第二十九話 変われる心
「ち、違う! 俺じゃない……俺じゃない俺じゃない俺じゃないっ!!」
悲痛な叫び声を上げ、頭を抱え込むキリヤの様子にアルテミスは彼のただならぬ事態を察した。
少し離れたところでセレスが立ち竦んでいるのが見える。その傍ではアレンが彼女に助けを求めようと何度も話しかけているようだが、まったく聞こえていないのかその場で立ったきり微動だにしない。
無理もない。今のキリヤの状態はかつての面影を完全に失っている。“古代魔道士”である彼に強く憧憬していたセレスにとって、錯乱するキリヤの姿はあまりにも衝撃的に違いなかった。
「俺が望んだことじゃない! こんなこと求めた覚えもない……。それなのに……それなのに……!」
(やはり……彼は思い出しているのか……)
ただ“古代魔道士”という存在であったが故に、故郷を捨てざるを得なくなってしまった少年。風習や文化の違いがキリヤを忌むべき者に作り変え、遂には血を分け合った妹にまで刃を向けられた、憐れな少年。望まぬ運命に操られ、彼の人生はことごとく崩れ去ってしまったのだ。
(なんて…惨いの。何故この世界は、彼を……)
今なら世界も、それを創り出した『時の賢者』も憎める。一人の少年をあそこまで追い込んだ全ての元凶を、アルテミスは恨まずにはを得なかった。そして同時に、キリヤを闇から救い出さなくてはという一種の使命感に駆けられる。
(いや、違う――――)
使命感などと、そんな表面的な感情じゃない。心の奥底から強く望むある想いが、少年を助けることに無条件で賛同しているようであった。
それは憐れみか。情けか。一個人のちっぽけな正義感か。どれもこれも違う。
アルテミスの心は今まさに、宮殿の地下牢で激昂した時に感じたそれとよく似た感情によって支配されかけていた。しかも前よりもっと大きい感情が渦巻いている。
この不思議な想いの正体を知りたい。そう感じたアルテミスの足は、自然とキリヤの方へと向いていた。
「あ、アルテミス殿! キリヤ殿下が大変なんですよ! さっきいきなり頭押さえて――――」
「承知しています」
アレンの言葉を適当に受け流し、その横を通り過ぎる。
誰かに構っていられない。途端に狭くなったアルテミスの視界は、すでにキリヤしか映していなかった。
「あ……あぁ……」
爪を立てて身体を掻き毟るキリヤの姿に、アルテミスの心は半ばはちきれそうになる。胸が苦しい。苦しんでいるのはキリヤのはずなのに、まるで自分のことのように思えて仕方がない。
(お願い……そんなに自分を痛めつけないで。独りで背負い込まないで…!)
もっと誰かに頼ってほしい。それが誰であるかなんてこの際どうでもよかった。ただ彼の嘆き苦しむ表情を見るのが堪えられない。
(この想いは何? 何故私は……こんなにも彼のことに必死になっているの……?)
