくれてると理解したらしい。ぎこちなくだが、頷いてくれた。
「あ、ああ。少し足を捻っただけで大したことねぇよ。間一髪、命拾いした……」
「そうか……」
ううむ。適当な返答が思いつかないな。まあいい、無理して話を続けるほど俺は会話に飢えていない。
特に用もないので、踵を返して天幕に戻ろうとすると、槍の男が咄嗟に俺を引き止めた。
「ま、待ってくれ! あんた、その格好魔道士だろ? この魔獣殺った今の魔術……もしかしてあんたが――」
「エリックー!」
男は最後まで言い終わることもできず、途中で現れたもう一人の兵士によって言葉を遮られた。
槍の男より少し長身の、スレンダーな体型の男である。肩から矢筒と弓を背負っている以外大した武装をしていないところを見るに、背の高い方の兵士は弓兵なのだろう。その弓兵の男は、槍兵の男を突き飛ばす勢いでその両肩を鷲掴みにした。
「エリックッ! 私の目に狂いがなければ、君の心臓はいま火山の脈動の如く激しく鼓動し、その吐息はシルフの笑い声に似て生命の息吹に満ち溢れているに違いない! 答えてくれ。君は今、生きているのか!?」
槍兵の男はエリックという名前らしい。エリックは弓兵の男に肩を揺さぶられ、その手を振り解くのに集中せざるを得なくなった。
「ま、待てアゼル! おい揺するな! 俺の足を見てみろって! ちょっと不自然だがちゃんと地面に立ってるだろ? 透けてないし、お前も俺が見えてるから幽霊じゃない。正真正銘生きてる!」
うむ。弓兵の名前はアゼルというのか。あの長い耳……もしかして彼はエルフなのだろうか。
「ああ……信じられない。お互い死を覚悟して戦いに挑んだというのに、改めて生き残るとその嬉しさが身体中に染み渡って震えが止まらないよ。ははっ…死を目前にして、ついに私も生に対する葛藤を賜ったようだ。くそったれ! 君たちといると私はどんどん人間臭くなってしまう!」
過激な言葉とは裏腹に、アゼルの表情は明るく喜びで満ち溢れているようだった。
エリックの背中をバシバシと叩き、その嬉しさの度合いを実にわかりやすく表現している。 「ったく……俺だって、テメェの臭い台詞を生きてまた聞けるとは思ってなかったぜ。ゴホッゴホッ! だからアゼル、いい加減俺の背中を叩くのやめやがれ! ちくしょう! 人間はもっと怪我人を労わるんだぞ!」
エリックが怒り顔で文句を言い、アゼルがそれに笑顔で応え陽気に茶化す。馬鹿にされた当の本人も、本気で相手にしていないようで表情には笑みがにじみ出ていた。
俺はその光景を遠巻きに眺めながら、彼らの命を救ったことに少なからず誇りを持つことができた。自分の行動範囲に自信を持てたと言ってもいい。喜びを分かち合う二人を見ていると、とても嬉しい気持ちになれる……。
「…………」
ただ、心の奥底では憧憬に近いものも彼らに感じられた。
嫉妬に近い、憧れのような感情。
俺がしばらくの間忘れていた、人間らしい心。
《“俺もあんな友達がほしかった”……そう思ってるでしょ?》
ずばり、俺の心情を読んできっぱり言い切ったショタ声精神体。
そこまではっきり指摘されると、さすがの俺も誤魔化しが効かなくなってしまう。結局それらしい言い訳も思いつかず、返さずに黙ってしまった。図星過ぎて言い返す気力もない。
すると今度は沈黙した俺の気を使ったのか、ピロが優しく諭す口調で話し始めた。
《キリっちにはもう、守ると決めた大切な人がいるではありませんか。セレスさんとアルテミスさんは、すでにあなたの心境を理解できる友人ではないのですか?》
――確かに二人とも俺にとって大切な人だ。いや、少なくとも俺はそう思っている。けどなんていうか……俺が憧れていた友人関係はそういうのじゃなくて。男友達っていうのかな……。ああやって、お互いの素直な気持ちをぶつけて、心の壁を取り払うっていうかさ……くそっ、上手く言えないけど、同性同士だからこそ分かり合える友情ってのがなんか良いなって思えるんだよ。……ああ、自分で言ってて情けなくなってきた……。
俺に親友と呼べる親しい間柄がいないのは当たり前だ。俺自身他人から逃げてきたし、友達を作ろうと努力もしなかったんだから。
《キリっちって……小生が干渉してきた人間の中で一番人間らしくありませんね》
は?
