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356 ミックスジュースとペンギンさん

「阿国への対応、咄嗟にしては良かったぞ」

 マグナが珍しく手放しで褒めるのを、ガルドは平皿のエッグベネディクトを半分に切り分けながら聞いた。

「(THANK YOUの絵文字)」

 ソロ探索で癖が移ったのか、有限公司がよくやる仕草が自然と出る。無言で吹き出し絵文字を出した。

「ううむ、ボトルメールなどいつのまに……」

「ジャスもガルドも聞いてなかったのー? 大会合で企画立ち上げたじゃん」

「緊張しててな! スマンスマン! これっぽっちも聞いてなかったぞ!」

「ガルドはともかく、お前は商社マンだろう。営業だろう。プレゼンぐらい朝飯前じゃないのか?」

「おおう!? 怖いから詰め寄るなマグナ! 自社製品のプレゼンなど目をつむってギター弾きながらでもできる!」

「イロモノ営業って思われるよぉ、ジャスぅ~」

 久しぶりに集まった顔ぶれが、いつも通りどうでもいい雑談に興じている。心が安らぐのを自覚しながら、ガルドは丁寧にポーチドエッグをオランデーズソースに絡めた。

「外では着々と俺たちを助け出す準備が進んでいるんだなぁ」

「田岡さん介して報告入れてくれた?」

「三橋に頼んだ。アイツは上手い。田岡の語彙の癖をよく理解しているらしい」

「ガルドも上手いよねぇ」

 フォークとナイフを使って小さく切り分けたエッグベネディクトを大きな口に入れる。

「モグ」

「俺ら、どうしても感情に訴えかけちまうからなぁ。三橋は辛抱強いし、ガルドは頭ん中次世代過ぎる」

 榎本がうっかり「ガルド=10代の若人」ネタをこぼしたのを、ガルドはテーブルの下で脛へ蹴りを入れ叱責した。戦闘不可エリアの城下町ではシステムという見えない壁に阻まれ、音にも痛みにもならないが気分は晴れる。

<おっと、いけねー>

<わざとか?>

<うっかりだよ>

 悪びれず通信越しに笑う榎本へ、ガルドは煽りに使う「Huh???」の文字アイコンを表示した。

「で、田岡はどうなったんだ?」

 熱々の牛丼を掻きこむように食べているジャスティンが、テーブルの反対側へ向けて言う。円卓を普段より詰めて座るガルドたちの対角側で、黒いスーツを脱いでフロキリの装備を着込んだサラリーマンたちが同じように食事をとっていた。

 全員揃いの、襟の無いローブを着ている。初期装備から一歩踏み込んだ低ランク装備だ。

「気分に波があるけど、それ以外は至って健康そのものだ」

「むしろ気が昂ぶり過ぎて周囲が気を遣うほどね」

「躁鬱の躁状態なのは分かるんだが、なにぶん専門外でな」

 数週間不在だったガルドは目を見張った。隣でミートソースのスパゲッティをリスのように頬張っていたボートウィグも、せわしなく動かしていたフォークをピタリと止めて驚いている。

「……いつのまにそんなフランクに?」

 榎本に聞く。

「あー、つい最近だ。こっちから『敬語やめろ』って言ったのは確かなんだけどよ、俺らがまるでガキだからもうどうでもよくなった~とかヒドイよなぁ」

 ガルドは情興庁(じょうこうちょう)スタッフの顔色をそっとうかがった。若い彼らは一斉に「そんなことないですよっ!」と弁明していて、榎本がからかい半分で苛烈な言い方をしているのだと分かる。

 だが彼らは揃って笑顔だった。あんなに硬かった仕事人間たちが明るく楽しく食事をしている。

「よかった」

 ガルドは嬉しくなると同時に、不甲斐なさで胸がいっぱいになった。三橋に懐かれているガルドは、ソロ探索前にはよく彼らとも話をしていた。そもそも彼らはガルドが未成年だと知っているはずなのだが、それでも、ガルドはずっと遠巻きに見られていた。