仕事とは関係なく、彼女が激しい私情のみに心を動かされたのは幼少期以来であった。表面的な感情とは違う、心の奥底から湧き上がるような情動的感情。悲しみや喜びとはまた別の、言葉では言い表せない不思議な想いが、緊張で硬くなったアルテミスの身体を火照らせていく。
「アルテミス、さん……?」
「……………………………」
キリヤの傍で歩みを止めたアルテミスは、その蹲る彼の目線に合わさるようにゆっくりと膝を突いた。 頭を掻き毟った過程で仮面が外れたのだろうか、素顔が露わになったキリヤの表情は随分とやつれている。その視線の先にアルテミスはなかった。
「……帰りたい……。俺を……家に帰してくれ……」
「……っ!?」
誰もが唖然とした態度でキリヤを窺っていたこの現状。アルテミスの予期せぬ行動を咎めることができた者は誰一人としていなかっただろう。
アルテミスには堪えられなかった。
反射的に伸ばされた彼女の両腕は震えるキリヤの頭を優しく包み込み、彼が抵抗する間もなくその豊かな胸へと彼の頭を押し付けたのである。
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『心の奥底では、キリっちもこんな境遇に憧れていたはずなのです。でなければ、あなたがこの世界に来ることはなかった……』
『――――あなたが望んだこと。なら、あなたが自ら見つけなければならない』
俺の乱れる意識の中、ピロと銀髪少女の声が何度も頭の中で反響する。
「俺が望んだことじゃない! こんなこと求めた覚えもない……。それなのに……それなのに……!」
それなのに……それを否定している俺自身、その言葉が全て本当の事だとは言い切れなかった。否定している自分が全部偽者だとして、その真実を受け入れた時、今まで“神崎桐也”として生きてきた俺という存在が消えてしまうのではないか。そう考えると怖くて仕方なかったのだ。
俺は少し特異な体質を持つ以外は一般の学生でありたい。多くの人間をこの手で殺めた魔道士なんて冗談ではなかった。
――――親父たちは今頃、どうしているだろうか……。
突然いなくなった俺を、心配してくれているだろうか。もう二日も家に帰ってないんだ、お節介で心配性の御袋なら、警察に捜索届でも出して血眼になって俺を探してるかもしれない……。親父は頑固で寡黙だから、きっと俺がいなくなったのも家出とか思って落ち着いてるかもな。妹は……いや、あいつは逆に俺がいないことを影で喜んでいる気がする。絶対にそうだ。
…………それでも、今更ながら故郷が恋しくなったのは違いなかった。
いつも退屈だった日常も、一瞬にして環境が一変すれば誰だってホームシックになる。元の生活に執着がある分、一層に……。
「……帰りたい……。俺を……家に帰してくれ……」
その呟きは、全てを投げ出してもまだ諦めきれていない俺の、乾ききった願望だった。
視界に映る全てのものが異質なこの世界。俺が唯一地球人として証明できたのは俺自身の存在のみ。だが魔道士としてこの世界の人を殺めた俺が、かつての“俺”に戻る方法として残されているのは元の世界に還ることだけだった。あの世界には俺の見知った“もの”がたくさんある。俺の存在できる場所がある。家族がいる。
けど、俺には……俺には、もう……。
――――――居場所ならあります。
――――――え……?
絶望の闇に覆われかけていた俺に不意に注いだ一筋の光。
周囲の暗雲を払拭するように、“俺”を包み込んだその光はとても眩くて……。
現実に引き戻された俺がまず感じたのは、顔に当る柔らかい感触であった。小さく息を吸うと、鼻をくすぐる甘いハーブの香りがする。俺は目を開けた。すぐ近くに丸みのある赤い布地が視界が全体を覆っている。どこかで見たことのあるそれはゆっくりと動いており、一定間隔で振動しているのを感じた。
「……落ち着きましたか?」
「……!?」
頭上から聞こえたのは若い女性の声だった。しかもかなり近いところにいる。ついいつものように身体を下げようとした俺はそこで初めて、自分が今置かれている状態に気づいた。
身体が動かない…!