なんだそれ……もしかして、俺が人間関係で不器用だって言いたいのか?
ふん、勝手に言ってろ。
魔獣の襲撃騒ぎは、その後すぐに現場へ駆けつけたアレンさんの指示のもとある程度沈静化された。
そもそも奇襲を仕掛けた魔獣は一体だけで、それも俺が魔術で早急に退治したので目だった混乱はなかったのである。ただ一つ、魔獣の死体の前で俺の姿を確認したアレンさんが卒倒寸前になって、部下たちが慌てふためくという事件があった。まだ王子という身分に慣れていない手前、俺が護衛も付けず草原の暗がりに立っていたというのは相当場違いだったらしい。ピロに急かされて大急ぎで天幕に戻ったはいいものの、帰る途中で俺付きの護衛騎士と真正面から遭遇しあっけなく身柄を拘束されてしまった。
それからが散々である。天幕に連行された俺は、そこで待ち構えていた怒り心頭のセレス嬢から説教の限りを尽くされてしまった。本来、彼女の無礼を咎める立場であるはずの騎士たちも、お嬢の一言一句にうんうんと相槌を打って傍観する始末だ。
俺が無事に帰還すれば騎士たちも許してくれるだって? ちくしょう! 誰だそんな甘い考えを否応なく信じ込んでいた馬鹿野郎はっ! ああ…俺をフォローしてくれる味方は誰もいないのか……!?
結局セレス嬢たちの熱が篭った説教は、事件の顛末を報告に現れたアレンさんの仲裁によって事なきを得た。
「アレンさん! あたしまだキリヤ殿下にご忠言したいことがあるの!」
「あ、いえ、ね? デルクレイル殿のお気持ちは僕もよーくわかるんですけど、さすがにこれ以上追従なさるのも殿下の…め、名誉に関わるといいますか……」
「名誉が何よ! だったらキリヤ王子の独断専行は、名誉に基づいた立派な行動だって言いたい訳!? あたしは認めないわよ、そんなの! 死んでしまったら名誉も何もないじゃないっ!」
お嬢の興奮した反論に、様子を見守っていた護衛騎士たちが鷹揚に頷いてみせる。しかもそのうちの一人が前に出て、セレス嬢の言い分を肯定する言葉まで付け足した。
「セレス様のお言葉はごもっともです。宮廷魔道士同様、我ら近衛騎士もヴァレンシアの希望をお守りする役目を仰せつかっておるのです。恐れながら王子殿下におかれましては、ご自分のお立場が如何にお大事であるか、重々ご考慮なさっていただきとうございますれば!」
最後の言葉はほとんど俺に宛てたものだろう。
予想以上にご立腹であるようだ。気まずくなってしまった俺は、助けを求めるようにアレンさんに視線を向けた。
まさかアレンさんまでも騎士たちの言葉に言い包められたのだろうか。俺は一瞬肝を冷やしたが、彼は一つ咳払いすると、気持ちを入れ替えて冷静に説得を始めた。
「お役目上、あなた方のご心労は私もお察しします。ですが、キリヤ殿下はヴァレンシア王家の偉大な血統を引き継いでおられると同時に、我が軍の総司令の任も国王陛下より賜れているお方。我々国軍の軍人にとって指揮官の命令は絶対であり、同じく殿下を上官と仰ぐ私は総司令官殿のご意思を尊重し、その行いに順ずる義務がございます。今のあなた方の言い分を吟味すれば、総司令官であるキリヤ殿下のご決断を批判し、あまつさえその偉大な行いに対して矯正を促しておられるようにお見受けしました。ヴァレンシア国軍軍法第一条第3項に基づき、軍務及び軍事に関連する任務内でのあらゆる命令権を全て指揮官が所持している以上、下階級の軍人は身分に関係なく上官の命令に従わなくてはならない。そしてこの義務は、我が軍に従軍しているあなた方も例外ではありませんよ。軍議内ではともかく、命令は既に“殿下の独断で速やかに遂行”されました。よってこれ以上の詮索と追求は不要。それでも尚ご理解なされないなら、私が軍法に則り、あなた方を職務命令違反の罪で逮捕させていただきますが、よろしいですか?」
口から心臓が飛び出しそうだった。
逮捕だって!? ちょっと待てよ! 俺は説教地獄から解放されたかっただけで、そんな罰を与えてほしかったわけじゃないぞ?
