第三十七話 想フココロ
「そんなモン必要ねぇよ」
気だるそうな態度で、しかし反論を許させない高圧的な雰囲気を含んだ重々しいアレクの声が会議室に響く。
そいつは椅子の背もたれに身を預けていた。
腕と足を組み、いかにも暴君然として高飛車に議席を見回す。
さっきまでの軽薄な阿呆アレクとはえらい違いだった。普通に考えれば、寝ぼけて夢と現実が識別できなくなっていると解釈するところだが、あいつの目に偽りや虚脱感はない。
俺もよくわからないが、野望に満ちた為政者の瞳孔というのが今のアレクのそれと同じなのかもしれない。
一見すると目も合わせられないような冷徹な眼光だが、その凍てつく表面の奥で煮えたぎる眩いばかりの炎は情熱の色。ギラギラと支配者の光を放ちながら、自分以外の権力を焼き尽くす勢いでその火力を激しく奮い起こす。
「……アレク様。それは一体どういう意味です?」
不審に思ったアル姐さんが、目を細めて静かにアレクに問う。
いや、実際不審に思っているのは彼女だけではない。皆アレクの唐突な発言に不審どころか耳を疑っているはずだ。それなのに誰も声を上げないのは、アレクのものを言わせぬ眼光に問題があるからだろう。 しかしそれを上回り、アレクの鋭い視線をものともせずに涼しい顔で冷静に質問するアル姐さんは大したものだと俺は感心する。会議の進行役だっけか? とにかく、的確な判断力と何事にも動じぬ度胸を兼ね備えたアル姐さんを仲介役に回したのは正解だった。このまま会議が断絶してしまえば、俺の最終的な目的も意味を成さなくなってしまうからな。
相変らずだらしのない体勢のまま、アレクが返答した。
「そのままの意味さ。最初から結論の出ている会議に、いつまでもダラダラ勤しむ気は毛頭ない」
「結論、ですか……?」
「ああそうだ。俺のすべきことはすでに決まってるってこと。リディアはヴァレンシア側が出した条件を飲んで、俺はかねてからの目的を果たす。……なぁリディアの親子さん、俺の言いたい事わかるよな?」
そこで反対側に座る王族組に目を向ける。
たぶん不合理なことを言われたはずだが、王様は毅然とした態度でそれを聞いている。ただ、その隣に座る息子の方――――リンドの親父さんは肩を小刻みに震わせていた。この人の状態は傍から見てる俺でも手に取るようにわかる、彼は怒りで理性を飛ばしかけていた。
「つまり、それは、我々リディア王国に、貴国と同等の発言力がないと仰せか……!」
リンド父の怒気に、後ろに控えていた兵士たちが怯む。
王様はただ無口に目を瞑り、他のリディア官僚たちは事の進行を気まずい雰囲気で窺っていた。
正直言って、同じく蚊帳の外である俺も気まずいことこの上ない。
俺は素早く横に視線を流してセレス嬢を確認する。しかしそこに彼女の姿はなかった。
慌ててあちこちに視線を飛ばしてみるが、どこにもピョンピョン跳ねる金色の尻尾が見当たらない。それどころか目立ち過ぎる純白のローブさえ忽然と姿を消していた。
いやいや……今は魔法少女チビセレスを探してる場合じゃない!
こっちはこっちでメインの二人が修羅場を迎えているのだ。
「同等じゃないとか、そんな差別的な意味で言ったんじゃないんだがな……。議論する必要もない決まりきったことを、会議で延々と話し合うだけ無駄だ、て言ってるだけなんだけどよ……」
だが、しかし……アレクの投げやりな言葉が、逆に親父さんの逆鱗に触れたらしい。
机に拳を振り下ろし、隠す気もない殺気を振りまきながら叫ぶ。
「ならばその決まりきった事とは何だ! 貴君の目的のためにっ、我らリディア王国の純潔を冒そうならば、私は断じて許さんぞ!」
腰の剣に手が伸び、大きな手がその柄をしっかりと掴んだ。
もちろん、それを黙って見過ごすアレク側でもない。
アレクの背後から前に進み出た優男のアレンさんが戦士モードに移行。こちらも鬼気迫る表情で警戒態勢に入った。
「レイニス王子。いくらあなたがリディア王家の後継者であろうとも、その刃が我が主を傷つけるというのならば容赦しませんよ……」
目がマジだった。
この多重人格者、普段影が薄い分、脇からいきなり話の主柱に加わられると若干混乱してしまう。
さて、いきなり豹変したアレンさんに一体どれほどの人たちが驚き、目を見張ったことだろう。
むしろ今の張り詰めた空気の中じゃ、驚くにも恐怖で顔が引きつって思うように表情を変化できないかもな……。
え?俺はどうかって? もちろんいつも通りの真顔キープだ。心は大荒れ通り越してヘトヘトだが……。
いや、冗談抜きでこれは本当にまずいかもしれない。
両方どちらかが得物を抜けば、その時点でこの場は剣戟と怒号が交差する戦場になる。議論飛ばす前に首飛ばしてどうするよ? ここは闘技場じゃねぇっての。
もしかしてお嬢、この状態になることを予期して一足先に退却したんじゃないだろうな……!
