第三十二話 中庭のひと時
働き手たちが職場に赴く早朝になっても尚、ランスロット王国の王都アロンダイトは異様な静けさに包まれたままだった。外を歩いている者といえば、見張りの交代に出向く歩哨の兵士が家々の間を巡回している程度で、王城に繋がる主要な通りも賑わうような華やかさの欠片もない。死んだように静まり返ったこの首都で、唯一人が住む気配を感じさせるものといえば住宅区に連なる煙突の煙くらいなものだろう。 朝靄に混じって空に上る薄い煙の糸は風に流され、やがて見張り塔に詰める兵士たちの鼻を軽く擽った。
「あぁ……美味しそうなシチューの匂いがする」
「……腹減った」
空腹で喋る気力もなかった兵士たちも、食べ物の香りを嗅げば自然と口から言葉が漏れる。夜通し見張りをしていた彼らに、今一番叶えたい願いを聞いたならば揃ってこう答えるだろう。
「朝飯食いてぇ……」
「もう少しの我慢だ。あと半針もすれば交代がくる。その時まで踏ん張るぞ……」
腹を押さえて蹲りそうになった兵士を、隣から別の兵士が支えて揺する。
与えられた任務は完遂しなければならい、という上官の命令に背けばどんな罰を受けるかわかったものではない。空腹で動けませんでした、ではランスロット兵士としてその軍規に反することになる。今はただ堪えるしかなかった。
地平線から太陽が姿を現し、薄暗かった街並みを明るく照らす。
まるで永遠の闇から復活したように次々と色づく建物に少し目を奪われながら、同時にまた苦しい一日が始まるのだと思うと憂鬱な気持ちは隠せない。欠伸とともに吐き出された兵士たちのため息は、夜明けを示す時計台の鐘によってかき消された。
「ん……?」
ふと兵士の視界に人影らしきものが映った。
見張り塔から下を覗くと、王城へ続く回廊を誰かが歩いているのが見える。もう交代の見張りがやってきたのだろうか。いや、あの通路を一般の兵士が使うことは禁止されていたはずだ。王城に仕える侍女か、もしくは官吏職に就く貴族でなければあの場所は通れない。しかし、特別な会議もないのにこの時間を人が通るのは不自然だ。もしや賊やスパイの類ではないか?
「お、おい。あの回廊を歩いている不審者、誰だかわかるか?」
緊張した面持ちで隣の同僚に告げる。
すると意外にも、相棒の返答は淡々として落ち着いていた。
「ああ、高等官吏のヴィヴィアン様だよ。いつもこの時間になるとあの通路を通るんだ。何処へ向かっているのかわからんがな」
「高等官吏……あの人が?」
そんな大物がいたことは初耳だった。
末端の兵士である彼が政治家の数を正確に把握しているわけではないが、国の重鎮たちの顔と名前はよく知っている。見張り塔を主な仕事場としていると、嫌でも下で何が起こっているのか手に取るようにわかってしまうのだ。窓越しに見える会議室の風景しかり、城に入城する大臣の馬車しかりである。長年この仕事を通じて、位の高い官僚は普通の官僚に比べて王城の出入りが激しいということがわかった。
見張りを徹底する側にしてみれば、大臣たちの詳細な情報を知ることは別に難しいことでもない。彼ら歩哨の兵士たちは、任務を通して重鎮たちのことを記憶してしまっていた。
だから高等官吏に就くほどの位の高い政治家で知らない人がいたことに、彼は驚きながらもそれを信じることができなかったのである。
「俺もつい最近上官殿に聞いた時は驚いたよ。何でも宰相代理を務めるガードナ様の秘書も受け持っているらしくてな。一日のほとんどをガードナ様の元で秘書の仕事をすることが多いから、今まで会議にも出席したことがないらしい」
「そんな馬鹿な……」
「信じられないだろ。俺だって最初は疑ったさ。けど三日前ここの歩哨に当ってた時、ヴィヴィアン様がガードナ様と一緒に歩いているのを見たんだ、それもあの通路で。……あの人随分畏まってたから、専属の秘書というのもあながち嘘じゃないのかもな」
