98 オフラインキッチン
洗面台にボトルを置きに向かうガルドを見送り、一人になった榎本はリビングをもう一度見渡した。
ファミリー住まいのリビングにしては、生活感が薄い。
家財がどうのというのもあるが、気配を薄くしか感じない。香りも花のように上品で、生活で生じる臭いや見た目の汚れはなかった。ホコリとは無縁の様子から、掃除はしているのだとわかる。ただ、どことなく使われていない感じが漂っている。座っているソファも固い。
布製ならではのへたり具合が無いのは、人があまり座っていない証拠だ。一回座面で腰を跳ねさせ、バウンド具合でそれを確かめる。
ふわりと高く浮く体に榎本は感心した。ショールームで見る新品ソファのようだった。
ガルドはこの家で生まれ育ったと言うが、榎本の幼少期の実家とは大きく雰囲気が異なっていた。郊外のニュータウンにある実家はまだ現役であり、数年に一回程度だが帰るそこを、今でも鮮明に思い出せる。
乱雑にものが散らばるものの人の気配が濃厚で、バタバタと歩く住人に押されてホコリが部屋の隅に追いやられ、ソファがベコベコにへこんだリビングだった。お世辞にも綺麗とは言えないのが恥ずかしいが、実家というのはそういうものだと思う。
姉のアップライトピアノには趣味の悪い人形が乗っており、自分が小さいころに描いたクレヨンの落書き跡が襖にうっすら残っていたのを思い出す。親に怒られては放り込まれた押し入れには、高校生の頃に大喧嘩した名残の大穴も傷跡のように残されていたはずだ。榎本の瞼の裏に、実家の懐かしい光景が鮮明に蘇る。
久しく帰っていないが、それでも今年は帰らなくて良いと結論付けた。とりあえず彼女でも出来てからでないと、あの小うるさくやかましい親が居る町には帰りたくない。
榎本は自身の過去を振り返りながら、ガルドのダイニングを眺めた。コーヒーをよく飲むという言葉通り、家庭用にしてはどっしりとしたコーヒーメーカーが設置してある。メタルな質感のそれはインテリアとして洒落ていて、モダンな家によくマッチしていた。だがそれも、榎本にはどこか無機質に見えた。
キッチンはガルドが日頃よく使っていたのだと分かる。整理された調理グッズと共に、手のひらサイズの円柱型デバイスがコンセントに繋がって設置されていた。
榎本はこれを、脳波感受型コントローラ専門販売のネットサイトで見たことがある。エリアは限られるが、ネット回線通信をせずに無線を飛ばして脳波コンにデータを送るデバイスだ。
ウェブサイトの閲覧ではなくデータの閲覧を目的とするもので、電子書籍や売り切りの音楽などを送信するのが主目的のはずだった。スピードは決して早くない。それは、動画のストリーミングに非対応な点からも察しがつくだろう。脳波感受というだけあり、基本的に無線は本来の使用法ではない。
それでもこれを使うのには、料理という前傾の動作が続く家事だからだと予想できる。
「コードが垂れてめんどいよな、料理中は」
キッチンに立つ彼女の姿を想像してみると、無線デバイスの利便性が理解できた。
モノアイ型のプレーヤーはリアルの視界を阻害するため、自動車の運転中や料理中などは不向きだ。コードもうざったい。
このデバイスからレシピを意識に流しつつ、音楽を脳裏に流しながら作っているのだろう。榎本は感心する。安くないはずのデバイスを買うほどここに何度も立っていたのだ。
あいつは一人でここに立っていたのだ。
帰らない両親に代わり、一人で朝食や夕食をここで作っていたのだ。
「……うまかったな、飯」
俺だったら、定時で直帰すれば七時前には、遅くても九時前に帰ってきてやれるのに。忙しい両親と違い、夕飯を一緒に食えるのに。榎本は背中を丸める。この家にガルドを帰すのを惜しいと、強く思った。