どうやら頭を押さえつけられているらしく、俺の身体は自然と前方に倒れる形になっているようだった。そして俺の頭を誰かの身体が受け止めている。いや、誰かなんて今の声で大体把握できた。そしてその正体が誰であろうとも、人に密着している状態で俺のとる行動はただ一つ。
「逃げては駄目です!」
「――――!?」
しかし、相手を突き飛ばそうと持ち上がった俺の腕は、俺を胸に抱く女性の叱咤に固まった。
「苦しみから逃げてはいけません! 真実から目を逸らしてはいけません! 逃げては駄目……。そのままでは、あなたはもっと自分を見失ってしまう……」
「…………」
俺は人に触れられるのが一番恐ろしかったはずだ。それなのに……何故か彼女の――――アル姐さんの抱擁は俺の身体に異常な反応を示すことはなかった。
彼女の言葉が、俺の冷え切った心にゆっくりと染み渡っていく。
「仮だとしても、今のキリヤ様はヴァレンシア王国の王子なのです。一人で悩まないでください。何もかも一人で抱え込まないでください。あなたには私たちがいます。……もっと頼ってもいいのですよ?」
震えが収まっていく。温かい。とても心地がよかった……。
アル姐さんは俺と同じ世界の人間じゃない。それなのに、彼女からはとても懐かしい感じがする。もし俺に姉さんがいたら……こんな気持ちなのだろうか。
「……私がせめて、少しでもキリヤ様の心の癒しとなれることを願っております」
「な、ぜ……」
何故そこまでして俺のことを気に掛けるのか、という言葉は喉が詰って言えなかった。目元に溜まった熱い涙は俺の心の闇を洗い流すように、何度も何度も頬を流れ続ける。
「う……うぅ……」
俺は泣いていた。この世界で初めて泣いた。
偽者の俺を作り出していた心の枷はあっけなく外れ、そこから飛び出した後悔や悲愴、恐怖が精神的痛みとなって全身を駆け巡る。
そうだ……俺はずっとこの気持ちを忘れていたんだ。本当に独りではどうしようもない時、昔の俺は何をした? 今みたいに独りで何もかも抱え込んだのか? いや違う。俺には心を許せる人がいた。自分を愛してくれる家族がいたじゃないか……。
そんな時俺は、決まって御袋に――――
「何故と問われましても、私にも答えるのが難しいのですが――――」
泣き止まない俺をずっと抱きしめてくれたのだろうか。
まるで赤子を慰めるように、俺の背中を優しく撫でるアル姐さんは、俺の言わんとしたことを先に答えてくれた。
「強いて言うならば、私の“我が侭”、なのでしょうね……」
我が侭……。そう、子供の頃の俺はホントに憎らしいガキだった。いつも誰かに頼ってばかりで、独りじゃ何もできない奴だったじゃないか。いや、今も独りじゃ何もできないけど……。
けど――――――
今だけなら……少しだけ――――――
「うぅ……うう……ううくっ……!」
「気が済むまで泣いてください。今のあなたを笑う者は私が許しません。痛みは共に……独りよりせめて二人で分かち合いましょう……」
「…………あ、ありが、とう…っ…!」
「…………はい」
――――自分に正直になろう。我が侭とまではいかないけど、甘えるだけなら……。
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アルテミスに抱きしめられたキリヤが泣く姿を、セレスはただ呆然と立って見守るだけしかできなかった。彼女は鈍感じゃない。キリヤの顔を見れば、もう心の痛みは大分和らいでいることくらい容易に察知できた。
(また、あたしは何もできなかった……)
悔しさに歯を食いしばり、小さな拳を強く握る。
真っ先に部屋へ飛び込んだはずなのに、錯乱したキリヤにうろたえて何もできなかった。無力な自分がとても腹立たしい。
「あの……それで、キリヤ殿下はもう大丈夫なのでしょうか……?」
「…………たぶん」
「そ、そう、ですか……」
はあぁ~と、大きなため息を吐き出して、アレンは近くにあった椅子に腰を下ろした。
彼もキリヤの事を心配していたのだろうか。それともキリヤ王子の補佐役という立場にされたことへの後悔の嘆息か。
セレスは横目でアレンを一瞥したあと、再びキリヤの方へと視線を向けた。
彼はアルテミスの胸の中で涙を流している。アルテミスの方はというと、そんなキリヤのことを嫌がっている風でもなく、彼の背に手を回して微笑まで浮かべていた。
見方によっては幼子をあやす母親に見えなくもないが、セレスにはアルテミスのことがとても妬ましく思えた。
自分もキリヤに許される存在になりたい。何より彼の心の支えになりたいと。
(あたしもキリヤ君にとって必要な存在でありたい。あたしの特別な――――――)
その時、セレスの胸がドクンと波打った。
途端に身体が火照りだし、心拍がどんどん激しくなっていく。
「キリヤ君が、あたしにとっての特別……?」
古代魔道士であるキリヤは確かに特別な存在だ。だが自分にとってキリヤが特別だと思う理由はまた別にあるというのだろうか。
「……あれが……キリヤ王子、なのか?」
不意に後ろから聞こえた声にセレスは振り返った。
扉の前にはレイニス王子が佇んでいた。
その視線はキリヤに注がれているようである。決して友好的とは思えない彼の表情は、まるで石化の魔術を受けたかのように微動だにしない。
「有り得ぬ……。戦地で見た彼はもっと勇ましい印象を受けたのだが、根は宮殿育ちの世間知らずであったか。国の命運を背負う者として随分と情けない有様だが、淑女に泣きつくキリヤ王子を見ているとむしろ憐れに思えてくるよ」
(……っ!!)
