第三十八話 悲劇の歌姫
ランスロット王国の王都アロンダイトの特徴としてまず一番に挙げるべきものとすれば、それは街の地下に張り巡らされた巨大な地下水路であろう。
広大な草原地帯の中央部に位置するアロンダイトは東部地方の小国の中でも最大規模の都であるが、街の付近に生活用水となる湖や河は存在しない。大規模な街を建設するのには少々不具合が目立つこの地方が、国の心臓部として機能するようになったのにはそもそも水の有無が大きく関わっていた。
「俺も詳しくは知らんが、昔ここ一帯に住んでいた住民どもが深刻な水不足に苛まれたらしくてな。あんたも知っての通り、この地帯は雨季が過ぎるとカラ照りの晴天が何週間も続く。ある時その期間が異常に長く続いたせいで補給分の水が底を尽き、危機的状態に陥って集落が大混乱になったそうだ」
魔道灯の明かりに照らされた傷の男が、暗闇の一点を見つめたまま歩みを進める。
ヴィヴィアンはそのすぐ後ろ隣を付いて歩きながら、暗殺者の話に耳を傾けていた。
「ただ、幸運にも次の日が大雨で、最悪な事態だけは回避されたみたいだがな……。地獄を見た集落の住人どもは、さぞ痛感したんだろう……家に蓄えられた水桶だけじゃ、ひび割れた大地の上で一ヶ月以上生き残るなんて不可能だ、だからもっと大量の水を蓄えなければならない、と……」
単純な話だ。
人は犠牲の上で反省し、学び、また新たな才を導き出す。
ただの伝承や昔話なら、ヴィヴィアンはくだらないと鼻で笑い飛ばしているところだった。歴史の裏を生きる者ほど、世界の理をよく理解しているというもの。英雄と讃えられる過去の偉人たちも、名も知れぬ年代には想像も絶する苦労を耐え抜いていたに違いないのだ。故に彼らは大陸全土に影響力を持つ英傑として君臨する。修飾された表舞台だけでなく、悲惨な裏事情も漏れなく把握しているから。
男は続ける。
「平原一帯を治める豪族……ああ、集落群を纏める族長みたいなものだ。そいつが次の水不足の危機を見越して、大規模な貯水計画に乗り出した。とは言っても、今から十世紀以上も昔の話だからな。水を作り出す魔道具どころか、満足に水を貯める装置なんて古代人に発明できるわけがない。仕掛けは意図も簡単。馬鹿デカい陶器の桶を作って、それを湿原区画のいたるところに設置するだけ。あとは自然が勝手にやってくれる……。雨季の間に溜まりに溜まった雨水を使って、地獄の数週間を生き残るんだ」
理解できないという風に、ヴィヴィアンが顔を顰めた。
「一体その話が、この地下通路とどういう関係があるというのです? あなたの話を聞く限り、話の本筋は地面というより空にあるようですが……?」
話の腰を折られたのが気に食わなかったのか、暗殺者の男は眉間に皺を寄せてヴィヴィアンを一瞥した。
「話は最後まで聞け。……ここまでは想定内の出来事、別段珍しいことじゃない。部族の連中が豊穣の地を求めて移住しようとしなかったのも、その土地が奴らにとって思い入れのある聖地だったからだ。今まで通り生活できる方法があるなら、たとえ一握りの可能性にだって喜んで賭ける。故郷を死地とできるならそれも本望……。住民たちは族長の計画に進んで協力して、民族の存亡を賭けた一大建築に着手した……」
ぴたり、と。
それまでひたすら歩き続けた傷の男は、向い壁も見えない暗黒の空間の中唐突に立ち止まった。
まさかこんな所で立ち止まるとは思うわけもなく、まだまだ歩くことを想定していたヴィヴィアンは立ち止まった男に頭から衝突してしまう。
「いたっ。す、すみません……!」
「……上にやってみろ」
男は顎をしゃくって頭上を示した。
「? な、何です?」
「明かりだ。それで天井を照らしてみるといい……」
「はあ……」
ぶつかったことを怒っていないのだろうか……。
とりあえず言われたとおり、金具の取っ手をしっかり掴んで魔道灯を頭上に掲げてみる。
光に当てられて、天井の表面がテカテカと反射した。
剣山のように鋭い石の棘が真下のヴィヴィアンたちを刺し殺さんが如く、鈍い光明を発して不気味にぶら下がっている。
