第四十六話 夕刻
リディア王国の王都、デュルパン城壁外の草原を埋め尽くしていた天幕は、トーテム山地の戦いから一夜明けた翌日に慌ただしい動きを見せていた。
リディア救援軍として対ランスロット戦に参戦したヴァレンシア国軍約八千の野営地である。本来は救国の友軍として然るべき待遇を施されているはずの彼ら兵士たちはしかし、上官の凱旋準備の命令を受けて急遽天幕の解体作業に順じていた。
帰郷には四、五日を要すると踏んでいた時にこの上官命令である。しかもその上官というのが“魔人”の二つ名として名高いアレン・キムナー中佐であるから部下たちはたまらない。普段の柔らかい物腰とは一変、厳つい表情を貼り付けるアレンの監視を前に兵士たちは満足な休憩も許されず、過酷な労働を強いられているのだ。
理由も聞かされていなかったので、兵士たちの間で不満や不審が広がるのは当たり前である。間もなくして、上官を愚痴る兵士たちが波紋のように周囲に感染し始めた。
「ったく……帰るなら帰るで事前に伝えてほしいぜ。これじゃあ居眠りどころか夜中の睡眠すりゃろくに摂れやしねぇ」
「けっ、俺なんか昨夜は歩哨の仕事で一睡もしてないんだぞ。お前なんかまだまだ……おい、そこの兵士! この骨組み運ぶの手伝ってくれ」
「急遽決まったことなんだろう? 我らが中佐殿のことさ、余程の一大事じゃない限りこんな無茶な命令を出すとは思えないけどね……」
「おい、お前ら知ってるか? さっきグラックの奴に聞いたんだけどよ、何でもアレクシード陛下がこの街に来られているらしいぞ?」
「ああ、そいつは多分嘘だな。あの野郎は酒で気が昂ぶると大ホラ吹きやがるんだ」
「酒代のツケを払いたくないから悪酔いの振りで誤魔化してるって俺は聞いたぞ? ……おっと! そこのあんた、悪いが補給部隊の連中から工具一式借りてきてくれ」
「陛下の噂はともかく、あのお方の“お目付け役”を乗せた馬車が街に入ったというのは聞いたよ。昨日の夕刻に入城したらしいね」
「“お目付け役”って……例の近衛騎士団長か!?」
「おいおいマジかよ……国王陛下では飽き足らず、王宮入りしたばかりのキリヤ王子まで骨抜きにしようって魂胆じゃねぇだろうな」
「しっ! そんな滅多な事を言うもんじゃない。どこかに騎士団長閣下の部下が潜んでいるとも限らないんだぞ?」
「とばっちりなんて冗談じゃねぇや。くわばらくわばら……」
真実と虚偽が入り混じった噂があちらこちらに飛び火し、その騒々しさは一層に酷くなる。隊長格の兵士が注意を喚起するも、彼らのなかにも突然の撤退命令を疑心する者もいるのは確かだった。
それに表面上は厳しい態度を徹底するアレンも、部下たちに真実を伏せて命令のみを与えるのは本心ではない。しかし、本当の事を話すことができない理由もある。そもそもこの急な帰還準備自体アレンの意思ではなく、アレク王の密かな要請を受けたためであった。
『住人の俺たちに対する態度があまり芳しくない。昼間の会議でレイニス王子が取り乱した件も含めて、リディア国民はヴァレンシア王国を、ひいては大国の介入を快く思っていないようだ。ついては面倒な事態が発生する前に、早急な軍隊の撤退が望ましいと考える。よって、アレン・キムナー旅団長は全軍への撤退準備通達を急がれたし。詳細についてはキリヤに通してある。貴殿の軍に合流次第、弟から直接聞いてくれ。
追記:ああそれと、中佐の副官以下、隊長格への撤退理由の情報公開は禁ずる。以上』
アレク付きの護衛騎士を経由して渡されたこの手紙は、彼の直筆でアレン宛てに書かれたものだった。
内容を見る限り、リディア国民の反感を買う前にさっさと退散したいと、アレクは考えているようだ。それに関してはアレンも賛成である。いつまでもこの地に留まって周辺国に変な誤解を与えてしまうのは得策ではないし、リディア政府との会議でもリディア王は自国の防衛に他国の力を必要としていないと明言している。これ以上の関与は無意味であった。
(けど……これは本当にそれだけの理由なのか?)