自然と視線は回廊の方に向かった。
だがそこにはすでに人影は見当たらず、迷路のように入り組んだ回廊は元の廃墟のような雰囲気が立ち込めていた。
限られた者しか入ることが許されていないこの城で一体何が起こっているのか、興味がないと言えば嘘になる。だが潜入して詳細を知りたいなどという、自ら危険に飛び込むような無謀な真似事を起こす気は毛頭なかった。
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今から十年前、ランスロット国王陛下が病に倒れたとの知らせが王国中に伝えられ、ランスロット国民は一時騒然となった。ヴァレンシア東部事変が勃発する二ヶ月前のことである。
当時宰相の任に就いていたのは聡明と知られる国王の甥で、彼は紛争回避のために周辺諸国との連携や平和的外交に力を注いだ善良人であった。しかし国王が病に倒れたと“知らされた”翌日、自室で死んでいるのを彼の副宰相によって発見される。
有望な人材であったことからも、彼の死はランスロットの政界に大きな衝撃を与えた。元々人望も厚く、誰かに恨まれるような人柄でもなかったらしい。そのため事件の死亡原因は自殺という形で処理され、その理由も国王の衰弱による自信喪失という予測に終わった。
誰もがその死を信じて疑わない。人々は嘆き悲しみ、同時にその偉大な功績を讃えた。
――――今あるランスロットの平和が保たれているのは彼のお陰だ。そしてその安念は、平和を愛するランスロット国民たちによってこれからも約束されるであろう、と。
副宰相のガードナが宰相代理として就任するまでの二日間のことを、人々はいつしか『束の間の平和』と呼ぶようになっていった。こののち、ランスロット王国は軍事国家として変貌していくことになる。
「我ながら、ここまで国民を騙し通せるとは思ってもいなかったよ。内政、軍事、外交……そのどれをとってもあの男の足元にも及ばない私が、よもや宰相代理という立場においてこの国を御するにまで至るとは……。君もそうは思わないかね、ヴィヴィアン?」
国王だけが座ることが許される執務用の椅子に堂々と腰掛け、大げさに肩をすくめてみせたガードナは、長机を挟んで向かい合う細身の女性に声を掛けた。
「いいえ、閣下の知略は相当のものかと存じます」
地方行政担当の高等官吏にして、ガードナ専属秘書であるヴィヴィアン。表上は下級貴族の出身となっているが、彼女はランスロット人ですらない。その正体は北の大国グルセイル帝国の諜報員の一人であり、本名も別に存在している。
「ふん……君は飾るのが下手だな。私が政治に関して劣っているのは事実だ。無論、一般人と比べれば私の方が詳しいだろうが……所詮それだけだ。別に優れているわけでもない」
鼻を鳴らして唇を吊り上げた彼に、特別不愉快な表情は見受けられない。むしろ相手の出方を楽しんでいるかのような、悪辣とした口調である。そこに好意的な感じは存在しなかった。
「いや、一つだけ私にも得意なことはあったか……」
椅子をくるりと回転させ、ヴィヴィアンに背を向けたガードナは立ち上がって窓辺に歩み寄る。
かつては王都としてそれなりに栄えていたこの街も、今ではすっかり廃ってしまっていた。住民たちの活気ある声が風に乗って聞こえててくるわけはなく、それどころかこの街が街として本当に機能しているのかさえ定かではない。政治に優れていないとガードナは言ったが、むしろ彼は政治に対して無関心であった。自分の任務を果たすべきためなら、他の事情など知ったことではない。
「謀略に関してなら……まぁ誇ってもいい。国をこの手に治め、そしてさらなる栄誉のための嘘を演じる準備も整った。これは私の人生で一番の功績だ……。誰にも真似はできまい……」
そう……彼は人を騙すことに関しては誰よりも優秀なのである。
