第三十話 新米メイドの苦難
不思議な夢を見た。
暗闇の中、俺の真正面に妹がにこにこしながら立っているのである。
『ふふ……』
『…………』
果てしなく不気味であった。
俺が見てきた限り、最近妹が笑った表情を見たことがない。それがさらに俺に対して微笑みかけているなんて天地がひっくり返るほど有り得ないことであった。
『ねぇ兄貴……』
妹は笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと俺に近づいてくる。しかし避けるようなことはしない。何故か俺の体質は、身内だけには異常な反応を示さないのである。
やがて俺の目の前までやって来た妹は、手を後ろに組んだまま上目遣いで俺を見上げてきた。
その女の子らしい仕草に俺は思わずドキッとする。アマゾンの軍隊アリみたいに一日中動き回ってないと身体が鈍って大変だとか言ってたあの男女の妹が、まるで男を誘惑するような視線を投げかけてくるのだ。
そして――――
『ううん……お兄ちゃん』
俺の背筋を悪寒が走る。
なん…だと…? こいつ…今俺を何と呼んだ…?
リアルでは俺のことを『根暗兄貴』と呼び、夢では『目が死んでる』だの『変態体質』だの馬鹿にしてくるあの口悪女が、あろうことか俺のことを『お兄ちゃん』だとっ?
……これは一体何の冗談だ?いや、これは夢だから全部俺の夢想であって本当に妹がいるわけじゃないから…! 落ち着け俺、落ち着くんだ……!
妹は尚も俺に話しかけてくる。
『お兄ちゃん、ウチね。ずっと寂しかったんだよ? お兄ちゃんずっと家に帰ってこなくて……とっても心配したんだから……』
いつの間にか妹が涙目になっていた。
なんという悪夢だ……しかも夢だって自覚している分余計にタチが悪い! 頼む! 早く醒めてくれ。こんなにも可愛い……じゃなくて気持ち悪い妹をこれ以上見ていたら…俺はっ……!
『ええ!? ウチのこと可愛いって…そんな……! もうっ……“キリっち”のむっつりスケベ!』
『…………え?』
――――キリっちだと……?
「はっ……!?」
目が覚めたら朝だった。
後頭部に当る枕の感触が心地よい。いっそこのまま二度寝しようかと目を瞑りかけた時、俺はふと夢での出来事を思い出して勢いよく身体を起こした。
『……お目覚めですか、キリっち。随分と遅い起床なのですね』
まるで何事もなかったかのように話しかけてくる脳内居候殿に、俺は試しに皮肉って正論を述べてみる。
「誰かさんのせいで昨日寝てないんでな。人様の夢の中でくだらない悪戯して楽しんでる精神体と違って、人間様は睡眠という欲求には勝てんのだよ」
『悪戯とは失敬な! 小生は気を病むキリっちのためにどうやって慰めようかと色々と考えていたのですから!』
「……その結果が夢への介入か。お前は俺の頭の中にいて、俺の記憶も知ってるはずだ。俺が妹嫌いだってことを十分理解しているにも関わらず、何故よりにもよって妹に化けて出てきた?」
『妹嫌いですって? ほう……では、さっき夢の中で「こんなにも可愛い妹~」とか言っていたのは嘘だと?』
「…………」
くそ! やっぱりこいつとは微妙に話がかみ合わない…! しかも痛いところを容赦なくエグっていきやがる。まともな会話をするというのがそもそも野暮か……。
『やはり家族は家族。あなた自身が嫌いだと仰っても、たった一人の妹ですからねぇ……』
……否定はしない。たしかに昔は喧嘩ばっかりして、今でもお互いツンケした態度だが……俺の家族であることには違いないし……。
って何でこんなこと考えてんだ俺は! やめたやめた。今更持ち上げる話でもない。
俺は顔を洗おうと寝台を降りて洗面台へと向かった。
とりあえず顔を洗おう。昨日泣き疲れてそのまま寝てしまったから随分とヒドイ顔をしているはずだ。
「…………」
鏡を覗いて気づいた。
顔の上半分を何か黒い物体が覆っている。いや、これはアレクから渡された仮面か。まさか……眠っている間もずっとこれ着けていたのか?
