403 神は信じず作るもの
グレートスレーブ湖は圧倒的な広さだった。琵琶湖など比較にならない程広大で、目の前に広がる白みがかった湖の「何もなさ」を久仁子は既に見慣れている。イエローナイフに来た以上、町から少し進めばグレートスレーブ湖は目に入る位置にある。この地域の人々にとっては、富士の麓から毎日眺める富士山のような馴染みある光景なのだろう。
<来ましたの>
湖の上には足を踏み出せない。完全にアイスロードが完成するのは十二月後半で、氷が透明度を増すのは二月以降らしい。人一人くらいは問題ないように見えるが、車両での侵入はまだできないと看板が出ている。
<何かないか?>
<何もないのがここの良いところですの>
<ケーブルの類は?>
<やっと薄氷張り始めた時期ですの。物なんか乗せてたら水没しますの>
<ふむ>
久仁子は通信先の男・白亜教授へ文句を言いつつも、目を皿のようにしてくまなく周囲を探し回った。ごつごつとした地面は乾いていて、日本に比べると非常に厳しい環境のなかでも生えている木々や草は強い風を受けて揺れている。人工物は車と看板ぐらいだ。
「ばあや、何か周囲にないかしら」
「何もございません。この区画もさんざん探したあとでございます」
「そうよね」
<空はどうだ?>
<そらぁ? 曇り空ですの。雪も降りそうなグレイの寒空>
風が強い。ワンレングスの長い黒髪が背中から眼前へ吹かれ、視界を無彩色に狭めていく。久仁子は眉間に力を強めて湖を睨みつけた。
<まさか空ですの? 有り得ませんの。飛行物があったらすぐ分かる程度には視界が開けていて、とにかく目立ちますの>
<計画は十年近く前から始まっている。その頃から施設はあったと見ていい>
「……は?」
久仁子は強く非難のニュアンスを込めて脳波コンで喋り直す。
<ハア!? 十年!? 十年も前から不穏な動きを察知しておいて! 今の今までほったらかしにしてましたの!?>
<ワシが計画を知ったのは五年前だが>
<五年だとしても長いですのっ、動き出すのが遅すぎますの! もうっ!>
口喧嘩が婆やに悟られないよう口に手を当ててうなだれる。見ようによっては考え込んでいるようにも見えるだろう。久仁子は頭で必死に考える。
<今更ですの。怒ってもしょうがないですの、落ち着け阿国。ハア……十年も前から、この湖に……あのグリーンランドにあったような施設を作ってましたの? いえ、アレは中古物件……古い北極圏調査用の施設を違法占拠してただけですものね>
<む? 違法占拠だと?>
通信越しだが、驚いた様子の白亜教授が目に浮かび久仁子はニンマリ笑った。
<アラァ~? 教授ってはご存じなかったですの? 築年数なんと九十年でしたのよ、アレ>
<ワシが見た時には解体済みだった>
<解体じゃなくて火災現場……いえ、意図的に証拠隠滅のため火をつけたんですものね。元々ブチ壊れるように火種や火薬を仕込んでたって意味では、解体だってのに間違いありませんの>
<それ、ソチラにはないのか?>
<古い施設? 十九世紀を古いと呼ぶのでしたら。ここは元々ゴールドラッシュで栄えた町ですの。他にも銅、ニッケル、タングステン。地下資源の宝庫ですの。掘削の施設なんて山ほどありますのよ。十九世紀より以前に居を構えていたはずの先住民は、確かデネといって……湖の向こうに地区がありますの>
<デネ?>
<水の無い時期は湖畔を迂回しなければならず不便ですの>
<それはどうでもいい。デネと言ったか? 先住民のデネ族か?>
<言いましたの。それが何か?>
<……ふむ>
教授の声がしばし止まる。脳波コン越しに聞こえる言葉は息遣いを無視した「発しようとした脳内の言葉」を音に再現しているもので、声そのものは本人の声紋を利用したデジタル信号だ。考え込んだ教授の声の後に、言語化し損ねた脳波コン特有の吐息のようなものが漏れ出てくる。
<デネ/チペワイヤン/Dene。先住民/シャーマン/神秘>
<……一気にオカルト臭いですの>
<予言/Japan/関連>
日本語にする以前の状態で、教授が思った感覚そのものが久仁子に届けられる。
<(オカルト雑誌を懐疑的に読みながら、ふとした一文が光って見えるイメージ)>
「ワタクシ的にはそのまま疑ってしまいますの。科学の探究者がシャーマンなんて信じますの?」
「シャーマン、でございますか?」