アレンはこの文面を不審に思っていた。というのも、撤退理由の詳細を部下たちに公開してはならないと記されていたからだ。
国際情勢を懸念して速やかな撤退を余儀なくされるのなら、納得のできる範囲で兵士やリディア国民にそれを伝えるべきではないのか? 秘密裏に旅団単位の軍勢を動かしたとなれば、こちらの都合はともかくリディア側がそれを黙認するとは限らない。それともリディア政府には事の動きを事前に通達しているのだろうか。『ヴァレンシア軍の動向に関して、貴国の害する事態にはならない』と。
(いや、待て待て……リディア認可で為された撤退行動なら、わざわざ情報を秘匿する意味がないじゃないか)
色々想定して結論を捻り出すも、アレクの考えていることがさっぱり読めない。昔から想定外な行動を取るお人だと思っていたが、今回はそれに輪をかけて性質が悪いような気さえする。“旅団長”としての自分の立場も考えて欲しいものだと、アレンは今更ながらアレクに対して不満をぶつけずにはいられなかった。
「キムナー中佐? どうか致しましたか?」
背後から声を掛けられたのはその時だった。
驚いて振り向いてみると、白銀の鎧に身を固めたアレンの副官が怪訝な表情を浮かべてこちらを見つめている。名をダリスと言い、頭髪を全て剃り上げた褐色肌の男である。階級は大尉。アレンとはそれなりに長い付き合いで、共に数多の戦場を駆け巡った戦友でもあった。
「ダ、ダリス。どうかしたのかい?」
声を掛けられるまで副官の来訪に気づけなかった自分に動揺し、思わず声が上擦ってしまう。
ダリスはそれを追及するわけでもなく、険しい表情を浮かべたまま言葉を返した。
「歩兵連隊の撤退準備が完了したことを報告に参った次第です」
「そうか……うん、意外と早かったね」
「大至急準備せよとのお達しでしたからな。我々は旅団長の命令に従ったまでです」
「……あ、ああ。そうだったな」
普段なら「相変らず無愛想だな」と苦笑する場面も、部下に隠し事をしていると思うと罪悪感でそれらしい言葉が出てこない。
戦場では右に出る者がいないほど果敢な勇姿を見せる魔人アレンも、人を騙すような小賢しい知恵を有しているわけではなかったのである。嘘の吐けない正直者は人として評価に値する時もあるが、戦略的に見れば愚直過ぎるのも少し考えものであった。
(はぁ……何だって僕はこう何度も損な役回りを任されるのかなぁ)
王族から極秘に依頼を受けるということは、それだけ信頼されている証でもあるのだが、生憎とこのアレンなる軍人はその事に苦を感じている。
重責を背負わされてまで名誉を預かるくらいなら、一兵卒として戦場で戦っていた方がまだ楽だったろう。ダリスが聞いたら愕然としそうな話だが、アレンにとっては冗談だと笑い飛ばせない真剣な事であった。
(できれば、全て思い過ごしであってほしい……)
このまま厄介事に巻き込まれず帰還できれば万々歳だが、そんなアレンの切なる願いを打ち砕くある者の来訪が、新たに報告に現れた兵士により告げられることになる。
「中佐殿!」
忙しく動き回る兵士の合間から姿を現した軽装鎧の兵士が、アレンの前で膝を折った。
「今し方、殿下付きの近衛騎士より言伝が……!」
「……続けてくれ」
「は! 東方方面軍総司令キリヤ王弟殿下がヴァレンシア軍の野営地にご参上なされるとのこと。よってキムナー中佐には、ぜひともお二方のお出迎えにご参列願いたとご所望しております!」
――――ついに来たか……。
胸中で盛大なため息を吐いてから、アレンは副官に向き直った。
「さぁダリス。僕たちの最も尊い上官をお迎えにいかなくては」
=======【キリヤ視点】=======
今更だが、俺は体質に致命的なコンプレックスを持っている。
一つは、心を許さない相手との接触ができないこと。
もう一つは、他人と必要以上にコミュニケーションを取ることができないことである。
この世界に召還されるまで……いや、少なくともこの世界を色々知って間もない頃までは、この症状は俺にとっての日常だった。他人との交流が増えて幾分かマシになったものの、だからといって全て克服できたわけではない。
例えばそう、数え切れない衆目に長時間晒され続けたりするとひとたまりもなかったりする。
《キリっち……いくら何でも緊張し過ぎなのでは……》
――――うるさい! いま俺に話しかけるなっ!
