347 家で一人のパパ
激動のまま、もうすぐ冬が来る。
その後は春が来る。夏が近くなれば、娘が連れ去られた日から早くも一年になってしまう。
「ハァ」
佐野は横浜の自宅ソファで横になりながら、部屋中に響く大きなため息をついた。妻は不在だ。取材と言っていたが、なぜかパスポートがない。佐野自身の分をしまうつもりで開けた定位置の引き出しにあるはずの妻の分が無かった。
横浜のローカルブックを編集するため地元中心生活を送る妻が、なぜ海外用のパスポートを取り出すのだろう。なぜ自分になにも言わないのだろう。少し不満があるが、仕事ならば仕方がない。
暇だ。
佐野は妻のいない休みの過ごし方が分からない。連勤は法律違反だと言われ、無理やり取らされている休暇だ。料理をするのも億劫で足が動かず、痩せ過ぎているためランニングも不要で、愛する娘もいない。
「どう思う、三橋」
返事はない。
頭の中の部下は、さぼっている佐野を見てよく言うセリフ第一位、「ドーナツ食ってないで仕事してくださいよ~佐野さぁ~ん」を再生させた。まるで音楽のミックスリストのようだ。おおよそ決まりきった言葉が並んでいて、勝手に必要なタイミングで絶妙に流れてくる。
やる気が出てきた。
「そうだな。仕事しよう!」
ソファから立ち上がり、充電パットの上に転がるいくつかのデバイスから、社用でオフィスに持ち込めるゴツい通信子機端末を取った。
脳波コンを埋め込んでいない佐野は、ブルーホールには入れない。
そういう仕事は部下がする。新卒や出向、別部署からの転属者などを多数抱えている佐野にとって、部下とは小間使いではなく「自分より何かが秀でている仲間」だ。
その何かがまだ分かっていない彼らに、「僕はこれが出来ないから頼む。でも僕は君よりこれ出来るから任せてほしい」と仕事の割り振りを繰り返していくだけに過ぎない。
例えば佐野は脳波コンを持たないためブルーホールには入れないが、それ以外に出来ることをするだけだ。長年培ってきたウェブでのデータ解析と、文字のスペシャリストである妻とのやりとりで育んできた日本語の行間を読む能力。生かせばそれなりに活躍できると佐野は自負している。
閲覧するのはフルダイブ抜きでも閲覧できる一般的な掲示板だ。フルダイブのアンチ業務を行っていた時からよく来る場所で、かなり有力なVRフリークが集まる。もちろんゲーマーだけでなく、技術系の面々が専門用語をまくしたてながら喋る場所だ。
しかし販売側や開発サイドは立ち入らない。国から極秘裏に口封じがなされ、金が動いているためだ。
元々守秘義務で詳しい話はネットに上げてはいけないルールだが、そこに追加する形で「掲示板の閲覧禁止」が出されている。つまりこの掲示板に集まる玄人たちは、そういった事情を知らない、趣味の域を出ない程度のVR技術ファンだ。
彼らが裏工作に気付かないよう、少しずつ危険性を植え付け、フルダイブではなくAR技術へシフトするよう誘導するのが佐野たちの仕事の一つだった。
久しぶりに入る。
佐野は少し緊張しながらページを開いた。
<情報の開示を要求する! 偽造を許すな!>
<マスコミは何をしている!>
<フルダイブVRを敵視する人質誘拐テロリストと日本政府に、厳粛な処罰を!>
<与党をのさばらせるな!>
<総理辞めろ>
<内閣総辞職!>
<責任追及せよ!>
<戦争になりかねんのだよ! 危機感がなさすぎる!>
「な、なんだこれ……」
佐野は呆然と、自室のリビングで立ち尽くした。
ごく一般的な一般人である佐野自身に政治への関心はほとんどない。妻の言う「公平性」を、そういうものなのだなと思って守っていた。職業柄公務員に近い立場というのもあり、正義か悪かの判断は二の次だと思っている。今までの仕事が悪だったなどと思いたくない。佐野は歯車だ。国を動かす部品であり、意思を持って行き先を変えられる立場にはない。
だからこそ、掲示板が真っ赤に染まっている様子をフィクションのように捉えていた。「そうなんだよ。まいったな」
<困りましたね。引き継いだ会社の怠慢でしょうが、投げ出す形で手放した我々にも責任が……>
三十代くらいの女性の声がスピーカーから聞こえた。東京から離れず、佐野の元で田岡関連の業務についていたサブリーダーだ。元々は民間のエンジニアとしてプロジェクトリーダーをしていたらしく、ハキハキとした物言いが佐野にとっては妻を思い起こさせ居心地が良い。
責任感の強さがネックだが、それもまた彼女の長所だと佐野は捉えている。