「鍾乳石……? まさか、ここは人工の地下空間ではな――――」
そこで、彼女は言葉を切った。
ぴくりと眉を跳ね上げ、天井から垂れる複数の石筍となめらかな岩肌をまじまじと見つめる。
天然の産物にしてはそのつらら石の数はあまりにも少ない。あれは……本当に自然が作り出した奇跡なのか? 鍾乳石といっても、その状態はあまりに出来過ぎている。
それは“岩石から生えている”のではなく、まるで“岩石を貫いている”棒状の何かで――――
「っ!? 木幹ですか!」
視線を落として男を振り返る。
彼は仰天するヴィヴィアンを面白がるように見つめたあと、うんとも言わず頭上を仰いだ。
「正確には加工済みの木柱だがな……。よくは知らんが、柔らかい材質を鋼のように硬くできる魔術というのもあるのだろう?」
それは独り言か。それとも質問か。
どちらにせよ、一通りの魔術を知り尽くしている彼女が答えられないはずがないのだが……。
「……強化系の魔術ならばあるいは、対象の物質に施すことは可能です。……まさか、この柱は本当に岩壁を貫いて……!?」
「そのまさかだ。あの天井から地上まで、細長い木が見事に真っ直ぐ貫通している。ここだけじゃない。他の通路の天井にも、同じ状態の柱が幾つも点在していた」
話を戻そう、と男は言い、すぐさま歩みを再開した。
あまりの異常な光景にぼんやりしていたヴィヴィアンは、暗がりに消える男に気づいて慌てて走り寄る。
「……さっきも言ったが、貯水計画とは名ばかりの、ただ巨大な桶に雨水を貯めるだけの単純な装置だ。だが実際作ってみるとなると、その作業は困難を極めた」
「陶器なのでしょう? どういう製法を用いたかは知りませんが、桶にも増すさらに巨大な竈が必要ですね。それに人員も」
「さあな。その辺の過程は俺にはさっぱりだ。だが、四苦八苦して遂に完成した水貯め容器を湿原に設置する段階に入って、製作者たちはある一つの致命的な問題にぶち当たった」
「と、言うと?」
「十分な安定度で桶を均衡に保てるか。……取りつけたはいいものの、強風や豪雨に煽られて倒壊してしまっては意味がない。図体がデカけりゃ、その分体積も広くなる。頑固に鎮座してくれればそれで何も問題はないんだが、何せ土を練り固めただけの粗い代物だ。大岩や銅鉱石ならともかく、縦長で……しかも比較的軽い物体が強い風圧に押されれば無事じゃ済まんだろうな」
それだけじゃない。
この地域は平原であると同時に、雨季には沼が発生する湿原にも変化する。地盤が緩んだ影響で、設置された桶が倒壊する可能性も高いのだ。
生活資源を確保したい欲求に駆られたあまり、最終的な危険性を考慮に入れなかったのは根本的な失態と言える。
「倒れないように固定するにはどうすればいいか……」
傷の男は続ける。
「民族たちはあくまで桶を利用するつもりで、その対策を話し合ったんだろう。すでに雨季は近かった。今更新しい手段を講じる時間もない。連中は必死になって考えたんだろうよ。そして一つの画期的な仕組みを発見した」
知らぬうちにヴィヴィアンは彼の話す一言一句聞き逃すまいとして、隣に並び固唾を飲んで耳を傾けていた。
作り話や伝説には興味ない彼女でも、論理的に説明のつく奇怪な伝承は割と好んでいる。民族たちは一体どうやって用水を確保したのか。それに生じる苦労や危機。それを乗り越えて生まれる新たな可能性。聞き手を話の世界に引きずりこもうとさせる男の話し方も重なって、最初は胡乱に聞き流していたヴィヴィアンもすっかり夢中になっていたのである。
「その仕組みとは、一体何なんです……?」
待ちきれないで思わず聞いてしまう。
「ん? あんたなら気づいていると思ったんだが……まあいい――――」
支柱を用いたと、男は言った。
桶の側面に木製の柱を頑丈に取り付け、鋭く尖れた先端を地中深くにまで突き刺すというのだ。
「強風だろうが嵐だろうが、さすがに地面と溶接されたような状態のデカブツをなぎ倒すなんてことはできない。あとは表面が崩れないように補強さえできれば、少々の問題くらいは魔術で何とかなる」
「ちょっと待ってください! ではあの柱は、古来の民族たちが千年以上も前に作った遺物だというのですか!」