『違いますよ。あなたが大泣きして眠った後に、外れた仮面をアルテミスさんが再び着けてくれたのです。彼女はキリっちのとはまた別の意味で、周りによく気を遣ってくれる人のようですね。あなたの黒目を当事者以外に見られると厄介ですから、それを見越してのことでしょう』
また勝手に俺の思考を盗み聞いたピロが、事情を説明する。
なるほど……。アル姐さんが、俺のために……。
≪……私がせめて、少しでもキリヤ様の心の癒しとなれることを願っております≫
昨日の事を思い出し、俺は芯から身体が熱くなるのを感じた。
御袋以外の女性に抱きしめられたことの照れと、俺の情けない醜態を他人に見せてしまったことに対する羞恥である。いや、どちらかと言ったら羞恥の方が大半だ。
「カッコわりぃな、俺……」
女の人の胸の中で泣き晴らして、仕舞いにはそのまま寝ちまうんだから。世話ねぇよ、ホント……。
『キリっちにはキリっちの考えや価値観はあるんでしょうけど、小生はそんなに卑屈にならなくてもいいと思いますよ』
……人を殺したのにか?
『殺めたのは無関係の一般人ではないでしょう。皆軍人として戦地に赴いていた兵士たちです。……彼らは死を覚悟して戦い、そして死んだ。望んで軍人になったのなら、それは本望ですよ』
お前、人でもないのによくそんな達者なことが言えるよな……?
『そりゃあ小生はキリっちよりも長い時間を生きていますから。“貫禄”というモノですよ~』
長生きってだけで、精神体は人の生死を諭すことがきるものなのか。確かに色々経験が多ければ何かと役に立つ知恵も増えるだろうが……。
まあいいや。深く追求して、また余計な面倒を被るのは御免だ。今は何も聞かないでおこう。
とりあえず仮面を外し、顔を洗うことにする。
それにしてもこの世界、ざっと見た感じ時代背景は中世に近いのに、洗面台とか明かりとか、結構近世にも似たところがあるんだよな。これも魔術なんてものが存在する影響なのだろうか。
そんなことを考えながら濡れた顔を拭いていると、不意に部屋の扉がノックされた。
ビクッとして思わず振り向くと、外から可愛らしい女性の声が聞こえてくる。
「キリヤ殿下? もうご起床されましたでしょうか?」
「え……?」
誰!? アル姐さん? セレス嬢? それともこの世界にやってきた妹かっ?
『落ち着くですよ、キリっち。とりあえず返事をしないと……』
そ、そうだよな。返事返事……って何て言えばいいんだ!?
『大丈夫だ、入っていいぞ。とでも言えばいいと思います』
何で!? 何で中に入れるんだよ!
『何でって……きっと外の人はこの城の侍女さんなのです。この部屋の掃除とか、キリっちのお世話とかを任されてるんでしょう』
ええっ!? いや、しかし……。
「……キリヤ様? ……まだ起きられていませんか?」
そうしてオドオドしている間にも、外から確認の声が聞こえてくる。
こ、このままじゃ駄目だ。どうせあとで後悔するんだから、今言わないと……。
「い、いや。もう起きている」
声に張りを乗せ、いつもより大きい声で返事をしてみる。
どうだ。これなら向こうにもしっかり聞こえて――――。
「ふぇ!? え、あ、あ、あのっ! 起きてたんですかっ!?」
「は……?」
――――何その反応。まだ寝てると思ってたの。それとも起きちゃダメだった?
ってそうじゃない! 返事だ。返事をしないと……!
「……ああ、さっき起きたばかりなんだ。しばらく待ってくれないか?」
「は、はいィ! ま、待ちますっ! 申し訳ありませんでしたっ!!」
ちょっと! 何で謝るんだ!? 俺、何か失礼なこと言ったか!?
『キリっちは声が低いですからねぇ……。脅されてるとでも思ったんじゃないですか?』
黙れソプラノ野郎。声が低いからって理由で何でもかんでも怯えられたらどうやって話せばいい? 手話か? ジェスチャーか? それともお前が代わりに喋るか? ええ?
