409 おおかみよ
女は苦悶の声を上げて地面に膝を付き、苦しそうに身体をよじって倒れ込んだ。
死にはしないが出血がひどいと素人の久仁子にも分かる。混乱と衝撃が酷く、悲鳴もあげられないほど絶句する。何も言えず硬直したまま成り行きを見ることしか出来なかった。
「さ、教えて頂戴?」
華美さを抑えた実用性重視のメッシュベストから、ベルベットが茶色いパッケージのケースを取り出した。プラスチック製で平べったく、中には鉄のような光り方をしている黒いものが見える。
患部を抑えて止血、足を心臓より高く上げて救急車、などと久仁子の脳裏に応急処置の手順が並ぶ。だがどれも一つとして進まない。ベルベットがケースから出した黒いものは案の定黒ネンドで、久仁子の嫌な予感通り、撃たれた女へベルベットが近寄ると二つに千切ってこめかみにあてがった。
「所属は?」
「……ア、ア……」
「所属は」
「……ア」
「誰の指示でここに?」
「ウ、ア……ダーク、ウェブ」
「そうね。で? 誰だって聞いてるのよ。ハンドルネームでいいのよ。国なんてどうせもうごった煮なんでしょ」
「……name」
「ええ」
「ん?」
女は痛みをすっかり忘れた様子で首を傾げた。だが目はうつろだ。どくどくと流れている赤い体液を見ながら、久仁子はやっとのことでごくりと唾を飲みこむ。撃たれた女は黒ネンドで痛みをブロックされているのだろう。苦痛が無いことだけは久仁子の救いだった。
「そうねぇ、つまり『みんなが言ってたから正しいと思った』の?」
ベルベットが一歩詰める。女は青くなってきた顔をぎこちなく上へ向けた。銃を構えたまま囲む青年たちは一言も発さず冷静そのもので、久仁子が一人、ガクガクと震える足で立ち上がった。
「て、手当、を」
「ニュ」
久仁子の声と女のつぶやきが被る。ベルベットは「シッ!」と口元に指をあてて久仁子を制した。
「ニュ、ンベ、ル」
「にゃんべる?」
「……いいえ、NurembergCode……ニュルンベルク綱領ね! 違反していると気付いたの?」
「神よ」
「え?」
機械的でぎこちない口ぶりだが、女は確かに神へ何かを祈った。黒ネンドがどこまで脳波コンを悪用するのか分からないが、ベルベットは痛みだけを除いているようだった。目を閉じ、天井を見上げて空を思っている。
「懺悔しているの? そう」
「ベルベット、彼女を、その……」
情けのない強めの声色で話しかけ続けるベルベットに、たまらず久仁子は手当てを進言した。まだ助かるかもしれない。そもそも彼女は確かに久仁子を殺そうとしたが、結果は殺人未遂だった。死んでいない、誰も傷ついていない。ならば殺さなくていいはずだ。久仁子はそう口にしようとするが、いつもの強気がベルベットの冷たい目に飲まれて出てこない。
「遅いわ。遅い、遅すぎる。ねーぇ、アナタたち。気付いたことを褒める気にもなれないわぁ。それに、気付いた後にも計画の続行と『バックアップ』を望んだ中心人物が居るでしょう。知りたいのはソイツの詳細。そそのかされたアナタたちなんて別に、どうも思わない」
「グ、ウウ」
「ねえ」
「ウウ」
「だって、ねえ? 本当に懺悔しているなら、ココじゃなくてあの子たちの元でしょう? 膝をついて、眠る彼ら彼女らの手を握りしめて、涙して、こっちのもう明らかに『助けに来ました~』って感じのウチらにHELPを出すべきでしょう?」
「ウ」
身体をよじっているわけでも足を押さえているわけでもないのだが、女は小さな苦悶の声を上げている。目じりがビクビクと痙攣しているのを見つけ、久仁子は慌ててベルベットに聞こえないよう一対一の通信を日本へ飛ばした。