もしそうならとても許されるべきことではない。あのお調子者が、俺を差し置いて身の安全確保だと……? ちくしょうめ! せめて俺も呼んで「一緒に逃げよう」の一声くらい掛けてくれても――――
「うぅ……これまでにない荒波の予感」
――――勘ぐり過ぎたか、俺の隣にセレスはいた。
テーブルの影に身を潜め、目だけ上に出したまま前方の様子を恐る恐る眺めている。隠れてるつもりだろうが、やはり頭の尻尾がよく目立っていて全然隠れ切れていない。というか逆効果だ。
いやそんな事を冷静に分析している場合ではない。
「セレス、君はいつの間に隣に?」
「え……? さっきからずっといたけど?」
心底不思議そうな顔をして返された。
やはりおのれの特殊性に気づいてないのか。気配を感じさせないお嬢の忍び足は確かに凄いのだが、近づいたのなら近づいたで何か反応を示させる行動を起こして欲しかった。これでは俺の心臓が幾つあっても足りない。
――――などと思ってもやはりお嬢はお嬢だった。
身を潜ませながら俺を見上げ、何やら決意の浮かんだ表情で力強く頷く。
「キリヤ君。もしあの二人が暴れだしたら、構わないですぐ逃げてね。『国家の守り手』たるこの宮廷魔道士セレスが、命を掛けてキリヤ君を守ります!」
「あ、ああ。適当に頑張ってくれ……」
何だろうこのとてつもない不安は。お嬢が言うと守られるのが怖くなる……。
「おいおい、やめろお前ら。俺は戦争するためにこの国に来たわけじゃねぇぞ。さっさと武器を引け」
アレクの制止に、アレンさんが迷わず構えを解く。だが親父さんはその素振りさえ見せず、アレクをじっと睨みつけたままだ。
「我々に喧嘩の火種を吹きかけておいて、争いにあらずと申すか。会議も必要ないと豪語した貴君に、果たしてリディアを訪れた本当の目的とやらは何だと言うのか」
彼の皮肉混じりの質問に、アレクといえばさも当然というような自信満々な顔で答えた。
「そんなの決まってる。アルとキリヤと、俺の自慢の部下たちに会いにだよ」
はぁ? 何だそれ?
何を語るのかと思えば、物凄く単純な目的過ぎて拍子抜けしてしまった。
「ちょ……陛下! あたしを忘れていませんか!?」
数に入れられていないお嬢が立ち上がって憤慨する。
別にそんな細かい事にこだわることもないと思うのだが……。
「ああん? お前なんていてもいなくても一緒だろ。小さいし統率ねぇし……」
「“小さい”言わないでください! 結構気にしてるんですから!」
いや、つっこむところそっちかよ!?
