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32 反抗期

 雪うさぎ亭という名前の付けられていたあの店の、あの楽しかった瞬間を思い出す。柔らかなランタン風ライトの光と香ばしいグリルチキンの香り、そして初めて生の声を聞いた陽気な仲間たちの談笑を思い出す。嫌でも思い出してしまう記憶を塗り替えようと、みずきは必死だった。

 最寄駅から歩くこの道が、あのVR世界まで続けばいいのに。せめて気付かれることなく自室に戻れるといいのに。みずきはあれこれIFばかり考え、無駄に期待し、現実を思い出し落ち込んで、を繰り返していた。

 ここに上から楽しかった昨日今日のオフ会を厚塗りしていたのだが、歩く道が見慣れたものになるにつれ、母の顔が意識にダブった。みずきは不快なままズンズン歩く。

 スマホに何件も着信があったことには気付いていた。

 しかしまるきり無視をし、嫌なことを先送りにしていたことを今まさに激しく後悔しているところだった。みずきの悪い癖だ。女で十七だということを隠し続けたのも、母親の連絡を無視したのも、全てその逃避グセからだった。

「みずきさん」

 玄関をそっと開け、静かに靴を脱いでいる時に名前を呼ばれる。心臓がギクリとはねた。すぐに顔を上げると近くに母が立っていた。気配もなく、まるでそこに最初からある置物のように視界に入ってきた母の顔は、想像していたより柔らかかった。

「お帰りなさい」

 無言でいるみずきに向けて、母が呆れ顔でそう声をかける。いつもの見慣れたベージュのパンツスーツにエプロンをつけ、威圧的に両腕を組んでいた。夕食の準備をしていたらしい。

「言いたくないのだけれど、あなた、昨日はどこにいたの」

 静かに、普段よりもずっとゆっくり話す母親の声が耳にザワリと触る。みずきはシュミレーション通りのセリフを口にした。

「友達のとこ」

「そう。そちらの親御さんにきちんとご挨拶したの?」

「した」

 じとりとした目線、感情表現の乏しい口元、なぜかいつも腕を組んでいるその威圧的な姿勢。みずきは母の詰問時間が苦手だった。きつく問い詰めているつもりなど、母親本人にはないのかもしれない。それでもみずきは、いつも崖縁に追い詰められた犯人のような気持ちになる。

「反抗したい年頃なんでしょうけど、電話は出なさい。子どもだけで解決できることは少ないのだから、必ず私に行き先は言いなさい。事故があってからでは遅いのですよ」

「はい」

「……本当に友達の家だったのですか?」

「はい」

 怪しんだ母親がスンと鼻を鳴らしたのを聞き、みずきはまた一つ緊張して対峙した。確かにシャワーは浴びていないが、顔は洗った。一日程度でそこまで匂うだろうか、と心配しつつ、消臭スプレーを掛けてくればよかったと後悔した。

「どこなの。近くですか?」

「電車ですぐ」

「何駅?」

「保土ヶ谷」

「……」

 みずきが住む駅のすぐ隣の駅の名を咄嗟に出した。



 昨日一日シャワーも浴びず歩き回っていたので、みずきは帰宅早々身を洗うことにした。目の上のたんこぶだった母親の詰問が思ったより短かったことにホッとしつつ、次の課題を早速悩み始める。海外遠征の承諾を先ほどの母親へ頼むことに、大きな不安を抱いていた。

「はぁ」

 思わずため息が漏れる。ぐったりしながらニットワンピを勢いよく脱ぎ、脱衣所のカゴへ乱雑へ投げた。

 作戦が上手くいくとは思えない。

 みずきの肌を流れ落ちるシャワーの水流が、小綺麗に蓋のされた排水溝に滑り込んでいく。じっくり洗いたい派のみずきは風呂椅子を愛用しており、頭を下に下げて泡を流している。これも友人たちから言わせると「ジジ臭」く「立ちっぱなしの方が楽」らしい。

 石鹸を泡立てて全身を洗いながら、友人たちを利用した家族懐柔計画を練っていく。

 パターンを三つまで考え、忘れないうちにメモしようと慌ただしく早々に浴室から引き上げる。前ボタンの綿のパジャマを綺麗に着込み、アクリル毛糸の靴下を履き、その上でスリッパを履けば防寒対策は完了だ。

 友人から誕生日プレゼントでもらった化粧水をびたびた顔につけただけのスキンケアを終えると、髪をタオルドライもそこそこに濡らしたままダイニングに入って行く。

 テーブルのそばに置いておいたショルダーバッグから、あの酒場で充電をマックスにしてきたモノアイ型プレーヤーを取り出し装着した。ピタリ、とこめかみのコントローラとプレーヤーがくっつく感触。

「みずきさん、冷める前に食べてしまって」

 ダイニングとひと続きのリビングで、母がタブレットPCを操作しながらそう声をかけた。センサで認識するタイプの、レーザーライトの当たっているエリアでタイピング動作をすると文字が入力できる優れものだ。

「うん」

 相変わらずの仕事人間だな、と冷たく脇目で見てから食卓についた。

 母親の怠惰な姿を、みずきは見たことがない。いつでもパリッとした服を着込み、みずきが生まれた頃から仕事に生きていた人物だ。この手の親の割には教育に力をかけてもらったが、正月も誕生日もクリスマスも放って置かれていた。

 祖母が存命だった頃は良かった。みずきは無感動に夕食を口へ運んだ。

 食べながら、左目側にだけついている透過型液晶へ文字を表示させていく。手のタイピングよりも早い文字入力は、脳波感受型コントローラの特徴の一つだ。口で喋ろうとする電気信号をキャッチし、それを文字情報に起こす機能。誤字が多いのはご愛嬌だ。

 シャワー中に立てた作戦を、項目ごとに番号をふりながら羅列させてゆく。そして持ちうる時間を全て、作戦のメモと世界大会の対策に費やした。

居酒屋やゲームセンターなどをうろうろしていたため、帰宅したみずきからは少々タバコの香りがしていました。

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