310 わーんわーん、がらんどう、痛み
額のド真ん中から生暖かい液体が流れている。
鼻近くまで滴った辺りでやっとツンとした鉄分を感じ、頭の怪我は血が出やすいからたいしたことないだろうと、逆に冷静になった。荒く息を吸って吐く。
そもそも目を閉じた記憶など、八木にはなかった。が、目だけでなく身体全体がこわばりちぢこまっている。左足だけ通路側に弾き出ており、嫌な違和感がした。何かに備えるような姿勢に、飛行機で移動中だった八木は「もう既に衝撃は通り過ぎたのだろう」と直感する。
音は無い。静かだ。
いや、誰かの泣き声がする。重いまぶたをじんわり開けば、辺りはうす暗く、煙が目にしみた。涙がにじみ出る。痛みより息苦しさが不快だ。咳き込む。
「くっそ」
周囲がどうなっているか知る前に、慌てて隣を見た。後輩は無事だろうか。首をひねると身体の節々から痛みが急激に脳へ流れてくる。
「っつう!」
思わず苦悶し、そしてこめかみからの熱が焦りを生む。
頭に生やした角のようなデバイスは、熱くなりすぎると脳にダメージだ。ゆで卵は二度とナマモノへ戻らない。とにかくウェアラブルデバイスは適温が大事だ。
応急として内臓している小型ファンを起動させてから目を凝らすが、いるはずの隣席はがらんどうだった。
「みつ、はし? おい、三橋!」
シートベルトは外されている。衝撃を受けたときのままなのか、収納式テーブルの上にあったはずの紙コップは無くなっていた。スマホ型のデバイスも、ひざ掛けもアイマスクも全て床に落ちている。
そのほかにも、大量のものが落ちている。
誰のだかわからない様々な、紙やらバッグやら電子製品、皿など食器類とぐちゃぐちゃの食べ物、本やらゴミやら靴。まるで飛行機ごと引っくり返ったかのような散乱具合だ。
本当に引っくり返ったのだろう。飛行機は今、空を飛んでいない。揺れも感じず、飛行機特有のエンジン音は無く、あるのは小さなアラート音と激しい子どもの泣き声だ。
子どもが泣いている。男の子だろうか。
八木は痛む腕を使ってベルトを外し、周囲の座席を掴み、震える足を使って立ち上がった。
「う、」
声も出ない。天井から下がった酸素マスクが顔に当たり、視界は煙と砂埃が混ざって濁っている。働かない頭の片隅から一酸化炭素の文字が届き、八木は左手をマスクに伸ばして口に当てた。
途端に息がしやすくなる。
酸素が足りていなかったらしい。数回深く吸い、浅く吐く。
そして働くようになってきた頭が、過去に無い命の危機に混乱し始めた。霞む目を見開く。見えたのは、がらんどうになって誰も居なくなった座席だけだった。
「な、え?」
血もない。まるで既に避難が完了したかのような、人の名残だけが残る飛行機。そして遠くから、子どものつんざくような泣き声が聞こえ続けている。
煙があるということは、火の気配があるということだ。顔の血を拭い、スーツをずり上げ、腹の辺りの白い肌着を引っ張り出して思い切り引きちぎる。出来た布切れを額に押し当て、空いた片手で座席の背を抱きこむようにして身体を支えた。声の方角を探し、歩き始める。
赤ん坊だろうか。わんわんと泣き続ける一人の子ども。黄色い酸素マスク。後輩を含め、全ての乗客が消えた機内。残り香のような荷物がとっちらかった通路。煙。火の手がいつ上がるか。爆発の可能性。
そもそもここは空でなければどこなのか。八木は歯を食いしばって痛みに耐えつつ、窓際にへばりついた。足が痛み、窓のある壁面からずり落ちるように誰かの席に座る。
「土に、山?」
地面は畑のような土の面が広がり、遠くには緑の山が見えた。色合いからするとヨーロッパ的で、本来の目的地シェレメーチエヴォ国際空港とも合っている。不時着に何の不都合もない広大な農地だ。天候は暗くて見えにくいが雨や雷の気配はない。わんわんと子どもが泣いている。
「待ってろ、今、そっちに……」
八木は立ち上がり、機体前方へ進んだ。声は大きくなっている。人の気配は子ども一人分で、動いているのは自分と、たまに風か何かで揺れる派手な黄色の酸素マスクぐらいだ。
左足を見ないようにしていたが、八木は折れていると気付いていた。引きずり、体重をかけないよう腕の力も使いながら進む。血と脂汗が顔を濡らし、煙の濃い場所でマスクを使おうとするたび口元を拭うが、手も布も湿っていて意味が無い。
伝って頭からボタボタと落ちる。床を血で汚しながら進む。鼻先をかすめる焦げ臭さがぐんと強まり、八木は焦った。
「ゴホッ、どこだァ!?」