おいおいセレスさん、あんた今ハブり発言を遠慮もせずぶちまけたアレクに人権を求めるべきだ。仲間外れされて悔しいと感じてください。
「まあとにかくだ。俺の国民たちは皆俺の家族のようなものだ。子の心配をしない親が何処にいる? 俺は家族が心配だったから迎えにここへ来たのさ。それの何が悪い? 子持ちのあんたなら、家族の大切さってのが身に染みて理解できてるだろうがよ」
アレクの顔つきが変わった。
親の仇を見るような鋭い視線をレイニスさんに注ぐ。
アレクの言葉が影響したのか、それともその強烈な視線に堪えかねたのか、親父さんは表情に困惑を浮かばせて武器を下ろした。
「……なら何故会議に出席したのです? 弟君とその部下にお会いに来られただけだというなら、わざわざ話し合いの場を設ける必要もなかった……」
正論だった。
「話し合うだけ無駄だ」と言ったのはアレクである。使いの人を送ってまで俺たちを議事堂に集め、いよいよ会議の本筋に差し掛かろうとした時に進行を妨げてしまっては、本気で取り組んでいるリディアの人たちが遺憾に思うことも仕方がない。もちろんその気持ちは俺も同じだ。納得のいく説明をしてもらわないと……。
だが、次にアレクが放った言葉は、俺は愚か会議室の面々を唖然とさせる内容であった。
「言っておくが、俺は国際会議なんて大層な集会を望んだつもりはないぞ? レイニス王子、俺はあんたに言ったはずだ。“ちょっと”ばかり取り決めたいことがあるから、大臣たちと話せる場が欲しいと……」
レイニスさんが目を見開く。
まさか、と言った風に口を半開きにし、アレクに詰め寄るようにテーブルに身を乗り出した。
「で、ではっ! その取り決めというのは、先ほどの請願書の確認のみだと仰るのですか!?」
にかっと歯を見せてアレクが笑う。
「おうよ! せいぜい寛大な俺に感謝するんだな。もし救援の相手が他の大国どもだったら、この国はとっくに連中の腹の中だ。属国どころか、下手すりゃ国の運営まで横取りされてたぜ?」
胸を張って偉そうにふんぞり返るアレクを見ても、俺は不思議と腹が立たなかった。
今イチ状況がよく理解できないが、ヴァレンシアはリディア相手に交渉云々関係なしに全て承諾するってことなのだろうか。……あれ? 少し違うか……リディアに全ての選択を任せる?
「……ヴァレンシアはリディアに一切の不利な条件を求めない。その代わり、ヴァレンシアの要望をできる限りの範囲で承諾してほしい……?」
隣から聞こえたお嬢の呟き声に、俺も半ば納得した。
つまりはそういうことだ。アレクは遠まわしに、“ヴァレンシアはリディア王国の政治に干渉しない”ということをほのめかしていたのだ。だが、下手に装飾されたその言葉は素直じゃない。話の内容を吟味できなかった俺たちは、アレクの言葉に支配者の……高慢な態度を感じてしまったのである。だからリンドの親父さんもリディア王国を弱国として軽視している、なんて変な誤解を招き、馬鹿にされた怒りで荒くなってしまったのだろう。
未だ現状から立ち直れていないレイニスさんを見つめ、それからその視線をアレクに向けた。
前々から思ってたことだが、アレクは俺のイメージする王様とはかけ離れ過ぎている。口調も容姿も態度も行動も、一見すれば路地裏に溜まる不良青年に、よく観察すれば別人かと思えるくらい威厳や品行に満ちる高貴な人物を所々に垣間見せ、さらに注視すれば危険な気配を漂わせる狂気な男がそこにいた。
俺が言うのもなんだが、アレクはきっと変人だ。俺に趣味の悪い仮面を与えるくらいだし、間違いなく変態に違いない。
――――けど、それでも。
そんな変わった奴だけれど。
アレクは俺より、いろんな意味で凄い人物なんだってことを、改めて実感させられた。
アレクは――――どこぞの人見知り高校生よりも他者を見据える人知がある。どこぞの対人恐怖症よりも、他者と悠然と語り合う勇気がある。どこぞの臆病者よりも……自分を正義と豪語する自信に満ち溢れている。
アレクに対する印象が俺の中で大きく変わっていく気がした。
それは尊敬か? あるいは妬みか?
