42 隣の少年が見た、少女の戦い
佐野みずきの隣の席に座っている、お喋りなクラスメイトの長い長い独り言。
僕は、クラスで一番綺麗な子の隣に座っている。
眼鏡でガリガリのキモいオタクの隣でも、その子は嫌な顔ひとつしなかった。この前なんて、僕がうっかり転がした消しゴムを拾って手渡してくれた。
その日から僕は、ついつい彼女を目で追ってしまうようになった。
きっと恋というやつだ。叶う訳ないとは思うけれど、それもそれで思い出になる。そのまま僕は、目で追うだけの恋を続けていた。
ガタンと近くで音がした。
学校の机の、立ち上がった時に鳴らす合図のようなもの。授業中にこの音はとてもよく響く。
ふと視線を感じ顔を上げると、周囲のクラスメイトがこちらに集まっていた。一瞬どきりとしたが、よくよく見ると僕の左を見ている。つられて左に視線を移した。
「……あ」
綺麗なあの子が、スマホを片手に立ち上がっていた。
真面目で隙のない彼女が堂々と校則を違反し、その上とても目立つ行動をしている。そのハプニングに皆瞠目していた。彼女といつもいる女子たちなんて、口をぽっかり開けてしまっている。
彼女は驚いているようだ。感情があまり豊かな方ではないのに――でもモデルのようで綺麗だけど――目をまん丸にしてぽかんと立ちすくんでいる。
「みず、みず、スマホ隠しなよ」
黒板を板書している先生が気付く前にと、彼女の前に座っていた佐久間さんがそっと声をかけた。気付いた彼女が腕を後ろに回す。
すると液晶が僕の方に向いた。チャンスだ。彼女が何に驚いたのか見てみたい。ずり下がった眼鏡を上にあげ、じっと目を凝らす。顔を少し近づけて、気付かれない程度にまじまじと見つめた。
それはどうやらメール画面のようだった。たった一文、中央に何かが表示されている。
「ひぇっ」
送信者の名前を見る前に、関係ない第三者の僕までもが衝撃を受けた。
<あなたの部屋のゲーム機を全部捨てました。勉強に専念しなさい>
ストンと座った彼女は、ひどく呆然としている様子だった。
メガネにちょっと長い髪、ひょろっとしていて真っ白な体。まさしく僕はオタクだ。
一言にオタクと言っても色々いるけれど、スマホのソーシャルゲームに重課金したり、深夜にやっているような、可愛い女の子が出るアニメばかり見ているタイプのオタクだ。
だから彼女のメールには彼女と同じくらいの絶望を感じた。僕ほどサブカルが好きな感じじゃないから、僕がもしそうなった時よりダメージは少なそうだけど。それでも絶望が彼女を襲っている様子が手に取るようにわかる。
授業中に態度が悪くなることのない真面目な彼女が、珍しく机の下でスマホをいじり始めた。無理もない。これだけのことがあった直後に勉強しろと言う方が外道だと思う。僕なんか教室を飛び出してしまうかもしれない。彼女はよく耐えている。
そのうち、先生が説明を始めた。古文なんて、朗読したところで子守唄にしかならないのに。机間巡視で先生が遠くにいる間を見計らい、彼女は必死にスマホへ文章を打ち込んだ。猛烈なスピードだが、スクールカースト最上位のその子にならお手の物だろう。「ギャルはスマホ打つのが早い」のは昔からだ。
そして手が止まってから何秒かしてから、返信が来たのか、先生が大声で説明してるから遠慮してないのか。
「ちっ!」
清楚な彼女がそこそこ強い舌打ちをした。怖い。
でも気持ちはわかる。突然ゲーム機を捨てられたら、さすがの僕でも母さんの部屋に面した自分の部屋の壁をドンする。さらに晩御飯を食べないことで抗議を示す。カレーでも拒否するだろう。すき焼きは食べると思うけど。それくらい、ゲームやフィギュアを壊したり捨てたりするのは罪だ。
スマホをいじるために机に伏せって下を見ていたせいだろう。具合が悪いと勘違いされたようで、彼女は突然先生に声をかけられた。これ幸いと辛そうな表情をしている。きっと体調不良で教室を抜けるつもりだ。
「あら、じゃあ保健委員の……金井くん、お願いね」
「え? あ、はい!」
そういえば僕は保健委員だった。
「佐野さん、大丈夫?」
「ん、実はそんなに具合悪くない」
綺麗な彼女は案の定、スタスタと保健室まで自力で歩いている。僕の方が足のコンパスが短くて、後ろから小走りでついていく形になってしまった。急いでいるようだ。
僕にはその理由がわかる。僕だって、好きな声優のライブチケットを取るために体調不良のふりをしてトイレに駆け込んだ。ましてや彼女のは緊急事態だ。彼女のゲーム機の無事を祈る。
「無事だといいね」
「——え?」
「あ」
