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2000年の四川省 九寨溝 黄竜 パンダ など

作者: マボロショ

昔のことですが、どなたかに、読んでいただけたら、参考になることもあるかもと、思い、転記しました。

トヨタの、左ハンドルのマイクロバスが、成都の錦江賓館を出発したのは、7月21日早朝であった。

人口9000万以上の四川省の省都てもなれば、ラッシュの人、自動車、自転車の動きは、もう始まっている。

中国らしい生活力の強さを感じられる群像である。いろんな会社や商店の看板を見ても、仕事の内容、商品の種類など、見当もつかないものが、次々出て来る。やはりここは、日本とは違う。中国なんだ。


有料道路をしばらく飛ばして都江堰市を過ぎたあたりから、自然がかなり残っている景色に変わって来る。

それでも、「やっぱり、ここは、公害垂れ流しやなあ」という声が聞こえるほど、黒い煙を吐き散らしている工場があったりする。

右に左にカーブしながら延々と続く岷江川筋の道は、九割以上が、両岸の崖の、底を走っているような道である。つい、居眠りしたくなる単調な道だとも言えるが、目を覚まして、さゆうを見ていると、崖の上の方に、放牧の山羊が、数十も へばりついているのが見える。

「山羊は、高所恐怖症じゃないのかなあ」という者もいた。「ヤギのことを山羊と漢字で書くわけが納得できるなあ」という者もいた。

赤い小さな実が、びっしり付いている低木も、イヤというほど、たくさん見える。

「あれは山椒だろう」と一人が言えば、「日本の山椒とは少し違うから、花椒ホワジョという、中国料理の香料になるものでしょう」と、別の一人が、補足説明をしてくれる。

トウモロコシ、ジャガイモの畑も、一杯見える。

茂県という所で、昼食であったが、ここは、チベット族の経営する山菜レストランで、入り口には、本物の大きな鷹が、木の柵の上で、首を動かしている。

日本では、客が入ると、太鼓を鳴らす店がある。この店では、客が入ると、猟銃の空砲を鳴らす。

こちらが食事中でも、時々、ドカン、ドカンと音がする。

民族衣装のウェイトレスが民族料理を運んで来る。客にも、赤い腕輪をさせる。天井にも、何かあやしげな飾りをぶら下げていた。まさに、野趣に満ち溢れたところであった。

その店を出たトタンに、キーッというブレーキ音がして、振り向いたら、尻を振りながら、マイクロバスが道をふさぐように横向きに止まろうとしていた。激突音はしなかったので、かろうじて、事故にはならずに済んだのだろうと思って、トイレから出て来ると、様子がおかしい。あとで聞いたことだが、子供が はねられた とかいうことであった。しかし、私が行って見た時には、もう、そこには、子供はいなかった。その横向きのバスをはさんで、両方に渋滞が起こり始めていた。これは旅程に響くなあとおもっていたら、ガイドが呼んでいる。なんと、我々のバスは、ちょっと先の駐車場においてあったので、渋滞にも、事故にも関係なく、先へ進めるというのだ。


今日は、順調に行ったとしても、11時間くらいかかるでしょう というガイドの言葉通り、それからも、先は長かった。峡谷らしい所を抜けて、流れが細くなる。草原らしい風景に変わる。

「ここが分水嶺みたい」とか言っているうちに、また、急激な下り道になる。舗装が悪くて、アスファルトが、ベチャベチャに溶けている。こちらが、ちょっと もたついてある間に、四輪駆動のパトカーと、高級車とが、一気に追い越して行く。「あれは、おエライさんだねえ」ということがすぐ、分かる。もう、何回追い越されたか分からない。おエライさんも、観光客旅行はしたいだろうけれども、パトカーに先導させてまで、ブッとばすなんて………と、首をかしげたくなる。