どちらにせよ、俺がアレクの君主気質に憧れたのは確かである。自分も彼の様に堂々と胸を張っていたい。それを誰かに賞賛してほしいなんて今更思うはずもなかった。誰も自分を咎めない、誇れる男でありたいだけなのだ。
「……私には、あなたがわからない……」
放心したように項垂れていたレイニスさんが、呟き声とともに頭をもたげた。
さっきまでの激しい闘志はどこへ行ったのか、燻るロウソクの火のように鈍い光を放つ彼の両目は、力なくアレクを見返した。
「小国だぞ? 貴国には何ら脅威でもない、荒々しい激動の時代で枯れ枝に辛うじてしがみ付いて生き残っているだけの! 大陸の片鱗で荒む小さな王国だ……。なのに何故そう簡単に手放す? 支配したければ侵略すればいい! 欲しいなら全て奪えばいい! 抗う士気もない我らに、今更何を恐れるというのだ……?」
自虐にも等しいレイニスさんの追究が、静まり返った会議室に虚しく響き渡る。
何の感情も映さない能面な表情のアレクが、それを黙って聞いていた。
箱庭で描かれただけのレイニスさんの小さな世界観に、その真の解答を得るための術はない。彼は求めているのだ。自分たちの王国を生かす、アレクの本当の理由が何なのかを……。
アレクの表情につまらなそうな色が加わった。
「別にあんたらの国を恐れてるわけじゃない。仮に今のリディアと本気で戦争起こしたとしたら、二日ともたずにこの国の伝統は塵に埋もれる。ヴァレンシアが負ける確率は万が一にもありゃしないさ」
「ならば! 初めから我らの国を助ける必要などなかった。見返りなど何一つとしてありはしないこのリディアを、救う義務などなかった! 人的財産も、特産物も、資源も、武力も、社会的地位もない、国として現状を維持するだけに精一杯なこの破綻国家に、残されたものは一体なんだというのだ!」
「………なんだとてめぇ……!」
怒りを露わにしたアレクが、狂い叫ぶ男を睨みつけたまま上体を起こす。今にも殴りかからんばかりの凄味を見せながら、彼の拳は震えるほど強く握り締められていた。
――――だが……アレクよりも先に、俺の沸点は限界を迎えた。
頭のどこかで何かが切れる鈍い音。その次の瞬間には、俺は椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、お嬢の制止を背中に受けながら“奴”に向かってゆっくりと歩き出していた。
……緊迫した雰囲気の中、俺の存在に最初に気づいたのは誰だろうか。
燃えるように熱い身体は、すでに周囲の五感を著しく低下させている。
一歩一歩の短い道のりがもどかしい。
早く“奴”の元にたどり着きたい。急げ! 俺の理性が残ってる間に!
相手との距離が縮まる。
五メートル、四メートル、三メートル、二メートル……。
――――ああ、もういいや。何もかもがもどかしい!
やけに遅く感じる視界の中で、俺の硬く握り締められた拳は勢いよく持ち上げられた。
肘を限界まで後ろに引き伸ばし、腰を大きく捻って加速をつける。
不自然に体重が掛けられた利き足を前に出して固定したまま……。
――――俺の拳は残像を捨てて前方へと突き出された。
「っ!?」
「…………!!!!」
『身体能力向上』を秘める俺の全力パンチは、避ける隙も与えない瞬撃となってレイニスの左頬を打ち抜いた。
重たい反動が、衝撃となって利き腕に強烈な振動を及ぼす。だが知ったことか。
憎らしいほどムカついたこの糞野郎を殴る事以外にさしたる興味はなかった。腕が使い物にならなくなったとしても、この男を殴るためなら血反吐ぶちまけようが構うことはない。
今はただ、この身勝手な王子が無様に吹き飛んでいくさまをしっかりと網膜に焼き付ける事の方が何より重要だった。
「がぁっ!!」
俺の殴打に吹き飛び、壁に激突したレイニスはその場で激しく咳き込んだ。
背中を強く打った衝撃か、腹を押さえ、胃液と一緒に赤い液体を床に吐き掛ける。
「げほっ……がはっ! はぁ……うぅ……ぐふっ……!!」