その言葉はアルテミスに対する嫉妬や羨望の感情を怒りへと塗り替えた。
矛先はもちろんレイニスである。無言で彼に近づいたセレスは、その腕を引っ掴んで部屋の外へと連れ出した。
「お、おいセレス殿! 一体何のつもりだ!?」
いきなりの強引な行動に驚くレイニス。
そんな王子の顔をセレスは下から睨み付ける。
「何のつもりですって……? 王子こそキリヤ君を馬鹿にして、一体何のつもりなんですか?」
「……いきなりどうしたのだ? 私はキリヤ王子を馬鹿にしたつもりなど――――」
しかしセレスはレイニスの言葉を遮り、彼に一歩詰め寄って叫んだ。
「何も知らないくせに、勝手なこと言わないでよっ!!」
彼女の小さな手が、レイニスの大きな胸板を強く叩く。
王族に手をあげることは重度の不敬罪であるが、この時のセレスは完全に切れていてそのことに気づかない。
「何が世間知らずよ……何が情けないよ……! キリヤ君はね、一秒でも早くあなたたちを助けようと必死になってたの! 軍議は必要ないって一足先に宮殿飛び出して、前線基地じゃあたしを置いて行ってでも出兵してっ! 全部人助けのために、キリヤ君は死を覚悟してまで他国の人を助けようと頑張ったのよ!! 泣くことの何がいけないの? 人の死を悼める優しいところの、何がいけないっていうのよ!」
今の自分にキリヤを慰める資格はないかもしれない。それでも、キリヤを何も知らない者に勝手なことを言われるのは我慢ならなかった。
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「――――人の死を悼める優しいところの、何がいけないっていうのよ!」
「……!?」
(キリヤ王子が、私たちのために……!?)
レイニスの受けた衝撃は相当のものだった。
それもそうだろう。彼は初めからヴァレンシア王国に対して良い印象など抱いていなかった。今回の援軍もリディアを併合するための下準備だとばかり思っていたからだ。
しかしセレスが語るに、キリヤはただリディア国民をただ助けたいがために自ら出向いたというのである。
(私は今まで……大きな誤解をしていたというのか……?)
レイニスはセレスを見下ろした。
彼女は肩で大きく息をしながらも、果敢にこちらを睨みつけている。強敵に挑む勇猛な戦士にも匹敵する、そういう覚悟が彼女の周りを取り巻いているようであった。生半可な理由じゃできない表情を彼女はしていた。言っていることは恐らく、嘘ではない。
「セレス殿、私は……」
「あたしは皆のところに戻ります。叩いてすみませんでした……」
セレスはそう言って頭を下げると、出てきた時と同じ足取りで部屋に戻っていった。
「…………」
いつまで立っていたのだろう。
気がつくと窓の外は藍色に包まれ、夜の訪れを知らせていた。
そういえば街の広場に部下を待たせたままだった気がする。副長が上手くまとめていてくれれば助かるが、だからといってこのまま戻らないのも団長として不謹慎だろう。
「私にできることは、何もないようだな……」
キリヤ王子のことは彼らに任せ、レイニスは重く沈んだ気持ちのまま部屋の前をあとにした。
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時間は少し遡り、トーテム山地の戦いにヴァレンシア軍が駆けつけて間もない頃。
場所は変わり、ヴァレンシア王国東部のランスロット占領下。平原の街道を真っ直ぐ進軍していたファーボルグ率いる第六師団は、ヴァレンシア領東端の街に篭るランスロット軍と交戦している真っ最中であった。
「敵側、ボウガンによる一斉射撃です!」
「射線に障壁結界展開! 無力化せよ!」
ファーボルグの怒号に、付近で伝報水晶を操っていた魔道士たちが最前線の各部隊へと直ちに命令を通達する。