ガイドの予告通り、ピッシャリ11時間で、新九寨溝賓館についた。

成都では、短時間の停電が二度あったが、いなかなのに、ここでは、停電が一度もない。 

「おエライさんが、このホテルに泊まっていた」と聞いた時、「ああ、それで……」と、うなづき合ったことである。


7月22日朝、バスタオルで九寨溝の入り口まで移動。そこで入場券を買って、天然ガスを燃料にしている緑色のバスに乗り込む。排気ガスで、自然を痛めないようにするためだ、とか。

このバス、中国人観光客との乗り合いで、「まるで、終戦直後の買い出し列車みたい」という人がいたほどの混みよう。私は、嗅覚が鈍いので、それほどは、感じなかったが、「臭くてたまらんやった」というツアー仲間もいた。途中、何人か、乗ったり、降りたりしながら、36キロ奥の長海まで行った。途中、窓から見える絶景には、何度も感嘆の声を上げながら、である。

海抜3100メートルの長海は、旅慣れた人が「スイスみたい!」というほどの湖と山容で、いつまでも、この清浄さを残して置きたいなと思われる、すがすがしい所であった。

きれいな景色を眺めながら、つい一服しようとしたツアーメンバーの一人が、あわてたガイドから、

「ここは、ずっと禁煙地区になっておりますから」と注意されていた。神経質なほど、環境に気配りしているようだが、子孫の代まで、大事に、大事に、残してやりたいと気になるほど、美しいのは、間違いない。ヤクに乗っている民族衣装の、可愛い子供の写真を撮ったりもした。


長海のすぐ下の谷底に五彩池というポイントがある。

木の間から見える水面が、宝石のような、青色に見える。「元気のある人は、下まで降りて見て下さい」ということだったが、体力に自信のない私は、自重した。体力のある弟は、下まで降りて見た。

しかし、「遠く唐見た方がキレイに見える」ということだった。この時、木陰でパンフレットを見ていたら、中国人と間違えられて、アンケートの答えを要求された。「ウオ シイ リイペンレン(我是日本人)」といったら、分かってくれた。この旅では、もう2回、中国人と間違えられた。


さて、そこから、また、例の乗合バスに乗り込んだ時、中国人たちが騒ぎ始めた。どうやら、仲間かろ一人のっていないということらしい。私のすぐ横にいた男が、大声で、バスの外に向かって呼びかけている。相手は、若者には違いないけれども、返事もできないほど弱っている。上半身を崖によりかからせたまま、立ち上がろうともしない。いわゆる、へたり込む、という感じだ。多分、若気の至り、無理して動いて高山病にでもなったのであろう。

それなら、バスで、少しでも早く低地に移動した方がいいのじゃないか、とは思ったが、そう言うことは、余計なお節介のような気もする。そのうちに、中年の男だけが、バスから降りて、わかもののところに行った。結局、この二人を残したまま、バスは、動き始めた。二人は、あとで、仲間と合流出来ただろうか。


観光地区内の村の食堂で昼食を取った時、薄いテーブルクロスを、何枚も重ねてあるのに気がついて、首をかしげていたら、隣のテーブルを片づけるのを見て、わけが分かった。残飯をテーブルクロスの真ん中にぶちまけて、一枚のテーブルクロスにそれをくるみ込んだら、次の新しいテーブルクロスは、すでにセットされているという仕組みであった。次々に来る観光客をさばくには、あれも一つのアイデアではあろうが、あの残飯とビニールのクロスを、どう始末しているのであろうか、環境保護の行方が、ちょっと気になる。…………


午前中は、Y字型の渓谷の左奥を見たので、午後は、右奥に移動した。

一番奥には、原始森林という観光ポイントがあった。時間に余裕がなかったので、乗馬コースは選べなかったが、原始的であるかどうかは、森の中に入らないと分からないという。自分の足で、素早く森に踏み込んだ弟が報告してしてくれた。「森の中は、馬の糞ばかりだ」と。