「なんと!? レ、レイニス王子!?」
官僚たちの変化は凄まじいものだった。
顔面蒼白になった官僚たちが慌ててレイニスに駆け寄り、手の空いた兵士たちが医者を呼ぼうと右往左往する。
だが俺には関係ない。
俺はまだ奴に言わなくてはいけないことがある……。
驚愕に目を見開いて俺を凝視するアレクやアレンさんの前を通り過ぎ、家臣に囲まれる奴の元へ進む。 ふと視界の隅にアル姐さんを捉えた。
顔は窺えないが、彼女も咄嗟の事で対応できていないのだろうか。いや、冷静な彼女に限ってそんなことはないはず。きっと何もかもわかってる上で好きにさせてくれているのだろう。俺の理解者として、そうであるならば正直嬉しい……。
「キリヤ殿下ッ! 王族を殴るなど、正気の沙汰とは思えませんぞ!?」
俺の前に立ち塞がり、道を妨げる大臣が目に付く。
――――とりあえず邪魔だ。
「ぬおっ!?」
俺が指を横に一振りすると、細長い大臣の身体は箒に掃かれた埃のように側面に弾かれた。
次に邪魔な奴も、その次の奴も、レイニスにハエのように集る男どもを魔術で脇に除けていく。
『王族』だから何だ? 偉い奴だから何だ? 建前だけで生きれるほど、“俺の居た世界”は甘くはなかった。
「ア、アレク陛下! キリヤ王子をお止めくだされ! このままではレイニス様が……!」
「何をしておる警備兵! 早くキリヤ王子を取り押さえるのだ!」
はっ! いい年した大人どもが、餓鬼一人相手にマジになってやがんのか……。俺の親父は、拳骨一発で俺を落としたぞ。
慌ただしく騒ぐ役立たずな官僚たちの声を後ろに、俺は地面に蹲るレイニスの胸倉を掴んで無理矢理立ち上がらせた。
「ぐっ……!」
自分の意志で他人に触れるのは何年ぶりだろう。
身体が反射的に拒絶反応を起こし、レイニスを掴む腕から全身に震えが伝染していく。
それでも俺は手を離さなかった。離すわけにはいかなかった。
「……は……ここで、私を消すのか? いつまでも往生際の悪い邪魔者の私を……ここで殺すか!」
弱る王子は薄目を開け、苦しまぎれに声を発する。
最後の力を振り絞るように、仮面の奥の目を一心に睨みつけた。
俺も負けじと、奴を掴む指に力を篭める。
思えば、身内以外の人間を殴ったのは初めてだった。今まで頑なに人を拒んできた俺が殴りたいほど怒りに身を燃やした奴といえば生意気な妹くらいなもので、ろくに会話もしたことがない年上の男に一発お見舞いして、さらには胸倉を掴み上げるという追撃は人生経験上皆無に等しい。
俺をここまで怒らせた、この男が憎くて堪らない。俺には俺がわからない。さっきまで何の感慨も抱いてなかったはずなのに、気が狂ったように殴りかかった俺はどこかおかしいのだ。そしてこいつは、もっとイカれてる。
「あんたの息子に会った……」
「!」
レイニスが目を見開く。
はは……なんだよ。ちゃんと目が開くじゃねぇか……。
「あの子は……リンド君はっ、あんたがリディアを守る騎士だと言った……!」
「…………」
彼は答えない。
俺から目を離し、力なく垂れ下がった頭を震わせる。
「“誇り”なんて大層なもの俺は知らない。知りたくもない! ……だがな、あんたの息子さんは、父親の誇りのことを、とても嬉しそうに俺に話したんだよ……!」
――――それでね、それでね、ちちうえはキシでリディアのたくさんのひとを守ってるんだよ! だからちちうえが一番つよいんだ!――――
片手じゃ無理だ。
俺は両手で奴の服を掴み、無理矢理頭を持ち上げた。
その濁った目を睨みつけ、腹に溜まった言葉をおもいっきりぶつける。
「あんたが一番だってっ、一番強いってっ、誇らしげに自慢してたんだよ!!」
俺は叫んだ。人目も気にせず、恥を捨て、飾りのない本当の言葉を告げるために。
「ち、違う! 私は強くなど……」
「実力なんてどうでもいいだろうが! 息子だろ…? あんたの大切な家族だろ! 子が親を褒めてんだ、素直に喜べよ!」
くそったれ! だから俺は頭の堅い奴が大嫌いなんだ!