護衛騎士たちもアレンさんの逮捕警告には仰天したようで、誰もが絶句して固まっていた。言い返そうと血相を変えて肩を怒らせる者もいたが、途端に思いとどまって俺の方を振り向くと、すぐに顔色を真っ青にして大人しくなる。やがて完全に意気消沈した護衛たちは、俺に恭しく頭を下げて次々と天幕を抜け出していった。
「…………」
静寂。
非常に気まずい沈黙が、場を侵食していく。
結果的に解放されたとはいえ、それが平和的であったかと問われれば俺は決してそうは思えない。一番の功績者であるはずのアレンさんは「やってしまった…」とぶつぶつ呟きながらこの世の終わりみたいな顔で俯いているし、セレス嬢に至ってはまだ納得できないのか上目遣いで俺を睨んだまま黙っている。
大人しく説教されていれば良かっただろうか。いや待て、俺が即決で行動して魔獣を倒さなかったら、兵士たちの命が危なかったんだぞ? 出すぎた真似だと認めてしまったら、それこそ命拾いした兵士たちの存在を否定するようなものだ。
ここはちゃんと、お嬢に自分の気持ちを言葉で伝えた方がいいだろう。
「セレス。別に俺は、生半可な考えで身勝手に行動したわけじゃない……」
「…………」
「王子としての節度ある行動がそんなに大事だろうか? 救える人命に代えられないと、俺は思う」
説得できる言い分だと思った。
けど、お嬢は俺の言葉に納得できなかったようである。
「そんなのッ! ……キリヤ君が生き残ること前提の話じゃない。君の身に何かあったら、どうするつもりだったの? も、もし……魔獣に襲われてでもして、死んでしまったら……!」
怒りでつり上がったセレス嬢の瞳が、微かに揺らいでしゅんと目尻を垂らした。
「遠い国から来たキリヤ君とは、あたしたちと価値観が違うことだってあるわ。少なくともこの国の兵士たちは、死を覚悟して兵隊に志願している。だから……魔獣に襲われて命を落とすことになったからといって、誰もキリヤ君を責めたりしない……」
頭に雷をくらったような衝撃だった。
まさか――本気で言ってるのか?
