350 レモンイエローのばあや
卵の頂点にたどり着いた。息切れ一つない巨体でガルドがヒビ割れの一つに手をかけると、別のヒビに腰掛ける老婦人と目があった。目に見えて怯えている。それにもう一つ、ガルドは違和感を覚える。
「アバター?」
<そのようだね。FKOモデル・フェアリエン種。装備に違法改造を確認出来るがね>
<阿国だな>
「貴方は……」
声は、みずきの祖母より上品に聞こえた。
老婦人はほとんど妖精のような姿をしている。まるで子供のころに見たおとぎ話の、灰に汚れた乙女を変身させる魔法の妖精のような装備を着込んでいた。魔法の帽子、丸みのあるシルエットのケープローブはそろえセットのレモンイエローだ。背中の小さな妖精羽が高速に羽ばたいている。
顔はデフォルメされたシワのある老婦人のフェイスで、海外の品良いおばあさんといった印象だ。鼻が少し大きい。
<ファンシーだな、阿国>
<こういうのを少女趣味と言うのではないかね?>
<言うかもな>
「とりあえず……下に降りる、ので」
とってつけたような敬語にも嫌な顔一つせず、阿国の婆やはガルドの名前を当てた。
「貴方がガルド様ですね」
「さまは要らない。呼び捨てでいいです」
「いえ、お嬢様に倣いますので」
怯えが消え、毅然とした表情でガルドを正面から見据える婆やにガルドは敬意を覚えた。高いところが苦手なのだろう。ガルドは右手の腹を見せ、武器がないことを明かしつつ手を求める。
「どうぞ」
「……下へ降りるのですか?」
頷く。表情に変化はないが、明らかに渋っている。確かに足のくらむ高さだ。
「目を閉じていても大丈夫、です」
「そうですね。貴方の勇者ぶりはお嬢様から伺っております。信用していますよ」
「……叫んでいいので。流石にココから降りるのは怖いだろうから」
ガルドはツッコミを放棄した。阿国の人柄は理解しているが、婆やまでもが変わっている人だと決めつけるのは時期尚早だろう。今のがウケ狙いなのか本気なのか分からないが、まだ下手に口を出すべきではない。
「ええ、ええ。お優しいのですね、ガルド様。伺っていた通りのお方で何よりでございます」
釣り合っていたBETの天秤が、ガクンと「この人あって阿国あり」へと寄った。
婆やを卵の縁まで誘導しながら、中身を覗き込む。
<出口にはならないか>
Aにだけ聞こえるよう出口の可能性を文字情報として呟くと、案の定、倍以上の長い返事が返ってきた。<フム。ログイン・ログアウトの管理はこちら側を経由しないとできないよう組まれているのだがね。現に彼らは入ってきた。リスクは承知の上だろうがね。AJ01のケースは知られているのだろうね?>
<田岡か。日本に身体があって、保護されていて、それでもログアウト出来ない……>
<そうだ。だからこそリスクは承知だと思われるがね>
<実際そっちでは? 阿国たちが来たことは>
犯人サイドに探りを入れる。
<機械思考的には否、ユーザーへの情報漏洩は不明、オーナーは侵入者には気を配っているのでね。恐らく承知だろうがね>
<おーなー……>
一番悪い奴だ。ガルドは表情にぐわりと力が入った。慌てて顔の筋肉情報をカットし、機械的にアバターを笑わせるようエモーションコントロールをオンにする。
「バンジージャンプは人生七十年で初めてのことでございます……」
婆やの声に、ガルドはハッと振り向いた。
視界から卵の中身と内側から見た殻が通り過ぎていく。見えた文字に、これ以上ここにいても意味がないと理解できた。
「降りよう」
卵の中はただのオブジェクトになっていた。エフェクトのかけらもない。ただ外から見たものと同じテクスチャの壁が中から見えるだけで、黄身も白身も存在しなかった。Aが気を利かせたのか、ポップアップで<collider>と出ている。
衝突で当たり判定の有無を調べるよう、ゲーム制作者が置く壁を意味する単語だ。
「こちらからは入れないか」
「え?」
「こっちの話。大丈夫、下に阿国もいるので」
「おくに……ああ、久仁子様のことですね」
「そう。久仁子。だから安心していい、です……行くぞ」
「え!? え、あわわっ!?」
軽く宙へ飛ぶ。
一瞬滞空し、ガルドたちはぐんと下へ引っ張られるような落下感を感じた。
「ひん!」
ぎゅっと目をつむった婆やと一緒に落ちる。悲鳴を漏らさないようにシワの寄った唇をムの字にしているのが、ガルドには昔を思い起こさせて嬉しくなった。酸っぱいものを食べているときの祖母になんとなく似ている。