 逆に年少だからこそ腫物のように扱われていたのだろうか。

「ありがとうございます、ガルドさん」

「いつも気にかけてくださってて……感謝してます」

「え? あ、ああ……」

 敬語が取れていない。

「戻ってきて早々で申し訳ないんですけど、明日にでもぜひ阿国さんとの会話ログについてログと実感のすり合わせを行いたいのですが……」

「ん、もちろん」

「ありがとうございます、ガルドさん!」

 心底嬉しそうにハキハキと返事をした情興庁の女性職員は山瀬という若い女性で、ポニーテールが眩しい紅一点だ。しかしやはり敬語のままでガルドをまっすぐ見ている。

<……どうして……>

 黒いウインドウでガルドは呟いた。

<フム。標準型心理テンプレートフレームに落とし込んだ結果の確率で最も高いものを申すがね。彼らはキミを『外見通り』に解釈しているとみて間違いないだろうがね。つまり佐野みずきである事実を忘れている、ということではないかね?>

 独り言に返事をしたAは、ガルドの嫌な予感と同じ答えを述べた。

<だろうな>

<ほらみろ。『みずき』。キミ、すっかりガルドになりつつあるのではないのかね?>

<さっきは榎本が……>

 榎本は逆のことをした。ガルドが年少だから田岡の言葉を翻訳できているのだと、わざとではなく自然にうっかりしゃべりかけた。ガルドの内部がみずきだと言っている。他者から見られるガルドの色が違うだけで、ガルドが変化している訳ではない。

 言葉に出来ないが、とにかくガルドは「さっきは榎本がみずきだって言ってた」という意味を無言の中に含ませた。しかしAに伝わっているとは思えない。

 必死に発言する前の言葉として形にしつつ、ガルドがもう一言続けようとした時だった。

<だから彼はBJグループに属しているのだがね>

<……ほう?>

 AがBJ02、つまり榎本のことを「だから」と言った。明らかにガルドへ何か伝えようとしている。

 A曰く。榎本はガルドになりつつあるみずきをみずきと呼ぶから、BJグループに属している。

「……忙しくなるな」

「え?」

「やることは山積みだ」

 ガルドは段々と、田岡や自分が狙われた理由に気が付き始めていた。



「おお、お帰りぃー! 君ぃ!」

「只今戻りました、田岡さん」

 BJグループと比べてAJという別のグループに割り振られている田岡は、やはりGMオーナーが起こした一連の事件被害者の中で抜きんでた「価値」があるに違いない。 先ほどのAの言葉から、ガルドは田岡のことが気になっていた。

 ガルドは昼食とも夕食ともつかない食事会を終え、サンバガラスのギルドホームへと真っすぐ向かった。ボートウィグたちは引き続き榎本主導のバイク実地試験結果報告に駆り出され、ガルド個人として久しぶりの単独行動中だ。

「大変だったねぇ! まさかまさか、ああ、こんなに長くかかるなんて……狭いのは嫌だろう? ごはんは? 食べたかな?」

 蝋燭の明かりで少し暗く雰囲気のある屋敷の廊下を、白髪のざんばらなおかっぱを振りながら田岡が走ってきた。

 斜視で片目としか目が合わないが、こちらを真っすぐ見つめてくる。タイトめなグリーンの布系軽装備を着込んでいるが、ぺたぺたと駆け寄ってくる足音にガルドは視線を床近くへ動かした。はだしだ。脚部装備を外しているのかもしれない。

 サンバガラスのロビーは重厚な豪邸で、いつ来ても暖炉の火が優しくシロクマのラグを照らしている。その様子を懐かしい気持ちで眺めてから、田岡へと視線を合わせた。

「大丈夫だ。食べてきた、ので」

「そうか、ああよかった! ご飯は大事だ。ね、静」

 田岡が振り返る。

「もー、田岡くんったら心配しすぎ。大丈夫よ、ガルドだもん」

 田岡の後ろから着ぐるみのような動きで小さなヒト型が歩いて来る。

 ぽってりとした幼女体型の腹と短い脚、オーガンジーのドレスを模したお遊戯会の衣装のような装備は、相変わらずショッキングピンクと白で統一されている。背中には妖精の羽が一対生えている。