乗馬コースの馬たちが、糞をする。それを、現地の住民が拾い集めては、森の木の間に放り込む。

住民たちからすれば、清掃アルバイトで小遣い稼ぎが出来て、ありがたいのかも知れないが、観光ポイントの売り出し方としては、ちょっと、いかがなものか。………

森林の奥には、キレイな花や、高山植物などがあるのは、確からしいが。


湿性植物が密生している芳草海、天鵞海、ゼン(たけかんむりに、その下は前の字。意味は矢)竹海、

パンダがいたこともあるという熊猫海、そういう所を見ながら、次第に下って行く。


五花海は、青い透き通った水の底に倒木が青白く横たわっていて、そこに、鱒のような魚影が、黒く浮き出して見える。まわりの山は、今は緑だが、紅葉のころは、ほんとうに、絵ハガキそのままのカラフルな景観を呈するであろう。


珍珠灘は、広い、ゆるやかな岩場の全面に、透明な水がさらさらと流れていて、その水面のあちこちに、灌木の茂みが うまく配置されている。もちろん人工的なものではない。自然の神?が配置したものである。その間を縫って、これは、人間だけが作った木製の架け橋がある。その橋をたどって行くと、やがて対岸に着く。それから、下流の方へ回り込んで行くと、あのさらさらの水が、滝のように落ちて来るところが見える。なんとも言えない壮観であった。夏を忘れる涼感であった。写真を撮りまくった。そして、高山病にかからないよう、ゆっくり、ゆっくり橋を上って、元の道にもどっ

た。


横幅数十メートルという白糸の滝みたいな所もあった。


穀物をひいているという現役の水車小屋もあった。

水車で、マニ車を回している小屋も、いくつかあった。マニ車とは、チベット仏教などで、一度手でまわしたら、お経を一巻唱えたことになると信じられている風俗だとは知っていたが、水でマニ車をまわしても、やはり、お経を唱えたことになるのかしら。

色とりどりの旗をたくさん立てている寺院周辺の様子といい、いかにもチベット族の集落らしい所だ。


樹正海、火花海、盆景灘なども見た。少しは歩いたが、おおむね、バス移動であった。

超満員のバスは、ほとんど中国人なのに、現地ガイドの王さんは、我々に向かって、日本語で「みなさーん、ここで降りてくださーい」と携帯スピーカーで言う。私は気がつかなかったが、顰蹙する表情を見せる中国人もいたそうだ。

中国人の体臭に辟易したという者もいたし、中国人に席を譲られて感激したという仲間もいた。


一台のバスを貸し切りにすれば、3500元かかるという。10人なら、一人当たり350元。

日本人の発想なら、普通、そちらを選ぶだろう。そうすれば、好きな所にバスを止めて、ゆっくり観光も出来る。写真も撮れる。

今回のツアーは、現地に不慣れな日本の旅行社が、ほとんど現地ガイドまかせにプランを作ったものらしい。我々が、そのプランによる最初の客であるらしい。

現地ガイドとしては、日本人に、ムダなカネをつかわせまいとして、安上がりのプランを作ったのだろうが、カネはあるけれども体力は衰えたというメンバーたちからは、滅茶苦茶に非難されていた。


強行軍が終わってホテルに戻ったのが、18時15分。シャワーを浴びる間もなく、18時30分から夕食。

ゆっくり食べているわけにも行かない。19時15分には、少数民族のショーを見ることになっている。

1人200元で予約しているのだが、あまりの強行スケジュールに腹を立てて、1人は、とうとうキャンセルしてしまった。


5、6分歩いて、ショー小屋まで行くと、もう、ショーは始まっていた。

中央の広場に、象の仮面をかぶったような怪獣が、五つ、六つ、いて、香煙

の中で、銅鑼の音が かしましい。まわりの観客席から、客が広場に出て来て、怪獣と一緒に、大きな円を作って、踊りながら行進している。その行列をかすめるようにして、指定された席へ移動した。切りがついた所で、客は自分の席に戻る。

