92 ハインツのデミグラス
「こんなので、いいのか」
「ハイ! いやぁ、幸せです……うま! うまぁー!」
近所の美味しいレストランを何件かピックアップしたものの、ボートウィグはキッチンに揃う調味料を見て「自炊できたりします?」と聞いてきた。
ガルドの手料理が食べたいというのだ。酔狂な奴、とガルドは呆れつつ腕を振るった。
「ただのデミハンバーグ、しかもチルド」
「サイコーですよ!」
「そう?」
美味しそうに、しかし熱そうにハンバーグを頬張る彼を見て、「こうして沢山食わせれば健康になるかも」と思ったガルドだった。
ガルドが好きで常備しているチルドのハンバーグは、父が補充してくれていたようだった。しかし久方ぶりの自宅だったため、真空パックの調理済み食品や、ワイン用のつまみに買ったらしい母の外国チーズばかりで生鮮が見当たらない。チルド室は空っぽだ。
あるもので作るとなると、自ずと得意料理に的が絞られてゆく。キッチンシンク下の戸棚を開き、缶詰が並ぶエリアを片手で探った。
ハインツ社のデミグラス缶はストックがあるため、残っていた玉ねぎと合わせてチルドのハンバーグを煮込む。赤ワインとケチャップ、ほんの少しチーズを加えるのを忘れない。
佐野一家でいつも食べているバゲットをトーストし、何個かは最初から溶けるチーズをかけておく。プレーンとチーズ、焼き上がりに明太子マヨチューブを塗ったものという三種類を出してやる。
ガルドとしてはいつもの手抜き料理だったが、ボートウィグは泣いて喜んだ。
誇張無しに泣いてくっついてくる立派なはずの大人を、ガルドはまた好きにさせて泣き止ませた。
見ているこちらが満腹になるようなリアクションをとりながら、ボートウィグがひたすらハンバーグを食べるだけの時間が過ぎてゆく。
本来の仕事は後回しにされていた。
ガルドの自宅の玄関には二人で必死に降ろすだけ降ろしたテテロが鎮座しており、辛うじて少し頑張ったのだとわかる。ハイエースから下ろしてたった三段の段差に悲鳴をあげた二人は、これ以上は無理だと早々に諦めた。
「はふはふ、うまぁー」
榎本一人が加わったところで果たして運べるだろうか。ガルドは不安になった。もう一人パワーのある男が居てもいい程なのだが、残念ながら、ガルドには呼んですぐ駆けつけてくれるような男の知り合いはいなかった。
「料理も上手なんて、さすがっすね!」
「鈴音舞踏のメンバーに触れ回ったら怒る」
「ええ!? 隠すようなことです!?」
「あのアバターでキッチンに立ってるのを想像されたくない」
「かっこいいと思うけどなぁ。でも、僕だけの特権にしときます。その方が次がありそう!」
笑顔で期待の視線を投げてくるボートウィグに頷きながら、ガルドはアバター姿でこのキッチンに立つ姿をイメージした。背の高いあの姿では、まず天井に頭をぶつける。包丁も小さく、まな板も両断してしまいそうだった。
「閣下~、僕あれが好きですよ」
「パスタ」
「あれ、よくご存じで」
「……あれだけ食べてれば」
ネット上の酒場でパスタを選ぶ彼は、つまみそっちの気で満足だと感じるまで食べ続ける。実際に腹は膨れないのだが、本人が食べる行為そのものに満足するのがVRでの満腹だ。
「いっぱい食べろ」
のんびりとした平穏なブランチが過ぎてゆく。ガルドはボートウィグを眺めながら、満足気にコーヒーを一口飲んだ。