重力感の再現は日増しに上質になっていて、つまり、ゲームらしからぬ本物の落下感覚がガルドたちに襲い掛かった。怖いだろう。それなりに様々なフルダイブゲームを試したガルドには馴染みのもので、恐怖など数年前の初プレイ以降すっかり忘れてしまった。
だが婆やはガルドの手を強く握り返してくる。
怖くて当たり前だ。ガルドは優しく、背中側から腕を回してもう一つの手を握った。同じ方向を向いて、同じ手を背後から取り、大男らしい広い胸板で壁のように背中を守る。
前に目を向ければ、下で榎本と言い争っている阿国の姿が見える。
「二人とも」
声をかければ、落下してくる婆やとガルドのセットに気付き、目を丸くしながら手を大きく広げた。
「おぉいガルド! 落ちてるぞ!?」
「ガルド様!? それに、ばあやまで!」
「受け取れ」
「え?」
一緒に落ちている婆やもガルドを振り向き「え?」と声を上げた。ガルドは阿国目掛け、ばあやの両手を空中ブランコの要領で振るようにして投げる。
「ひいいっ!」
突然手を離された婆やは悲鳴を上げながら縮こまった。阿国はガルドへ広げていた手を咄嗟に婆やの方へ向き変え、榎本は口をあんぐりあけて上を見上げている。
榎本は突発的なありえない光景に弱い。やれやれ、とガルドは呆れた。榎本のその咄嗟の判断の鈍さは、以前指摘して世界大会前に訓練したことがあった。フラッシュ暗算だ。目で見た情報を頭で状況判断にかける、PCで言えばCPUの処理速度のようなものを強化するのに、瞬く光を数字として受け取り計算するフラッシュ暗算は好都合だった。
しかし婆やの落下に対応しきれていない様子を見るに、あれから相当鈍っているのだろう。ガルドはこっそりと、後日特訓してやる予定を脳裏のスケジューラに刻み込んだ。「ばあやー!」
丸くなった状態の婆やが、勢いの良い弾丸のように加速しながら落下していく。そして無事に阿国の腕のなかへと落ちていった。
現実世界のようにキャッチしきれず床につくなどありえない。この世界の物理は、ぶつかればそこがどれだけ小さくても大きくても必ず壁になる。反動無くゴリゴリと止まった。
腰と膝裏に延ばされた阿国の腕で支えられ、婆やは姫抱っこの状態でふるふると震えている。
「ああっ! ああ、驚きました……非常に驚きました! お嬢様!」
「もうばあや、ここは仮想空間ですの。大丈夫ですの」
「久仁子お嬢様、その口調……」
「あー! あーもーばあやったら! リアルネームはいいっこなしですの!」
「は、はぁ……」
婆やは阿国の口調に困惑しているようだが、周囲のソロ探査プレイヤーも揃って困惑していた。ガルドは勢いを殺すことなく、そのまま両足で四股を踏むように着地した。
ヘビィボディ由来の大きな地響きがズドンと響き渡る。
続けて一定の高さから落ちた場合の反動デフォルトが、ガルドの足をしばらくビリビリと拘束した。
ゆっくりゆらりと立ち上がると、婆やから離れて阿国が走ってきた。だが一メートル手前でぴたっと止まり、真っ赤になって顔を手で覆う。隣に追いついた婆やは微笑ましそうに様子を傍観していた。
「……大丈夫か」
「ガルド様! ガルドさまぁ〜!」
「ヘイユー! 話進まねぇからぁー!」
唖然としつつDBBが阿国へ暗に説明を求める。ガルドも頷くが、阿国との付き合いは長い。頭の中より先に感情が条件反射で飛び出すタイプの女性だ。進まないまましばらく、それこそ離れていた時間を理性で埋めなければずっとこの調子だろう。
「ばあやさん」
ガルドは後ろのフェアリエン種に声をかけた。
「はい、ガルド様。我々は只今『臨時ログイン』しております。接続ステータスを巡視AIが閲覧できないよう操作しておりますが、違法ログインが気付かれるのも時間の問題かと……お嬢様の強い、強すぎるご要望による危険な接触でございます……」
「それはつまり……『阿国のわがままでちょっと覗きに来た』と?」
「はい」
「危ないだろう、阿国!」
「ひえっ!? ご、ごめんなさいガルド様! でも阿国、お側に! このままココに居たいですの!」
「なりませんお嬢様。ログアウトも可能でございます。帰りますよ?」
「な」
「えっ?」
「っひょー!?」
「ま、マジかよ……」
ログアウト。簡潔かつ衝撃的な単語に、ガルド以下拉致被害者集団は開いた口が塞がらなかった。