「あんたの“誇り”って何だ!? あんたの強みの誇りは何のためにある!?」
「なん、だと……」
「弱い自分を隠すためか? 国の伝統云々を守るためか? 自慢するためか? 自虐するためか? どれも違うだろう! それは――――」
――――最愛の夫レイニスと、わたくしたちの国民を守っていただいたこと、心より感謝致します――――
「――――あんたの大切な人を守るための強さじゃねぇのかっ!!」
「!? わ、わた、しは……」
俺は何も守ってなんかいない。
あの時俺は何も知らなかった。無知なまま戦場に飛び出して、虐殺者としての罪を背負わされた。
けれど……この男は違う――――
「あんたは守るために戦った……! それが誇りだろうが誰だろうが、“守るため”に戦ったんだよ!」
殺しただけなのに、俺は他人に感謝された。
それがとても苦しくて、素直に受け止めたくなくて、感謝の言葉を否定して――――
「残されたものが一体何だと、あんた言ったよな……。枯れ枝にしがみ付いてるだけの廃れた王国とも言った!……今のあんたに残ってるもの、俺が教えてやる……!」
それだけ言って俺は、怯える子供のように震える奴を反対側に向かって放り投げた。
強化された俺の身体能力により、長身のレイニスは意図も簡単に空中に投げ出される。その距離は椅子とテーブルが並ぶ議席にまで及び、このままでは激突確実かと思われて悲鳴を上げた官僚たちを尻目に、俺の次の魔術が発動した。
「柔軟な加護よ、綿製床面」
俺にしては中々のネーミングであろう。
丁度レイニスの落下地点の床を指差し、呪文を唱える。
するとそれまで硬い石の床だった地面がゼリーのように変形し、重たいレイニスの身体を柔らかく受け止めた。
「言えよ。あんたがさっき言った言葉……その人の前でも同じことが言えるならな……」
「――――レイニス」
疲れ果てたような覇気のない乾いた声が、うつ伏せに倒れるレイニスの背中に掛けられる。
恐る恐る顔を上げた彼の足元に、その人物はいた。
「……ちち、うえ……」
アーガス・ダン・アリギエーリ・リディア。
レイニスの父親が、憐れみや怒りとも似つかない複雑な顔で愚息を見下ろしていた。
「あんたの父親が何十年もの長い間培ってきた国だ。あんたが生まれる前から、ずっと懸命に生き続けてきた王国だ! 一人じゃ成し得なかった歴史を、あんたは『廃れた王国』と一蹴して先祖を侮辱した!」
先ほどアレクが怒っていたのも、同じ国の為政者としての立場をよく理解していたから……。
国をまとめ上げるのがどんなに大変なことか、身を持って思い知っていたからだ。
それをこの男は根っから否定した。
気が遠くなるような長い時代を生き抜いたであろうこの小さい国を、必死に守り抜いてきた先祖の集大成を、言葉だけで片付けたのだ。
「何がリディア王国の純潔だ。何が破綻国家だ……。そんな着飾った外見より、もっと大切なモノがこの国にあるだろうが……ッ!」
「…………」
独りぼっちで蹲る妹。俺に抱きついて泣き喚いた時、俺はその少女の想いを知った。
見放された絶望の顔も知ってる。俺が誓った約束に、暗がりの中恥らった妹……。
大切なモノに気づいた。絶対守るって誓った。誓ったはずなのに、気づけば忘れていた。
俺は約束を破っていたのだ。守ると誓ったのに、妹の期待に答えることができない。
もう妹に――――家族に会えないかもしれないというのに。
守るどころか、親孝行さえ果たしていないのに。
人間嫌いな俺にも大切な人たちがいる。
――――俺の記憶の中の家族は、いつも笑っていた――――
頬を一滴の何かが滑り落ちる。
それが涙だとわかった時には、俺は無意識の内にレイニスの傍に身を屈めていた。
「守ってやれよ……! 頼むから……家族の想いだけは裏切らないでくれよ……! ずっと近くにいるじゃないか……。願えば会いに行けるだろうがっ。……俺はもう会えないんだよ。願っても願ってもっ、懇願しても祈っても、もう一度誓ってもっ、大切なモノをこの眼で拝むことすらできないんだぞ!!」
涙が止まらない。
溢れ出る願望と罪の意識は、いくら流そうが大切な人には届かないのだ。
それがとてつもなく悔しかった。
悔しくて悔しくて、むせ返るような悲痛が喉元を焼いても、悲しみの連鎖はとどまることを知らない。