「……ぷっとん」

「ハロー! 聞いたわよ~? なになに、凄いじゃない! あの阿国と会ったって? 外にいる阿国と!」

「ああ」

「おくに?」

「阿国。本名は久仁子」

「久仁子」

 田岡とぷっとんはオウム返しのような会話をしているが、よく聞けばぷっとんが田岡へ分かりやすく言い直している。同い年のはずだが田岡の認知機能は明らかに歪んでいて、ぷっとんは細やかに配慮を入れていた。

「外の様子、どうなの? 進んでるって?」

「敵の施設から有線接続して入って来た。その線を守るよう言った。こっちの身体の場所をそこから探ってもらう……田岡さん」

「んう?」

「頼みたいです」

「うん、その前にお風呂」

「え?」

 田岡が突然なことを言い出す。

「ちょ、田岡くん? お風呂ならご飯の前に入ったでしょ?」

「彼とはまだだし、聞いたぞ? 露天風呂! いいなぁ、行きたいなぁ」

「風呂?」

「風呂だ! ゼェったいに! 風呂に入らないとダメだ、とにかく風呂だ!」

 露天風呂とはル・ラルブのことだ。ぷっとんがしゃべったのだろう。隣を見れば、あからさまに「やっちまった」な顔をしたぷっとんが、こちらへ文字チャットの通信を入れてくる。

<ごっめ~んガルド、なんか今さ、田岡くんお風呂がマイブームみたいで!>

「土産話は風呂で聞くぞ? うん、ナイスアイデア! さ、ほらほら」

「……分かった」

 確かに良いアイディアだ。ガルドはもう数週間、ソロ探索のダンジョン篭りでシャワーも浴びていない。それでアバターになにか変化があるわけではないのだが、言われてみれば気になってくる。手を握って開くと、どことなくペトリと湿気を感じた。

 視界の端に小さく黒い枠が現れる。

<聞くかね? ルックス率>

<いい>

 ルックスとはなんだ、見た目か。汚れ具合か。ガルドはギュンと眉間にしわを寄せた。



<お風呂、嫌じゃなかった? 遠慮なく言って頂戴ね、ガルド>

<気にならない>

<そう? まぁアタシたちからすれば孫みたいな歳だもの。おじいちゃんおばあちゃんとお風呂入るの、恥ずかしいかしら>

<……いや?>

<ならよかった。大丈夫、田岡くんには娘がいてね? もう大きいけど、よく入れてあげてたって言ってたから!>

 ガルドはサンバガラス・ギルドホームの大浴場につかっていた身体を頭まで湯船に沈め、息を吐きながら聞こえないよう「ばぶぅ」とつぶやいた。

 歳も性別も、子どもの有無も保護者の有無も、アバターでつかる風呂においては全く意味がない。必要がない。ガルドは久しぶりの風呂に手足を伸ばしながら思う。

 ここは極楽だ。周囲のプレイヤーが「みずき」を知っていると話は変わってくるが、ぷっとんは理解がある方だった。榎本に知られれば怒られそうである。

「ほぉー! ぐりーんらんど! 北の異国!」

 田岡の声が大きな大浴場いっぱいに反響しあう。どどどと多めの湯が一気に注ぎ込む音が重なっている。湯船のど真ん中には空へ吠える雄ライオンの銅像が立っていて、追加の湯をロから滝のように吐いていた。

 豪華絢爛といった印象の大浴場は、間接照明風のライティングに照らされ少し薄暗い。 「今、阿国はそこからこちらにくる方法を持ってる。弾かれたが、それはソフトウェアの問題だからなんとかなる。ハードウェアで繋がる方法を守れば、どうにでもなる」

「そうね」

 ぷっとんは湯船の縁に膝まで浸かって相槌をうった。ぶ厚そうなバスタオルでわきの下から足首まで隠しているが、幼稚園児のプール上がりにしか見えない。ピンクのツインテールをぶんと振ってガルドを直視した後、文字チャットを投げてきた。

 田岡には聞かせられない内容が出るたびに通信会話になるが、田岡は気にせずそのまま口頭の会話を続けている。

<田岡くんの拉致接続先が逆探知できなかったのは、そのハードウェア面……田岡くんが使ったフルダイブ用のヘッドセットのブラックボックスのせいなの。操作が彼の命そのものに直結してた。外そうとして、失敗して、ちょっとね……>