ランスロット王国を軍事国家として生まれ変わらせようと大臣たちに促したのは彼であった。小国脱退を掲げ、国内中を対戦意欲で沸き立てたのも彼の策略だった。
「国民たちも愚かだな。彼らが慕う国王などもうこの世にいないというのに……あれから十年以上経った今でも、国民たちは王の復帰を心から願っている。本当に馬鹿馬鹿しい。誰一人として疑おうとはせず、勝てるかどうかもわからない戦争に進んで協力する始末だ……」
国王を暗殺し、その側近である宰相を毒殺することは彼にとって至極簡単なことだった。
副宰相として身分を偽り、裏工作に長けた諜報員の実力を持ってすれば何も難しいことではない。一週間もしないうちに、東端の小国は北の手に落ちたのである。
「そういえば……昨日送った侵攻軍の状況はどうなってる?」
ふと思い出したように、ガードナは首を後ろに向けてヴィヴィアンに問いかけた。
侵攻軍とはリディア王国に差し向けた一万の軍勢のことである。予定通りであるなら、今頃はリディアの大半を制圧できていてもおかしくはない。
質問を受けたヴィヴィアンはというと、一瞬戸惑いの表情を見せて答えるのを渋る。
「…………」
しかしガードナは何も話さない。こちらの情報をすでに予測しているはずなのに、彼はあえてヴィヴィアンの口から話させようとしている。
仕方なく、ヴィヴィアンは小さくため息を吐いて切り出した。
「情報によりますと、我が軍の主力は国境砦を制圧後、リディア領内を首都デュルパンに向け南下したとのことです。途中リディア王立騎士団と交戦し、これを撃破。魔獣の攻撃も幾度か受けたようですが、我が軍の別働隊がこれを討伐しています。その後……」
報告書に目を通していた彼女は、不意に言葉を止める。
こちらに背を向けて報告を受けるガードナを一瞥し、軽く咳払いして報告を続けた。
「……その後、トーテム山地に陣を張った我が軍の先鋒をリディアの軍勢が奇襲。戦況は我が軍の優勢でしたが……交戦中にヴァレンシア王国軍およそ八千が介入したようです。リディア救済を掲げ、我が軍の前後を挟撃。敵軍の魔術攻撃を受け、本陣営が壊滅的な打撃を受けたと聞いております」
「……なるほど、つまり我々は負けたのか?」
「……はい。飛竜隊は一騎として戻らず、参戦していたほとんどの将校及び総司令官のディリック・ダーナス中将も未だ行方知れずとのこと。我が軍の大敗は確実かと思われます……」
気まずい沈黙が執務室の部屋を覆う。
元々この侵略作戦はリディア王国攻略が目的ではなく、“ソーサラー教会”や中立国家の反感を買うことにあったのだ。圧倒的戦力差で他国を攻撃し、国内の反戦や抵抗運動を促すことによって、強制的に大国の軍隊を出動させるきっかけを作る。他の国は北の工作員が絡んでいるなんて夢にも思わないだろう。全てはランスロット王国という『緩衝小国家』が引き起こした事態であり、帝国はそれを鎮圧するため“だけ”に軍を動かすのだ。まさか侵略行為などと批判する国がいるわけがない。帝国は正当な手段で東国を手に入れ、さらに反乱鎮圧の功績として教会の後ろ盾を確保する。これ以上国家の利益になる手段は他にはない。
だが今回の戦いでランスロットは数多くの軍人を失い、戦闘組織としての軍事行動が不可能になる事態を引き起こしてしまった。
これでは“教会”はもちろんのこと、大国の関心を引き寄せることもできない。せいぜい小国間の紛争程度で処理されることだろう。本国から与えられた密命を果たせなくなる。
「申し訳ありません、閣下。私がもう少し早くヴァレンシアの動向に気づいていれば、こんなことになることもありませんでした……。全ては私の失態です。どんなお咎めもお受け致します」
この作戦を提案したのはヴィヴィアンだった。
任務に忠実な彼女にとって失敗した時の責任は人一倍強いのだろう。裏切るような卑怯な真似はしないだろうが、どうも堅苦しい性格のせいか融通の利かないところがある。ガードナが全て不問にしたとしても、ヴィヴィアン自身それを納得しないに違いない。