「救える手段があるのに、味方が死ぬのをただ黙って見てろと言うのか……」
俺の挑発的な低い声にも、セレス嬢は怖気づかない。
その強気な表情は、しっかりと俺に向けられていた。
「その犠牲がキリヤ君のためになるのなら、あたしは『仕方がない』と一言で片付けても構わないと思ってる。もちろん宮廷魔道士のあたしも、陛下やディーナ様、そしてキリヤ君を守るためなら命だってかけるつもりよ」
「…………」
生半可な覚悟で言っていないとわかると、俺もそれ以上反論する気にはなれなかった。
俺とそう大して年も変わらない少女が、迷いもなく“命をかけられる”と明言したのである。今更、「命の重みに差なんてない」とか「セレスを守るのは俺の役目」などと言い返しても、ただの意固地にしかならないだろう。
――それに……。
俺はこんなとんでもないことを平気で言い切る奴を知っている。
口だけならまだしも、実際にそれをやり遂げるのだから恐ろしい人間である。
――外見も性格も全然似てないのにな……。
セレス嬢を見ていると、時々妹の姿が脳裏をよぎるのだ。
魔獣襲撃という一騒動があったにも関わらず、ヴァレンシア軍一行は日の出も待たず夜中のうちに行軍を再開した。
といっても、一度外敵からの奇襲を受けるとその対応もより慎重にならざるを得ないもので、外回りの警備強化は元より、単独行動で人目に姿を晒した俺の周囲には出発当初に比べて倍近く護衛の数を増やされる羽目になってしまったのは言うまでもない。
俺が倒した魔獣については、従軍魔道士による簡単な遺体調査ののち、火葬で処分された。土に埋めるより燃やした方が手間を取らないというのがアレンさんの意見。だがピロから聞いた話によれば、魔獣の死体は腐敗が進むとアンデット化して再び動き出す危険があるから、火葬が一番安全だというのだ。ゲームの世界ならまだしも、実際に死体が起き上がって地上を徘徊するというのは聞かされただけでも鳥肌が立ったぞ。
《夜行性の魔獣といえば分かりやすいかもしれませんね。本来魔獣とは昼間に活発化する生き物。けれど中にも例外があって、陽の光を嫌う食人鬼や死霊などは夜間活動を主としています。今回現れた魔獣もその一種ですよ。識別名を“ライカンスロープ”。強靭な肉体と驚異的な生命力を宿す妖獣系の夜行性モンスターです。普段は山林の奥深くに生息していて滅多に麓へは下らず、気性も至って穏やか。それなのに、かの魔獣が生息する地域一帯の村々ではほぼ毎年のように家畜や村民の被害が後を絶たず、トロールやゴブリンに次いで危険な魔獣として人々から恐れられているんです。何故だと思いますか?》
――奴の住む森を村民が伐採するからか? 自分のテリトリーを脅かされたら、いくら大人しい魔獣といっても怒り爆発だろ。
《なかなか的を得た回答ですね。確かにそれが原因で人に襲い掛かった魔獣の事例も存在します。しかし、ライカンスロープの場合は人的関与よりもずっとタチが悪い》
――というと?
《月光を浴びると凶暴化する性質を持っているのですよ。…『よく晴れた月夜の晩、鼓膜を震わす遠吠えと共に訪れる集落の静寂ほど不安にさせるものはない』。ライカンスロープがどれほど人々に恐れられているか、現場に遭遇した吟遊詩人が詠った詩の一部です。どうせ逃げても奴の足には敵わないのだから、じっと息を潜めて暴走が収まるのを待つ方が得策。死んだように静まり返った村の沈黙は、その詩人に明確な死の恐怖を与えて離さなかったんです……》
――そ、そんなヤバイ魔獣相手に、あの兵士たちは戦ってたのか……。
一人も死者が出なくて本当に運が良かった。お嬢や近衛騎士の皆さんには悪いが、俺の行動が間違っていたとは思えない。あのまま傍観していれば、被害は計り知れなかっただろう。
《しかし、ただ一つひっかかる事があるんですよねぇ……》
ピロが珍しく腑に落ちない声音で言いよどむ。
俺が理由を訊くと、ピロは少し間を空けて一言、空を見てくださいと言った。
空? 空が何か問題あるのか?
疑問に思いながら夜空を仰ぎ見てみる。
…………。
……うん。何の変哲もない曇り空だ。星が見えないのは少し残念だが、空気が澄んでいてなかなか清々しい。魔獣や盗賊が出没することがなければ、存分に快適な生活環境を築ける家を建てることができることだろう。
「……ん?」
いや、待て。
曇り空? 陽が落ちてから随分暗いと思っていた。そうだ、もっと松明を増やせば明るくなるとか、俺はピロに愚痴っていたはずだ。
くそっ、眠気が酷かったせいで全然気にならなかった!