「そうらしいな。最も、こんな多湿な地下で腐らずに残っているのはおかしい。大方、物体保存の魔術でも効いているのではないか?」
「“物質保存”です」
すかさずヴィヴィアンが訂正する。
「どちらでも大して変わらんさ。……まぁ、結果的にその貯水計画が実行されることなんてなかったから、天井のアレも今ではただの奇妙な物体だ」
「失敗したのですか」
「いいや。あの棒を地中に埋めた時にな、偶然その先端が水脈を掘り当てたらしい。連中にとってこれほど皮肉な話はないだろう。水を貯めるために作られた媒体が、よりにもよってその付属品に出番を持ってかれたんだからな。地面掘って井戸を造った方が断然手間が省けたはずだ」
思いもしなかった水源の確保により、民族たちは年中水不足に悩まされることはなくなった。
平原中央部の商人や旅人の流通も増加し、東西南北への移動中継地点としての利用が活発化する。集落群はやがて一つの大きな街へと発展し、大陸東端の一大交易都市としての重要な役割を担うに至った。
「――――それが現代の王都アロンダイト。干からびた平原の民族たちは、一つの水脈を掘り出したことによって莫大な利益を得ることになった。貯水計画を仕切った族長は晴れて大都市の市長にまで上り詰め、その後のランスロット王家は皆、この地方の先住民たちの血を少なからず受け継いでいるというわけだ」
「途方もない話ですね……。まさかこの王国が、そんなに古い歴史を持っていたとは……」
「まぁ、ランスロット王国として正式に建国されたのは四百年前だがな。それまではアロンダイト市国という都市国家と、それに対立する地方の豪族の領地とが牽制し合う戦国時代だったらしい」
そして今、かつて繁栄を極めた小国が北方の大国に飲み込まれようとしている。
歴史は塗り替えられるのだ。
安寧は静かに過ぎ去り、時に多くの悲劇を生んで過去に置き捨てられるだろう。
(そう……。そして私は今、苛まれるべき悲劇の幕開けを行うためにここにいる……)
上着に仕舞った魔玉がより一層重く感じられた。
「そろそろ地下墓地に入る。……一応忠告しておくが、魔玉を絶対に手放すな。魔力に釣られた死霊どもがあんたの肉に喰らいついても俺は一切助関与せんぞ」
「ご忠告どうも。……ですが心配ご無用です。魔術はともかく、魔道具の扱いには慣れてますから」
仏頂面で見下ろす男を見返して、ヴィヴィアンはツンとした態度で言い放つ。
相手は大して気にもしてないのか、軽く肩を竦めて暗闇の中に向き直った。
――――そういえば、何故彼はこの地下通路の秘密を知っていたのだろう。
ガードナに雇われた暗殺者なんだろうが、事前に情報提供を受けていたとしても詳しく知り過ぎているような……。
その場所は雰囲気から外装に至るまで何もかもが違った。
赤レンガの石畳で舗装された道の両側面を、荘厳な墓石が大仰に並んでいる。
死して尚その存在感を生者に示し続ける歴々の王たちに若干恐縮しながらも、ヴィヴィアンはひたすら歩き続ける男の背中を追っていた。
外壁に掛けられた自動式魔道灯が闖入者たちに反応してぼんやりと光を放ち、装飾された墓石を煌びやかに映し出す。
金目の物に目がない盗賊や冒険家なら発狂して飛びついていることだろう。総額すれば、王城の宝物庫より価値のある宝が数多く眠っていそうだ。
「墓には触れるなよ。食人鬼対策に浄化の魔術が掛かってるからな。身ぐるみ残して身体が消滅するぞ」
ぽつりと呟いた男の言葉に、ヴィヴィアンは黒曜石の墓に伸ばしていた手をギョっとして引っ込めた。
「食人鬼ですって! こんな人知れぬ場所に墓荒らしが出没するのですか?」
「この地下墓地は水路とも繋がっている。地下に迷い込んだ闇の住人が、フラフラさ迷い歩いて此処にたどり着くこともよくあることだ」
「よくあるって……」
今更ながら、無法地帯となっている王都の地下構造に不満を覚えずにはいられなかった。
例の石像が置かれていたのは、そんな地下墓地の中央に立つ慰霊碑の傍だった。