<そうか>

 ガルドはそれ以上聞かなかった。

「こっちにくるのか? 久仁子ちゃん」

 田岡は阿国を「久仁子ちゃん」と呼ぶことにしたらしい。

「……すぐには無理」

「おお、そうか、くるのはすぐではない……いつだ?」

「いつか」

「五日? すぐ?」

「……一年くらい」

「おお、未来だ! 指折りだな! 指折り数えて待とう。うん」

 湯の中で指を折って数え始めた田岡は、ガルドの目にも無垢な子どものように見えた。シワシワの手が数字を数えていく。

 そういえば、風呂で百まで数を数える遊びを止めたのはいつだっただろうか。ガルドは祖父を知らないが、祖母と一緒に数えていた日々を思い出した。

 十歳より幼い頃といっても、十七の佐野みずきにとってはまだ七年前のことである。

「静、両手が足りないぞ」

「十秒で指一本に変えたらどぉ? 単位が大きい方がいっぱい数えられるじゃない」

「そうか! いっぱい、いっぱいだな! ううん、時間が流れているのがこんなに楽しいなんてなぁ!」

 ぷっとんの息をのむ声が聞こえ、ガルドも目を伏せた。半世紀生きた田岡にとって、時間はガルドよりも貴重で有限なものだろう。価値が違う。ガルドのたっぷり残されている時間とは違い、惜しいと思うべきものだろう。

 日々を苦痛にまみれながら過ごしていた田岡の四年間を思う。

「……田岡。みんなで一緒に過ごそう。楽しいことは、光陰矢の如し」

「そうよ、田岡くん。楽しく過ごしましょ。外でもたくさんの人たちが君のこと待ってるんだから。田岡くんの人生は、アナタにとってもアタシにとっても、すっごく価値のあるものなんだからね!」

「静、モチくん……」

 膝だけ湯船に浸けていたぷっとんがマスコットのようにジャンプし、尻もちをつくように湯船へ飛び込んできた。水が跳ねて田岡とガルドをずぶぬれにぬらす。

「っぷは!」

「うわわわ! っあはは! はっははは!」

「なんでもできるわよ。ね、田岡くん! ほら!」

 ぷっとんは勢いよく田岡とガルドへ向かって湯をかけてきた。両手を逆バタフライのように大きく動かし、プールで遊ぶ子どものようにはしゃぎだす。

「ぶはー! し、静!? やったなー!?」

 田岡が参戦する。ガルドは両方から飛ばされてくる水しぶきを浴びながら、深妙な顔で無言を貫いた。

 なんでもできる。

 そうだ、確かにその通りだ。ガルドは改めてサルガスへの「ワールド改善要請」は着々と進んでいて、メロ筆頭にあれこれ注文を付けている。田岡が心から望んでいる要望は基本的に通るらしく、風呂も映画も上質なものが既に実装されていた。

 映画館でポップコーンを食べながら、男プレイヤーたちが田岡と一緒にサメ映画で盛り上がった……と報告は聞いていたが、これはリアルでガルドがしたこともない経験だ。

 リアルでも出来ないことが出来る。

 それがフルダイブの究極、理想形だ。進路に悩んでいたガルドがほのかに抱いていた夢でもある。アメリカで学び、最先端のフルダイブ世界へまっさきに飛び込む「テストプレイヤ ー」になること。

「あ……」

 ガルドは虚無を感じていた。

 なるのが目的になっていた。なって、なにをする。浸るだけか。風呂のように。この世界は格好の実験場で、ガルドたちは無理やりテストさせられている立場だ。

 理不尽だが、夢が叶っている。

「きゃははは!」

「そりゃそりゃあっ!」

 楽しそうに二人が水掛け合いっこをしていて、まるでデートをしているカップルのようだ。この世界はディンクロンからもAからも聞いた通り、何かの実験に使われている。ガルドもその部分に疑問はない。自分と仲間たちの六人がBJと呼ばれ、田岡だけがAJと呼ばれるのにも納得がいっている。