『何をそんなに怒っているのですか? 別に声が低いのが原因だなんて決まったわけじゃないでしょうに……。とにかくキリっちは身なりを整えて扉を開けてあげるのですよ。外で侍女さんが待ってます』
うぐぐ……こうなったら自棄だ……。
俺は手早く仮面とローブを装備して部屋の扉を開けた。
だがいきなり開け放ったりはしない。外の人が怯えているかもしれないから、ゆっくり、慎重に……。
かくしてその先にいたのは……こちらを涙目で見上げるメイド服を着た少女であった。
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『レイカ。これを四階の客室の方に届けて頂戴』
リディアの王城で給仕を勤め始めてからたった三ヶ月。そんな新米メイドのレイカに与えられた本日最初の仕事は洗濯でも掃除でもなく、なんと客人に朝食を運ぶ作業であった。
『ええっ!? わ、わたしが、ですか!?』
メイド長から告げられた指示に、レイカは耳を疑った。
それもそうだろう。なんたって配膳係は特別な技術なくしてできる仕事じゃない。配膳方法を一、二年かけて上司から教わり、その後メイド長の前で実技試験を受けて認めてもらわなくてはいけないのだ。配膳係を受け持つメイドたちは皆ベテランばかりで、誰一人として新参者はいない。
まさか……まだメイドになって間もない自分にそんな仕事ができるはずないと、レイカはメイド長の指示を初めて断った。
しかしメイド長の言葉は簡潔で、レイカの拒否を認めない。
『適任者が他にいないのよ。人手不足でね、みんな兵士たちの看護や食事の配給で忙しいの。だからレイカ、あなたにお願いするわ』
『は、はぁ……』
生返事しかできなかった。
たしかに、戦いが終わったばかりで皆忙しく走りまわっている。それに街のすぐ外壁には援軍として駆けつけたヴァレンシア王国の軍勢が駐留しているという。彼らの対応も重なって休んでいる暇はほとんどないのかもしれない。
しかし、だからといって自分にこの仕事がこなせるのだろうか。
客人が誰なのかも気になるところだ。もし他国の使者や偉い軍人さんだったらどうしよう……。急に心配になり、レイカはたまらずメイド長に客人の正体を聞いた。
するとどうだろう。メイド長の表情は一変して慎重な面持ちになり、レイカをメイド室の隅に連れて声を潜めた。
『それがね、レイカ。あの……落ち着いて聞いてほしいのだけれど』
『え?』
『実はそのお客様、ヴァレンシア王国の王族ご出身のお方でね。名はキリヤ殿下。アレクシード国王陛下の弟君だそうなの……』
『へ……? ええええっ!?』
何かの冗談であってほしいと思った。メイド長は自分をからかっているのだと。しかしいつまでも変わらない気の毒そうなメイド長の表情に、とうとうレイカは顔を真っ青にした。
それから二時間後……。
もう何度目かもわからない殿下ご滞在部屋の訪問に、レイカはそっと小さくため息を吐いた。
結局あのあとすぐ、キリヤ王子の泊まる部屋に食事を載せた台車を運んでいったのだが、扉を何度ノックしても応答がなく、その度に厨房と部屋を行ったり来たりしている状態であった。
(うぅ……どうしてわたしなんかが、王子さまの配膳を……)
相手は大国の王子だが、こう何度も同じことを繰り返しているといい加減面倒になってくる。最初の物凄い緊張とはうって代わり、今はとてつもなく暇だ。下の階ではメイドや兵士たちが忙しく走り回っているというのに、自分だけ何が悲しくて台車を引いて歩き続けなければならないのか。料理もきっと冷めてしまっているし、一度厨房で作り直してもらった方がいいんじゃないだろうか。
(どうしよう…一旦戻ろうかな。でも、もうすぐ部屋に着いちゃうし……。やっぱり最後に一回だけ……)
台車を部屋の前に止め、扉の前に立つ。
何度もやってると手馴れたもので、軽くノックをして、何度も言い慣れた言葉を言う。
「キリヤ殿下? もうご起床されましたでしょうか?」
…………応答はなし。
(やっぱり……まだ眠ってるのかな? っていうか、いくら何でも寝過ぎだと思うなぁ……)
ロングスカートのポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認する。
最初に朝食を運んできたのが八ノ鐘(=午前八時)。今は十の鐘だから、あれから二時間以上経過していることになる。王族が摂る睡眠にしてはいささか長い。
(……戦いで疲れて寝てる、ってことじゃないよね? 他の兵士さんは皆起きてるし……レイニスさまもずっとヴァレンシアの軍人さんと話して忙しそうだし……)
「むぅ…………」
気になったら止められない。
レイカはもう一度、扉に向かって話しかけた。
「……キリヤ様? ……まだ起きられていませんか?」
…………応答なし。やっぱりまだ寝ているのか。
それならそれで心が軽い。王子の朝食を配膳するなんて大役、自分に勤まるとも思えない。あとで手の空いている先輩にこの仕事を替わってもらおう。
ホッと嘆息し、レイカが台車を手に厨房へ帰ろうとしたその時であった。
「いや。もう起きている……」
(えっ……?)