美女たちの群舞が始まる。白い帽子、赤いスカーフ、ピンクの衣装。ネックレスや、手に持った

小道具まで、みんなカラフル。動きが大きくて激しい。お淑やかという感じは、ほとんどしない。

そこへ、同じような派手な格好をした若者がたくさん出て来て、負けずに躍る。若者の群れと美女の群れが、さっと左右に分かれたりする。「ああ、これは、少数民族の集団見合いなんだ。だから、男も女も、自分のカッコよさや、元気よさをアピールしようとしているんだ」 そう解釈した。歌い手が出て来た時も、「オレは歌がうまいよ、だから、お嫁においで」と訴えているようだし、何も芸をしない、ただの巨人、2メートルをはるかに越えていそうな男が出て来ても、「おれのような、デッカイ、強い男を恋人にしてみないか」とアピールしているようだった。もちろん、若い娘たちも、自分の魅力が最大限に発揮できるように、派手なアクセサリーをつけて、踊りまくっている。

村の集団見合いでやっていたことが、ここでは、そのまま、2時間ほどのショービジネスとして成功しているわけだ。200元くらいの価値は十分ある。目の保養になる。


黄龍への移動は、地図でいうと、ほんのちょっとの距離なのに、山また山を回って行くので、なんと、4時間もかかった。途中、不潔な有料トイレなんぞに入りたくないという声があって、草原地帯では、青空トイレとしゃれてみたこともある。

しかし、後半の40キロぐらいが、2時間もかかったのには、びっくりだった。工事中のガタガタ道だとは聞いてはいたが、日本の工事中とは、質が違う。量が違う。全線、どこもここも、工事中なのだ。

ダンプカーが土煙をまきあげているのは、仕方ないにしても、ドーンと発破の音がして、まだ、煙が上がっている所の近くを通ったりする。飛んで来た岩が路面に散らばっているのを、端っこに押しやるのを待って通行したこともある。日本のように、巨大な重機を使っている気配は あまり ない。

いわゆる人海戦術という奴で、石を手で並べながら、道をならしたり、側壁を築いたりしている。

穴を掘るのもスコップである。いずれも、若い労働者が多い。

石灰石の山の、道にしたい所だけを切り開き、余った岩石は、谷間にどんどん捨てている。

巨視的に見れば、大いなる自然破壊である。世界遺産の観光地、黄龍へ行くために、自然破壊をして道を作っているのである。何という矛盾!

(もっとも、私たちみたいな観光客が行きたがるから、道が必要になるのではあるが)

(この道を作る資金も日本が出している。けれども。それを知っている中国人は誰もいない。という話も、バスの中で聞いた。本当かどうかは知らない)


もちろん、まわりの自然は、素晴らしい。村嶋さんが、シクラメンの原種じゃないかという赤い花、高山植物の黄色の小さな花、石灰岩の奇観。そんなものが、車窓からは、たくさん見える、海抜4000メートルを越える峠のあたりからは、北斜面に雪を残した雪宝頂という山のすがたも見える。

その峠を下った所が黄龍の入り口であった。


ホテルに荷物を置いて、食事を済ませて、それから、山登りである。海抜3000メートル以上あるから、くれぐれも、無理はしないようにと念をおされて、ゆっくり登り始める。木立を抜けると早速、黄色い岩肌に水が走っている光景が、次々に展開される。所によって、棚田のような浅い池状の部分があって、そこに、青い、透明な水がたたえられている。滝のようになっている所もある。東海から飛んで来た黄色の龍が、ここで身を横たえたのだ。棚田は、その鱗だ、という伝説も、なるほどと、うなづけるような景観である。写真を撮ったり、撮られたりしながら、3400メートルの標識を越えて、もう少し登った所で、シャッターを押す指が震え出した。頭のてっぺんあたりの骨が痛い、触って見ると、たんこぶみたいな手ざわりである。いくら気圧が低いといっても、脳髄が吸い出されるようなことはあるまいとは思ったが、もともと、高血圧の気味はあるので、あとは、自重することにした。