つい思っていることを口に出してしまった。
「何が?」
「えっと、あー、ゲーム機?」
「見たんだ」
「ごめんなさい! つい気になっちゃって! しかもちょうど僕のところから見えたから……」
こちらを見る彼女の、妙に力強い目線が僕に刺さった。漫画だったら矢印の形で顔に刺さるくらい、強い非難の目線を感じる。
「あ、ほら、僕も円盤とかフィギュアとかいっぱい持っててさ。親に勝手に捨てられたりするんだ。気持ちはすごくわかるよ」
「次元が違う。買い直せない」
元気のない表情で彼女がつぶやく。僕自身には体験はないが、頭ではわかる。コレクションしてるものを亡くすのと、ゲームデータを亡くすのとでは大きく違うだろう。なんせ、かける時間が違うのだから。
「そうだね、ごめんよ。ちなみに質問なんだけど、そのゲームってどのくらいプレイしてたの? 佐野さん、噂で聞いたんだけどさ、恋人と会うためにゲームしてるんでしょ? じゃあ本体さえ回収できれば……」
「もうすぐで一万だった」
「え? 一万? 金額の事?」
「時間」
「ええ!?」
ゲームなんて、二千時間やっていれば自慢できるレベルだと思う。一万時間なんてちょっと尋常じゃない。というより、ゲームなんてしてなさそうな、それこそレースゲームで体ごと曲がろうとするようなタイプに見える彼女が、そこまでやっていたとは予想外だ。
「じゃ、じゃあさ、佐野さんってすごいゲーマーなの?」
「触れ回ったら〆る」
「ひい! 言わないよ、絶対! むしろ僕的には親近感湧くし、すごくいいことだと思うよ!」
眉間にしわを寄せながら――それでもすっごく可愛いけど――釘を刺してくる。けれど本当に僕は気にしてなかった。
肩身の狭いオタクとしては、彼女が大っぴらにゲーマーだということを隠す理由もわかる。僕だって隠せるのであれば隠したい。もう隠せないほど人格に影響が出ているし、オンラインでの言葉使いがこちらににじみ出てしまっていて、隠しきれないから仕方なくおおっぴらにしてるだけだ。
仮面をかぶるのが得意なら、もちろん学校では完璧に隠して「がり勉君」にでもなってたと思う。こう見えて勉強は好きだから優等生に見えるだろう。
でも彼女と会話のキャッチボールを何往復もできるようになったのがすごく嬉しい。確かにイメージとは違うけど、いいことずくめだった。僕は「アイドルは恋人も作るしトイレにも行く派」だ。だから、綺麗なあの子が僕なんかを軽々越える重度のゲーマーなのは気にならなかった。
きっとあの子を取り巻くリア充どもは、拒否反応を示すと思うけど。
「データのバックアップはデスクトップPCにある」
彼女が苦い顔をしながらそう呟いた。
大事なデータはバックアップを取るよう、僕らは小さな頃から教わってきた。小学校の授業でも、親から端末を渡される時も、「横断歩道は手を挙げて渡る」「ハンカチに名前を書く」のと同じように、別名でもう一個保存しろと躾けられてきた。
いま世の中はデータ社会で、データを盗むのは昔以上に重い犯罪だ。データの防犯だって大事、著作権も大事、違法ダウンロードは牢屋行き。
だからこそ、若い僕らの世代でバックアップをしっかりとっている人は少ない。
守るのがダサいとみんな思っているはずだ。だってだれもハンカチに名前なんて書かないだろう? それとおんなじことだ。
でもみんなから「渋い性格してる」と言われてる彼女なら、バックアップはとってるだろうと思った。おじさん世代はみんなバックアップを取るのが大好きだ。
「最後にいつとったの?」
「つい二週間前」
「おお! バッチリだね!」
「問題は、そのPCが無事かどうか」
「え? ゲーム機じゃないから大丈夫じゃないの?」
「くっつけてる。フルダイブ機と」
「えっ? それ普通なの?」
「……周りはしてるから、多分そう」
僕はフルダイブ機なんて高級なものは持ってない。
正直フルダイブの専用機なんて大層なもの、マッサージチェアとかオープンカーとかブランドバッグみたいな、持っていても別に困らない高級アイテムだ。僕も別に、父さんのVRヘッドマウントディスプレイを借りれば事足りると思っている。
PCとフルダイブ機をくっつけておくのが普通なのかどうかすらわからない。彼女の反応を見ていると、多分違うんだと思う。
後で知ったのだけれど、フルダイブ機とPCを有線接続でスリープモードにしていると、VRをプレイしながらPCをアクティブにして使えるようになるみたいだった。
それはつまりマルチタスク――ゲームをしながらPCで動画を見たりする人はそうする、ということだと思う。
