プロローグ
「あ――――ッ!!?」
密林の中、絶叫が鳴り響く。
声の響く元、抜かるんだ地面に足を取られまいと走る影は三つ。そして絶叫の原因であり、大地を揺らしながら駆ける巨大な影が一つ。
ザリガニだ。
全長10メートル、両腕の巨大なハサミだけで3メートルはある巨大なザリガニは、生い茂る木々を押し退け、時にハサミで薙ぎ払いながら獲物へと追いすがる。
『――――!!』
追われる三人組の最後尾、スーツ姿をした背の低い女が、茶色の髪を風に揺らしながら前を走る少女へと声を飛ばした。
「やばいやばいやばいっすククルゥちゃん! これ死ぬっすよ私!?」
対するククルゥと呼ばれた少女、全身をゴスロリ衣装に包み、水色の長髪を揺らす彼女は、明らかに走り難い服装であるにも関わらず、まるで滑る様にぬかるんだ樹海の地面を走り抜けていく。
「ウルセェ蜜希! ヤベェのは分かってるからとにかく走れ!!」
「ふふふ、いいわねこういうの、冒険してるって感じで懐かしいわ」
そう声を発したのは、三人組の先頭を行く背の高い女性だ。
肩口に切り揃えた銀髪に、シルバーのアンダーフレームの眼鏡を掛けた女性は笑みを浮かべて振り返った彼女に対し、息を切らして走る蜜希とククルゥが叫びを上げる。
「何のんきに微笑んでるんでるっすかアージェさん!? ああもう、この人一人だけ生きてる世界が違う! こんなの危険でも何でもないっすか!!」
「つーかアージェ!! テメェならこんなエビ秒殺だろうが!! 何一緒に逃げてやがんだ!?」
必死の形相で叫ぶ背後の二人をよそに、一人汗も流さずに密林を行くアージェの足の動きは、その速度に対して酷く緩やかだ。
足の動く速度に対して、実際に体が動く速度が明らかに釣り合っていない。空港の動く通路を歩くように移動していく銀色の女は、口元に手を当て笑みを零して二人に答えた。
「あらあら、今回、私はただの傍観者だもの、手助けはするけど基本的には見てるだけって言ったでしょ?」
「ガチで横から見てるだけとは思わないっすよ! 密着取材のカメラマンだってもう少しこ――とわっ!?」
ぬかるみに足を取られ。捲し立てていた蜜希の言葉が不意の戸惑いと共に途切れる。
「チィ! 世話の焼ける!!」
倒れ込みそうになる蜜希の身体へと、ククルゥの手から真珠色の触手が伸びると、そのまま巻き付き搔っ攫う様に抱きかかえた。
「おおう、助かったっすククルゥちゃん!」
「礼はいいから走れ、テメェ抱えてたら直ぐに追いつかれる!!」
小柄とは言え人一人分の重量に、目に見えてククルゥの走る速度が遅くなる、そして、それを見逃す程彼女達を追う追跡者は甘くない。
『――――!!』
逃がさない、そう告げるかのように背後に迫るザリガニの鋏が開かれ、その奥へと大気が吸い込まれていく。
「ヤッベ!?」
何かくる、そう判断したククルゥが咄嗟に蜜希を前方へ放り捨てる。
そうしてフリーになった触手が鞭のようにしなりを持って背後へ振るわれ、今まさに何かを放つ瞬間のハサミへと下から叩きつけられ、爆ぜた。
重厚な甲殻に対しては意味の無い衝撃、しかしその衝撃はハサミの重心をずらす。
それで十分だった、走るザリガニのハサミはその衝撃に軌道をずらされ、空気抵抗に圧されて上へと跳ね上がる。
直後、ハサミの奥から水圧カッターの如く放たれた水流が、走る三人の頭上を一閃した。
「ギャー!? 鋏から水吹いてきたっすあのエビ!! うわ、木が真っ二つとかどんな水圧っすか!!」
「というかあれってエビというよりロブスターよね」
「いや知らねぇよ! つーかヤベェ、今ので前がふさがれた!」
直撃こそ免れたものの、水圧に断ち切られた木々が轟音と共に倒れ、三人の行く手を阻む。
反射的に足を止めた三人へと、尻尾から水流を噴射して速度を上げたザリガニが迫り来る。
巨体とはそれだけで武器だ、大型車サイズの甲殻類に轢かれて無事な人間はいないだろう。
いや、この場の約一名は傷一つつかないのだが、現状耐久性において常人程度の蜜希とククルゥは間違いなく即死する。
にも関わらず、迫る大質量を見つめる蜜希の表情は何処か穏やかな物だった。彼女は自分へと真っ直ぐに突き進んでくる巨大なザリガニを見つめ、
「――エビに轢かれて死亡ってダーウィン賞に載りそうっすよね……いやこっちの世界じゃ無理っすか」
「こっちで面白死因伝説作りたいなら、新しい飛行術式の開発中に術式暴発してドラゴンの肛門に頭から浣腸キメたら放屁と一緒に打ち出されて第一宇宙速度突破したカットビーノ・ケツァナールさん(生存)を超えないとダメねぇ」
「難易度がハードルから神社の鳥居になってないっすかそれ?」
「《流星の怪鳥》って通り名の飛行術式のエキスパートだったのに、それ以降《竜産の快腸》とか言われてるのはちょっとずるいわよねぇ」
「ダーウィンだかタービンだか知らねぇが、さすがに死ぬぞどうにかしろアージェ!!」
もはや視界を埋め尽くさんばかりに迫る甲殻類を前にして、いっそ開き直るかのように笑う二人と、驚愕に目を見開く一人。そのすべてを等しく蹂躙せんとする大質量。
されど、
「――大丈夫っすよ、ククルゥちゃん。」
少女は笑う。
「ギリギリっすけど、間に合ったっすから」
衝音。
大質量の衝突は、激音となって大気を揺らす。
風が鳴り、木々がざわめき、そして――甲殻が砕け散った。
『―――――!!!?』
一瞬で己の体が砕けた衝撃に、ザリガニが仰け反り苦悶の叫び響かせる。
砕けた甲殻をハサミで庇い、何かを警戒する様に後退るザリガニに対し、激突の瞬間に蜜希達の間に飛び込み、逆に粉砕してのけたそれが、ゆっくりと振り返る。
それは、黒曜石のように、輝く漆黒の外殻に覆われていた。
それは、四本の脚で大地を踏みしめ、二本の腕で極厚の双刃を携えていた。
それは、頭から一対の牙を生やし、背に透き通る二枚の翅を広げていた。
クワガタだった。
人型の昆虫と言って差し支えないその存在は、複眼である白い双眸に彼女たちを収めると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「――すまない、遅れた」
対する少女は、笑う。
「遅いっすよ、ギラファさん。――でも、ありがとうございますっす」
笑う、満面の笑みを浮かべ、目の前の相手へと言葉を紡ぐ。
「いつも通り、最高にかっこよかったっす!!」
アイコン、挿絵は自作です。挿絵は時折追加していく形で。
2023.8/22 表紙風イメージイラスト追加