293 チヨ子とサキ子とすずと
つくば、研究特区に程近いワンルーム。汚部屋と呼ぶ一歩手前の汚さだが、女性の部屋だ。顔の似た女性が二人、リラックスした様子でくつろいでいる。
横浜の高校に通う女子高生・林本チヨ子には、つくばの研究特区で働いている姉がいた。
「ねぇね、忙しいところゴメンね」
「チヨ……それは別にいいんだけど、突然どうしたの?」
「ちょっと興味あって」
友人が白馬の王子さまを見つけた方法に、チヨ子も運命を賭けてみたくなった。ただそれだけの動機で着けるにはリスクの大きなアイテムを、チヨ子は姉に頼みこんでいる。
「フルダイブに?」
「うん」
「興味ねぇ。悪いけど私、専門外よ?」
「え、そうなの?」
「もう、話したじゃない。次世代コミュニケーションツールのシステム開発してるんだってば」
「そのツールって、フルダイブのゲームとは違うの?」
「全く違う。別の畑。じゃがいもとサヤインゲンくらい違う」
「えー?」
つくばで一人暮らしをしている姉の元へ、チヨ子は「勉強教えてもらいに行く」と嘘をついて遊びにきていた。学習の理解よりも評定や欠席日数を気にしているチヨ子にとって、塾よりよっぽど良い教師が実の姉だ。だが今回は勉強道具を開きもせず、おねだりを始めている。
「受験生でしょう? 勉強優先!」
「推薦だもん」
姉の家は相変わらず酒飲みの巣窟といった塩梅で、チヨ子はテキパキと洗濯物を拾い上げながら姉を振り返った。
酒瓶と洗濯物が交互に現れる床は、いつ掃除機をかけたのか分からないほど散らかっている。家族と暮らしていた頃から片付けが苦手だった姉を、チヨ子以外の家族は「どうせ治らないなら放っておけ」と清掃を手伝ったりはしなかった。チヨ子だけが姉の住環境を心配している。以前来て大掃除した時から比較すれば、汚くなるスピードは緩やかになっている。
「それよりチヨ、お金どうするつもりなの」
今洗ったらしいマグカップにティーパックの紅茶を注いで持ってきた姉が、チヨ子に厳しい目線を向けた。
姉の機嫌を取ろうと考えていたセリフをチヨ子は必死に思い出そうとする。なんだったか。姉を頼る健気な妹を演じる作戦だったが、言葉が全く浮かばない。
「えーっとね、あはは。その、ねぇねなら中古持ってるかなーって」
チヨ子は適当にはぐらかした。
「虫の良い事言うんだから。ハードならあるけど。でも、脳波コンだけでも結構するのよ?」
「のうはこ? なにそれ」
「そこから!? はぁ……」
「ため息つくのやめてよー! ググっても出なかったんだってば」
「でしょうね」
姉がこめかみにコードをあてがう。そうそう、それがしたいの。そう言おうとしたチヨ子は、姉が遠い目でブツブツ呟き始めたのを聞き、目を丸くして洗濯物を胸に抱き込んだ。
「丁度いいから食事でも、妹がね、窓口に繋いでくれるだけで……」
会話にしてはスピーディすぎる独り言が怖い。
「ね、ねぇね? どしたの、急に」
姉はしばらく呟き続け、そしてコードを外してチヨ子に振り返った。少し微笑んでいる。
「良かったね、明日入れてもらえるらしいわ」
「え、何? 今のでどことどう連絡してたの?」
「これが脳波コンの仕組み。早いでしょう」
「会話できてるようには思えなかったけど、出来てたの?」
「そ。呟くのは私のクセ」
「ねぇね、昔は独り言激しかったよね。最近は治ったんだと思ってた」
「独り言って直そうとして直るもんじゃないの。だから口から出すのをやめただけ」
「なにそれ、じゃあずっと喋ってたの?」
「ココからデータとして、ね」
そう言って、姉はこめかみをトントンと叩いて見せた。
みずきがその仕草をするのは、チヨ子にも見覚えがあった。ただ彼女は手のひらを広げたままで、姉のそれは人差し指だけで叩いている。フルダイブの出来る人間特有の行為だろうが、その知識がなければ「お前は馬鹿か/アタマ大丈夫?」と言われているかのようなジェスチャだった。
チヨ子は姉へ、ほんの少し苛立ちを覚えた。みずきには感じなかったのだが。