大きさは二階建ての建物に及ぶくらいだろうか。胸元で指を組んで宙を見上げる有翼の女性の像が、傷一つない完全な状態で膝を立てている。滑らかな曲線を描く身体の筋が実に魅惑的な女性像だった。
同性のヴィヴィアンも、この完成度の高い像にしばし目を奪われてしまう。
「あんたの上司曰く、元となった人物はセイレン族の始祖として崇められるセイレーンらしい。詩の女神ローレライの愛娘であり、竪琴の名奏者オルフェウスに美声を奪われた悲劇の歌姫」
セイレーンはかつて、世の男たちを虜にする歌声の持ち主として名を馳せていたという。
だがある時、吟遊詩人として船旅をしていたオルフェウスに出会い、彼の悲しい琴の音色を耳にして以来満足な歌を歌うことができなくなってしまったのである。
悲劇の神話として知られるこの物語。しかしヴィヴィアンは興味がないとばかりに首を振った。
「作り話や伝承は嫌いです。創作なんて……結局は肥大化した人の妄想でしかないのですから」
彼女は懐から淡く輝くガラス玉を取り出すと、それを手に女性像の近くに歩み寄った。
起動源力の装填場所は石像の背中。
ヴィヴィアンは像の背後に回りこみ、魔玉の組み込める箇所をくまなく探す。
たしかにこぶし大の球体が収まる窪みはあった。ちょうど肩甲骨の間、左右の翼に挟まれる状態だ。
「…………」
だが、さすがに高過ぎる。背伸びどころか跳躍でさえ届かない位置にそれはあった。
……試しに跳んでみた。
無理だ、届かない。伸ばした指先がせいぜい像の腰に及ぶくらいが限界だった。
「何をしている……」
「み、見てわかりませんか。跳んでいるのですよ」
「見たまんまだな……。それではいつまで経っても終わらんぞ」
「では手伝ってください!」
いっその事投げてしまおうかと魔玉を振りかぶった時、後ろからその玉を引っ手繰る人影がいた。
「まったく……見てられんな」
ヴィヴィアンの文句も待たず、傷の男は一気に跳躍して石像の背中に降り立つ。
唖然になって見上げる彼女を尻目に、男は本棚に本を仕舞うような軽い動作で魔玉を像の背中に差し込んだ。
――――――直後
ズゥン!!
地下墓地全体が脈動したかのように波打った。
「なっ! 一体何が――――」
ズゥン!ズゥン!ズゥン!!
声を上げることも許されず、墓地を揺るがす激しい振動が立て続けに発生する。
天井から石の破片が降り注ぐ。墓石が砕けて崩壊し、整備された石畳に深い亀裂を生んでいった。
ヴウウウウウウウウウウヴヴヴヴヴヴヴン――――。
もはや立つ事も困難な中、次は目の前の石像が低い唸り声を上げる。
何もかもがあっという間。危機迫る未知に恐怖し、ヴィヴィアンの身体はまったく動かない。
彼女は石像から男が離れるのが見た。
耳障りな音が支配する空間に、男の怒鳴り声が響く。
わからない。周囲の騒音にかき消され、彼が何を言っているのか上手く聞き取ることができなかった。
腰を抜かしてへたり込む彼女を強引に立たせた暗殺者は、その腕を引っ張って像から遠ざけようとする。ふと背後を振り返ってみれば、それまで物静かに鎮座していたセイレーンがまるで息を吹き返したかのように翼を動かしていた。
背中に填まった魔玉が一際眩い光彩を放つ。
刹那。
セイレーンの放った甲高い叫び声によって、退避する二人は弾かれたように宙を舞った。
=======【キリヤ視点】=======
「…………」
「…………」
さっきからジンジン痛む腹を押さえながら、俺はアル姐さんに支えられて人気のない廊下を歩いていた。
昼間は結構賑わっていたはずなのに、玄関広間には人っ子一人見当たらない。つい二時間ほど前までは密集する人だかりのせいで通路を迂回までしたというのに……。
俺はちらっとアル姐さんの方を窺った。
表情は相変らずの無表情だが、無言の圧力というべき不可視のオーラが彼女の周りを取り巻いている気がしてならない。いや、目を凝らせば案外見えるのかも……。
「…………」
――――はぁ……大事な会議を滅茶苦茶にしたんだ。アル姐さん、絶対怒ってるよなぁ……。
うーむ。ここは思い切って聞いた方がいいのか? いや待て待て、それが原因で余計不機嫌になったらどうするっ?