(彼女には別の仕事を与えて、気持ちを紛らわせるか……)
ガードナは机の引き出しから手の平大のガラス玉を取り出した。
透明度の高いガラスは、魔力を多く吸収しやすい。これはとある魔道兵器を稼動させるために必要な原動力に用いる。手元に残るこのガラス玉が、魔道士に作らせた最後の魔道具であった。
ガードナは頭を下げたままのヴィヴィアンに近づくと、その手に無理矢理ガラス玉を握らせる。
「あの、これは……?」
「例のゴーレムを動かすための鍵だ。以前地下墓地に格納させていた石像があっただろう。その背中部分に取り付ければ起動するようになる」
それを聞いて、ヴィヴィアンはますます困惑した表情になった。
「しかし、何故今それを私に預けるのですか……」
「君にはまだまだやってもらいことがある。人手が足りないんだ。罰を受けるのは後回しとして、今から重要な任務についてもらいたいんだよ」
真剣な口調とは裏腹に、彼の痩せた顔には軽薄な表情が張り付いている。
それは、彼の言う任務が決して楽な仕事ではないことを物語っていた。“重要”という言葉も含め、自然とヴィヴィアンの表情も引き締まる。
「では、ヴィヴィアン行政官。君に任務を伝える。――――」
しかし、次に彼の口から放たれた言葉は、彼女にとっても予期せぬ内容だった。
ヴィヴィアンが執務室を退出したあと、ガードナは机に置かれた伝報水晶に手をかざして通信を繋いだ。
水晶全体が淡い光に包まれ、その表面にくっきりとした文字が浮かび上がる。
「……ヴィヴィアンの不注意だったとはいえ、こんなにも早くヴァレンシア王国が動くのは想定外だった。奴らの側にも、我々を監視する何者かが潜んでいるのか……。いや、それにしても八千もの大軍を、まるで居合わせたように戦闘へ介入させるのは並みの軍人にできる戦法じゃないはず……」
自分たちの企みに勘付いている者がいる。それも軍隊を統括するような、かなり身分の高い人物である可能性が高い。
(東部領の奪取も含め、詳しく調べる必要がありそうだな……)
通信の相手は本国の帝国参謀省。任務完遂のためにも、ヴァレンシア軍の詳細な情報をできるだけ早く入手する必要があった。
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「石頭め……」
「うぅ……何よ……。そんなに何度も言わなくたっていいじゃない……」
いいや、悪いが気が済むまで言わせてもらう。お前のヘッドタックルが俺の腹にどれほどの負荷を与えたか想像もできまい。“身体強化”だか何だか知らないが、そんな恐ろしい魔術をローブに付加させるなんて何を考えてるんだ! フカだけに……。
『面白くないのですよ……』
そ、そもそもだ! お嬢は魔道士なんだから隊列的に後衛だろう? 肉弾戦なんて機会も滅多にないんだから、常時強化魔術を掛ける必要もないじゃないか。彼女は一体何がしたいんだ? まさか俺を痛めつけるためか? 人が苦手なのをいい事に、俺の苦しむさまを見て悦んでやがるんだな……!
「石頭……」
「うっ……ごめんなさい……」
さすがの罪悪感にお嬢も反論できなくなったのか、小さい身体を余計に小さくして謝罪した。
するとそれまで傍観していたカトリーナさんがお嬢の隣に腰を下ろし、肩に手を回して抱き寄せる。
「キリヤ殿下。彼女もこうして謝って反省しておりますわ。お許しになっていただけませんか?」
悲しそうに目を伏せ、語り掛けるような柔らかい口調で話すカトリーナさんに一瞬言葉が詰る。
うぐっ……そんな困った顔で頼まれたら断れないじゃないか。
「はぁ……わかりました。今回は奥方殿に免じて、彼女のことはなかったことに――――」
「ホントに……!?」
途端ぱあっと顔を輝かせるセレス嬢。こいつ、本当に反省してるのか……?