――月が出ていない……!
そうだ、立ち込める雲が大きな月を二つとも隠してしまっている。
道理で辺りが真っ暗になるはずだ。今晩は“月の光が地上を照らしていない”のだから。
《キリっちも気付いたようですね。ええ、そうです。雲が邪魔して月光はここまで届いていないのに、ライカンスロープは凶暴化してこの平原に現れた。これは一体どういうことでしょう?》
俺を試すような疑問口調だった。
思い当たる節があるわけないから、原因がなんであるか考察してみる。
……うーん、この世界の特性から考え得る答えを挙げるとすれば、やっぱり魔術的な何かが関係してるのか?
適当に推測しただけの返答だったが、ピロは嬉しそうに俺の言葉を肯定してくれた。
《ご明察。外野からの介入があったことはまず間違いありません。月が出ていない以上、その光を浴びて凶暴化した可能性はあり得ない。となると、考えられる原因は第三者による人為的工作。しかも軍隊が気を緩める野営中を狙った、計画的な犯行です。恐らく、ライカンスロープの神経系に刺激を与えて精神を錯乱させる魔術、或いはそれを引き起こす特殊な魔道具を用いて凶暴化を無理矢理引き起こしたのでしょう》
――な、何故だ? そんなことして、首謀者に何のメリットがある?
《こうもあっけなく騒ぎを収束してしまいましたからね。目に見える形でこちらに被害が出ていませんし、首謀者の目的が何であったのか今のところ検討もつきませんよ。犯人が国外の工作員なら、まだ目的も推測できますが……》
――どういうことだ?
《あなたの暗殺ですよ。王族が同行する軍団、しかも明かりが少ない夜間に行軍し、兵士たちも疲れで周囲の監視がおろそかになっている状況、人目に気付かれず兵士の列に紛れ込むのは容易です。ましてや魔獣の奇襲で陣中をかき乱してしまえば、キリっちに向く注意は一層少なくなる。魔獣に気を取られている隙に後ろからグサッ、なんてことも可能だったでしょう》
寒気がした。
本当に首謀者が俺の暗殺を目的にしていたなら、俺は運良く逃れることができたというのか。どうもこの世界では、真正面から正々堂々の戦というのはもはや時代遅れらしい。まあ確かに、武力でごり押しするより謀略で内部から崩す方が犠牲も少なくて済むよな。暗殺もその一環ってか? ううむ……俺なんか殺しても国力に影響は出ないと思うが……。
しっかし、物騒なことをこう淡々と話すこいつの無神経さはどうにかならんかね。
《天幕を飛び出したあなたを、騎士たちが無理に引き止めようとしたのも、混乱に乗じる不届き者を警戒しての咄嗟の行動だったのでしょう。彼らは要人を守ることに長けたエキスパートです。今回の魔獣襲撃も、ただ事でないと騎士たちも勘付いたのかもしれません。まあ無論、そんな輩がいたなら小生が真っ先に気付いてキリっちに知らせてあげられますが》
――要するに、だ……騒ぎの首謀者が敵国の工作員であるなら、目的は俺の暗殺が可能性として高い。けど、それ以外だと犯行が不確かで目的も人物像もさっぱり不明。手がかりなしってことか……。
《また思わぬ罠を仕掛けてくるかもしれません。王都に戻るまでは、身の回りを警戒することに越したことはないでしょう。小生も出来る限りサポートしますから、キリっちも常に気を引き締めておいてくださいな》
――お、おう。
さあエラいことになった! ただでさえ軍事作戦の大将をアレクに任されて色々苦労してるところに、暗殺者云々の不幸が飛び込んくる始末。