<教授、白亜教授!>
<なんだね今忙し……>
<目じりがピクピクって引きつる症状、脳波コンからの情報が多すぎて熱を持った時に出るアレではなくって!?>
<ム、度が過ぎる処理の過多はそうなるが。だがデバイスが自動でデータをプールし適度な供給になるよう留めるはずだ。そう設計されていなければ違法だな>
<黒ネンドは!?>
<黒、粘土? ああ、中東製のサイバーアメーバか?>
教授が黒ネンドの出どころを漏らす。日電の社員や政府の人間なら喉から手が出る程欲しい情報だろうが、久仁子は目の前のこととガルド以外に興味が無い。黒ネンドが目の前の女性を苦しめている可能性に気付いただけのことだった。
<サイバーアメーバはそうした部分を全て廃した、文字通り単細胞・原生生物的なコンセプトで作られた単なるパーツに過ぎない。人間に配慮したUIを持ったパーツと、通信の受信や送信を行うパーツとで役割分担をするよう設計されている>
<え、え? つまり!?>
<接続か検査か、とにかく触らないことには分からん>
<あああ、んもうっ!>
声に出さない通信では強く叫び憤ることが出来た久仁子も、現実に意識を持ってきた途端呼吸しか出来なくなった。
女はいつのまにか、ぐったりとしている。こめかみに貼られた黒ネンドは白亜教授の言う通りアメーバのようにうごめいている。ベルベットと青年たちは既に通路の先へ意識を向け、先に進む気配を持っている。
「な、なん……」
「阿国ちゃん、さ、行きましょ」
全く気にしていない様子でベルベットが振り返った。神の名前を呼んで空を見上げていた女は、うなだれるように下を向いて腕の力を抜いている。生きているのか死んでいるのか分からないが、血は勢いが弱まり水たまりのように広がった状態で止まっている。
「何も、ないですの?」
「何もないわ」
「何か、その、一言……」
「無いわ」
祈りの手に直してやることも、せめて横たえてやることもなく。せめて安らかにの一言もなく、懺悔の言葉も申し訳なさもなく。
「ごめんなさい」
「もう、なんで阿国ちゃんが謝るのよぉ~」
「ワタクシには今、それしか出来ませんの」
撃った張本人を非難することは出来なかった。久仁子は守られる立場だ。決着を付けなければ久仁子の方があの姿になっていたのかもしれない。
ベルベットのことも責められない。いままで戦い続けてきたのだろう。戦争のつもりで生死の境をヒールと銃の両方で戦ってきたベルベットに、久仁子の目の前だけでも止めろなどと言う権利も資格も一般人にはない。
ただ強く、黒ネンドことサイバーアメーバが絶対に張り付かないようこめかみを守る決意だけをしっかりと持った。
恐らく欧米系であろう外国人の女が通路に立っていた理由は、進んだ先の光景を見てすぐに理解できた。
「これ、全部中に人が!?」
「そう。ソロプレイヤー達よ」
「ほとんど日本人だね」
「あ、この子可愛い」
「コラ」
「電源どう?」
「大丈夫そうだけど、念のため別のルート付けとこうぜ」
青年たちが何の驚きもなくポッドとポッドの間を進むが、久仁子は恐ろしくなって近寄れずにいた。手慣れた様子のベルベット一行と違い、場違いなほどに久仁子は挙動不審だった。
通路の奥には広い講堂のような場所に突き当たっており、高い天井と一段上がったステージの存在もあって本当に学校の講堂だったのだろうと想像できた。
コンクリート作りだが清潔で湿気もなく、天井と足元につけられているOLEDの明光が部屋の隅々まで照らしている。元は病院だと聞いていたが、医学校のような形をとっていたのかもしれない。ベッドが置かれていれば古い時代の、それこそ白黒印刷しかなかったころのような大部屋型の病室にもなっただろう。