そしたらカトリーナさんまでとても嬉しそうな表情で俺に頭を下げた。
「ありがとうございます、キリヤ様」
「さ、さま付けはやめてください。年上の方に敬称で呼ばれるのはどうも苦手で……」
『おやおや、キリっち。いつになく挙動不審じゃないですか。しかも敬語なんて使っちゃって……ギャップが凄すぎてキモイのですよ』
うるせぇ。腹黒発言を自重しないショタ声のお前に言われたくない。
そんなことより、まるで自分のことのように喜ぶカトリーナさんを見ていると、二人が本当の親子のように見えてくるな。いや、案外そんな関係だったりするのだろうか。性格は真逆みたいだけど……。
しばらく二人のほほ笑ましい話し声を聞いていると、突然ローブの裾を引っ張られるような感覚が全身を襲った。
「ん!?」
緊張で強張った首を無理矢理動かして見下ろしてみると、丁度俺の隣に五、六歳程度の少年がローブの端を掴んで立っている。
そういえばこの子供、カトリーナさんの息子さんだっけ? たしか名前はリンド。
何か俺の顔を穴が空きそうなくらい凝視してるんだが……。っていうかローブから手を離してもらえないだろうか。鳥肌と震えが止まらないんですけど……。
「お兄さんが勇者様?」
「え……?」
予想もしていなかった発言に思わず首を傾げる。
すると少年も同じように首を傾げた。
「違うの? ちちうえが言ってたよ。くろいひとがリディアおうこくを救った勇者様だって」
ちょっと待て。勇者様はともかく“黒い人”って何だ。まるで俺が性格的に堕ちてるみたいじゃないか。
正直褒められてる感じがしない。むしろ少し落ち込んだ……。
リンドはそんな俺の内心に気づかず、さらに俯いた俺の顔を覗きこもうとする。
「ねぇ。どうしてそんなおめんつけてるの?」
「…………」
「お兄さんがマドウシだから? おめんつけると強くなれるの?」
「さぁな……」
しかし適当に返事を返すと、興味を持ったリンドがさらに詰め寄ってきた。
んぐぐ……堪えろ……堪えるんだ俺! 子供相手に怯えたとなれば、俺の印象自体悪くなりかねん。無言を貫いて現状を切り抜けろ、神崎桐也! かつて教室の席替えで一番後ろに落ち着いた時、昼休みになるまで俺が登校していたことに誰も気づかなかったくらいの存在感の薄さを持つ俺に、興味本位くらいで近づく子供など大したことはないはずだ。大丈夫だ、俺。息を殺し、気配を消せ……。
「ねぇ、お兄さん」
「…………」
俺は無言を徹する。
しかし少年はそんな俺にお構いなしに目線を合わせて質問を重ねた。
「ほこりって何かわかる?」
「…………」
「強くなるために必要なんだって。ずっと前にちちうえが言ってたんだ」
……いきなり何の話だ?
「それでね、守りたいひとがいたらもっと強くなれるって」
それは……まぁその通りだろうよ。目的もなしに強くなりたいなんて思う奴はたぶんいない。
「けど、ぼくにはまだわからないんだ。ぼくはまだオトナじゃないから……」
「……そうか」
悲しそうな表情を見せるリンドに、俺は相槌を打って答える。
やはり俺はお人好しだった。子供の悲しむ顔を見て何とも思わないわけがない。事実、俺はこの顔をするやつを知っている。まだ小さかった妹が見せた、忘れようのない表情……。心から妹を憎めないのも、それが原因だった。
「お兄さんはワルい人たちと戦って勝ったんでしょ? 守りたいひとがいたからなんだよね?」
「それは……」
咄嗟に反応できずに俺は言葉に詰る。
俺の脳裏に過去の出来事がありありと浮かび上がる。夕日の公園で蹲る妹と、そして何故か俺に助けを求めて伸ばされたセレス嬢の弱弱しい姿。それらは俺が心から守りたいと思った、数少ない俺の本当の気持ち。
俺の視線は自然にお嬢へと向けられた。
すると彼女もこちらを見ていたのだろうか、俺と目が合った途端慌てて視線を逸らす。若干顔が赤くなっているのは気のせいか。
「……守りたいひと……」
妹とセレス。
俺にとって、二人は何なのだろう。二人にとって、俺はどんな存在なのだろうか。
他人に対して拒絶し続けた俺が唯一自分から差し伸べた存在。妹はまだしも、セレス嬢に関してはまったくの初対面であったはず。
今思えば、お人好しだから助けるしかなかったなんてわけがない。あの時は二人とも命懸けだった。悪い奴だったかもしれない彼女を助けてやる義理もなかったのに……。
「……守りたいと思ったから、俺は戦ったのか……」
いまいち納得できない曖昧な理由だが、これ以外で真っ当な理由など思いつかない。
…………そもそも人助けに理由なんて必要なのだろうか?