一瞬遅れてヴァレンシア軍勢上空の一角に、半透明の壁が出現した。地上に向かって降り注いだ矢は、全てこれに弾かれ空中で消失する。
それを見たファーボルグは小さく頷き、
「東門に突撃部隊を送るよう指示を出せ。魔術で門を破り、街の中に突入せよと。城壁の弓兵は引き続き銃兵部隊に応戦させろ。突撃部隊への迎撃に回るようであれば、援護の魔道士にこれを追撃させるのだ」
「はっ!」「了解です!」「了解!」
応答した魔道士たちがすぐさま情報を伝達する。
(今のところ敵に目立った動きはないが、さすがにここを落とされると後がないのは理解しているようだな……)
まさしく徹底抗戦、といった雰囲気が、敵の攻撃から手に取るようにわかった。
ここまで来るまでに何度か敵の奇襲を受けたが、どれも組織的ではない単体攻撃ばかり。現在東部領土に配置されているランスロットの兵士たちはそれほど有能ではないのか。ただ指揮官が無能か。それとも祖国から見放され賊と化したか。とにかく、ここのランスロット軍にヴァレンシア軍と拮抗できるほどの頑強さは持ち合わせていなかった。
(……十年前の防衛戦はもっと手応えがあった。このざまだと、有能な兵士たちは皆リディア侵攻戦に回されたようだ)
となるとやはりわからないのがランスロット軍の動向だろう。貴重な戦力をほとんど出払ってまで南を攻める理由は一体何なのか。
「将軍! 東門の破壊に成功です! これより突撃部隊を街の中に投入します!」
魔道士の声に、ファーボルグは瞬時に意識を切り替えた。
「索敵は魔道士にやらせるよう伝えてくれ。まだ街の中に住民が取り残されている可能性がある。こちらの攻撃に巻き込まれたとなっては、陛下にあわせる顔がない」
「しかし、もし取り残された住人がまだいたとして、彼らの保護はどういたしましょう?」
「後方の支援部隊をすぐに追わせる。負傷兵の手当ても合わせてな」
「わかりました。では、そのように通達します」
我ながらつまらない戦争だと、ファーボルグは心の内で嘆息する。
まるで緊張感がない。敵の遠距離攻撃も全て魔術で防いでしまい、中に残っている兵士もそれほど多くもないため攻防が単調すぎる。敵の数は恐らく百名前後だろう。対するこちらの軍勢は五千名を上回っている。兵糧攻めの長期戦に持ち込まなくとも、力押しで簡単に破れるほどなのだ。指示を出す以外は完全に蚊帳の外である後方陣営に、もはや何もすることは残っていなかった。
ファーボルグは隣で大欠伸をした旗持ちを咎めたあと、伝令にアレクを呼ぶよう命じた。
すでに突撃部隊は城門を突っ切り、街の中へと入ったようである。怒号や爆発音が時折聞こえる以外は至って静かなこの戦い。万が一敵が超重量級の魔道砲を所持していて、城壁の上にそれを持ち出したとしてももう間に合わないだろう。
戦いが終わるのも時間の問題であった。十年という長い時間を掛け、今日遂に東部領土が我がヴァレンシア王国のものとして復帰するのである。前王ガレスの無念を晴らす決定的瞬間を、ファーボルグはどうしてもガレス王の息子であるアレクに見せてやりたかった。
しかし、しばらくして戻ってきた伝令の傍にアレクの姿はなかった。それどころか伝令兵の表情が今にも倒れそうに青ざめている。
物凄く嫌な予感がし、ダンテは恐る恐る伝令に事情を聞くと、
「してやられました将軍。天幕の前に昏倒した護衛が二人。中はもぬけの殻です!」
「くそったれ!! 陛下の護衛班を全員集めろ! 私の親衛隊と合流後、直ちに街の中に突入すると伝えるんだっ!」
「しょ、将軍!? 我らへの指示はどうするおつもりですか!?」
焦った魔道士が思わず伝報水晶から目を離して将軍の方を振り向く。
「指示は全て魔道士長に一任する。以上だ」
それだけ言うと、ダンテは少数の親衛隊だけを引き連れ陣営を抜け出した。