久仁子の口から言葉が漏れたのを聞き逃さず、婆やが顔を上げる。
「気にしないで、ばあや。教授がまた変なこと言い出しただけですの」
「そういえば、聞き込みの際にシャーマンの予言のことは言われたことがありますね。雑談と思い報告はしませんでしたが」
「えっ、ばあやってばその手の話信じてますの?」
「いえ、私自身ではなくですね……この地域の方々には深く根付いた文化ですので、知識として理解をしているだけでございます。とはいえお嬢様、リスペクトの有無は透けて見えるものでございますよ? 旦那様も常々『見下すと上に立つのは違う、自分に出来ることも出来ないことも全て尊敬するという前提があってのこと』だと……」
「はいはい、耳にタコですの」
「お嬢様? 日本人である我々と彼ら先住民族が持っている文化に違いはあれど、ルーツとしては近しいのですから。他人事過ぎる態度はあまりよろしくありませんよ?」
「ルーツ的には同じモンゴロイドね。そうね。でもそのシャーマンっていうのは眉唾ですの。女が全員占い好きだと思ったら大間違いですの」
久仁子は超自然的なこと全般を怪訝な目で見ていた。目の前に広がる大きな湖を見ていると、確かに自然の前に人間などちっぽけだとは思う。だがその程度だ。久仁子にとって超自然的なものは全てオカルトで、魔法も転生も、神道も仏教も死後の世界も全てオカルトだ。文化として見ているものの、存在を疑っている。
「相性占いとシャーマンの神聖な儀式を同一視するのは避けた方が宜しいかと」
「それくらい分かってますの。ファースト・ネイションの文化は尊重しますの。だからこそ、ワタクシたちの目的である『脳波コン集団拉致』には全く! まったくもって! 無関係だと断言致しますわねぇ教授っ!」
脱線している白亜教授に向かって毒の強い言い方をする久仁子だが、ここまで来て手掛かりもなにもないことに焦りも抱いていた。教授の言う通り、古い建物を利用して中継基地を作っている可能性は高い。ウズベキスタンもドイツもグリーンランドも、ヒトの目から隠れるようにして施設を立てていた。各国に施設を作るなど、久仁子の金勘定視点で考えても「金持ちか」と思わせるほど潤沢な資金があるように見える。
「んー、ま、確かに金持ちの考えそうなことですの。信仰にデジタルを混入させ、新たなステージにたどり着く……とか?」
「よく分かりかねますが、過去にあったテロ行為はそうした類のものも少なくありませんでしたね」
「流石ばあや。世代ですのね!」
「幼いころですが」
ブツブツと考え込んでいる白亜教授の独り言をボリュームダウンし、久仁子は隣で双眼鏡を手にしている姿やへ向き直った。黒い革製の上品な手袋をはめた手で、湖の向こうを探すように双眼鏡を覗く。久仁子は裸眼で湖を広く眺めた。空が広い。何もない。夜に見たオーロラは美しかったが、太陽が出ている間は見物になるものがない。
目に見えない何かを見ようとする土壌なのだろうと久仁子は無感情に思った。
「遠い国の話でございました。日本で生まれ育った私には他人事でしかなく、旦那様がビジネスとして防衛の装備をラインナップする前までは、大人になってからも他人事のままでした」
「そうね。お父様は何もかもビジネスの種にしてしまいますもの」
「反戦は素晴らしいことだと他人に言われても興味は沸きませんでしたが、ことビジネスとして関わるとイメージが変わるものですね。内戦内乱で苦しんでいるから助けてあげる、となっていたらただの作業でした。彼らが求める兵器を供給するという仕事だからこそ価値を感じたのです。供給のピークを見極めるために市場の動向……宗教と政治と金銭が入り乱れる社会を学びました。旦那様は風向きを読むプロでございます」
嬉しそうに話す婆やの声に、久仁子は少しばかり疎外感を感じた。娘が知らない父の仕事を、隣に居る婆やは秘書だった現役当時からすぐ側で見てきたのだ。
「お父様はとってもお上手ですの。ばあやの言う通り、戦争は金を生みますの。需要と供給が成り立つならなんだって金になりますし、供給を独占できればがっぽりですの。市場の動き次第で真大な利益を得られる……お父様はそこに価値を見出し、ただワタクシはそこに意味を見出せなかっただけですの」
「そうですね。お嬢様はだからこそ、こうして慈善活動を中心に活動なさっている。そのお心、尊敬いたします」