「勇者様でもわからないの?」
「え……?」
リンドの率直で純粋な問いかけに、俺は即答することができなかった。
答えはもちろん否だ。誇りが何なのかという疑問以前に、俺は自分の取った行動自体を完全に把握していない。俺の行動が果たして正しいことなのか。俺という存在が周囲にどんな影響を及ぼしているのか。考えれば考えるほど気が狂いそうになる。
言うなればマジックミラーだ。こちらからは何も見えていない普通の鏡なれど、向こうからはこちらの姿がはっきりと見えている。そして監視されている方は、自分が見られていることにすら気づかない。
「俺には……わからない……」
苦しまぎれに搾り出した俺の声は、近くから俺を見つめる少年の耳にはしっかりと届いていた。
「そっか……勇者様にはわからないんだ……」
悲しそうに肩を落としたリンドはしかし、次の瞬間には顔を輝かせる。
「じゃあちちうえは、勇者様よりつよいんだ! だってちちうえは知ってるんだよ。ほこりのこと!」
「…………」
「それでね、それでね、ちちうえはキシでリディアのたくさんのひとを守ってるんだよ! だからちちうえが一番つよいんだ!」
「……そうか。すごいんだな」
「うん!」
きっと尊敬されてんだな。君の親父さんは……。
職場を点々とすることなく、正社員として一会社を勤めることができたのならあるいは、俺の親父も部下から尊敬される上司になっていたのかもしれない。寡黙なトコ以外、結構気が回るし……。
まあ誰にも相手にされないような俺が偉そうに言うのも何だが。
「見た目と違って、キリヤ君って子供好きだったりするの?」
突如俺の隣に腰を下ろすセレス嬢。
途端、心臓が早鐘のように激しく打つ。今までセレス嬢のことを考えていたこともあってか、いきなり話しかけられるとかえって照れくさい。彼女なりの気遣いだろうか、俺との距離は鳥肌が立たない程度で保たれていた。
「ね、ねぇ。どうなの?」
尚もしつこく聞いてくるお嬢に、俺はふと疑問に思って彼女の顔を窺う。
悪戯っぽい笑みを浮かべているのはお嬢らしい表情だが、その顔がどこか引きつっているように見える。腰掛に座る体勢も少しぎこちない。気づきにくい微妙な部分で、らしくない彼女の一面が垣間見られた。
『はは~ん。さてはセレスさん、緊張してますね』
緊張? なんで?
『昨日の夕刻、あなたがどんな状態だったのかもう忘れたのですか?』
……あ。
そうだった。馬鹿みたいに錯乱して、アル姐さんたちに迷惑をかけたのは俺だ。まさかセレス嬢も、あの時の俺を見てたのか……。
『狂った獣みたいに不規則な行動をしていましたからねぇ。元々寡黙な印象を受けるキリっちの外見上、あんな一部始終を目撃した昨日の今日とあっては、接し方も気まずくなるのは当然なのですよ』
きっとお嬢にとっては衝撃的な光景であったに違いない。情けないことに俺自身、昨晩のことはまったくと言っていいほど覚えていないのである。大体の事態の行く末はピロから聞いているが、いざ実際にそれを目の当たりにした人物と話すとなると俺も落ち着かない。
「ちょっと……無視しないで」
頬を膨らませたセレス嬢が上目遣いで睨んでくる。
その動作は本心からくるものだろう。根本的に避けられているわけでもないとわかり、内心ほっと胸を撫で下ろした。
「別に子供が好きというわけじゃない。昔妹の面倒を見てる時、よく我が侭に付き合って遊んでやったりしてたから、対処の仕方に慣れてるだけだ……」
「そ、そう。妹さんと……」
しぼんだバルーンのように、急に表情を暗くするセレス嬢。
何だ? 妹のことで嫌な思い出でもあるのか?
少し気になったが、ここで首を突っ込むほど俺は空気の読めない男じゃない。俺は質問の追求をやめた。しかし俺が口を閉ざしたせいか、だんまりになったセレス嬢と相重なり、俺と彼女の間に気まずい沈黙が出来上がる。
「ふふ……」
鈴の音のような柔らかい笑い声に、俺は顔を上げた。
見るとカトリーナさんがこちらを眺めて優雅に微笑んでいる。
「……?」
何が面白いのだろうか。やはりこのダサい仮面か?