周囲を埋め尽くす人、人、人。人の大行列。
武装した兵士の集団が左右に分かれて列を作り、長い一本道を形成している。彼らはいずれも白銀の鎧を身に纏い、恭しく敬礼して来るべき人を待って直立していたのだ。
その来るべき人というのが――
「ではキリヤ殿下。参りましょう」
「あ、ああ……」
他ならぬ俺だ。いや、俺の他でも融通が効くならぜひともそっちを採用してほしい。
護衛の騎士に促されるがまま、俺は心の準備を整える暇も許されず人が成すその道に足を踏み入れた。
するとほらきた! 突き刺さるような圧倒的多数の視線の気配。遠慮の欠片さえ感じられないその目線に俺の全身は総毛立つ。何とか身震いを押し殺し、仮面がしっかり装着されているか確認してから一歩一歩慎重に歩みを進めた。
…………。
し、静かだ……静寂過ぎる……。
もう少し騒々しい雰囲気を出してくれても良かったのではないか。その方が気が紛れて少なからず精神への圧迫を軽減できるのだが、生憎と周りの兵士たちは小言どころか物音一つさえ立てずに厳粛な空気を保っている。軍隊としての規律や統率がしっかりと備わっている証拠だろう。無論、俺にはありがた迷惑でしかなかったが……。
王子に成りきるというのがどれほど大変な事か、今回の件でまたさらに思い知らされた。どうやら今の俺の立場は、俺が思っていた以上に複雑なものらしい。
順を追って説明することにしよう。
時間は少し遡る。
そもそもの発端は、デュルパンの王城でアレクがとある事件の話を始めたときからだった。
「住民が、一人もいない……?」
そんな馬鹿な話があるか。
医務室での騒動がひとまず落ち着き、部屋を別に移した時にこの報告である。アレクの話を聞き終えた後に見せたセレス嬢の顔には、確かにそんな言葉が似合う表情がありありと見て取れた。
普段の彼女なら「ふざけないでください!」と怒っていたのかもしれないが、あくまで真面目な態度を徹底するアレクと、彼の傍に黙ったまま控えるアル姐さんの様子に、お嬢も冗談だと一蹴できない。
「……本当、なんですか?」
「嘘じゃない。奪還作戦の道すがら近隣の町や村を何度か通過したが、地元住民の気配はまるで感じられなかった。最終攻略拠点のランダルもだ。二百名余りのランスロット兵士が街の防衛に当たっていただけで、住民は一人としていなかった……」
「そんな……」
余程深刻な事態だってことは、アレクとお嬢の顔を見ていれば嫌でもわかる。
“攻略拠点”やら“ランスロット兵士”なんて物騒な単語が出るくらいだ、相当まずい状況なのだろう。
――――ピロ、アレクの言うランダルというのは何だ?
《ヴァレンシア東部地方、ランスロット方面の国境沿いに位置する城塞都市の名前ですね。十年前の“ヴァレンシア東部事変”以来、ランスロット軍の占領下になっていました》
――――けどそれは、今回の東部作戦ってやつの戦いでヴァレンシアが奪い返したんだろ?