「ふぇ!? え、あ、あ、あのっ! 起きてたんですかっ!?」
まさか……そんな……う、嘘……。
忘れていた緊張感が一気に爆発し、貧血が起きたかのように頭がクラクラし始める。
(あわ…あわわわ……! わ、わたしのバカ! お、お、王子さまに向かって……お、起きてたんですかって何失礼なこときいてるの! おこ、怒られるっ! どどど、ど、どうしよう……)
咄嗟のことに混乱して、つい頭に浮かんだ言葉を喋ってしまった……。
礼を欠いてるとか言われて捕まるだろうか。いや、食事を早く持ってこなかったことに腹を立てるかもしれない。
(あ、謝らないと……!)
謝罪しようと口を開きかけた瞬間、こちらより先に向こうから返事が帰ってくる。
「……ああ、さっき起きたばかりなんだ。しばらく待ってはくれないか?」
「は、はいィ! ま、待ちますっ! 申し訳ありませんでしたっ!!」
扉を隔てているにも関わらず、レイカは深く頭を下げて謝った。
これで許してくれるならそれで良い。何も気にしていないのなら直良い。
とにかく、キリヤ王子に言われたことを素直に従って待っていると、しばらくしない内に扉が開けられた。
(き、きた……!)
レイカは胸の前で両手を握りしめ、目の前に現れた人を恐る恐る見上げる。
(うわぁ……)
髪の色はヴァレンシア王家を示す濁りのない黒。その王子は、何故か顔の上半分を黒い仮面で隠していた。
……レイカが想像していた人と違った。それも限りなく……。
「……君はここのメイドだろう? 俺に何用かな?」
「え? あ、はいっ! レイカと申します、キリヤ殿下。朝食をお持ちに参りました…!」
不気味な見た目とは違って、意外と口調は柔らかかった。
とりあえず、横暴な王子ではないことに一安心。
扉を開けたまま脇へよけたキリヤ王子を見て、レイカは慌てて手押し車を部屋の中に入れる。
「し、失礼しま~す……」
……レイカの仕事場はほとんど一階であるため、大部屋が並ぶ四階に足を運ぶのは初めてであった。もちろん部屋の中を見るのもこれが初めてである。
天蓋付きの寝台。大きなカーテンと窓。壁に掛けられた精巧な絵画など、部屋に置かれている物どれもこれもが高級感を漂わせていた。
王城に詰めて仕事をしているレイカでも、やはり平民出身であることには変わりない。彼女がこんな光景を目にして何とも思わないわけがなかった。
「レイカさん」
「は、はいっ!?」
部屋をぼーっと眺めていた矢先、いきなり名を呼ばれ飛び上がるレイカ。
(あああっ! わ、わたしったら……準備もしないで何を……!)
――――今度こそ怒られる!
そう思ったレイカは、ガチガチに固まった姿勢で身構えた。
しかし、少女が予想した展開とは違い――――
「その、今朝は済まなかった。さっきの様子だと、この部屋に何度も足を運んでくれたようだな。……手間をとらせて申し訳ない」
これは一体何の冗談だろう。それとも何か悪い夢なのだろうか。目の前のキリヤ王子が、なんと自分に“頭を下げている”ではないか!