「お二人を見ていると、昔を思い出しますわ。……わたくしと夫が出会って間もない頃も、そんな風にたどたどしい関係だったのを覚えております」
にっこりと微笑んで昔を懐かしむカトリーナさんであるが、俺たちは別にそんな関係じゃない。むしろ今の気まずい雰囲気は決してほほ笑ましいものではない。残念ながら……。
「ち、違います、奥様! あたしとキリヤ君はそんな関係じゃありません!」
そして予想通り、隣で顔を真っ赤にしたセレス嬢が必死に反論する。
「あらあら? 照れていらっしゃるのね」
「なっ!?」
おいおいお嬢。そこで詰ったら本当に俺たちがアレな関係だと思われるだろ? もっと冷静になって対応しないと……。
「奥方殿。セレスの言う通り、私と彼女はそんな関係ではありません」
「まぁ……そうなのですか!?」
「…………」
カトリーナさんが目を丸くして驚く。どうやら信じたようだった。
さすが俺の『人見知り事情の無表情』。意外なところで結構役に立つ。
「そうなのですか……。てっきりお二人は契りを交わした間柄だと思っておりましたのに……そうですか……」
はぁと小さくため息を吐いて落ち込むカトリーナさん。
あなたは一体何を期待している……?
「…………」
「ん? どうしたセレス?」
「…………何でもない!」
続いてふんっと顔を背けるセレス嬢。
こっちはこっちでよくわからない反応だ。ホント……妹といいお嬢といい、女性はよくわからない生き物だとつくづく思い知らされる。
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鎧を鳴らす耳障りな音が城内の廊下に響き渡る。
レイニス騎士団長を筆頭に、リディア王国軍幹部陣が一同揃ってあとに続いていた。
「その情報は本当に正しいのだろうな。向こうの誤認である可能性はないのか?」
「“彼”を乗せた四頭立ての馬車が、街の門をくぐったと先ほど連絡が。本人であることは間違いないかと……」
レイニスの耳元で声を潜める幹部の一人が重々しく告げる。
しかしそれでも“その情報”が正確なのかレイニスは信じることができなかった。まさかあのお方が自らこの小国に赴くなど正気な沙汰とは思えない。
(次から次へとどうなっている!? キリヤ王子と近衛騎士を抱えるだけでも精一杯だというのに……。戦い一つ介入しただけでこんなにも積極的に動き出すとは……)
改めて大国の凄味を強く心に感じた。
辺境の国を取り込むために躍起になっている帝国といえど、皇帝自ら国本を離れるような大胆なことはしないだろう。あの国王はどこかおかしい。レイニスにはそう思えて仕方なかった。
一階正面玄関にたどり着いた一行は、まずその騒々しさに目を見張った。
どうやら騒ぎの元凶は外からのようで、メイドや警備兵が慌ただしく城内を行き来している。ただ事ではないことは確かなようだ。
「陛下をお呼びした方がよろしいのではありませんか?」
切羽詰った声音で官僚の一人が呟く。
「いかにレイニス殿下がお迎えにあがられても、相手は大国の指導者。然るべき立場のお方が席を成さねば、こちらとしても色々不具合が生じましょう」
「我が父は病床の身だぞ。まさか重病人にも迎えに参列せよなどと申すほど、ヴァレンシアが鬼畜だとは考えられない」
「失礼ながらレイニス様。『鬼畜』などという不潔なお言葉は――――」
「ああ、わかっている。“彼ら”の前で口にはしないさ」
とにかく今は国家の要人を迎え入れるのが先だ。たとえ父を連れてくるにしても、今からじゃ到底間に合いそうにもない。自分たちで対応しなければ……。
玄関から外に出ると、丁度広場の敷地内に大きな馬車を率いた武装集団が入城してくるところであった。さすが一国の主の乗る馬車というべきか、大勢の護衛騎士が張り付くように傍に控えている。完全装備の騎士たちは全員乗馬しており、油断なく構える武器の手入れに抜かりはない。いつでも不法者を一突きにできるような、万全な体勢が彼らの元に敷かれていた。