「買い被りよ。ぜーんぶガルド様のためですもの慈善どころか、むしろ色恋沙汰で他人を巻き込んでますの。ゲームの中は無慈悲で平等で、だからこそワタクシを真っすぐ評価してくれたガルド様は唯一無二ですのガルド様のために世界も金も、オカルトや宗教だって全部全部ガルド様前提のものですの!」
「はぁ」
「だってだって、お金も装備も容姿も年齢も関係なく、ただワタクシと話した二、三言の会話をてくださって、それで、その一か月ずっとワタクシを心配して探してくださいましたの! たった三つくらい言葉を交わしただけの、見ず知らずの! 金持ちか貧乏かも分からないような半透明な人間に対してですよ!?」
「はい、お嬢様」
「ガルド様以外には見向きもされませんでしたの。それが普通ですのよ、ばあや。この身のワタクシなら、日本全土の誰より濃い存在だと自負しておりますの。でもあの世界では違いますの。ログインに必要な金を払ったが最後、それ以上リアルの身分や金銭は意味を消失致しますのよ」
「その通りでございます、お嬢様。来たる次のシンギュラリティでは、この世のあらゆる価値が見直されていくことでしょう。ビジネスも、各国地域様々な信仰も」
「価値……そうですの。ワタクシは道端に転がる雑草より邪魔でクズな、害虫に近い無価値なチートプレイヤーでしたの。別に、そうしたかったからそうしただけで、周りとは信じるものが違っただけですの。これも信仰ね。ワタクシは違法であってもカこそ正義だと信じてますの。暗黙の了解なんてなくなってしまえばいい。今なら理屈は想像できますの。出る杭は打たれる……叩かれて当然のことでしたの……」
「お嬢様……」
カナダの先住民が独特な文化を築いてきた理由が、婆やと話す間に気持ちが整い始めた今の久仁子にはなんとなく理解できた。目の前に広大な自然があり、人間が一定の人数しかおらず、そして「金銭より物々交換が優先されたであろう厳しい生活環境」があってこそだろう。久仁子は目を細めて空を見た。
フロキリも、似たような社会だった。娯楽と呼ぶには質素すぎるフルダイブ黎明期のタイトルは、常駐するプレイヤー達が創意工夫し編み出した自主ルールで上手く動いていた。そこに金銭は無く、身分もなく、ただフレンドやそれ以外と会話し楽しく過ごすだけの社会だった。
そして久仁子はあぶれた。理由は今なら理解できるが、狭い社会そのものを久仁子は嫌っていた。
「でもガルド様は、そんなワタクシを一か月も心配してくださいましたの。ひとつきどころか、きっと見つかるまでいつまでも探してくださいましたの」
「はい、お嬢様」
「世界は狭いですの。それでも満足できるのは、ガルド様の向こうにグレードスレーブ湖より大きくて広い世界が広がってるからですの」
「向こう、でございますか? それはあの、牢獄として使用されているゲームの世界で……」
「いいえ、ばあや。ガルド様の心、天より高く広くて透き通った麗しの心ですの!」
久仁子は強い幸福感に包まれていた。湖の向こうからガルドが手を振って走ってくる気配がする。久仁子の視覚野には動画漏洩で届いたガルドの雄姿がずっと流れていて、目を閉じれば微笑むガルドが目に浮かんだ。湖の上にいてもおかしくはない。いやきっと居るのだ。久仁子の目にはガルドが見える。薄い氷を割るような勢いで、荒々しくガルドが走ってくる。
「はぁん、ガルド様ぁ~」
<終わったかね?>
低い声に歪んでいた像が四散し、冷たい空気と寒空を実感する。久仁子は夢が醒めた際特有の悲しみに舌打ちした。
「チッ! <教授のせいでイマジナリーガルド様にお会いできませんでしたの!>」
<それはかなり危険な兆候だと思うぞ。医者ではないから何も言えんが>
<無用ですの! むしろ健康そのものですの! で!? ていうかコッチのセリフですの! 終わりましたの!?>
<いちいち叫ぶな。推測は立ったが確証がない。物的証拠を拾い上げていく。頼むぞ>
<しょうがありませんわね。正直ディンク……晃九郎より役に立ちそうですので、致し方ありませんが優先的に教授の言い分を聞きますの。参考程度に>
<それは光栄だ、ご令嬢。そういうところは旦那に似ている>
「<おっ、お父様は関係ありませんの!>」
思わず口にも出してしまったが、隣で寝やがうふふと生暖かい視線の投げながら笑った。