泣き声は変わらず聞こえる。尚強く、まだ生きている。八木はもう親が側にいるなどと思っておらず、自分が連れ出さないと赤子は死ぬだろうと思っていた。
だからこそ外へ繋がるドアを素通りする。ちらりと横目で見たドアは完全に開放されていた。強い風が吹き込んでくる。こじ開けられた様子はなく、脱出用シューターが開いた形跡もない。高い。ドア部分から床までそこそこ——飛び降りたら死ぬだろうというくらいには——距離があり、ドアそばの避難指示表示が英語なのを確認して八木は後回しにした。
通り過ぎた先の座席群も、その全てが空っぽだった。子どもの泣き声がひときわ大きく聞こえる。とうとう痛すぎて動かなくなった左足を引きずりながら進むと、中央側の座席のど真ん中にうごめく白い布が見えた。
「あ!」
赤子だ。まだ首もすわらないような、赤い顔をした乳飲み子が泣いている。オーガニックらしい生成り白のおくるみにくるまれているが、布に吸われた微量の赤が八木の血の気をざっと引かせた。
怪我をしているかもしれない。痛みも忘れ、額を押さえていた布も放り出し、両手でそっと抱える。火の付いたような泣き方から少し弱まり、ふにゃふにゃという声へ変わった。
「おし、よぉし。ゲホ、いいこだ……」
優しく守るように抱えて歩き出そうとする。そのとき、おくるみからぼろぼろと零れ落ちる黒いカケラのようなものに気付き、八木は指で一つ摘んだ。
「コイツ、まさか!」
黒いカケラは、粘質を失い崩れ落ちる。だが触った瞬間は柔らかく、指にべったりとひたついてきた。ネンドのようなものが燃やされ炭になったような質感。
そして証拠にならないほど細やかな粒子状に崩れて、風に吹かれて飛んでいく。
「——クソがァッ! っのやろ、クソ、クソォっ!」
悔しさではちきれそうだった。
出してしまった大声に赤子が泣き声を強め、そうさせた犯人への憎しみもぶり返し、八木はとうとう涙が溢れてきた。
何人だろうか。一体何人の乗客が連れて行かれたのだろうか。
自分のように怪我をしたままかもしれない。骨が折れていても、内臓が引っくり返っていても、失血死しかねない重症であっても。脳波コンを持っている人間は自力で、それ以外の人間は操作された人々に引きずられるように。
想像するだけで暴れだしたくなる。八木は歯を食いしばり歩き続けた。
腕の中の幼すぎて運べなかっただろう子供と、恐らくウェアラブルデバイスの形状に対応出来なかったからだろう八木だけが残った。全く無事に着陸し、ドアから別のドアへ移り、そのままいずこかへ移されたのだろう。
成田空港での被害者たちを追っている八木だからこそ、犯人の手口を知っていた。
知っていたというのに!
「み、つはし……!」
犯人は追っている自分たちから逃げるどころか、こちらの後輩に食いついた。鋭利なギザ歯で食いちぎるように、だ。
無感情で理屈的だと分析していた犯人のスケールを見直さなければならない。八木自身はそういった犯罪心理分析など出来ないが、日電の一角に心理部門がある。そちらに分析の見直しを——
腕の中で子どもが強くわーんと泣く。八木ははっとして歩くスピードを速めた。
腕の子どもに血がつかないよう顔をぐっと前にせり出したまま、煙から守るように胸へ抱き込んだ。ドアの前に辿り着き、英語の説明書きを流し読みしてレバーを引く。
飛び出て膨らんだ脱出シューターがそこそこ膨らんだとき、背後がにわかに熱くなった。
「う、うわああぁっ!」
振り返らず飛び出す。
滑り台のようになるのを待っている暇は無い。トランポリンでも飛び込み着水用プールでもかまわないから、とにかく死ななければなんでもいい。地面でさえなければいい。
なりふりかまわず八木は跳んだ。
つんざく爆音と熱が包み、視界が真っ赤に染まる。
子どもの泣き声が遠くに聞こえた。
「ねぇ、ニュースみた?」
「速報で通知来てたよー。テロだって? 怖いね」
「日本人二人も巻き込まれて、一人安否不明だって。やばいよね」
「飛行機とか乗るの怖くなっちゃうじゃん。やだぁ」
「みやのん、海外行く予定あるの?」
「え? ないない。受験生にそんな余裕あるわけない」
「だよねぇ」
「さくちんは?」
「同じく。あーあ、みずが羨ましい~」
「ワイハー」
「ハワイね」
「シェイブアイスにロコモコ、マラサダ、ガーリックシュリンプ~」
「おなか減ったね。お昼にしよ」
「どうせ私たちはコンビニ飯ですよーだ。今日も今日とて美味しい美味しい菓子パン祭り」
「新作のココナッツピーカンナッツクロックムッシュ食べた?」
「ちょっとそれ味の想像つかないんだけど」