ガイドは、最高地点まで行ったら4150メートルと言っていたが、これは、間違いで、実は海抜3550メートルだったという。ガイドは、あとから、お詫びを言っていたが、「それぐらいだったら、がんばったのに。最初からおどされたので、途中から引き返して来た。ああ、残念」と、露骨に言っている人もいた。もっとも、20世紀最大の恋愛結婚をしたと自称する歳田夫妻は、真っ先に、最高点まで到達したらしい。小学校5年の時、長崎の原爆で、吹き飛ばされた経験があるという御主人の、なんという お元気さ。大正9年生まれの宝蔵寺さんも、ゆっくり、ゆっくり、ちょうてんをきわめられたという。お年を考えたら、すごいことだ。


24日は、また、10時間バスで移動する。その内の2時間は、あの工事中の道を戻ることになる。

ほんのちょっとの雨でも、すぐ通行止めになると聞いてはいたが、現地に行って見て、初めて納得出来る話であった。「行けないかも知れないし、行けたとしても、閉じ込められて、かえれないかも知れない」というガイドの事前の説明も、単なる脅しじゃなかったと思う。

そんな道を、黄龍詣での観光客を乗せたバスが、何台も、何台も、行き来している。

どこまでも遊びに行く。

そのためには、どんなに苦労しても辛抱する。

食事なんか、砂まみれのバスの横で、カップラーメンをかき込んですませればよい。

中国人のバイタリティー、おそるべし。どこの観光地にいっても、そんな中国人が、わんさかといる。


本道に戻るちょっと手前、川主寺のむらはずれに、長征記念館と記念像がある。写真をとりたいから、ちょっとバスを止めてくれないかといっ言ったら、そんなものに関心を持つ日本人は初めてだと言われた。

なるほど、抗日戦争の最前線に立つための赤軍の長征だったのだ。中国で亡くなった肉親もいるかも知れない日本人が、関心を寄せることは、まずないことだろう。

しかし、若いころ、アメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーの「中国の赤い星」を読んで、素朴な正義感に共感したことのある私としては、素通り出来ないモニュメントであった。

昔、昔、大昔、ほとんど農民出身の兵士ばかり、幾万という人間が、このあたりの道や山野を、徒歩で大移動したことをそうぞうすると、あらためて、中国人の偉さが分かる。日本人の思いもしないようなことを、やってのけるのだ。


本道に戻ると、21日に通ったのと同じ、岷江沿いの峡谷になる。

岩を噛むような流れを見て、弟が、「行く川の流れは絶えずして、しかも、元の水にあらず」という感じやなあ」と言う。私は、「そうか、オレは、マリリンモンローの「帰らざる河」の、激流下りの場面を思い出すなあ」と言う。宇田画伯が、「あれはカナダのケベック州で、ロケしたそえですよ」と教えてくれる。あの歌の歌詞に、サムタイム イッツ ピースフル アンド サムタイム ワイルド アンドフリー という部分がある。激流は、まさに、ワイルドで、フリーだ。このフリーというのは、自由という良いイメージなのではなく、わがまま勝手で、コントロールが出来ない、悪いイメージで使われているそうだが、そんな感じだ。それほどの激流を巨大なダムで堰き止めて、大きな湖が出来ている所があった。

タネあかしをすれば、そのダムは、人間が作ったものではない。1933年の大地震で、大きな崖崩れがあって、その岩石と土砂が谷を埋めてしまった。村も一つ飲みこまれてしまった。その跡が、自然のダムになって巨大な湖が誕生したというのである。その湖を中国人は、畳溪海子と読んでいる。