ここは相手の出方を探ってみるか……。腹痛を装って屈みこんだら、アル姐さんも何かしらの反応せざるを得ないはずだ。
それで突き放されたら土下座して会議の事を謝る。気にかけてくれれば、それはそれで想定以上の結果で問題なし。
……いや、気にかけてくれても謝ろう。結局のところ全部俺が悪いんだから……。
「っう……!」
お世辞ともいえない俺の低質リアクションが炸裂。
アル姐さんの腕をすり抜け、身体を折り曲げて床に蹲る。
「!? キリヤ様……!」
「くっ……うぅ……」
声は掛けてくれた。
少なくとも見放されているわけではないらしい。とりあえず一安心……。
と、思いきや。
屈んだアル姐さんが突如として、俺の肩を抱いて軽く揺すってきた。
「キリヤ様! お腹が痛むのですかっ?」
「え? あ、いや……」
アル姐さんの鬼気迫る表情に怯み、ちゃんとした返答ができずに詰ってしまう。
それが逆に彼女の懸念を裏付けてしまったのか、アル姐さんは本格的にヤバい表情を浮かべた。
「い、医務室へ……。医務室へいきましょうっ。内臓に傷を負っていては大変です! は、早く……!」
「お、おい……!」
何だなんだ!
いくらなんでも取り乱し過ぎだろ。いつもの冷静な騎士団長様らしくもない……。
無理にでも俺を連れていくつもりなのか、呆然とする俺の腕を引っ張って立ち上がらせる。
「お、俺は大丈夫だ。このくらい何ともない」
「そのような事を仰る方に限って何かあるのです! 欠けた肋骨が肺に刺さっていたらどうするおつもりですかっ」
いや、すまん。たぶん俺は何ともない……。
「違うんだ、アルテミス殿。これは嘘であって、別にそんなに痛むわけでは――――」
さすがに焦った俺が、思わず本当の事を口走る。
ぴたりと止まるアル姐さんの挙動。再び静かになった二人だけの空間に、先ほどまでの気まずさが甦った。
嗚呼、こいつは怒られる……。
ノリの良い冗談の通じる人ならともかく、服の皺まできっちり直すような生真面目姐さん相手に、しかも嘘吐いて気遣いを水に流したというのに、何のお咎めもなしというわけがない。
せめて理由だけでも話しておこうと思った。
気休めというわけでもないが、何も言わないより幾分かは――――
「…………ても」
「?」
独り言のような小さな声だった。
耳をすませる俺に、アル姐さんの震える声が言葉を紡ぐ。
「……たとえ嘘だとしてもっ。私はあなたを放っては置けません……!」
「え、いや……だって俺は――――」
怪我をしているわけではない、という言葉は最後まで言えなかった。
俺の言葉を最後まで聞かず、アル姐さんがこちらに振り返る。
その端整な顔立ちは悲痛な表情によって翳りを作り、普段勇ましく張られた肩が小刻みに震えていた。 言葉を失う俺の手を握って、彼女は自分の気持ちを伝える……。
「あんなに強く殴られて、痛くないわけないじゃありませんか……。あんなに苦しそうに叫んで、大丈夫なわけないじゃないですか……!」
「…………」
自分が殴られたわけではないのに、まるで自分のことのように話すアル姐さん。
それがとても申し訳なく思えた。俺のせいで姐さんは悲しんでいるのだと、反射的に俺の罪の意識が卑屈な感情を揺り動かす。
「……祈祷師に診ていただきましょう。それで何も支障がなければ、それでいいではありませんか……」
かすれた声だった。
俺を説得するというより、むしろ懇願に近い……そんな印象を強く受ける。
ここで否と答えても、きっと姐さんは必死に食い下がるに違いない。
「お願いします、キリヤ様……」
「…………了解」