目指すは街の中。非常時でもないのに総大将が最前線に赴くというのは有り得ない行動だが、国の指導者が行方不明だとあってはそうも言ってられない。
(……ガレス様。もし私の心の嘆きがあなた様に聞こえておいでなら、無礼を承知の上ぜひともお受けとめくださいますよう。……あなたの馬鹿息子は私にとって人生の峠です。民を想うのも重々結構ですが、それが原因でこの老体が早死にするようなことがありますれば、猪突猛進過ぎるのもいかがなものかと)
強く心で嘆いて後悔した。だが反省はしていない。
「将軍! 本当に陛下はあの街にいるのですか?」
背後から声をかけてきた親衛隊の一人に、ダンテはぶっきらぼうに答えた。
「知らぬ!」
「えっ!? い、いや、では何故一直線に街の方へ?」
「私の勘だ。あの街に陛下がいるような気がした。いや、今もいる気がしてならない」
「……よくわかりませんが、将軍がご乱心になっているわけではないのですね?」
「ご乱心であるのは陛下の方だ! まったく、あの方は今年で25になられるのだぞ? 二度とこんな勝手なことをされぬよう、いい加減正妻でも娶って宮殿に縛り付けておいたほうがよいのではないか?」
「…………」
国王相手に随分と失礼な物言いだが、相手があの陛下なら仕方がないと、親衛隊たちはそう結論付けてダンテの愚痴を黙って聞いていた。
途中馬を引いてきたアレクの護衛班たちと合流し、そのまま乗馬して颯爽と街の中へと向かう。
街の通りに張られた即席のバリケードは破壊されていた(恐らく魔術で破壊したのだろう)。その残骸を乗り越え、総大将を含む少数精鋭の部隊は街の中央に向かって馬を走らせる。
時々待機していた偵察兵がこちらを見つけて驚いていたが、わざわざ馬を降りて説明している暇はない。それにアレクが我が軍と同行しているのを知っているのは一部の将校と護衛の兵士だけであるため、アレクの存在を公開して事を大沙汰にしたくはなかったのである。
やがて街の中央に建てられた聖堂の前に到着すると、そこにはすでに突撃部隊の兵士たちが聖堂を包囲しているところであった。
近くにいた兵士を呼んで状況を聞いたところ、何でもこの聖堂の中にランスロット軍の残党が潜んでいるらしい。先ほど中から魔術攻撃を受けたため、敵の魔道士を警戒して迂闊に反撃できないようである。
「どうやら、この奥に敵の指揮官が潜んでいそうですね……」
「…………」
「将軍?」
顎に手を当てて兵士の群れを睨みつけていたダンテは、やがて目を瞑って大きく空を仰いだ。
「あてが外れたか……? いや、しかしあの陛下が……」
「……いないのですか?」
「それらしい人物がな。だが一般兵士に変装しているかもしれん。お前達はここで陛下の捜索に当ってくれ。くれぐれも誰かに捜索者の正体を明かすなよ」
「将軍はどちらへ?」
馬を引き返したダンテに、部下が問う。
「私は別のルートを調べる。これが陛下の悪知恵によるものなら、恐らくどこかに潜んで我らをやり過ごすつもりでおられるのだろう」
厳重な宮殿の警備を掻い潜って城下に抜け出すほど、情報屋顔負けの隠密能力を持つあの気まぐれ陛下のことだ。正面突破で敵に挑むなんて下手な真似だけはしないはず。
(だが、単独行動はもっと危険だ)
ダンテの胸を騒がせる一つの懸念。それはアレクが父の仇を討つことに躍起になっているのではないか、ということであった。
今でこそ国を背負う者として国政に積極的になっているが、その心の奥底にはまだ復讐心の火の粉が燻っているのかもしれない。そして今日この時、その火の粉が荒々しい獄炎となってアレクの理性を消し去っているとしたら。
(早まってはなりませぬぞ、陛下。あなたの下には何千万という国民が命の火を揺らしているのです。陛下は篝火として、この国の行く末を照らし続けねばならぬ存在。復讐などという愚行に火の元を絶やしてはなりませぬ――――)