「え、ええええっ!? ちょ、ちょっとキリヤ様!? 頭を上げてくださいっ! そんなっ…わたし全然気にしてませんからっ!!」
なんていうのは完全な嘘である。気にし過ぎた挙句、最終的に配膳の仕事自体に飽きてしまっていたということを、混乱状態の極致にあるレイカが思い出してすぐさま訂正することができようか、いやできるはずがない。
彼女が今とにかくすべきことは、このおかしな身分的構図を一刻も早く正すことであった。
「……君は、いつからこの部屋に?」
「えっ? あ、えーと……八ノ鐘が過ぎたくらい、でしょうか?」
「八ノ鐘? ……8時のことか?」
「……ハチ、ジ? す、すみません、わたしにはよくわかりません……」
――――高貴な人が使う専門用語か何かだろうか。
「そうか……いや、それもそうだな。変なことを聞いた、忘れてくれ……」
「は、はぁ……」
変わった人……。
食事の準備をしながら、レイカはキリヤ王子に対してそんな印象を抱いた。
別に高飛車な態度で接してくるわけでもなく、だからといって向こうから気楽に話しかけてくるわけでもない。
(個人的に嫌な人じゃないけど……それでも、ちょっと近寄りがたいって感じ……)
さっきから空回りばかりして一人で騒いでいるのもそれが原因なのだろう。メイドという役職上、今まで何度か貴族や豪商と関わったことがある。彼らはレイカが抱く貴人の人物像にとても似ていたからこそ、それなりの対策や正しいと思う行動で上手く切り抜けてきたのだ。しかしキリヤ王子の場合、その見た目に騙されたというべきか……次の行動を予想することができない。むしろこちらの行動を予測されているようで全然落ち着かないのである。
(大国の要人は命を狙われやすいって前にメイド長から聞いたことがあるけど……もしかしてキリヤ王子の態度も、わたしが悪い人とかと思って警戒しているせいなのかな……?)
そうだとしたら少し悲しい……。
王子とは初対面だけど……いや、初対面だからこそ、最初に抱く印象というのは大切なものだとレイカは思う。悪人かどうかも定かではないのに、初めから害ある者として見てしまっては出会いの楽しさも感じられないだろう。
テーブルに食事を載せた皿を並べ終えたあと、レイカはキリヤを椅子に促した。
一応席に着いてくれたが、まだ若干こちらを警戒しているようで動きがぎこちない。メイドは主人の食事中もずっとその背後で控えなくてはならないため、キリヤ王子には少し息苦しく思うことだろう。王子が安心して食事を摂れる方法はないものか……。
(とりあえず、近づかなければ何も問題ないんだから……)
「あの、キリヤ様」
「……何か?」
「わたし、キリヤ様がお食事中の間だけ、お部屋の整頓をしておいてもよろしいでしょうか?」
こんなことメイド長に知れてどんな罰を受けるかわかったものじゃないが、ただ何もしないで王子の不安を煽るようなことにはなってほしくない。適当な理由を付けて、自然を装いその場を離れるのが名案だろう。
レイカの予想通り、雑用の申し出をキリヤ王子は快く承諾してくれた。一礼して静かに王子の傍を離れたレイカは、まず寝台の方へと向かう。
朝の部屋掃除といったら、やはり最初はベッド。起きかけのままになっている毛布の乱れを直さずして、部屋を綺麗にする気はおきない。他のメイドたちは知らないが、とにかくレイカはそういう気質の持ち主である。本格的に気合を入れて寝台の前に立った彼女であったが――――
(……あれ?)
レイカの期待した整頓意欲を興させる風景とは正反対に、キリヤ王子が睡眠を摂っていたであろうベッドは皺一つなく綺麗にされていた。
まさか寝台を使って寝てないのではないかと思い、軽く毛布に手を当ててみるとほのかに温かい感覚が手の平越しに伝わってくる。ついさっきまで誰かがこの寝台を使用していた証拠だ。
となると、この寝台を使っていたのは王子であるわけで、彼は起床後も律儀にベッドの整頓を行ったということになる。その行動がキリヤ王子の親切心によるものなのか、それとも彼もレイカと同じく寝床の清潔には抜かりがないのであろうか。どちらにせよ侍女経験の浅いレイカにとっては珍しく意外であることこの上なかった。
(ま、まあ世界中探せば綺麗好きの王様の一人や二人いるかもしれないし……別に深く気にすることじゃないよね!)