《ええ、そうです。あなたを指揮官とするリディア救援軍八千はトーテム山地へ急行した一方で、ファーボルグ将軍率いる七千の国軍が奪還作戦のためランスロット方面の国境付近に進軍しました。ランダルは昨日の正午に陥落して、現在はヴァレンシア軍の統治下になっていますよ。もっとも、治めるべき住民が一人もいないようですから、現状ランダルは対ランスロット王国の最前線になっているでしょうけど》
城塞都市……。
そんだけでかい街なら、住民の百人や千人残っていてもいいはずだ。それなのに一人もいないというのはさすがに度が過ぎている。お嬢が疑うのも無理はない。
「あの……陛下。そのこと、本国には報告なさったのですか?」
場の空気に堪えかねてか、セレス嬢が遠慮がちにアレクに問う。
アレクは少し迷うそぶりを見せ、それからセレスの言葉に小さく頷いた。
「逡巡したがな。一個師団の軍隊で解決できる問題じゃないと思ったんだ。秘匿通信用の伝報水晶を使ってヴァレンシア中央議会議長に文を送った」
「それで、返答は?」
「早急に非公開の会議を執り行うつもりらしい。ランダルに詰めるファーボルグ将軍旗下の第六師団とも連絡を取り合って、行方不明の住民捜索に尽力してくれるらしいが―――」
「それでも、成果のほどはあまり期待できないでしょう」
アル姐さんがアレクの言葉を引き継いだ。
「ランスロットの占領下に置かれていた土地といっても、その支配領域は国境沿いまでしか及んでおりませんでしたから。内地の捜索はともかく、国境の役割を成す山沿いに非公式で軍隊を展開させたとなれば、いくら住民捜索のためとはいえ他国に余計な誤解を与えかねないかと」
「たたでさえ今回の大規模な軍事作戦で、周辺諸国が浮き足立っているからな。国境の警備を強化してヴァレンシアの行動を警戒する国があってもおかしくない」
なるほど。全力を上げて事の解決に当たりたくても、他国の圧力というか、自国に及ぶ悪影響力を看過できないから難しいと? つまりはそういうことか……。
《おや、キリっちも随分とお利口になったじゃないですか》
出たよ。
――――お前は以前にも増して皮肉に磨きがかかっているな。
《ほぉ……皮肉を皮肉で返しましたか。いやはや、その調子で口の方も達者になってくれたら良いんですがね》
そうなったら真っ先にお前を言葉で言いくるめてやるから覚悟しておけ。
いやしかし、俺が他人と積極的に話せるようになったのって、ほとんどこいつのお陰でもあるんだよな。普段からテンションが空回りしてるけど、それが逆に人と話す勇気をくれるというか、ピロと念話するくらいなら人と話していた方がマシというか、まあ俺の役に立ってくれているはずだろう。
《わざわざ非公式で捜索するより、国が公表して他国に協力してもらった方が効率がいいと思うのですが……。そうはできない理由が何かあるのですかね?》
――お前にはわからないのか?
《波涛万里を越えて古今東西いろんな人物を見てきた博聞強記な小生ですが、人の真意まで知ることはできないのですよ。ほらキリっち、理由をアレク王に聞いてみてください》
この野郎……俺を伝言役か何かと勘違いしてるんじゃないか?
と言っても、アレクが秘密にしたがるのは俺も気になっていた。
ここは思い切って訊ねてみることにする。
「アレク、周辺国の動きを恐れるなら、ここはこちらの動向も明かして他国に捜索の協力を要請した方がいいんじゃないのか?」
長々と喋ってしまったせいか、最初アレクは珍しいものを見たようにぽかんと口を開けて俺の顔を凝視していた。失礼な! 俺だってたまには饒舌になったりするんだよ。
「あ、ああ。キリヤの言うとおり、そのことはもちろん考えたさ。けどそれには色々と障害があってな……」
歯切れの悪い返答だった。何か問題でもあるのか?