――――というよりこれは、少々甘くみていたかもしれない。
「……が、外務卿」
「は……」
「ヴァレンシアのケリュネイア近衛騎士団長は城内におられるか?」
「いえ……朝早くに野営地の視察へ参っております」
国王の懐刀と名高いアルテミスは不在。かの王を抑える切り札は潰えた。
そうこうしている間にも、厳重警備を受ける馬車は王城の玄関前にやってくる。遠目ではよくわからなかったが、護衛にあたる騎士の中には魔道銃を下げている者もいた。恐らく遠距離からの襲撃を見越しての対策だろう。大盾を抱えた騎士は見受けられないが、あの馬車自体に特殊な防御術式が施されているに違いない。
御者が馬の手綱を引き、馬車を止める。
その場の空気が百八十度ガラっと変わった気がした。
張り詰められた空気がさらに重くなり、息苦しい雰囲気を伴う。そのせいか誰も言葉を発する者はいない。いや、言葉を発するなんて愚かな真似ができる状態じゃないのは誰もが理解しているはずだ。
厳格な空間が出来上がったのを確認し、レイニスは視線を馬車の方へ移す。
馬車の脇を進んでいた騎士たちが場所を変えるように前後に広がった。道を空けるように展開する彼らに、レイニスは内心感嘆の声を上げる。
何故なら馬を操る騎士たちの動きにまったく無駄がなく、誰もが息を呑むほど鮮麗されていたからだ。同じ騎士として日々訓練に励んできたレイニスとしては、彼らの馬捌きはさすがとしか言いようがない。
やがて全ての時が止まったかのように不可思議な沈黙に包まれた頃。馬を降りた騎士が足早に馬車へと近づき、その扉の金具に手を掛けた。
「…………」
誰も声を発しない。
自分でも息をしているのかと疑うほど、息継ぎ一つ聞こえない周囲の無音は異常であった。誰もが固唾を呑んで見守る中、金属で補強された木製の扉が外側へと開いていく。
緊張が最骨頂に達するのがわかった。ワイバーンの凶悪な殺気を受けた時とはまた別の、押さえようのない不安が胸の内側から競りあがってくるのである。今ここで逃げ出す者がいても、きっと誰も驚きはしないだろう。だがしかし、ここで発狂して暴れられたら大いに迷惑にはなる。
(来る……!)
馬車の扉が完全に開き、中から礼服を纏った黒髪の男がゆっくりと身体を出した。
背後に控えていた騎士たちが一寸乱れぬ速さで敬礼し、その忠誠心をレイニスたちに見せ付ける。
もう迷いや疑念は頭の中からすっかり消えていた。今自分がすべきことは、この場に居る誰よりも高い位置にいるその男に頭を下げること。
前髪に隠れる金色の瞳が怪しく光り、そして――――
「さて……俺の可愛くない弟はどうしてるっかな?」
(は……?)
下げかけた頭がとまる。
上目遣いに見上げた視線の先で、不敵に笑う男が一人。
アレクシード・ファレンス・エクス・ヴァレンシア。“不敵王”の二つ名を持ち、傲岸不遜で有名なヴァレンシア王国の君主。その類稀な性格を最大限に発揮し、改革的政治運営を続けて中央政府の地盤を確固たるものに作り上げた若き――――
「そして何より、この城の可愛いメイドたちとレイニス王子の若妻が俺を待っている……!」
(……前言撤回)
この男はただの変人だ。下げてやる頭などない。むしろこの男が頭を下げるべきだ。いや、頭を下げるだけでは駄目だ。土下座しかない。根の腐った指導者には一度世間の常識というものを身を持って理解するのが一番重要なのだ。
「殿下、お気を確かに……!」
「わかっている。わかっているぞ外務卿。あの無礼者が不埒を働くまでは何もしない……!」
「目が血走っておいでではないですか! その腰の剣に伸びるお手は何です!? 何を斬るおつもりで!? 決して早まってはなりませぬぞっ!」
「わかっている。わかっているぞ外務卿。あの無礼者が不埒を働くまでは何もしない……!」
アレク王の危機は刻一刻と迫っていた。
三十ニ話目終了…
何の予告もなしにリディア王国へとやってきた王様。
果たして、彼の目的は如何に……!
そしてキリヤの抱くセレスへの想いは一体……!