どの山のどの部分がくずれて、、谷間のどこに堆積したか、昼食の食堂のうしろに行ってみると、実によく分かる。


夕刻、映秀で、本道からそれて、やや狭い道に右折して行った。

清流に、大きな岩がごろごろしている。庭石にしたら、高く売れるの間違いない、というような石なのだが、日本まで運ぶと、運賃が凄いだろう、ここで見ておくしか、手はないなあ。そんなことを言いながら、あの模様がいいね、とか、あれで20トンくらいかな、とか言う声も、まだ聞こえる。


熊猫山荘というシャレた名前のホテルに着いたが、鬼木さん夫婦が、トイレがカビくさい、部屋を変えてくれと言っている。弟が確かめに行って、ああ、この匂いは、うちの部屋でもしますよ。けれども、こっちの方が、ちょっとひどいかな、とか言っていゆ。私は、鼻が にぶいので、あまり気にしないのだが、これはカビくさいのではなく、ドブくさいのじゃないかと言ったら、弟も、そう、そっちの方が近い、と言う。シャワーを使ってみると、果たして、排水がよくない。他のホテルでも、排水は、おおむね、よくなかった。私たちが出した結論は、中国では、排水管の掃除をする習慣はないのだろう、ということになった。

翌朝、ふと気がついたら、ロビーの壁に、優勝旗みたいな旗が掲示されている。誰が何に優勝したのか、字で確かめると、「このホテルは、設備が特に素晴らしいから表彰する、と、書いてある。

これは、新築した時だけの話だろうなあと、思わず笑ってしまった。


朝一番に、近くの、パンダ保護センターを見学する。

入り口の傍に、まだ1歳半という子供が、2頭いた。小ちゃくて、縫いぐるみのように可愛い。それが動く。しぐさが、なんとも言えないほど可愛い。アップで写真を撮ろうと近づこうとしたら、その線を越えたらダメと言う。150元払えば、すぐ傍まで行って写真を撮らせると言う。こんな機会は2度とないだろうと、私は、すぐ払った。希望者は、もっと多いと思っていたが、他に1人だけ。みんな、冷静なんだ!

飼育員が、笹を使って誘導して、落ち着いたところで、檻の中に案内してくれた。私が、パンダの背中に手を回す。ふわふわじゃない。ごわごわだ。もう1人の人は、タワシみたい、と言っていた。亀の子タワシほどではないが、それに近い感触であった。その一瞬を弟がカメラにおさめた。あとで、その写真を見たら、パンダの目が笹の葉で隠れている。画龍点睛を欠くとは、まさに、これだろう。

なんで、あの時、何度も、何度も、シャッターを押さなかったのか、何回押しても150元に変わりはないのに、と、後悔したが、後悔先に立たず。

笹じゃなくて、竹そのものをカリカリ食べるところも初めて見た。あの音も初めて聞いた。

ペタンと寝て、顔をこちらに向けているだけでも可愛い。

裏手に回って、私が一番先を歩いていたら、すれ違うように、10人くらいの一団がやって来た。その先頭の眼鏡の男が、あっちを見ろと、指で私に教えてくれる。

「あっ、放し飼いのパンダだ。ほら、ほら、木に登っている」と、大声で仲間に知らせて、それから、あわてて、さっきの男に、「シエシエ」と言ったら、私の様子が何かおかしかったのだろう、一団が、ドッと笑った。

1本の杉の木に、3頭の小さなパンダが、かさなるようになって、じゃれあっている。

「あんな細い枝に、あれだけ体重をかけたら、折れるんじゃないか」と心配する者もいる。ビデオカメラを持っていないのが、この時ばかりは、とても残念に思った。そこで、しばらく、目の保養をした。

入り口近くに戻って来たら、檻の外で、さっきの眼鏡の男が、あの1歳半のパンダを抱いて、イスに座って、写真を撮ってもらっている。なんということだ。

ガイドの説明では、どこかの組織のおエライさんが、特別待遇されているのだろう、中国では、こんなことは よくある、と、言う。多分、150元も、払わずに、済ませているに違いない。