疑問に思った俺がアル姐さんに視線を送ると、彼女は苦笑を浮かべて答えてくれた。
「国家権威というものがあるのです。今まで圧倒的な国力を誇っていた大国が国内の諸事問題に躓き、周辺諸国の手を借りざるを得ないほどに成り下がったとあっては、国家の真価が問われます。他国に泣きついた結果下手に見られてしまい、敵対する国家の脅威を招きいれてしまう事態だけは引き起こしてはなりません。これだけは何としても回避するようにと、陛下はお考えなのです」
ううむ……どうやら一筋縄ではいかないみたいだな。
内容を聞く限り、うわべは国のプライドを守るために意地を張っているようで、その本命は国家の危機を未然に防ぐための防衛策なのだろう。けど国民の安否がわからない今、このまま隠して事を進めるのもいかがなものか。
アレクがため息を吐く。
「……つっても、親父の世代から中立を貫いてきたヴァレンシアに、現状快く味方してくれる国なんてそうそういないがな。大国に良い印象を持たない小国からは疎まれ、自国を肥沃にせんと領土拡大を企む他の大国どもからは完全に目の仇にされている。周り中敵だらけさ。捜索要請だって? けっ! 頭のイカれた権力者ってのは欲に目がくらむとどんな汚い手段も平気な顔で実行しやがるんだ。要請を承諾したが最後、捜索隊の代わりに武装軍団を送り込んでくるだろうよ」
話しているうちに言葉に熱が篭り、荒っぽい口調になっていくアレク。アル姐さんが背後から咎めなければ、そのまま永遠に罵っていたかもしれない。
それにしても、頭のイカれた権力者ね……。俺の先入観に間違いがなければ、アレクもその一員であるように思うぞ。
「それで、陛下」
それまで俯いて黙っていたセレス嬢が、顔を上げてアレクを見た。
「行方不明になった住民の人数は、判明しているのですか?」
「詳細な数はわかっていない。だが、推定では少なく見積もってもおよそ八千人。多くても一万人を超えるか超えないかの規模だ」
「そんなに……」
この世界の人口比率がどれほどのものか知らないが、青くなったお嬢の表情を見るに決して少ない数ではないのだろう。
いや、街からまるまる人がいなくなっているんだから多いに決まってる。近隣の町や村からも、同じように……。
ふと視線を感じて、俺は思考の底に沈んだ意識を引き上げた。
アレクだ。感情を押し殺した瞳で、俺を注視している。一体なんだ? 俺が首をかしげると、彼はすっと俺から視線を逸らした。
「……この事件が住民の意思に反して起こったことなんて 火を見るより明らかだ。首謀者は間違いなく、ランスロット政府の指導者ないしその幹部の一味だろう。みんなランスロットに連行されたんだ……。捜索もきっと無駄骨に終わる」
「陛下……」
アル姐さんがアレクの肩越しに声をかけるが、アレクはこぶしを握り締めただけで大した反応を見せない。
「俺は……このままイグレーンに戻る。戻って、大臣たちと今後のことを話し合ってみようと思う。三日以上王宮を留守にするのも、さすがにまずいしな……」
ああ、そうか。時々忘れそうになるが、アレクはヴァレンシアという王国を統べる王様なんだっけ? 確かに、一国の指導者が何日も他国に居座るのはよくない。どこに毒牙が潜んでいて、いつ誰に命を狙われるかわからないしな。
しかしセレス嬢は、アレクの言葉に同意するどころか目を丸くしていた。
「え? 今から帰るんですか?」
「ああ。もちろんだ」
「でも、もうすぐ陽が沈みますよ?」
言われて俺も気づいた。本当だ。窓越しに見える空の色は朱色に染まり、太陽も山の向こうに姿を消そうとしている。今からヴァレンシアの王都に戻ろうものなら、間違いなく日付が変わってしまう。
