441 もう一人の患者
「ええ。隣の部屋ですわ。」
と奥様が答えた。
僕は誰の案内も受けずにさっと隣の部屋へと急いだ。
黒い靄が、扉の隙間からもれている。
確かキキさんのほうが危篤だって言ってたよね。
扉を開けると、メイドがひとり、付いているだけだった。
「キキ、しっかり!」
はあはあと苦しそうな息が聞こえた。
視界が悪い。
部屋は患者が隠れるほどに真っ黒な靄で覆われていた。
「浄化!」
僕はすぐ室内に浄化魔法をかけた。
しゅうう…と一時は靄が少なくなるが、また患者本人の周囲に巡らされたいびつな魔法陣が衝突するたび、黒い靄が発生する。
患者の少女は猫獣人だった。
普段なら、わあ、猫耳だあ!と言いたいところだが、今はそれどころではない。まさに彼女は危篤なのだ。
「キキ!しっかりして!」
同僚のメイドが、半泣きでキキを励ましている。
「失礼します。お嬢さん。」
「!あなたは?」
「Sランク冒険者で治癒術師のサキ・ユグディオです。」
そう言いながら、脈診する。
チアノーゼを起こしかけている。
心臓が止まりかけている。
こちらの方が圧倒的に状態が悪い。
だが、やはり愛娘と違い、メイドゆえ、残念ながら後回しにされてしまっている。
命の重さは同じなのに。可愛そうに。
「エリクサーを投与しますね。」
メイドがあっけにとられるうちに、さっと自前のエリクサーを飲ませた。
もう脈がほとんどない。効いてくれ!
すると、きらきらと周囲が光り、すうっとキキの呼吸が穏やかに。
心音もしっかりしてきた。
顔色も正常に戻りつつある。
良かった。間に合った。
さすがにほおっと大きくため息をついた。
ようやく侯爵とレジさんと隊長が入ってきた。
「サキ君。」
「危なかったです。心臓が止まりかけていました。今、こちらにも僕のエリクサーを投与しましたので、数刻は大丈夫かと。」
はあっと侯爵は大きく息を吐いた。
「ありがとう。メイドとはいえ、娘の身代わりで命を落とすようなことがあったら、親御さんに顔向けができぬ。」
それは本心だろう。
侯爵閣下も、わざとキキさんを放置したわけではない。
それだけさっきのリリアーヌ嬢の様子が、尋常ではなかったということだ。
ふと、キキさんを見ると、黒い靄がとりわけ発生しているところが明らかになった。手首にしているブレスレットだ。
「…。これは?」
侯爵が
「ああ、その隠者が、身代わりの術を施した時にさせたものだよ。命を繋ぐ重要な魔法が込められているから、絶対に取るなと。」
「…。娘さんにも同じようなものを?」
「いや、娘にはなにも。」
「そうですか。」
僕はその黒い靄を発生させているブレスレットを、アカシックレコードに鑑定させた。
「古代の黒魔術が込められたブレスレット。複雑な魔法陣が編み込まれており、一度つけたら外れない。外すには手首を切り落とすしかない。無理に外せば即死する。その場合、エリクサーも無意味である。」
くそ!
解除方法は?
「ひとつひとつの陣を解除するしかない。それには高度な術が必要である。」
サキ・ユグディオには解除可能か?
「…。不可能ではないが、現時点では失敗する確率、80パーセント。」
だめじゃん。
気を取り直し、世界樹の葉を患者が身につけてはどうか、と訊ねた。
「魔法陣の効果を弱め、発生する靄を少なくする効能あり。ただし根本的解決には至らない。」
とのこと。世界樹の葉でも駄目なわけ!?
とにかく、このブレスレットには誰も触らないように。わざと取り外そうとしてもだめだということは伝えた。
それから、僕の亜空間収納くんの中で、即席で世界樹の葉のペンダントを2つ作った。幻惑魔法で金の葉っぱに見えるようにしてある。
その一つをキキの首につけてもらった。
確かに黒い靄は薄まり、呼吸もさらに安定したようだ。
その後、隣のリリアーヌ嬢をようやく脈診させてもらった。
今は僕のエリクサーで脈も安定している。
こちらは特に装身具は付けていない。だが、やはり黒い靄が体から発生している。
「失礼ですが、背中を診察することは可能でしょうか。」
「それは…。」
だめだよね。
「では僕は見ませんので、メイドさんと奥様、ご確認いただけますか?」
ということで、ベッドにカーテンをして、僕は衝立の向こうでかつ後ろ向きで指示をだす。
「お背中は、普通ですか?」
「はい…。なにも変わったところはありませんが。」
「では今から、ひとつ呪文を唱えます。それは、隠されたものを明らかにする呪文です。変化があるか、見ていてください。」
と言ってから
「イ・ハロヌ・セクエトー。隠されし紋章、出現せよ。」
すると、
「きゃ!なにこれ!」
「そんな!」
「何か出ましたか?書き写してください。」
と言って文様を書き写してもらった。
それをみせてもらう。
その図は、山羊の頭を逆さまにしたようなもので、山羊は舌をだらりと出し、目は上向きで明らかに死んだ山羊の顔だった。
「あ、消えました。」
「はい。数分しかお見せできない呪文ですので。」
折しも、かかりつけの医者が到着したとの連絡が入った。
遅すぎますよ。
僕はリリアーヌ嬢にも首に世界樹の葉のペンダントをつけてもらった。
もちろん、「世界樹の葉」だということは明かしていない。魔除けの祈りを込めた貴重な葉っぱのアクセサリです、と説明している。これも決して外さないように、と侯爵様やメイド達に説明した。
僕達は二人の少女が今はすっかり安定したので、あとはお医者様とメイドさんにお任せして、近くの応接間に入った。
「なにがどうなったのか、君のわかる範囲で説明してもらいたい。」
と侯爵様。隣には奥方様。
「はい。まずおおまかに言うと、どちらも古代の黒魔術の呪い、です。」
「呪い…。教会の偉い方にも診ていただいたのだが…。呪いかもしれない、とは言ったが、はっきり言わなかった。」
「隠微の魔法が巧妙に編み込まれています。ですが、教会の偉い方が、黒い靄すら見えなかったというのは、ちょっと気になりますね。」
その方が、わざと見過ごしたのでは、という疑問がある。
「隠微の魔法が高度なので、「普通のお医者様」や「普通の魔術師」には、黒い靄が見えないのかもしれません。」
「サキ君は見えるのだな。」
「はい。僕は特殊なので。シンハは僕以上に見えますが。」
『くふん。』
一応シンハのアピールもしておこう。