簡単なことじゃない。
相当VRに慣れていないと頭がパンクしてしまう。なんせ複数の画面を見て、同時にコントロールするということだ。難易度的に言えば、車の運転をしながら料理をしているようなものらしい。つくづく規格外な子だと思う。
「じゃあさ……ご家族が知らなかったら、くっついてるからってPCも一緒に捨てられちゃうんじゃない?」
「今それを聞いた所。返事はこう」
そう言って見せてくれたスマホの画面には、<帰ってから詳しく話をします>とだけ書かれていた。
スマホを持つ指先が白んでいる。彼女の手に力が入っているみたいだ。いつも冷静な彼女がとても怒っている。なんとか元気になってもらいたい、彼女の力になりたい。だけれども、抜本的な解決をするなど僕にはとてもできなかった。
結局、彼女は早退することにしたみたいだった。みたい、というのは会っていないからだ。保健室まで送り届けた後、養護のでっぷりとしたおばさん先生に僕だけ追い払われてしまった。
彼女がお腹を押さえたまま「今月はひどいみたいで……」と言ってたことも関係しているのかもしれない。
そして、そういう知識だけは一丁前に持っている僕が、すぐになんのことか気付いてしまい、顔が真っ赤になったのも原因の一つかもしれない。
ああ、デリカシーのないことをしてしまった。次同じシチュエーションだったら「何のことかわからないよ」という顔をして、何も知らない鈍感男のふりをしよう。そんな状況になることはもうないと思うけれど、いい勉強になった。
とにかく僕は何の役にも立たず、彼女は一人、大切なデータが無事かどうか確かめに帰って行った。
そして次の日、彼女は珍しく学校を休んだ。
「みず、何だって?」
「体調戻らないんだって~。休むなんて今年初じゃね?」
「でも昨日授業中に保健室行ったじゃん。めっちゃ具合悪いでしょ」
「原因なんだろうねぇ……あ、そこのガリオタ!」
怖い顔をした林本さんが僕を呼んだ。彼女と比較的仲の良いギャル友だけど、静かでクールな彼女と違って林本さんは迫力がある。校則違反のネックレスを見せびらかしながら、昼休みの教室でマニキュアを塗るようなやつだ。髪をうっすら茶色に染めていて、生活指導の先生にマークされている。
正直、近寄りたくない。でも呼ばれたので無視できず、ふらふら近付いた。
「相変わらずキモっ! お前さ、昨日みずを保健室まで送ったよね。なんか言ってた?」
顔を見られてキモいとまで言われながら、僕はあの子のことをかばって、話を断片的に伝えた。お腹をおさえながら言った一言を再現し、ゲームのゲの字も出さず、体調不良が嘘だということも言わなかった。
ただ本人の言葉をそのまんま言っただけなのに、突然「女子のプライバシーなんだから即刻忘れろ!」と殴られ、それでも僕は名誉の負傷を誇りに思った。この傷は、あの子の悲劇に比べたら羽のように軽い。
僕のことなど気にもせず、林本さんともう一人の友達宮野さんが話をしている。宮野さんは、髪の毛を校則違反のゆるふわパーマでくるんくるんにした上に、教室にコテとかいう女子アイテムを持ち込んでそれをキープしてる美容系女子だ。迫力があって怖い。
「みずの家って近いよね! 行ってみようか~?」
「いいね! 両親共働きだって言ってたし、なんかご飯でも作ったげよう!」
おっと、そんなことしたらバレてしまわないだろうか。あの子は元気ぴんぴんで、きっと今頃データ復旧に四苦八苦しているはずなのだ。
「あ、あの! 僕も行きます!」
「はぁ?」
「なに言っちゃってんの?」
「あんたはただの保健委員じゃん。それともなに? 何か接点あるの?」
確かに僕はただの保健委員で、彼女とは席が隣というだけだった。それでも何か行動を起こさないと、僕以外に防げる人がいない。
「じ、じゃあ、彼女にしっかりアポイントをとってから行ってください! あと、これ!」
実は授業のノートを全てコピーしておいたのだ。ホチキス止めで一冊にして、表紙には一コマ目からの授業名・先生の名前・授業内容の大タイトルを一覧にしている。我ながらいい仕事ぶりだ。
「え、ノートとってたの?」
「役に立つとこあるじゃん、がりひょろオタクのくせに」
ひどい言われようだが、きっと褒めてくれているのだと思う。ツンデレだ。夢にまで見たそれも、思ったより嬉しくない。
「これを彼女に渡してあげてほしいんですが」
「えー」
「みずの隣のオタクからだよ♪って? みずに誤解されちゃいそう」
「つーかめんどい」
「ええ!? 受け取ってくれる流れじゃなかったの!?」