ただアレクは、やれやれと首を振り、
「はぁ……お嬢、そこは突っ込まないのが普通だろ?」
セレス嬢が半眼になる。
「言っている意味がわかりませんが……?」
「わからなくていい。理解されたら俺が困る」
「???」
意味不明だ。お嬢が頭を抱えてぐるぐる身体を揺らし始めた。アル姐さんはいつも通りの無表情。俺はどうかって? そんなの、このシュールな場面で笑いを堪えるのに必死だったさ。
口元を引きつらせて声が出ないように力んでいると、突然真面目な表情になったアレクが俺に向き直った。
「それとキリヤ、ぜひともお前に頼みたいことがある」
この男の真面目な様子はなかなか拝めることじゃない。住民失踪の件で、苦渋を見せたアレクが思い浮かぶ。こいつだけは自分と反対側の世界を生きているとばかり思っていたが、結構共感できる部分もあって感心していたんだ。だから少しでもアレクの力になりたいと思った俺が、真剣に頼みごととやらを受け入れるつもりでいたのはもはや必然か。
一体どんなことを頼まれるのだろうと、背筋を伸ばし、相手の話を聞く体勢で構えていた俺はその時見てしまった。
――アレクの唇が綺麗な弧を描き、不敵な笑みを形作るのを。
「まぁ……なんだ。ちょっとした作戦に付き合ってもらいたいんだ」
「……殿下、どうかされましたか?」
――はっ!?
長い回想から我に帰った俺の視界にアレクはいなかった。隣では近衛騎士の男が、俺の仮面を覗きこんで心配そうな表情を浮かべている。
「殿下?」
「……いや、何でもない」
少し息を整え、意識を現実に戻す。
するとどうだ。周囲を埋め尽くす兵士たちが嫌でも目に入って、俺はまた別の意味で精神に支障をきたし始めた。
《嫌なら断れば良かったのに……キリっちもお人好しですよねぇ》
こんな大勢に迎えられるなんて知ってたら即行で断ってたさ! ちくしょう、嵌められた!
アレクは俺に言った。アレンさんの率いる第八師団と合流し、今夜中にも全軍で移動を開始してランスロット方面の国境沿いに軍を展開させろと。
兵法の基礎もわからない一般人の俺に『軍を展開させる』なんてできるのかと最初こそ肝を冷やしたが、これは全てアレンさんがやってくれるだろうということでひとまず安心したのだ。俺はあくまで軍を統べる御旗、兵士たちの士気を高めるための重要な人材らしい。
まあここまでは良い。これなら俺でも何とかなる。
だが問題は、俺がアレンさんと合流するまで正気を保っていられるかどうかだ。
「…………」
一体どこまで続くというのか。
左右に並ぶ兵士たちの列が目に見えない圧力となって俺に圧し掛かる。熱烈な視線をどうもありがとう! くそったれ!
――アレクの野郎、よくもこんな嫌がらせを用意してくれたな。
《免疫がついていないキリっちの責任でしょう。セレスさんならともかく、まさかアレク王があなたの特異体質を知っているわけじゃあるまいし》
――衆目に晒されて歩くことに何か意味があるっていうのか?
《あります、大アリです。いいですかキリっち。あなたの今の立場は紛いなりにもアレク王の弟、つまり王族なんです、すっごく尊いんですよ! リディアの救世主と噂されるあなたの姿を一度でも拝見したいと思うヴァレンシア人たちは大勢いるのです。わかりますか? 便所コオロギみたいにこそこそ陣中を移動していたら、兵士たちの不審を買ったり、臆病者と馬鹿にされるかもしれないのですよ! あなたはそれで良いのですか? 良いわけないですよね!? 変わるって決心したのでしょう? だったら頑張りましょうよ。あなたの正体を怪しまれるのは小生も不本意ですから……!》
――わかった! わかったから落ち着けって!