ダンテは馬の手綱を握る手に力を込め、さらにその速度を上げる。
今の彼は、ただアレクの無事を祈るばかりであった。
===============
その石造りの空間は、まさに“陰鬱”という言葉が似合う混沌とした儀式部屋であった。
聖堂院の真下に造られたこの地下広間は、元々この聖堂で仕事をしていた聖職者や僧たちの遺体を安置する墓場として用いられていたが、十年前ランスロット軍にこの街を占拠されてから、ここは闇の魔道士たちが巣くう得体の知れない場所と化してしまっている。
備えられた明かりの火は少なく、薄暗い内部はどこか恐怖をそそるものがある。
床にこびり付いた血痕の筋を辿りながら、アレクは忍び足で奥に続く台座へと進んでいた。台座の前には、ローブを羽織った一人の男がこちらに背を向けて何か喋っている。エリュマン語じゃない。魔道呪文の類だろうか。
アレクは一度柱の影に身を潜ませ、腰に装着したホルスターに手を伸ばす。魔道拳銃を抜き取り、その銃口を台座の魔道士に向けた。
「…………」
柱の影に隠れ、アレクの表情は窺えない。しかし狙いを定める銃の先端は歪みなく真っ直ぐに魔道士の方を向いている。今トリガーを引けば、凝縮された魔力の塊が間違いなく魔道士の身体を貫くことだろう。相手がどんなに早い詠唱呪文を習得していようとも、超高速で放たれる魔弾を防ぐことは不可能。殺すには容易であった……。
しかし――――
「何故躊躇う? そなたにとって、我は邪魔な存在なのであろう?」
「っ!? ――――てめぇ……気づいていやがったのか……」
気配は完全に消していたはずだった。だが魔道士はこちらに振り向くことなく、まるで死など恐るるに足らないといった風に淡々と言葉を発する。
「激しい感情の片鱗を感じたものでな。そなたは久しぶりの客人だ、無視するというわけにもいくまい」
「……俺が撃ってたらどうするつもりだったんだ? 今のあんたに、銃弾を防ぐ手段なんてないぜ?」
「撃たんよ。そなたはな……」
「何だと……?」
その時、魔道士の頭がわずかにこちらを振り返った。
フードで覆われているため顔は確認できないが、その重々しい怠慢な動作にその者の貫禄を感じ、思わず身構える。ガヌロンのように人としてできた人物が相手では、油断するとこちらが不利になりかねない。
魔道士は言葉を続ける。
「そなたの心には迷いがある。それも…取り返しのつかない大きな選択を迫られた時のな……」
「……ほう。あんた、人の心が読めるのか? 俺の知り合いにも、人の顔色見ただけで感情読む奴がいるんだが……魔道士は皆そうなのか?」
「魔道は人の世を超えた人外術だ。人として正しい行為が道徳の意義を示すように、魔術の追求と精通は人の才を引き出す最も良好な手段と言えよう」
「その結果が心の透視ってか。はっ! そりゃあ随分と卑猥な才をお持ちじゃないか。ええ? 元凶さんよ?」
弾かれたようにアレクの腕が持ち上がり、拳銃の照準を魔道士に背に合わせた。
相変らず魔道士の方は動かない。すでに諦めているのか。それとも何か秘策があるのか。
「ふっ…卑猥ときたか。なるほど、たしかに一理あるな。長い間人との交流を控えたためか、“普通の人間”との観点がずれてきているようだ。不快な気分にさせたのであれば謝ろう」
「てめぇの謝罪なんて聞きたかねぇな! それより俺の国民たちはどうした!」
怒りに染まったアレクの視線が、フードの奥の暗闇を射抜く。
引き金に掛ける指が小刻みに震える。相手の返答次第では撃ちかねなかった。
「そなたの国民とな? はて、何のことであろう?」
「とぼけてんじゃねぇ!! この街の住民も含めて、東部領土のヴァレンシア国民を何処にやったかって聞いているっ!」