 こちらの合意も取らず暴力的な方法で放り込まれたガルドたちだが、この世界は今「なんでもできる」に近付きつつあるのだ。元々の世界に不満を持っていたゲーマーたちからリアルの幸せと苦痛を奪い、生ぬるい環境に移し、たまに娯楽(エサ)を与えて観察している。

「ほらガルド、水鉄砲! いる?」

「……ん?」

 物思いにふけるガルドを呼び戻すように、ぷっとんがペンギンのフィギュアを渡してきた。

 くちばしにあからさまな穴が見える。表面のテクスチャがのっぺりとしていてフロキリらしくない。カートゥーンな色だ。恐らく別タイトル由来のおもちゃだろう。

「お腹押すとびゅーって水出るの。あっはは!」

 田岡も同じものを持っていて、ぷっとんの鼻目掛けて勢いよく水鉄砲を発射している。ガルドは渡されたペンギン水鉄砲を少し押した。

 ぴゅ、と水がくちばしの穴から噴き出る。

 ペンギンの顔に、懐かしい景色が重なって見えてくる。

 ——おばあちゃん、見えないよう……

 ——あらあら。ほら『みずき』。おばあちゃんがおんぶしたげようねぇ……ほら! どう? 見える?

 ——わぁー! とりさんがおよいでる!

 ——ペンギンさん、かわいいねぇ

 ——うん! すいぞくかん、楽しいね! ありがと、おばあちゃん!

 ——よかったねぇ、『みずき』

 ——ペンギンさんは? ペンギンさん、楽しい? よかった?

 ——うーん、どうかしらねぇ。ペンギンさん、本当は南極に住んでるの。ふるさとから連れてこられて、ちょっと可哀想かもねぇ

 ——でもいっぱいいるよ? ともだちいっぱいいると、みずき、楽しいよ?

 ——そうねぇ。楽しいかもねぇ

「……うん」

 楽しいよ、おばあちゃん。

 ガルドはぷっとんから水鉄砲で浴びせられる湯を受けながら、静かに目を閉じた。

 水族館にいるペンギンも、きっと閉じられた空間だろうがちゃんと楽しいことだろうと思う。ガルドは少し泣きそうになりながら、祖母との思い出を反芻していった。

 丈夫じゃない身体で、よく外出に連れ出してくれた。おんぶも重かったことだろう。わがままを言って困らせることもあった。

 風呂で泡が目に入り、大泣きして困らせた記憶もある。

 アイスクリームが食べたくて床に座り込んだ夏の日のこと。

 母も父もいなくて寂しい夜に、どうしても行きたいと言って母のオフィスへ連れて行ってもらった冬の日のこと。

 熱っぽいことを隠していたらインフルエンザをうつしてしまったこと。

「あ、そーだ! もーガルドー、田岡くんに喋ってもらうんじゃなかったの?」

「ああ、いや、別に後でもいい」

「風呂上りはミックスジュースだ!」

「え、静さんはビールがいい」

「じゃあ競争だ! 静が負けたらみんなでミックスジュースだ!」

「えー!? ちょっとなにそれ! 待ってよぉもう! 転ぶってば!?」

 ぷっとんと田岡が勢いよく飛び出し脱衣所へ走っていく。

 祖母には夫が居なかった。シングルマザーでみずきの父・(ひとし)を育て、晩年はみずきを育ててくれた。祖母には、ああして屈託なく笑い合える男がいたのだろうか。田岡と共に走るぷっとんは、ディンクロンの側を歩いていたぷっとんとは違う顔をしている。

 見えなくなった二人の行き先から「プハーッ!」と爽快感のある声がした。

「おおう……風呂上りのミックスジュース……幸せだなぁ」

「ホント、久しぶりに飲むといいわねー」

 幸せになるために必要なのは、場所じゃない。ヒトだ。祖母には愛すべき息子と孫がいた。ぷっとんは田岡と再会できた。孤独だった田岡は今とても笑顔だ。

「餅くん! 飲むだろう、飲むだろう?」

「ん。貰います」

 ガルドも今、確かに幸せだ。たとえここが水族館で、我々がペンギンだとしても。

「……甘い」

 フルーツとミルクの甘さと共に、ガルドは腹の苦みを飲み込んだ。

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