まったくなんて奴だ。理由聞いただけなのに脅し文句から説教まで全部言い切りやがったぞ。
ここまで徹底的に言われると、逆に対抗心が沸いてくる。いいだろう、こうなったら最後まで王子らしく振舞ってやる。
俺は俯いていた顔を上げ、胸を張って佇まいを整えた。
歩みの歩幅を長くして、ただし不自然にならない程度で大股に歩き、できるだけ高圧的な態度を表に出す。
《ううむ……イマイチぱっときませんね~。ちょっと偉そうになっただけというか……》
――それで十分だろ!? もうこれ以上無理。恥ずかしくて死にそうだ!
護衛の騎士に恭しく誘導されるまま俺がたどり着いた場所は、隙間なく整列する兵士たちの間にぽっかりと空いた広い空間だった。
その空間の真ん中に、白銀の鎧を纏った騎士が二人肩膝を突いてこちらに頭を下げている。一人は見たことのない人物だ。褐色の肌をしたスキンヘッドの男である。そしてもう一人は……。
「あ、アレンさん……!」
後ろでセレス嬢が声を上げる。
緊張しっぱなしで忘れていたが、そういやお嬢は俺の元に残っていたんだった。俺を守れということでアレクが彼女を護衛として付けてくれたんだが、もとよりお嬢は俺についてくるつもりだったのか不満顔ひとつせず朗らかに承諾したのである。やけに素直だったから何か企んでいるのかもしれないと疑ったほどだ。そんなに俺の珍しい魔術に興味があんのかね。
ちなみにアレクたちは一足先に街を発ち、護衛の騎士たちを連れて馬車でヴァレンシア領内に向かっている。一旦前線基地に戻って、そこから転送陣で王都に帰還するつもりらしい。少数の連れだけなので道中危険かもしれないと思ったが、のちのち考えるとアル姐さんも一緒だから多分大丈夫だろう。
いやいや、他人の心配してる場合か俺!
「ようこそおいでくださりました、キリヤ殿下。殿下が我らの陣中をご訪問なされるということで、我らヴァレンシア軍第八旅団の軍人一同殿下のご到着を心待ちにしていた次第です」
堅苦しい言葉を並べ、のっそりと立ち上がるアレンさん。
普段はもっと気安い柔らかな口調だろうが、何千という兵士たちに見守られながらだとさすがに畏まった態度になるようだ。あ、普段も丁寧だっけか? 何せ多重人格者だから基準がよくわからん。
彼は俺の背後に控えるお嬢にも目礼したのち、身体を脇に引いて隣の騎士を片手で示した。
「僭越ながらご紹介をさせてください。私の副官のダリスです。殿下がお会いするのは、今回が初めてかと」
アレンさんの言葉に俺は頷いた。確かに初めてだ。こんだけ特徴的な外見をしていれば忘れたくても忘れられないだろう。
スキンヘッドの騎士が、立ち上がって深々と頭を下げる。
「お初にお目にかかります、殿下。キムナー中佐より副官の地位を任されております、ダリス・カーレイ大尉であります」
ふうむ。ダリスさんね……。アレンさんと比べたらこっちの人の方がよっぽどリーダーって雰囲気がするんだが……やっぱり人は見た目じゃないのか。
《ちょっとキリっち……》
ああ、わかってるよ。返事かえせばいいんだろ?
「キリヤです。よろしく……」
そう言って軽く頭を下げておく。
別に面倒だから口数少なく返答したわけじゃないぞ。周りの大勢の視線が恥ずかしくて、上手く言葉に出来ないだけだ。
するとダリスさんは唖然とした表情で俺を見つめたまま固まってしまった。俺の態度があまりにも素っ気無過ぎて怒りすら沸かないらしい。アレンさんはそんな副官を一瞥してため息を吐いたあと、セレス嬢と顔を合わせて苦笑を浮かべた。
ん? 何だ? 何がおかしい?