ここに来るまでに何度か小さな町や村を通ったが、何処も廃墟で人影一人見当たらなかった。どこか大きな街でまとめて捕らわれているのかと思ったがこの街にもいない。となると敵の謀略によるものと考えるのが妥当だろう。そしてそんなとんでもないことを思いつく者がいるとすれば一般人とかけ離れた思考を持つ人物、つまり魔道士に他ならない。
兵士に紛れて突撃部隊に加わっていたアレクは、聖堂に魔道士が立て篭もっていることを知り、近くに張られた下水道に忍び込んでそこから聖堂の地下へと侵入したのである。
「この聖堂は俺の軍が包囲してる。落ちるのも時間の問題だし、てめぇが白状しなけりゃあとできつい拷問が待ってるだけだ。もう一度言う。俺の民をどこへやった……?」
「ふむ……先ほどから民草のことをまるで自分のもののように話しているが……そなた、もしやこの国の指導者か?」
「聞こえなかったか? 住民たちをどこへやったかと聞いている!」
「冷静を欠くでない。焦りは己の破滅を早めるだけだぞ」
「これが最後だ。国民の居場所を言え。無事でなけりゃてめぇをただじゃ済まさねぇ……!」
「……困ったものだ。話の主導権を一方的にしてしまっては、答えられるものも意味を成さぬ」
やれやれとフードを揺らした魔道士は、ついにその体躯をアレクの方に返した。
飾り気のない、簡素な灰色のローブが薄明かりにさらされる。だが身体は台座の前から一歩も動かなかった。
警戒したアレクが威嚇しようと、銃の引き金を引きかけたその時であった――――。
「――――なるほど。そなたの怒りの原因、大半は国民たちへの愛情から来るものだが……一つだけ異質な感情も混じっているな……」
「て、てめぇ、一体何を」
「これは…己が力不足であることに負い目を感じているのか。同時に激しい憎悪も渦巻いている。……もしやそなた――――」
「や、やめろ! 俺の心を読むんじゃねぇ!」
だが真実は残酷に、顔もわからない見知らぬ魔道士によって告げられた。
「――――遠くない過去、この地でかけがえのない者を失ったな」
アレクの脳内に映し出されたのは……戦場から帰還した父の変わり果てた姿であった。
「貴様ァァァァぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああ!!」
ヴゥンという駆動音を上げ、アレクの拳銃から光が迸る。それは一度に止まらず、連続で放たれた魔弾は魔道士の身体を何度も貫いた。いや、それは“貫いた”というより、まるで身体を“すり抜けている”かのようである。
「無駄だ……これは我の作り出した幻想。如何な攻撃であろうと、この身に傷一つ付けることはできぬ」
魔道士が軽く片手を払う。
するとその姿は一瞬にして掻き消え、アレクの放った魔弾は虚しくも空を通り抜けた。
魔道士の声のみが、地下の広間に響き渡る。
「よく聞くがいい、ヴァレンシアの王よ。そなたの捜し求めるものはここに在らず。そしてその元凶は我でない。そなたの臣に聞いてみよ、必ずや力になってくれるだろう……」
それっきり、声は完全に途絶えた。部屋を包む重々しい気配もない。本当にいなくなったのだろうか。
アレクも呆然と立ったまま、空になった拳銃を握っていた。
住民たちは何処にいったんだ? あの魔道士は何者なのか?
怒りから覚めたアレクが最初に思ったのは、そんな極自然で率直な疑問であった。
「……俺の馬鹿野郎……!」
結局肝心なことは何一つとして解決していない。あの魔道士の言った通り、言葉の追求は何の意味も成さなかった。
「なぁ親父……俺なんかに、この国を引っ張っていく強さなんてあるのかね」
呟いた直後、天井の奥からくぐもった歓声が聞こえた。
この時、ヴァレンシア王国ランスロット占領下の東部領土は、約十年ぶりにヴァレンシア王国の元へと復帰したのである。
しかしアレクの表情は暗い。彼にとって真に取り戻すべきものは、未だに彼の下にはなかった。
三十話目終了…