洗面台も見て回ったが状態は同じであった。
明らかに誰かが使用したと思われる濡れた痕があるのに、その他蛇口の水漏れやタオルの無駄遣いといった些細な乱れ一つ見つからない。しかも一度使われたタオルが元あった場所にきちんと折りたたまれて置かれているのである。部屋の掃除を受け持ったことがあるレイカでも、一度使用した痕跡のある小物類は例外なく始末するのに、この清潔さは異常としか言いようがない。というか、これではレイカのできる仕事なんてほとんど残っていないだろう。
その後仕事を探して部屋をうろうろしていると、ふとカーテンを閉め切った窓が目に入った。
昨夜のうちに閉められたものだろう。ようやく仕事が見つかったと、レイカは逸る気持ちでそのカーテンを開け放つ。
差し込む光に目を細め、レイカは伝統ある古き城下街を見下ろした。
「うわぁ……」
こんなにも高い場所から街を見下ろしたのは初めてかもしれない。幼い頃、警備兵である父にねだって城壁の上に連れて行ってもらったことがあるが、その時に見た景色よりずっと眺めが良い。
ただ戦争の名残が消えているわけではないから、全て気持ちの良い風景として受け止めることはできない。城へと続く大通りでは今も多くの馬車や兵士たちが忙しく行き交い、大きな噴水が目立つ中央広場には怪我人の治療を施すための簡易病棟が建てられていた。街を囲む城壁の上には平時よりもはるかに大勢の警備兵が立ち、弓を装備して草原の彼方を監視している。和やかな雰囲気があるとすれば、せいぜいこの客室ぐらいなものだろう。
城壁を超えた草原にも兵士たちがいた。しかしこちらは血のように紅い鎧を着たリディア兵士たちではなく、白銀の鎧を纏ったヴァレンシア王国の兵士たちである。彼らの援軍がリディア王国に勝利をもたらしたと聞いた。しかし皆あまり嬉しそうな顔をしないのは何故だろうか。もしかしたらこの国が滅んでしまっていたかもしれないというのに、メイド仲間や両親たちはヴァレンシア王国の援軍を歓迎していないようであった。昨夜の父の複雑な表情を思い出し、レイカは否定的な感情を抱く。
(大きな国に守ってもらえば安心なのに、どうして皆嫌がるんだろう? キリヤ王子も……多分、いい人だろうし……)
ちらっと後ろを振り返り、王子の姿を確認する。
テーブルでは黙々と食事を続ける王子の姿が……いない!?
「洋食もいいが、ずっとパンばかりなのも悩みどころだな。米の出る和食はないものか……」
いきなり横から声がした。
見ると――いつの間に移動したのだろうか――キリヤ王子はレイカと並んで外の景色を眺めているではないか。
「あ、あの、何か?」
「ん? いや……独り言だ、気にしないでくれ」
それよりも、と王子は続ける。
「俺も何か手伝いたい。重ね手間を掛けてすまないが、ここの責任者に会わせてくれないか?」
仮面で表情はよくわからなかったが、その真摯な佇まいに、彼が本気で言っているのだと理解できた。
寡黙なところも含め、彼に威圧的な印象を持ってしまったこともあり、思わず「はいっ!」と答えた自分に後悔した。
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時を同じくして、城下街中央広場。
「おい、包帯が切れた。誰か! 王城に行って新調してきてくれないか!」「重症な負傷者は神聖祈祷師にまわすんだ! ああ? 腹痛が収まらない? んなモン知るかっ! 実家の厠にでも篭ってろ!」「おいおい、君は骨折してるんだから大人しくしてなきゃ駄目じゃないか!」「くっ……血が止まらないな。ガーゼはあるか? 止血剤を調合してもらえるとありがたい」「おーい! この中に手の空いた医者はいないか! 腹に刺さったやじりを抜いてほしい!」「よし、いいか。ゆっくりだぞ……? いち、にい、さん……持ち上げろ!」「悪いが動ける奴は出て行ってくれ! 空きがないと怪我人を寝かせられない!」
医者や負傷兵が埋め尽くす広場は、すでに足の踏み場もないくらいに大混雑していた。怒号や呻き声、泣き声など止む気配は微塵もない。忙しく動き回る医者たちを除けば戦場の惨劇痕にしか見えないこの光景を見て平然といられる者がいようか。