だが今は、点々と二体一組ずつの等間隔にベッド型のフルダイブ・ポッドが置かれている。
グリーンランドで見た劣悪なものではなく、一つ一つがベッドと寝袋を合わせたような住環境を備えている。さらに足元と足元を繋ぐようにタワー型の機械、久仁子も良く知るフルダイブ専用機器、ゲームマシンが備えられ、二人で一台を使っているように見えた。プレイヤーとしては二人で一台など現実的ではない。久仁子は恐る恐る、部屋の一番手前側に立っているフルダイブ機に近付いた。
「インジケータ光ってますの、ログインしている……あのワールドに、ですの?」
「正確には『スリープ専用機』みたいなのよねぇ、コレ」
「スリープ? 確かに二人で一台なんて処理落ちが良いところですの。でも、じゃあ彼らは……」
思わず露出している顔を見てしまった。久仁子はその生々しさに「ひぃっ」と声を引っ込め、慌てて機材に目を向けた。落ちくぼんだ目とかさついた白っぽい肌が脳裏にこびりつく。
日本人だった。男性、生きている。こめかみにつけられている忌まわしい黒ネンドがべっとりとアゴや耳まで枝を伸ばし、生やしたケーブルが久仁子の見つめるタワー型フルダイブ機に伸びていた。
「うわぁ、肌にびっしりついてるぞ」
「これがバイタルチェックに使われてるって訳だな」
「お布団かけておいてあげましょ。全員を運び出す目途が立つまで、このアメーバちゃんたちが文字通り命綱なんだから」
奥でベルベットが青年たちと何事か話し合っている。ベッドに寝かされた被害者の一人を囲み、身体を覆うように被せられた寝袋のようなポリエステル繊維のカバーをめくっていた。
「運び出すのは骨が折れますの。ドイツでは……その」
「アレ? ええもちろん。コッチの手の者が切断処理したのよぉ。ま、いいタイミングだったってのもあるし? ねっ」
「やっぱり」
ベルベットには言わないまま、久仁子は日本にいる田岡を思った。ドイツで上手くいって日本では上手くいかなかった理由は明白だ。簡単かつ安全に接続が切れたのではなく、ベルベットのような内部潜入中の味方が上手い事手を回してくれていたのだ。そして田岡は「まだ中に居なくてはいけないから、誰も回線切断をしてくれていない」だけのことだ。
「この子達のログアウトだけど、今はまだ出来ないわ。切ってすぐ立ち上がれるわけじゃないもの。地元の医療機関を使えた大都市持ちのドイツならともかく、カナダの観光都市じゃキャパ不足だしぃ……マスコミとかにバレずに回収するなら、こっちもそれなりに大きな動きになるわね。とにかくお金が要る」
「出しますの」
久仁子は即答した。人手も医療スタッフも搬送手段も、久仁子の財力でカバーできる分野だ。
「あ~らうふふ、助かるわぁ。ありがとネ! じゃあ一旦上がって、往来のドローンと通路のあのキルマシーンの処理、あとここの管理者が彼らに二度と接触出来ないよう、ファイアウォールを増やすわねぇん」
「龍さん、出来るのー?」
「出来ない! あっはは!」
聞いた青年にベルベットはげらげらと笑いながら、部屋の中央に置かれた全体監視モニタのコンソールをタッチで操作し始めた。続けて隣で同じく笑う青年が、弁当箱大の黒い箱をコードで接続する。
<白亜教授ぅ。てなわけでぇ、おねがーい>」
<ワシはこれでも忙しいんだぞ? そのくらい外注しろ>
<やだ。信用できるか調べるのが手間ぁ~>
「……良い人材がおりますの。ガルド様を慕う若人が、何名か」
久仁子は咄嗟に思いついた顔ぶれを紹介した。打算もある。自分の手の内の者が関われば、これ以上ベルベットを野放しにすることも、一人鬼の道を行かせることもなくなるだろう。