掴まれた手に力が篭もったのを感じ、俺はついに折れた。
医務室と聞いてどんな内装なのかと不安だったが、部屋の中は意外と普通。というより、これはちょっと……正直驚いた。
部屋の隅に本棚やケース棚が並び、向かいの窓際の隅に白いベッドと、これまたレール付きの純白のカーテンが寝台を隠すように取り付けられている。
真っ暗な部屋でブラックライトを用いた怪しい儀式場みたいなのを想像していたものだから、これは期待を上回ってそれ以上に嬉しかった。元の世界の診察室(どちらかというと保健室?)と雰囲気が良く似ているのだろうか。
鼻腔をくすぐる薬品の匂いがとても懐かしく感じられて、俺は思わず感嘆のため息を吐いた。
城の住人たちは皆多忙で出払っていると思っていたが、さすがにもしものための待機組は残しているらしい。
部屋には業務用の机で書き物の作業をしている白衣の女性が一人。
黒ローブと軍服女性という奇妙な突然の来訪者に最初こそ怪訝な視線を送られたが、アル姐さんが簡潔に事情を説明すると白衣の人は畏まったまま部屋を後にした。
わざわざ神聖祈祷師を呼んできてくれるらしい。
そんな大事でもないのに、俺のせいで手間を取らせてしまうのは何か申し訳く思える。
「別に祈祷師じゃなくとも、あの女医に診てもらった方が手間を取らせずに済むんじゃないか?」
「駄目です。…………他の女性に診てもらうなんて、そんなこと――――」
「?」
「い、いえっ。神聖魔道士の治癒をお受けになった方が、より確実かと思いまして……」
まだ致命傷って決まったわけじゃないんだけどな。
腹の痛みも大分引いてきたし、目立つ怪我といっても打撲くらいしかないし……。
試しに袖を捲くってみると二の腕の下辺りが赤く腫れていた。
床に激突した時にぶつけたのだろう。だが内出血してるわけでもなさそうだ。これくらい放っておけばなんとかな――――
「っ! それは……!?」
バッと、横から割り込んだ手が下ろそうとした俺の腕を掴んで持ち上げた。
「な、何だ」
アル姐さんが食い入るようにして痣を睨みつける。その拍子に眼鏡のレンズが怪しく光り、俺の背中に冷や汗を流させた。
「打ち身ができていますね。受身を取られていれば、少々は緩和できたのでありましょうが……さすがにあの状態では仕方ありません」
「……大したことじゃないから治療はいいぞ?」
「ええ。祈祷師のお手を煩わせずとも、この程度のお怪我ならば私でも処置は可能です。さて、他の箇所も診てみましょう。失礼ながらキリヤ様、お洋服をお脱ぎになってください」
「!?!?」
ちょ、ちょっと待て!!
服を脱げだと!? それはマズいヤバい普通じゃない!
「なっ。何故お逃げになるのです!」
野生本能に従って反射的に動いた腕はしかし、即座に伸びたアル姐さんの手によって再び捕獲された。 必死に振り解こうと足掻いてみたが無駄だった。
チート並の馬鹿げた俺の筋力を持ってしても、俺より細いであろうアル姐さんの腕は馬鹿力以上に怪力なのである。団長クラスの軍人は伊達じゃないってところを身を持って実感した瞬間であった。
「ぬぅ……くそっ」
「剣士たるもの、腕力と握力は要ですから。それとお恥ずかしながら、仕事をサボって執務室から逃亡を計る陛下を椅子に縛り付ける際にも必要なのです。魔術を使えない分、筋力で補わなければ……っと、キリヤ様! そんなにお暴れになってはお怪我に触りますよ」
知ったことか! 怪我より素肌に触られる方がずっと嫌だっての!
アレクじゃあるまいし、誰が好き好んで女性の前で衣服を脱がなきゃならんのだ!