彼女たちの気持ちが僕にはどうも理解できない。宇宙人と話してるみたいな感覚だ。
「これ、私が書いたってことにしてもいい? それなら持ってったげる」
「へ?」
「ちょっとみやのん、悪女っぽいよ~?」
「いいじゃん! 知らないオタクに貰うより嬉しいでしょ? みずだって」
決していじめとか恐喝とかではないと思うんだけど、僕は結構傷ついた。こんなことでと思う人もいるかもしれないけど、彼女たちに価値のない人間だと言われているような気がする。
確かに僕は何の接点もないただのクラスメイトで、学校側からの分配でそうならなければ、同じ空間にいる理由が一個もない関係性だ。それでも僕は「同じクラスのよしみ」というのを信じていたし、これほど嫌われる理由はないと思っていた。
「ぼ、僕は……あの子の役に立ちたくて、作っただけだから……うん」
「でしょ? じゃあこれをみずが受け取るだけで幸せでしょ? 貰うね~」
そういって宮野さんは僕のお手製ノートをかすめとる。笑顔で、晴れやかに。
悪意があるようには見えない。僕の気持ちというのは、あの二人には目に入っていないらしい。
「ちゃんと佐野さんに連絡してから行ってくださいよ!?」
「あーもーうるさいなぁ。わかってるってー」
せめて事前連絡があれば、体調不良のふりくらいはできると思う。そう思って、釘を刺してから僕は教室を出た。
そのあとの二人とあの子のことは、わからずじまいだった。
次の日の朝、僕はいつもより一本早い電車に飛び乗った。
あの子は僕より早く登校している。自習や課題を朝にしているらしい。あのノートには出された課題を全て細かく記録したし、先生のコメントもふきだし形の付箋に書き込んで貼っておいた。きっと今日は来てると思う。
運動部の朝練の声が聞こえる。いつもより人の少ない校舎を抜けて、二階にある僕らの教室に入った。中央あたりの僕の席、その隣のあの子の席を見る。
凛とした佇まいで、ノートに何かを書き込んでいる彼女がいた。
「お、おはようっ!」
「ん」
一瞥したのち、目線を机に戻す。目線の先には、僕が書いて宮野さんが差し入れたノートが広げられていた。数学の板書がびっしり載っている。
「昨日、大丈夫だった? 宮野さんと林本さんに会えた?」
「ん。大変だったけど、何とか」
書きながら僕の質問に答えてくれた。
シカトをされてもおかしくないのに、丁寧に答えてくれる。僕は机にカバンを置いて、筆記用具と朝読書の文庫本——もちろんカバーをしたラノベ——を取り出した。
「そういえば、ノートありがと」
そう彼女が言う。
驚いて、勢いよく隣を見る。彼女がこちらを見据えながら、そして微笑みながらそこにいた。目が合う。
「えっと、あはは! なんのこと?」
「宮野がくれたノート。字を見ればわかる」
「僕の字? だって、話したのだって一昨日が初めてだし……」
「会話はもっと前」
そういって机に転がっていた消しゴムを持って、僕に見せてくる。僕の恋らしき何かが湧き出たきっかけ。あんなの些細な出来事で、字数にしたら両手の指より少なくて、あっという間に忘れてしまうようなことなのに。
「そ、それに字とあのときの事は関係ないし……」
「それでも分かる」
彼女はじっとこちらを見ながら、ぽつりと呟く。
「名前もパーソナルデータも覚えてないけど、顔と声と字は分かる」
名前より先に筆記の字体というのは、一体どこから覚えるんだろう。そう思って僕はハッとした。会話はしないけれど、彼女はよく回りを見ているんだと気付いた。
隣に座る僕の、机の上に散らばる文字を見ていたんだ。顔も、声も、そばにいたから情報が得られる。そういうことか。
たくさん話をすればきっと、名前も僕の性格も覚えてもらえる。そんな、友達として当たり前のことをすっかり忘れていた。
彼女の友達は多くない。
後輩も寄り付かない。
先輩も世話を焼かない。だから、近寄りがたい高嶺の花だと思ってた。
「僕、金田っていうんだ——迷惑だったら断ってもらっていいんだけど、よかったらその、僕と、と、友達になって欲しい! ゲームの話とか、いっぱいしたいな。フルダイブは持ってないけど、いつかお金溜めて買って、追い付いてみせるからさ!」
「ん」
あの子は返事とも言えない一言と共に、笑顔で頷く。僕は感激で空を飛べるくらいな気持ちになって、満面の笑みでコクコク頷いた。おしゃべりなはずの僕なのに、無口な彼女の口調が移ってしまったみたいだ。
「ありがとう、佐野さん!」
彼女は普通の女の子だった。
元は外伝小話として書いた一人称ものですが、ストーリーに関わるので本編へと統合させました。