教室でそんな会話があり。
政府が対応を始め、現地の大使館へたくさんの人が出入りし。
病院へ被害者の上司が駆けつけ、やがて日本国内のニュースが報道を縮小しはじめたころ。
八木はやっと、目を覚ました。
「うう、ううう」
「痛むか、八木」
「……ぼ……ぼす?」
「無理にノドを使うな。つなげさせてもらうぞ」
ビニールの向こう側に見える光は弱く、薄暗い。それでも目を開けたばかりの八木には真昼の太陽のようにさえ見え、その中で逆光になっているボス・九郎の表情など全く読めなかった。
ケーブルを握った彼が顔めがけて近づいてきてやっと、彼がげっそりと疲れきっていることに気付く。
「やすみ……」
「お前のソレは労災扱いだ、心配するな」
違う、アンタの身体の方を心配している。そう思えば言葉通りの<文字>となり、コードを接続されたこめかみのウェアラブルデバイスから八木の外へと出力された。
コードで繋いだ先の小型ディスプレイで意図を読んだ九郎は、ため息で「それどころではない」と答える。
「お前が無事でよかった」
本心からだろう。まだピントの合わない目をしょぼつかせながら、八木は働かない頭でぼんやり思った。そういえばついこの間も、頭が働かない中、必死に頑張ったような記憶がある。
そこまで思い出し、腕を見た。腕の中の子ども。強烈な焦げのにおいと目にしみる煙、誰も居ない機内を思う。文字にしきれない単語が一気に画面へ出力される。
それを読んだボス・九郎は、一つ一つ順番に説明を始めた。
「子どもの両親は不明のままだ。今はロシア現地の病院預かりだが、近いうち親族へ保護義務が移る。怪我は無い。無傷だぞ。お前が守ったんだ」
安堵する間もなく三橋のことが心配になる。
子どものおくるみに黒ネンドは残っていただろうか。あの惨事が奴らの仕業だという物的証拠になる大事なもので、しかし既に形が崩れ始めていた。残っているだろうか。
「……証拠はなにも出なかった。だから脳波感受型デバイスによる犯行だとはされていない。このテロは『人身売買を目的とした組織犯罪、もしくは国家間の感情による軋轢。宗教の可能性もある』と言われている。足を怪我していたお前と、労働力になりえない乳飲み子だけが残された。移動できる人間であれば九十近い老人であっても有用らしい」
八木はほとんど開いていなかった目を数回瞬きさせ、とうとう閉じた。聞きたいことも報告事項も山ほどあるが、八木はとにかく起床直後でも疲れていた。
「身体だけではない。脳が疲れているんだろう。お前のデバイスには重要な状況データが詰まっていた。昏倒していた間も、無意識に解析の仕事をしていたようだな。お前が見た機内の様子が画像状に変換されていたぞ? 助かった。礼を言う。意識の無いお前には申し訳ないが、急を要した。抜き取らせてもらったからな」
八木は感情が抜け落ちたまま、ぼんやりと「ヤバい画像フォルダ見られてねぇだろぉなァ」などと思った。
「解析は私がした。信用しろ」
出来ない。全く出来ない。
「三橋のことなら大丈夫だ。無事、アチラに閉じ込められた」
「ぶ、じじゃ、ねェよォ、それ……っぐぅ」
思わず声が出た。ひりつくノドの痛みを覚え、手でかばおうとし、その腕もひりひりして悶絶する。
「おい、だいぶ良くなったがヤケドしているんだぞ。あとそれ骨折。無理をするな。三橋から田岡に働きかけがあった。かなり分かりやすい物言いをしはじめたぞ……あきらめの悪さは佐野直伝だな」
八木は枕に乗せられた自分の頭と、ついているウェアラブルデバイスを感じ取った。三橋に申し訳ない。すまねぇな、ごめんな、ごめんな。八木は言葉にならない懺悔と謝罪を思った。
三橋が連れて行かれたのは、偶然ではない。狙っていたのだ、恐らく自分も含んで。そして、もしかしたらと前提がつくが、犯人たちは八木ら「追っ手」の乗る便の特定こそ出来ても、誰が追っ手か分かっていなかったのかもしれない。全員居なくなった理由にはなるだろう。
自分を捨て置いたが、その上で飛行機を爆発させる意味にも繋がる。上手く取り入れられないのであれば殺す。理にかなっている。
しかしお陰で田岡がネットワークのハブになる手助けになったとは、思ってもいないことだろう。
「悪いニュースは、少し休んでからにするか」
優しい声色に、八木は耐え切れず意識をほどく。
「おやすみ」
おやすみなさい、ボス。アンタも少し休んだらどぉで?
「今やらず、いつやるというのだ?」
ため息をつくのも忘れ、八木はどっぷりと眠った。