「こ、この……破廉恥め……!」
つい口が滑ってしまった。
瞬間、アル姐さんの顔が茹蛸のように赤くなる。
「な、なな、何が破廉恥ですか! こ、これは何もやましい事ではなく服をお脱ぎになった方が治療しやすいとそう私が推測した結果であって、そ、それ故に……!」
「…………」
――――あれ? アル……姐さん?
いつもキリッとした目の焦点が合ってない。
この言動の動揺っぷりは何だ?
まるでセレス嬢のような、乙女心丸出しの騎士団長は一体……?
「べ、別に他意はないのです! 他意は……」
ロボットみたいに首をギギギと動かして、姐さんが頬を染めながら上目遣いに俺を見上げた。
ぐはっ! や、やめてくれ! あなたにそんな可憐キャラは似合わない!
彼女の桃色視線を避けようと後ろに下がるが、相変らず腕だけは電車車両の連結部分みたいにくっついて離れない。
そしてバランスを崩して身体を傾けた俺を、アル姐さんが見過ごすはずもなく――――
「と、とにかくその椅子にお座りください!」
肩を強引に押して、俺を背後の丸椅子に座らせようとする。
「……っ!」
だが俺も負けちゃいない。
膝に力を入れて踏ん張り、肩に力を篭めて押し留めた。
「むっ……」
「くっ……」
互いに拮抗する力。
少しで気を抜けば、それだけで脆くも均衡は崩壊することだろう。
俺が唯一触れられても拒絶反応が起こらない相手がアル姐さんでよかった。そうでなければ、今頃ピクピク痙攣してその辺に転がっているはずだ。
本気を出せば、俺を力ずくでねじ伏せることくらいアル姐さんには容易いのに、それができないのは「破廉恥」疑惑で彼女が物凄く動揺しているから。
ほんの少しのきっかけが、俺の“男としてのプライド”を守るための手助けになってくれた。
「さ、さすがは古代魔道士……。筋力の強化にも、抜かりはありませんでしたか……!」
「……今更だなっ。さっきまでのあなたの力なら、俺を封じ込めるくらい簡単なはずだ。それをできないのは……動揺してるからだろう?」
「っ!? わ、私は破廉恥ではありません!」
顔を赤くしたアル姐さんが、明らかに根に持った言動で俺に反論する。
よし。挑発に乗った!
すぐさま俺は肩の力を抜いて、強制的に力バランスを遮断する。
「! しまっ――――」
お互いの力の作用が反発し合っている状態で、片方のエネルギーが一気に消滅すればどうなるか?
俺というエネルギーの支えを失ったアル姐さんはもちろん、そのまま力を入れ続けた方向に押し出される。その瞬間を狙えばいい。俺が脇に逸れて瞬時に抜け出せば、いくら怪力のアル姐さんでも体勢を立て直すために手を離すはず――――。
しかし。
「いっ……ッ!」
腹に激痛が走った。
腹筋に力を入れ過ぎたあまり、レイニス王子に殴られた腹部を逆に刺激してしまったのである。
これでは抜け出すどころか、身体を支えることもできずに――――
「「!!?」」
嗚呼、誰でもいい。
誰かこの気まずい雰囲気を明るい滑稽話にできる奴はいないか……?
「…………」
「…………」
――――俺はアル姐さんに押し倒されるような形で、見事寝台の上に仰向けで倒れていた。
硬い地面に投げ出されることはなかったが、果たして二人一緒にベッドに倒れこむというのはいかがなものか。
第三者がこれを見たらどういう展開を想像するだろう。
1千歩譲って物凄い勘の鋭い人が百人いたとしよう……。
その人たちがこのアブナイ情景を目撃して、事故による結果だと推測できるのはたぶん一人か、二人。 俺が下だから……攻めは姐さんになってっておい!! 冷静になり過ぎた俺!