まだはっきりわからないから何とも言えないけど、俺の予想的に十中八九何かが起こる気がしてならない。もし暗殺者に襲われたとして、護衛の隙を突いて直接斬りかかってきたらどう対処すればいいだろう。素手で直接やり合うか? いいや、物理戦闘なら相手の方が上手だろうし無謀だな。それに敵が魔道士である可能性も捨てきれないから魔術による反撃も考慮に入れねばまずいだろう。接近戦で有効な魔術かぁ……前線基地で使った足元滑らせるヤツ結構良いかもしれん……! あ、でも対象者が自分以外全員というのは不利だ、これ無理だな。却下。
俺が馬上で色々対策を練っている間も、軍列は均衡を保ったままトラブルもなく前進していた。
トラブルで思い出したが、さっきはお嬢が馬から落馬するというのがあったが、今は他の魔道士たちが乗る馬車に引っ込んで大人しくしている。
ただ一つ気がかりなのは、ピロが先ほど言った裏のある何気ない独り言が原因か。
《山奥に生息する魔獣を、なんだってこんな平原にまでわざわざ連れて来たのか……。野営に魔獣を放って現場を混乱させるならもっと効率的な方法もあったはずだし、やってることは無駄骨としか思えない。首謀者は単なる馬鹿か……それとも、何か別の目的があって我々を狙っているのか……》
==============
明け方。
東部戦線基地から転送陣で王都の魔道管理局に帰還したアレク一行は、軍務大臣ファーナグの要請で至急、ヴァルハラ宮殿に戻ることになった。
「おお、陛下! よくぞ戻られました……!」
宮殿のエントランスでアレクたちを迎えたファーナグは、心底ほっとしたような表情をその強面で表現してみせた。
再会の挨拶もそこそこに、アレクが早速事情を聞きだす。
「俺に急ぎの報告があると聞いたが、何かあったのか?」
ファーナグは小さく頷くと、手元から折りたたんだ羊皮紙を取り出した。
「今日の未明に、ランスロット国内の諜報魔道士から戦後の第一報が届きました」
手元の紙をアレクに恭しく渡しながら、ファーナグは話を続ける。
「本作戦が終了次第ヴァレンシアに帰還させるつもりだった者です。こちらから何度も召還命令を出したのですが、二日間消息が掴めず……本日やっと応答がありました。その羊皮紙に、伝報の内容が記されてあります」
アレクは折りたたまれた紙を慎重に開くと、無言のまま文面を読み始めた。彼の顔は終始無表情で、特に関心を寄せている風でもない。だから内容も大したものでないだろうと、周りで控えていた近衛騎士たちがホっとするのも当然だったかもしれない。
だがアレクが手紙を読み終わり、怒りに染まった表情をファーナグに向けたときは、アルテミスでさえ彼のうちにもう一人の人格が潜んでいるのではと疑いをかけるほどだった。
「こいつは面白くない展開じゃねぇか……マジの内容なんだろうな!」
「は。二度に渡り向こうと確認を取りましたから、間違いありません」
「ちっ……!」
声を荒げるアレクの取り乱した姿に、アルテミスは直感する。
――ああ、これはまた……取り返しのつかない悲惨な出来事が起こってしまったと。
「ファーナグ大臣、その羊皮紙には一体何と?」
「……本当に、我が目を疑う内容だ。この最悪なシナリオは、私も想定外だった……」
アルテミスの問いには答えず、ファーナグは静かに首を横に振った。
彼女に疑問に答えたのは、紙を握り締めて荒い呼吸を繰り返すアレクである。
「アロンダイトの街が壊滅した」
「え……」
これは誰のかすれ声か。
しんと静まり返ったヴァルハラ宮の大玄関で、アレクの刺々しい声だけが響き渡る。
「仇国の首都が壊滅的な打撃を被った! 王国としてのランスロットは、すでに存在しない……」
御託や専門用語がふんだんな四十八話でしたw
臭い台詞や長い説明文についてはご容赦を。
今後の展開に必要な伏線であったりしますので。