48 秘密にすること、してたこと
ガルドは罪悪感と一緒にコーヒーを胃に流し込んだ。
部屋に一つしかないソファへは、二人で並んで座るしかない。左隣の気配を感じ取りながら、困ったガルドは視線をカップに落とした。真っ黒なコーヒーが見慣れたみずきとしての顔を映している。
ガルドは知りたいと思ったこともなかった情報だったが、こうして「人としての生活面」を垣間見ると、何も知らなかったのだと突きつけられる気分だ。ギルドのメンバーで特定の女性の名前が出てこないのは榎本だけだった。いつも違う名前が現れては消え、固定化されることはない。
「あー、気にすんな。昔の話だ。フロキリ始める前だからな」
雑誌の発行日は、確かに六年ほど前のものになっていた。
「ああ」
なんと声をかけるべきか思いあぐね、結局思いつかなかったガルドは相槌を打つ。
「もうこの年だからな、半分諦めてるさ」
明るい表情で榎本がそう言い、話を切り替えた。その様子になおさら申し訳ない気持ちに苛まれた。そして、ある感情が降って湧くように現れる。
「榎本は優しい。もっとワガママでいい」
「ん? ああ、結婚のことか?」
脈略の無いガルドのセリフに、榎本はすっかり慣れた様子で答えた。
「それだけじゃない。いろいろ、今回のこと全部」
「ワガママにしてるつもりだぞ。お前をうちに転がり込ませたのも俺のワガママだ。お前がロンド・ベルベット以外の奴を頼るのが嫌だっていう、俺個人のくだらないプライドのせいだからな」
「それは――すごくありがとう」
「おう」
だが、と否定を口を開こうとして、ガルドは何も言い出せなかった。「もっと自分に頼ってほしい。もっと甘えてほしい」と思うのもまた、ガルド自身のワガママだ。ずっと年上で経済的に自立している彼を、どう甘やかせばいいのか分からない。
ふと、ずっと見つめていたカップの柄にワードが浮かぶ。
「洗い物とか料理とか、するから」
「そういや日ごろ料理してるって言ってたな。頼むわ。俺全然だから」
「ん」
ガルドは家事全般が一通りできる自分を誇りながら、榎本を甘やかす算段を立てていた。
一方の榎本は、徐々に顔が赤くなってゆく。
それってつまり、そういうことなのだろうか。榎本の脳裏にでかでかと同棲の二文字が躍り出る。
自身の婚約破棄のことを知られてしまった直後の、家事の話。居候の女子が、家のことを一手に引き受けてくれるというのだ。
聞いた榎本もいつもの戦闘でのポジション分担をするような感覚でいたのだが、よくよく考えてみると意識してしまう。時間差で来る自覚に体全体が熱っぽくなった。落ち着きなくコーヒーを一口飲み、隣の相棒を見ないように反対側を向く。
すると突然榎本の脳裏に、髪が爆発している侍アバターがふっと現れた。
夜叉彦ののろけ話を延々聞かされてきたこともあり、榎本の中での嫁という生き物は、見たこともない夜叉彦の妻の姿を形取っていた。
彼曰く。「家に帰るとうちの奥さんがさ、エプロンしたままぱたぱたスリッパ言わせて玄関に来るんだ。んで、お帰りなさい、ごはんもうちょっとかかるから着替えてきて、なんてさ~えへへ……」とのことだった。
とろけた顔をした侍をぶん殴りたくなる気持ちで、しかし夜叉彦の嫁の話をそっくりそのまま右隣の少女に当てはめてみる。これは……!と電流が走った。幸せな光景だ。それがこれからしばらくの間、それが毎日見られるのかと思うとドキドキしてくる。
「榎本が仕事で居ない時間でログインするようにする。一台でもそれなら平気だ」
ふと妄想から帰ると、ガルドが学生カバンを開いていじっていた。
中からフルダイブ機にプレイヤーデータを接続するための外付け補助記憶装置を手にして、ドスンと重そうにローテーブルに置いた。
クッションケースに収まっているそれは、大容量タイプで英和辞書のような大きさをしている。排熱用のファンを内蔵していて値段も高く、普通の女子高生がその存在も知らないであろうプロ仕様のものだ。
ケースについているキーホルダーはグレイの四角い板切れで、静電気除去と書かれている。愛らしさのかけらもない、実用性重視のアイテムだ。
フロキリでのガルドのデータが、そこに詰まっている。
そのことを思い出し、榎本は顔の熱が急速に冷えてゆくのを感じた。隣にいるこの少女は、ゲーム歴の長い自分でさえなかなか勝ちの取れない弩級の大剣使いなのだ。
さらにアバターをおっさん筋肉ゴリラにするような、なおかつ中身と外見がしっくりくるような奴だ。可愛いだけの少女ではない。
「そうだった。お前は俺クラスのゲーマーだった」
「どうした」
「気にすんな、ちょっと……思い出しただけだ」
勝手に考えを巡らせて勝手に思考が戻ってきただけだが、榎本は少々がっかりしていた。
「そうか。フルダイブ機は寝室に?」
「ああ、あっちにある」
ちょっとしたいたずら心もあり、榎本は新機体の購入の件をガルドに内緒にしておくことにした。気落ちすることの多かった最近のガルドの、喜ぶ顔を想像しながら寝室を案内する。
一週間は我慢させることになるが、プレイ時間を増やしてやるため、榎本が残業して帰ればいいだけのことだった。
「データ移動、やるだろ? そのまましばらく潜ったらどうだ。一昨日からログインしてないだろ?」
「お言葉に甘えて。昼には戻る」
「おう」
その間に、榎本はキッチンに立った。
気が向いたときにだけ立つこの場所の、何があって何がないのかを調べていく。そもそも調味料や食材の何が必要なのか分からないうえ、細々した作業はあまり得意ではない。それでも黙々と調べてゆく。
「誰かと家で飯を食うなんて、何年振りだろうな……」
長年独り身の男の背中は、どこか寂し気だった。