「キリヤ、様……?」
「な、ナンでしょう……!」
思わず片言な敬語で返事してしまった。
いつも通りの鉄面皮を貼り付けたアル姐さんが、俺の肩を押さえ込んでいた腕を離し、それをゆっくりと下へ持っていく……。
「え? い、いや……何をして――――」
姐さんの細い指が胸板を伝い、腹を撫で、やがてはだけたローブの下から覗くカッターシャツの裾をガシッ掴み、それを勢いよく引っ張り上げた。
「ひっ……!」
腹がすぅすぅする。
先の読めない未知の恐怖に情けない声が出た。
そしてアル姐さんは何も喋らない。喋ってくれない。
俺の腹に指を這わせながら、彼女はじっと俺の表情を眺めている。
まるで俺の反応を楽しむように、時折指の腹で強く腹筋を押しては、ただひたすらに俺の顔を凝視していた。
――――これはきっと襲われてるのだ。
そう思考が混乱する頭で結論を出した時、アル姐さんの指が一番痛い箇所を強く刺激した。
「ぐっ……!」
レイニス王子に殴られた所だ。
大分マシになったと思ってたのに、まだこんなに痛みが残っていたとは――――ッ!
「――――――ッ!!」
「……痛いですか、キリヤ様……? ここが痛いのですか……」
はい、痛いです。マジで痛いです!
だからやめてください! そんな真顔で呟かないでくださいぃ!
返事の代わりにこくこくと頷いてやると、ようやくアル姐さんはピンポイント攻撃を中断した。
だが油断はできない。
きっとアル姐さんはS気質なんだ……。相手が苦しみ、痛み悶える姿を見て悦ぶタイプだ、きっと!
一体今度はどんなお仕置きを企んで……!?
と、俺が襲われることを覚悟して身体を震わせていたら、それまで無表情だったアル姐さんが安堵したようにホッと微笑んだ。
「良かった。筋肉の組織はご無事みたいですね。激しくむせ返っていましたから、内臓にまで損害を受けていたらとずっと心配で……」
「?? は……?」
「でも完治するまでは大人しくしておられるのが御身のためです。祈祷師がいらっしゃるまで、このまま横になってお待ちください」
「あ、いや……ちょっと待ってくれ。一体これは――――」
「わかりましたね?」
「…………ああ」
まさか……全部俺の勘違いだと……?
はは……なんだよそれ。ビビって損したじゃねーか。
呆気ない。貞操守れたことは安心すべきなのだが……。
心なし残念な気持ちが湧いてるくるのは、俺が狂ってるからか?
はは……ははは……。
「失礼致します、ケリュネイア騎士団長。こちらで負傷されたキリヤ王子を治療してほしいと頼まれた、神聖祈祷師の者で……す、が………あ?」
恐れていた第三者が、颯爽とこの部屋に現れた。
白いクロークを纏った祈祷師の男だ。部屋の扉を開け放った状態でこちらを凝視している。
その背後には、先ほどまでこの医務室の管理者であった白衣の女性が祈祷師の肩越しに俺たちを見つけ、目を白黒させて息を詰らせた。
「「…………」」
穴があったら入りたいなんて生ぬるい逃避手段じゃ駄目だ。
燃え盛る暖炉の炎に身を投じ、羞恥もプライドも跡形残らず消し去ってやりたい。
寝台に仰向けになり、しかも腹部を露出してる状態の俺と、そんな俺に四つん這いになって跨り、腕を押さえつけたアル姐さんとのアダルティックなこの状況。
誰も咎められるもんか。
ああ、そうさ! こんな場面不可抗力で目撃したら、俺だって正気じゃいられない!
一足先に我に帰ったアル姐さんが、弁解せんと俺の上から退場した。
「ち、違うんです! 誤解です、祈祷師殿! わ、私と王子殿下は、何も相姦的な関係ではなくて――――」
「不純ですわ」
「「!?」」
白衣の女性が吐き捨てた言葉に俺とアル姐さんはかつてない衝撃を受けたことだろう。
そのまま回れ右をして部屋を出る女医さんを止めることもできず、運悪く取り残された祈祷師はというと……。
「…………」
「信じてください。祈祷師殿……!」
「はっ!」
アル姐さんの脅迫にやられ、そのまま後退する祈祷師さん。
ゆっくりと迫る姐さんに恐怖し、彼は引きつった笑みを浮かべながら口を開いた。
「は、はは。な、何も気に病むことはございません。ええ、そうですとも! ……誰にも告げ口致しませんからぁ!!」
そして最後の目撃者も逃亡した。
終わった。
本当に何もなかったけど、弁解の余地なしの時点でお先はもう真っ暗だった。
三十八話目終了…