苦しみを言葉に変えて、虚無感を怒りで覆って、俺は喉が張り裂けんばかりの勢いで奴に叫んだ。
「守ってみせろレイニス王子!! あんたのそのちっぽけな誇りでっ、この国の人たち全員死ぬ気で守ってみやがれ!!」
『あら。お帰りなさい、桐也』
――――お袋。
「国が小さいから、弱いから何だっていうんだっ? てめぇで努力しないで、一体誰がこの国を強くするってんだ!!」
『悩みがあるなら言えよ? 父さんが相談乗るからな』
――――親父。
「てめぇの気に食わない国を、てめぇ自身の手で変えてみせればいい! それでも折れそうなら、あんたの大切な家族を頼ればいい! 強くなれんだよ! 大切なモノを守るためなら、誰だって一番になれるんだ!!」
『じゃあ、こっから家まで競争だかんね! 負けたらウチの願い事何でも聞いてもらうから!』
――――願い事、まだ聞いてねぇよ……。
「それともあんたの息子はっ、あんたを強くできない落ちこぼれだってか!」
「っ!?」
その時、“奴”が動いた。
地に伏す身体を強引に持ち上げ、怒りに歪んだ形相で俺を睨みつけながら高速の拳を突き出す。
「私の――――私たちの息子を……ッ!」
その表情はとても、感情の色が濃く映しだされていて――――
「リンドを――――馬鹿にするなあああああああ!!!!」
――――俺よりずっと、たくましくて人間らしかった。
「キリヤ君!!」
「がはっ!」
お嬢の叫び声を聞いた刹那、俺の眼にも捉え切れないレイニスの重い鉄拳が、がら空きだった俺の腹にめり込んだ。
今まで感じたことのない激しい鈍痛が腹部を襲い、それを構う暇もなく俺の身体は後方へ吹き飛ばされる。
椅子を巻き込んで落下し、そのまま床に強く背中を叩きつけられた。
「ごほっ! ごほっ! 畜生ッ……痛ぇ。めちゃくちゃ痛いじゃないか……!」
殴られた腹はもちろんのこと、打ち付けた背中や腕、足がとにかくズキズキ痛む。
子を馬鹿にされた父の怒りは、とてつもなく痛かった……。
生まれて初めて受けた他人の暴力はとても辛くて……そして愛情に溢れていた。
似ていたのだ。親父の拳に。
往生際の悪い俺を諌めた父のパンチと、とてもよく似ていた……。
――――だからだろう。
収まりだした涙がまた、俺の顔を容赦なく濡らした。
「うっ……うぅ……くそっ! こんなところで泣いてんじゃねぇ……ッ!」
あいつに偉そうに説教たれたくせに、こんなところで惨めな姿さらしてんじゃねぇぞ、俺!
どうにか涙を堪えようと、必死に息を止める。
しかし腹の痛みが邪魔して、思うように止まらない。
いっそのことここから逃げ出そうかと考えた時、隣に屈み込む女性の姿があった。俺が言葉を紡ぐより先に、その人は俺の肩を抱いてゆっくりと立ち上がらせる。
平常なら飛びのいているところだ。だが不思議な事に俺の身体は、人を避けるようとはしない。麻痺した頭で疑問をめぐらせていると、その女性は優しく俺に話しかけてきた。
「歩けますか?」
「っ! アルテミス、さん?」
「“さん”はやめてください。仮にも私は、キリヤ殿下の部下ですよ?」
そう言って彼女――――アル姐さんは目を細めて微笑む。
慈愛に満ちそのた微笑に、俺は全身の痛みが癒されていくような錯覚を覚えた。
「会議は中止です! 私は負傷されたキリヤ様をお部屋までお連れ致します。レイニス王子も、のちほど我が軍の神聖祈祷師に治療を受けてください。――――陛下!」
「お、おう! 何だ?」
「あとはお任せ致します。くれぐれも、リディアの皆様の失礼にお成らぬよう」
「あ、ああ。わかってる」
アル姐さんに肩を支えられながら、俺は滲む視界にひたすら眼を凝らしていた。
俺に背を向け、ひたすら走る妹がいる。
本気を出せば俺の方が速いに決まってるのに、家まで競争なんて言って、帰り道いきなり勝負を挑まれたあの日。
あいつの願い事を聞きたくて、わざと負けて、俺は妹の願いを叶える事になった。
帰りが遅くなったせいで、散々お袋に怒られてたけど……お前は今でも、あの時の約束は覚えているよな? だからまだ、間に合うだろ……?
俺に意地悪く笑いかけながら走り去る妹の記憶は、この新しい世界でも色鮮やかに輝いていた。
三十七話目終了…