<放っとけ放っとけってェ~。暴動? デモ? やらしときゃいいじゃねェの>
<ギャンさん、松葉杖! 自重掛けたらまた折れますよ!?>
<わーってるわーってる>
<貴方、言葉を二回重ねる時は嘘ですよね>
<わ、わかってるってぇ~>
<で? 放っておく理由はなんです?>
<突っつく意味ねぇだろーがぁ>
<そんな理由で……>
療養中でベッド勤務の八木は部下の女性と良いバディだ。どちらも切れ者で言葉遊びが得意、技術の知識もしっかりしているIT専門家だ。佐野は目を細める。式の際はぜひ仲人として参加したいものだ。
そう思いつつ、真面目に仕事人として佐野は思考を巡らせた。
「意味がないというより、リスクの問題かな。我々はこうみえて国からすれば目の上のたんこぶ。何か法に触りそうなことをしていれば、それを理由にさっさと全員牢屋にぶち込みたい相手だろうからね」
<脅迫で威力業務妨害、ですか?>
<契約が切られてンだぞ? 俺ら何のためにアイツらの情報バラマキ止めるってんだァ? 金が貰えるわけでもねーのに>
「事件の手口が脳波コンによるマリオネットだと、既にどこからかバレてる。死者三名の件はバレてないみたいだけど……これじゃあ時間の問題かな」
マリオネット化は目撃者が多く、いつか露見するとは思っていた。だが既に死者が出ていることは、その家族と警視庁のごく一部、そして佐野ら追跡チームの周辺にしか届いていない情報だ。
<口に蓋なんて出来るかよ。有名同人作家だぞ〜>
桜子のことだ。佐野は目を閉じて死者を悼んだ。ここでコーヒーを出した記憶はまだ強く残っている。
<じゃあなにもせずそのままですか>
<カリカリすんなー。ほら、食え食え>
<げっ、食べませんよそんなもの>
何をだろう。佐野はうずうずした。すぐにでも出社したいが、社長が日本に帰ってきた今、顔を出した瞬間タクシーに詰め込まれるのがオチである。
桜子の敵討ちのためにももっと仕事がしたい。
「八木くん、田岡さんの方は任せていいかな? 僕の方で掲示板の情報、少し洗い出すから」
<休みの人は休んでくれやぁ、頼んますから>
「趣味だよ、趣味」
<ったく。聞かねぇなァ! 三橋そっくりだ!>
<三橋くんが佐野さんに似たんじゃないの?>
<違えねぇな! 田岡さんの方は任せてくれやァ、俺らがしっかりかっちり見ててやるんで>
<掲示板の過去ログとIPアドレス、あと管理者側でブロックしているユーザーリスト。ほとんどとっといてます。圧縮で送りますね>
<ッハッハー! 契約違反! いはーん!>
<ギャンさん! 貴方に言われて『前の仕事のデータだけは続けて抽出しつつバックアップ』してるんじゃないですかー!>
「八木くん、ナイス判断。しかしあれから何か月も経ってるんだけどなぁ。パスコード変えないとはズボラな奴らだ……」
<へへ、これでも奴ら、ちゃんと変えてるんすよォ。バカっつーかアホっつーか、オツム弱弱~。ネェー?>
松葉杖を脇下の支えにしながら、おちゃらけた笑い方で部下に絡む八木の姿が目に浮かんだ。佐野は女性部下に同情する。若い八木だからセーフというわけではない。不快ならアウトだ。セクハラにならないだろうか。
<ふふっ、小首傾げても可愛くないですよ? 毎月下二桁だけ変えるだけの単純なパスコードなんて、子どもでもわかります>
楽しそうに続けた女性部下の声に、佐野は胸をなでおろした。
PCに繋げてはいけない、というルールは古い契約上のものだ。
社長である九郎が謀反を起こし、警視庁や内閣府との契約を切って独自に動き始めた今、佐野の手の中にある通信子機で業務を完結させる理由はない。
だが残念なことに、佐野は自分のPCを持っていなかった。
ゼロクライアント……全ての処理をオンラインのサーバーに託した仮想デスクトップは持っている。だがそちらも契約を元に運用していたため、情報を渡したくない政府サイドには筒抜けになってしまうだろう。家族共用のノートPCはリビングに無く、妻が持って出て行ったようだった。
我が家にある端末は、もうあれしか残っていない。
佐野は心から謝った。
「ごめん、みずき。本当にごめん……あ、ロックかけてるかな。いいや、僕のツールで外せないほどのタイプじゃないだろうし。あ~ごめんよ、みずき〜……ひどいパパだね……」
PCを借りに、部屋へ入る。鍵はかかっていない。中から掛けられるバータイプの簡易鍵はあるが、これは内側からしか閉められない。
