486 秘書長ローハン・アウグスタ枢機卿
此処は教皇の寝室。
「ローハン・アウグスタ秘書長が、お見えになりました。」
教皇の側仕えラッチア・フォレスタ神父が扉を開けながら寝床の教皇に伝える。
「おはようございます。聖下。」
「ローハン…。おはよう。また朝が来てしまった…。」
いつもの日課で、見舞いと報告にやってきたローハン・アウグスタに、老教皇はつぶやいた。
「さすがに今回のナゼル枢機卿のことは、老いたる我が身にこたえた。わしももう長くない。わしは退位する。教皇の座はお前に渡す。あとはお前が好きにするがよい。」
と言った。
「いけません。聖下。」
ローハンは武人のような巨躯をかがめ、厳かに言った。
「退位なさるにしても、今回のことはきちんと後始末なさってからにしてください。」
「うう。まだわしを虐める気か。酷いやつじゃ。」
「世界樹様も、それを望んでおられます。」
「うう。知らん!もうほっといてくれ!わしは死にたい!世界樹様。はよう私を、貴方様のもとにぃ!」
「神はそんな貴方のわがままに付き合うほど暇ではございません。さあ。これらにサインを。仕事は仕事。今日の仕事はきちっと済ませてから死んでください。」
「いじめじゃぁ!ううう…。」
毎日そんなやりとりなので、周囲も慣れている。
寝床でごねてもたもたしている教皇に、秘書長の有能な部下は、さっと羽根ペンを持たせ、当然のように書類を目の前に広げる。そして書類内容を要約して静かな口調で教皇に伝える。
ほとんど撚れたペケマークのような簡単なサインが終わると、脇で待ち構えたもう一人の有能な部下が、教皇印と教皇庁印をバン!バン!としっかり押し、公式文書に仕上げていく。
一連の作業が、10枚ほども終わると、もう教皇の本日の仕事はおしまい。
「本日のお仕事は済みました。あとはゆっくり、眠るなりお亡くなりになるなり、お好きにお過ごしください。」
と毒舌さえも厳かにのたまって、秘書長一行が退席する。
「うう…。あいつが有能なのは認める。わしのサインを、書類10枚に絞ることさえ憎いのじゃ。くそう。あとは好きにするぞ。ラッチア!着替える!今日はシスターたちの聖歌を聴きにいくぞ!」
書類サインさえ終われば、100歳越えとは思えぬ元気さで起きだし、朝食もしっかりとり、お気に入りのよく響く聖堂での聖歌コンサートを聴きにいくのだった。
実際のところ、ローハン・アウグスタ枢機卿は困っていた。
ドリーセット侯爵に賠償金として白金貨を大量に支払うことも頭が痛いが、それとて教会の財政からするとまだましな話だ。
それよりも、ナゼル枢機卿の不在が痛い。
ライバルと傍目からは見られがちなナゼル枢機卿。
彼は確かに勝手に自分をライバル視していたし、勝手に闘争心を燃やしていた。だが、ローハンは爪の先ほども教皇になりたいと思ってはいなかった。
実務ができる秘書長の地位で十分。それが自分に合っているし、自分を最も生かせると思っていた。
レイモンドがなりたいなら、教皇になればよい。俺を左遷したければそれでもよい。師匠であり実の叔父であるレビエント枢機卿の元へ行くのもいいかも知れぬし、レビエント枢機卿が望んだように、一介の司祭に降格を願い出て、旅に出るのもいい。あいつが俺をそのままこき使うのなら、それはそれで良かろう。
俺の信念は、とにかく世界樹ジュノ様の御意思を尊重し、ジュノ様が思う方向にこの世界に安寧をもたらすこと。安寧を維持することだ。
そう思っていた。
なにしろ、ローハン・アウグスタは世界樹の使徒なのだから。
レイモンド・ナゼル枢機卿がまだ教皇に就任することができていなかったのは、神の声を聞くことができなかったからだ。
だが、歴代の教皇に、神の声が聞こえない教皇も多くいた。賢教皇と言われた教皇でもそうだった。
実は、ほぼ半数の教皇が、世界樹様の声が聞こえなかったのだ。
だから、そんなに卑下することでもないし、それが教皇の条件ではないのだから、さっさと教皇になれば良いのに、とさえ、ローハンは思っていた。
本心で
「貴方が立候補するなら、私は喜んで支持しますよ。」
とも伝えたことさえある。
だが、ナゼル枢機卿は、苦虫をかみつぶしたような顔をして
「貴方の慈悲は受けない。」
と言って立ち去ってしまった。
皮肉かなにかだと思われたようだ。
もし世界樹が、「ローハンよ。そなたが教皇におなり。」
と言えば、それは全力で努力し、教皇になっただろう。
だが、今のところ、そういうご神託はない。
神託がないということは、自分は教皇に向いていないのだと思い、がっかりするどころか安堵さえ覚え、日々の仕事に邁進していた。
それだけ、ローハンの考える教皇の地位とは重いものだった。
現教皇のミラン・エクセレード教皇のように、日和見主義で、周囲に仕事をさせれば、とも思うが、たぶんそれは性格的にできない。
絶対、部下の至らなさにため息を漏らし、ここはこうしろ、あそこはああ対応しろ、あれはまだかと、口出ししてしまうだろう。
わかっているからこそ、教皇には向いていないなと思っているのだった。
そんなある日、世界樹から神託というか、連絡があった。
「今度、私の息子がケルーディアの王都に行くから。会ったらよろしく。あとの二人にも連絡をいれてあるから。」
と気楽な感じで言われた。
内心
「は?」
と言う感じだ。
だから俺に何をしろと?
と思わないでもない。
だが、世界樹の珍しいほど楽しげというか、幸せそうな笑顔が、妙に脳裡に焼き付いて、何も言えなかった。