「中国は社会主義の国で、みんな平等にすべきなのに、幹部だけを特別扱いするとか、おかしいやないの。ほんと、好きになれんねえ」と言う声が聞こえた。

特権階級が威張りたがる、まわりの者がそれにへつらう、なんてのは、どんな社会、組織にも、たくさん見かけられる現象であろう。そんな流れに棹さす者がいたら、よほどの変人、ヘソ曲がりなヤツにちがいない。もっとも、オレも、そのヘソ曲がりの端くれだったりして。………


バスで都江堰に移動する。

昨日の清流が、今日は濁流に代わっている。上流で工事をしていたから、そのせいであろうか。

自然破壊をまた見る思いだった。

都江堰は、村嶋夫人が、最大の目当てにしておられた所である。先見の明のある政治家父子が、大水利工事を成し遂げたのだ。

その恩恵は、今の人も、当然、受け続けている。

施設そのものは、その後、大改築されたそうだが、この場所に、分流のための施設を作るという考え方は、継続している。本流が増水した時、氾濫しないように、相当量の水を、その施設によって、強引に、他の方へやってしまうのだ。その、昔の施設の姿が、展示用に作って置いてある。

堰堤の材料は、石。大きい方が強い。大きい石が足りない時は、大きな籠を作って、ボールくらいの石を詰め合わせる。全体として、大きな石と同じ働きをしてくれる。

「このあたりは、石灰岩が多いのに、加工しやすい石灰岩は使っていない。水に弱いということを、ちゃんと知っていたのだろう。堅い石ばかり使っている」と、岩石のことをよく知っている弟が教えてくれる。さすが、理科の教員!

村嶋夫人が、「ああ、来てよかった! 他の旅行社のコースでは、ここの見学は入って、いないもんね」と言っていた。

長い階段を降りたり、揺れる吊り橋を往復したり、苦労はしたが、それにふさわしい感動はあった。

ついでに言えば、ここのトイレは水洗であった。しかし、どのボックスも、流していないままだ。

故障しているのかと思ったが、試してみたら、みんな流れた。弟がそう言う。「使い方を知らないのじゃないかなあ」と私が言うと、「いや、自分はもう済んだ。あとは、次に使う人が流せばいい。

そういう、哲学みたいなものがあるんしゃないかねえ」 そう、珍説を主張する人もいた。

自信満々の解説であった。


成都に戻って、誰かのリクエストがあって、漢方薬の店にも行った。

いきなり、講堂みたいな所へ案内されて、薬用の茶や酒を試飲させながら、年配の女性講師が、日本語で話を始めた。

すぐ本論に入ればいいのに、前口上が長かった。それも、謙譲の美徳のつもりだろうが、「私は今、ノドの調子が悪くって、この何日か、声が出にくいので……」とか、くどくどと言う。

「それは、漢方薬が効かないからじゃないかなあ」と私が、ヤジを飛ばした。みんな、ドッと笑った。 あとで、弟が言うことには、講師の顔色が、急に、キッと変わったのだと。

私は、にぶいから、そんなこと、気がつきもしなかったが、あんな時に、あんなことを言うもんじゃないと、きつく たしなめられた。

講義の間、こっくり、こっくりしていた弟は、冬虫夏草を1束買った。酒を作るそうだ。

私は、家内へのみやげに、シミ取りクリームを見ていたら、12個買ったら2個サービスという。

手を振ったら、6個買ったら、1個サービスと言う。結局、1個しか買わなかった。


雨に合わなかったこと、落石の直撃に合わなかったこと、木登りパンダを見られたこと。

総じて、幸運に恵まれていた。

天気や、時間が、ちょっとでもズレていたら、どんな事故に遭遇したかもわからない。

それが、今度のコースの特色であろう。

大きな旅行社が、こんなコースを組まないわけが、実感として、よく分った。


夏草や ウラと オモテと 夢 うつつ




小さな旅行社(今はもうない所)のツアーでした。スリルはありましたが、面白さも一杯!

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