みずきは「今度南京錠に付け替えて」と怒っていた。このバー型の鍵は自力で付けたのだろう。あまり上手ではないネジ止めと、間違えて開けたらしい無残な穴が一つ空いている。
「……うっ、うう、みずきぃ……」
泣けてきた佐野は、トボトボと部屋の奥まで入っていった。建てた当時に置いた家具や壁紙から何も変わっていない。違うのはアレぐらいだ。佐野は吸い込まれるように、視線を大きな機械へ向ける。
「……え?」
大きな窓を挟んで廊下側に勉強机が、壁側にはベッドが置かれている。
「こ、これ……まさか……」
佐野は初めて、娘が使っていた愛用の機体を見た。
ヘッドレストの奥側に、アップライトピアノより大きく背の高い機械が鎮座している。音はない。電源が抜かれ、ランプも光っていない。
存在感のありすぎるフルダイブ機は、よく見るありふれた黒ではない。珍しいデザインは、1990年代の黎明期に使われていたようなレトロさを醸し出している。グリーンと肌色の中間色、無駄に入ったへこみライン。ランプの部分はくりぬかれて物理的に穴が開いている。ランプの色はなんとも言えないくすんだガラスのようで、まずLEDには見えない。
仕事でも見たことない機体だが、佐野はカタログで見たことがあった。
横に書かれた放射状に広がるロゴ。曙光社のものだ。佐野はしゃがみ込んで床すれすれの金属プレートを注視する。TET-00、と彫られていた。日電の有楽町ビルに置かれていた備品でもTET-02以降で、それすら高級品だ。そもそもTEシリーズですらないものの方が多い。
「みっ、みずきっ、これ……これって!」
テテロだ。
長年それなりにIT系の先進にいる佐野でも初めて見る。曙光社は古ければ古いほど高く高性能。通説だが有名な話だ。それが値段を釣り上げていることも知っている。
佐野の母によく懐いていたお婆ちゃんっ子の娘は、よく自分たちからとは別に小遣いを貰っていた。しかし物欲がなく、ほとんど貯金していたはずだった。加えて妻・弓子の潤沢な小遣い。さらに佐野からは消耗品の補填が適宜行われ、おそらくみずきは相当まとまった金を持っていたのだろう。
しかし、だ。ちょっと高いモデルが欲しいなぁ~では済まない値段だ。佐野は知っている。普通はローンを組んで買うものだ。驚くべきことにおそらく一括で、当時中学生のみずきが買ったのだろう。信じられない。
「……すずちゃんの協力があったにしても、すごいな。ネット上なら買えるのか」
姪っ子の耳打ちと、あとは本人の熱意だろう。すごい熱量だ。自身の娘のことながら、佐野はなにも分かっていなかったのだと認識を改める。テテロの価値は佐野ですら聞きかじった程度だが、家出するほど重要視していた娘はよく理解していたのだろう。
そこまで、ゲームが好きだったなんて。
「そっか、彼のせいだけじゃないのか……」
佐野は、まだ会ったことの無い「榎本」なる男を思い浮かべた。
そそのかされたとばかり思っていたが、だとすればこんな大型高級フルダイブ機など買わない。
本気で遊んでいた。本気でプレイしていた。本気で仲間たちと毎夜会い、語り合い、佐野が見ていないところで日々成長していたのだ。
佐野はぐいと目元を擦った。鼻がツンとする。
「みずきだけじゃダメ、か。三橋。そこにいる全員、お前含めて全員だ。みずきの大切な友達みんな、生きたまま助け出すからな……!」
佐野は眉をりりしくさせながら、テテロの側に置かれたタワー型のPCへ近寄る。
液晶は申し訳程度の小さなプロジェクタータイプで、不便だろうと佐野は懐から延長液晶を取り出した。デュアルスクリーン用の巻き取りフィルム式で、今は太巻き程度の大きさだが、巻物のように広げれば新聞全面ほどのサイズになる。
慣れた手つきで自立させ、コードを一本繋ぎ、みずきのPCを立ち上げる。パスコードはなかった。
「不用心だな」
あとはブラウザ経由で仕事に使うデータを呼び出し、解析ツールをサーバー側で回すだけだ。さくさくと昔ながらのマウスとキーボード……PCを買うと未だに無料で付いてくるもので、恐らく脳波コン持ちのみずきは使ったことすらないだろうが、佐野は慣れた様子で仕事をこなす。
先導者はだれか。サクラはだれか。監視者はだれか。海外の人間はだれか。ID、書き込みの口調、IPアドレス、串の先、使用デバイス、過去の発言。様々な要素を抜き取り、人間個人単位に落とし込み、関係者のプロファイルへ組み込んでいく。