「……何か変なこと言ったか?」
後ろを振り返り、お嬢に訊ねる。彼女は何故か楽しそうに微笑んでいた。
「ううん。意外って言うのかな? キリヤ君と初めて会う人ってみんな似たような反応なんだなって」
「は?」
余計にわからなくなった。
「それではキリヤ殿下。撤退準備の完了までしばらくの間、奥の天幕でご静養なさってください。もちろんデルクレイル嬢と護衛騎士の皆さんもどうぞ」
それからアレンさんは俺に向き直て声を潜める。
「急な凱旋準備のまことの理由、弟君のキリヤ殿下よりお聞きせよと陛下から便りを頂戴致しました。詳しい内容のほど、お聞かせくださいますよう」
「…………」
凱旋準備の理由……。
ああ、そういえば確かに、暗号文みたいな言葉をアレクから聞かされたっけ? 忘れずに覚えておけと念を押されたけど、結局どういう意味なんだ?
=======【アルテミス視点】=======
夕焼けに染まる無人の平原を四頭立ての馬車が走る。
高速で回転する車輪が砂利を巻き込み、砂煙を後方に発生させた。激しい走行に車体がガタガタと音を立てるが、戦車を改造して造った馬車の強度は並のものではない。平行して軍馬を駆ける近衛騎士たちにも遅れを取らず凄まじい速度を見せていた。
「本当に、よろしかったのでしょうか……」
その馬車の内部、震動で揺れる眼鏡を中指で直しながら、アルテミスは向い席に座る男に声をかけた。 ヴァレンシア王国で最も高貴な人物であるはずの男はしかし、腕を組んで背もたれにだらしなく座っている。正反対にアルテミスは背筋を伸ばして両手を膝に乗せ、体勢にゆがみがない。
「せめてキリヤ様には真実をお教えしてもよろしかったのでは?」
無造作に伸ばされた前髪から金色の瞳を覗かせ、男は応える。
「誰にもバレないという保障はない。あいつは無口で堅物だが、たまに感情的になりやすい一面もある。議事堂での騒動がその例だ。つい口が滑ったでは取り返しがつかない」
アルテミスがため息を吐く。
「感情的になると手がつけられないのは陛下も同じです。もっともアレク様の場合は、ボロが出過ぎてどれが本音かわからないのが幸いですが……」
「ぐぐ……そ、そんなことはない。俺だって肝心なところでは自重するさ」
つまりそれは、“肝心なところ以外”ではお喋りになるということではないのか。
さすがに呆れて、アルテミスは引きつった笑みを浮かべるアレクから視線を外した。馬車の小窓からは、城壁に囲まれたリディアの首都が遠方に確認できる。本来自然を好むはずの妖精が住み着くほどの由緒ある建造物が立つデュルパンの街並み。夕日の茜色に染まり、草原に落とす長い影は王城の尖塔のものか。
「勇敢なリディア兵士たちとキリヤが守った街だ。これからは末永く、平和であってほしいものだな」
彼女の視線に気づいたアレクが、腕を組んだまま小窓を覗き込む。アルテミスは言葉の代わりに小さく頷いて返した。
「けど、願うだけじゃ真の平和ってのはきっとやってこないだろう。それを脅かす奴を、徹底的に叩きのめさない限りは……」
「陛下……」
夕闇の暗がりでアレクの横顔は窺い知れない。
前髪に隠れたその瞳には、底知れぬ決意がにじみ出ているのだろうか。父を殺められた復讐の怒りか。それとも、ただ平和を愛する君主の義憤の眼差しか。
元々部外者であるはずのアルテミスに詮索の余地はないことはわかっている。アレクは父の死から立ち直り、今では躓きながらも王としての務めを立派に果たしていると思っていた。いや、思い込んでいた。
(アレク様……やはりあなたは、まだお父上様のことを……)
ふと心に感じた嫌な予感。
小さな胸騒ぎに、アルテミスは思わず胸元に手を置く。
普段より早く打つ心臓の鼓動。彼女はそれを、どこか他人事のように手の平で感じていた。