邪魔にならない場所で様子を窺っていたアルテミスも、さすがにこの状況には唖然とした。
「よもや……ここまで被害が甚大だとは想像していませんでした。やはり我が軍の到着が遅れたのが原因でしょうか……?」
同じく隣で見守っていた近衛騎士の一人が落ち着きなく呟く。
いや、これはヴァレンシアでもリディアの原因でもない。むしろキリヤが先駆けとなってくれたお陰でこの被害はまだ小さい方であった。魔獣暴走での進軍停止もあってか、援軍として早急に参戦できたのは好都合。上出来である。
「一番の原因はランスロット軍の飛竜隊でしょう。まったく、随分と短気な指揮官が不幸にも敵にいたようですね。それとも功に急いたか……。戦いが始まってかなり早い段階で虎の子を投入したのですよ」
「なっ!? では、あの負傷兵たちは皆ワイバーン共にやられたのですか!?」
「そんな事一言も言っていません。私の推測を勝手に事実にしないでください」
「あ、いえ……すみません」
「ともかく、我々もここに来た以上、何もしないというわけにはいきません。リディアの幹部陣……またはヴァレンシア軍の指揮官たちと連携を取り、速やかに今後の作戦を立てるべきでしょう」
そう言うと、アルテミスは踵を返して部下たちと共に通りを戻った。
ここでじっとしていても埒が明かない。とりあえずキムナー旅団長に話を通しておいたほうがいいだろう。
「騎士団長」
「……何です?」
「その作戦についてなのですが、キリヤ殿下に言伝をなさらなくてもよろしいので?」
「…………」
予想していなかった名を出され、アルテミスは思わず立ち止まった。
焦点の合わない視線で部下を一瞥したあと、反射的に王城を見上げる。
「……何故、殿下に言伝を?」
「何故って……キリヤ殿下は東方方面軍の総司令ではありませんか。大将を抜いての作戦会議など考えられません!」
確かにそれは最もだ。軍人としての自分はそれを認めているのだが、一方でそれを否定する別の自分がいる。この場合、一体自分はどちらの人格を優先すべきなのだろうか。混乱して思うような返答ができない。
「殿下は……まだ前の戦闘の疲れが癒えていません。無理をさせては、お体に障ります」
結局選んだのは、妥当な理由をつけてキリヤの行動を制限するものだった。
「確かに……あれほどの膨大な魔術を発動させた反動は大きいはず。安静になされたほうがよろしいでしょうな」
他の騎士が賛同し、ひとまず安心する。
アルテミスにとって、キリヤに無理をしてほしくないのは事実なのだ。今はまだ、彼の負担が小さければ小さいほどいい。もう十分戦った。それでいいではないか。
(この気持ち……やはり気のせいではなかった……)
キリヤの名を出されると…いや、キリヤのことを考えるだけで、冷静な自分そっちのけで情熱的な感情が心の奥底から湧き上がって来るのである。
胸の高鳴りが押さえられない。キリヤのこと以外考えられない。
そんな異常とも言える独占欲が全身を支配し、いつか壊れてしまうのではないかと怖くなってくる。
「騎士団長、どうかなさいましたか?」
「い、いえ。何もありません。行きましょう……」
今は仕事に集中しよう。
私情は心を緩くする。万が一何かあったときに上手く対応できなければ意味がない。
街の外に張られたヴァレンシア軍の野営にたどり着いた時、アルテミスたちを迎えたのは覇気とした表情のアレンであった。
「アルテミス殿! 丁度よかった。先ほどファーボルグ将軍から戦況報告の文が届きまして……」
「それで、内容はなんと?」
「東端の街に篭城したランスロット軍残党を撃破。東部領土の奪還に成功したとの事です! やりました。念願の祖国復帰ですよ!」
背後の部下たちから「おお……!」というどよめきが起こる。
「? 文章はそれだけですか?」
「え、ええ。他には何も……。でも偽者じゃありませんよ?」
「そうですか……」
陛下のことが何一つ書かれていないのが気がかりだ。面倒事を引き起こして、将軍の愚痴の一つや二つ書かれていそうなものだが……。
(考えすぎか……)
しかしこの時のアルテミスには知る由もしない。
ランスロット王国のリディア侵攻が、単なる領土拡大を狙った軍事行動ではないことを……。
第三十話終了…