流されるままではいけない。久仁子はポッドに横たわるソロプレイヤーの顔ぶれを見ながら思う。ベルベットも日本にいるディンクロンも、本心がまだ隠されている。本当に彼らを救おうとしているのかなど分からない。
ただの復讐なのではないか。と、久仁子は撃たれた女を冷たく見下ろすベルベットの目を思い出した。
「いいじゃない! ガルドちゃんの味方ならいい子に決まってるわ。あと、『第二・第三の彼ら』が接続されるのを防がないとイタチゴッコなのよ~。分かる? イタチ」
「え、龍ちゃんがさっきまで着てた毛皮?」
「アッハ、アレは人工。知ってて言ってるでしょお!」
「あはは、だよね。いたちごっこ? って、何?」
「無限ループのことよ。子どもの手遊びが転じた言葉。手の甲を交互にこう、サンドイッチし合う遊びあるじやない?」
「あー、あるある。永遠に終わらないってそういうことか」
「そうそう! うんうん、久しぶりに家庭教師っぽいことしてるわぁ。国語は大事よ?」
ベルベットと筋肉質な青年は口でそう話し込みながら、手早く電源コードにパーツを付け、通信回線の非常電源を検査し、黒ネンドの状態をチェックして回っている。久仁子は呆然と様子を見ながら、防弾スーツを持ってきてくれる手筈の婆やを今か今かと待っていた。
「で、どうする? 阿国ちゃん」
「どう、って?」
「入る? ここの設備は満杯だから、また簡易的なログインになるだろうけど……三分ならバレずにいけそうよ」
息をのむ。
<教授、そっちはどう? 待てそうかしら?>
<ム、戻るのかね? 最短でリフレッシュするドローンがあと十八分後にポイントへ戻る。逆算してあと五分なら許せるな>
「良かったじゃない。ガルドちゃんのいる場所までアバター飛ばしてあげるから」
「あ……え、でも……」
久仁子は猛烈に悩んだ。ベルベットは目的だった彼らの確認と持参した装置の設置を済ませ、既に撤退する準備を始めている。青年たちは再び銃を構え、四足歩行ロボットを起動し動作確認まで行って隊列を組んでいる。
以前であれば、それこそつい先ほどまでであれば、全て投げうって会いたいと言っただろう。本気でガルドの元に行けるのであれば人質になろうとすら思ったほどだ。
久仁子は人恋しさで限界に近く、事件の解決などガルドと自身の幸せに比べれば二の次であった。
だがポッドと女を見た久仁子の胸には、強烈な拒否感が芽生えている。
「が、ガルド様は……『守れ』と」
「ん?」
「守れ、とおっしゃいましたの……会いたいとか寂しいとか、もう一度お声を、とか……確かに三分だって夢のようですの。ですがそれよりなにより、あの日聞いた『守れ』というご命令こそ至高!」
「五分ぐらいいいじゃないの」
「いいえ、この阿国! けぇっして! ガルド様に不安感を与えるような顔はお見せ出来ませんの!」
先ほどから不恰好に固まっている顔をキュッと引き締める。ガルドは大丈夫だ。それさえ分かっていれば、久仁子の中の「阿国」の心はなだめることが出来た。廃病院で牢獄のような環境にいるソロプレイヤー達の様子を見た久仁子は、ガルドの身体である「佐野みずき」がどうなっているのかが詳しく想像できてしまう。
「会ったらきっと、きっと……ワタクシ、ガルド様とみずき様を混ぜて見てしまいますの……」
「元気にしてるわ」
「お体の話ですの」
「……そうねぇ。ガルドちゃんはきっと、身体がどうなってるかなんて考えないようにしてると思うわ」
「ええ。だから今は、我慢ですの」
元来た道の奥から婆やの声がする。
久仁子は現実を生きている。