タン、とエンターキーを押した。今どき空中でのジェスチャタイピングや音声入力を使わないサラリーマンなど遅れているかもしれないが、佐野は指で打った方が気持ちいいからと使い続けていた。エンターから広がる画面上の動作に、指揮者のような感覚で様子を見守る。
「ふむ」
先導者の個人情報が出た。
確証は無いが、IPアドレスを辿ると日本在住者に見えなくもない。そっくりそのままデータをスマホに送ると、解析中のアイコンを見届けページを閉じた。あとはクラウドの向こう、サーバー側での処理になる。
結果次第だが、実際に先導者の住まいを訪問するのがいいだろう。公共代理アバターロボで構わない。配送業者を装って部屋の中を見れれば人格調査が出来る。佐野はそこまで考え、デスクトップ画面へ戻ってきた。
「……ん?」
右下のランチャー部に点滅するアイコンがある。
あまり見たことがないデザインで、佐野はつい気になって押下してしまった。ファイアウォールの類なら最新版になっているか確認を、などと親心もある。
表示されたのはメッセージをやりとりするインターフェイスだった。
「おっと!」
見てはいけないだろう。すぐ閉じようとするが、ちらりと目に入った文字に目を奪われ手が止まる。
フランス語だ。ラテン文字特有のアクセント記号が入っている。
「んえ?」
確かに翻訳を入れれば問題なく読めるだろうが、みずきはフランスに興味があっただろうか。なんとなく目線をさらに下げると、ハングルや漢字、アルファベットが並んでいる。さらに下にはヒンディー語だろうか。くねくねとしたエキゾチックな文字形態が垣間見えた。娘へ宛てられた未読のメッセージを開くわけにはいかず、全文は読めない。
だが冒頭の数行は表示される。
機械翻訳は脳波コン専用アプリらしく、佐野はポケットからカメラ付きの携帯端末を取り出した。カメラ機能の無い社用端末の代わりに買った、私物のハンドカメラだ。簡易的なAR翻訳もついている。画面にかざすと、精度の低い日本語訳が手元の液晶上に被って現れた。
<頑張ることを望む! 来訪が来る、未来>
<戦場で会おう、友よ>
<あなたの無事を神に祈ります。活躍が見たい!>
<動画を繰り返し見ている。もう見られないなんて信じない。いつまでも待つ>
<愛してるよ!>
海外の友人たちから届いたメッセージだ。佐野は娘宛てのプライベートなものだというのをすっかり忘れ、夢中で上から冒頭部分だけを読んでいった。
どれも心配する声だ。どこから拉致被害のプレイヤーが娘だとバレたのだろう。おおっぴらには公開していない情報だ。
やはり同じゲームを遊んでいた者同士、横へと永遠に繋がりがあるのかもしれない。
<GARD! お前のために私も計画に参加することを決めた!>
ガード、とは何かの用語だろうか。ちらほら出てくるが、何かを防御する意図かもしれない。スクロールしてもスクロールしてもまだ出てくる未読メッセージに、全部の合計数を探す。小さく左端に書かれた未読数からGW以降とフィルタをかけた。
減った数字は二桁未満だ。
「い、一万超えそうじゃないか……」
一人で何通も、音信不通になったゲーム上の友人にメッセージなど送るだろうか。出なければ人数だ。万まで行かずとも、それに近い人数から応援されているのだろう。
佐野は目頭をこらえた。高校の友人たちと仲良くやれているか不安だった。物静かでおばあちゃん子、自宅に友達を呼びたいと言ったことすら無い、そんな大人びていてちょっと内気な娘が。
<君の元気な顔が、未来、見たいと願う。犯人は許さない!>
<また俺のことを倒しに来て欲しい。約束だぞ>
<大好き、GARD。君の雄叫びが聞こえない夜が寂しい>
<今日もボランティアする。ドイツは救った、次は君の番だ>
「みずき、みずき! ああっ、見てるかい? 聞こえるかいっ!?」
佐野はこらえきれなくなり、しゃくりあげながら泣いた。
「こんなに沢山の人々がお前を待っているんだよ、みずき!」
震える手で画面を握った。視界がうるんで見えなくなる。佐野は顔を机へ突っ伏し、家族のいない家中に響き渡るほど大声で泣いた。
「ひぐっ、う、ううう! ううあああ!」
<嗚呼、ガルド様。もうちょっとですの>
日本語のメッセージが一つ混ざっている。
<もうちょっとで、愛しい貴女を阿国がお救い致しますの。みずき様、ああ、ガルド様。助ける? いいえ、お側に。どちらでも構いませんの。とにかくワタクシ、貴女のお側に参りますの>
佐野は、阿国が送ったラブレターを読まずに画面を閉じた。