「あっそ」
「それよりお金だけど、早めの合格祝いってことにしたげるから」
「やった!」
まだ床の見えていない、くしゃくしゃの服が積まれた山に姉が腰を下ろす。空になった酒瓶がずらりと並ぶテーブルの端に紅茶を置き、姉はあれこれと難しい説明を始めた。
「忙しいところごめんね、すず」
「いいのいいの。私も嬉しいから」
翌日。姉に連れられやってきたのは、つくばの駅にほど近い巨大な医療施設だった。看板はれっきとした病院と書かれているが、その一角の、まるで役所のような事務が奥に見える窓口前に案内される。待合の椅子には女性が一人、室内だというのにハンチング帽を被って座っていた。
「こちらが妹さん? ふふ、似てる」
「よ、よろしくお願いします……」
「チヨ、こちら中島すずさん。脳波コンはね、基本的に紹介状制なの。私は出せないし、今から正規のルート踏むと別料金かかっちゃうから」
「え、そうなの? じゃあすずさんって……」
「脳波感受型送受信機器研究員です。組み込みシステムの開発が主なの」
「な、長い……」
「にはは! まぁ専門家ってとこね。すずにはちょっとした別ルートがあるのよ」
「医療人じゃなくても手術に立ち会える資格っていうのがあるのね。研修受けたりすると貰えるの。それを担当する先生の助手だから……そういうの、別ルートって呼ぶの?」
帽子を脱いで肩掛けのカバンへしまい、すず先生が笑った。化粧っ気の薄い一重まぶたで笑う彼女は日本人的な美しさがあり、派手な友人の多いチヨ子にとっては新鮮だった。
「虎の威を借る狐とも言う」
「もう、サキ子だって私が斡旋したのに」
「持つべきものは友達ね」
「調子いいんだから」
そう言って笑い合う二人に、チヨ子は空気を読み気配を消しつつホッと安堵した。人付き合いが下手な姉が他人と仲良く出来ているのは驚きで、たった一人でも、仲の良い同性の友人がいるのは大層めでたかった。
「最近どう? 白亜教授のとこに移ってもうすぐ一年経つんじゃない?」
「順調だけど、ちょっと不穏な雰囲気がしてて」
「不穏? なになに、事件?」
「サキ子が考えてるようなのじゃないだろうけど。教授に持ち込まれた捜査依頼で調べてるんだけど、ハッキングがあってね。小さな鍵穴をこじ開けるような技術が犯罪に使われたらしいの」
「やだ、不穏な事件だった」
「そうね。あなたの好きな金銭面の事件じゃないわ」
姉がすず先生と話す内容を聞きながら、受付を済ませたチヨ子は術用応接室へ入っていく。付き添いで直前まで一緒に入ってくれる二人の存在は心強く、日帰りとはいえ脳近くをいじる手術を受けるチヨ子の緊張をほぐしてくれた。
「ハッキングって? 危ないの?」
「大丈夫よ、チヨちゃん。もう対策パッチは完成したから」
「ぱっち……よくわからないけど、大丈夫なんだ」
「パッチで対応できる程度なの?」
「ええ、サキ子のにもそのうち来るわ。仕組みそのものは単純だったの。脳波コンの管理者権限で入れるエリアをね、いつもは鍵がかかってるんだけど、その鍵を開ける……ただそれだけの目的を持った金属片が出回ったわけ」
「それだけじゃ別にハッキングなんて出来ないでしょ? 脳波コンは確かに変換機能があるけど、受け取る側の生身は外部電源が無いとデータの送受信なんて出来ないじゃない」
「ここだけの話ね。電磁共鳴の無線送電とアナクロなビット程度の命令でも、外部の情報をカットしたり、操作系を別プログラム優先に切り替えたり出来るの」
「や、やばない?」
「やばいわよ。だから急いでパッチ外注したのよ。金属片は脳波コン用間接接触アダプタと同じ素材が混ざってたから、物理をふるいにかけるとそっちまで使えなくなるし……取り敢えず管理者権限の鍵をアダプタ経由じゃ触れないようにして、身元の綺麗な管理者にはそのパッチを解除する方法がIDと連動されて渡される手はずになってるけど」
「手早い! 異様なぐらい早いんじゃない?」
「そうね、早いと思う。今まで解析依頼のあったどの案件よりスピーディね。まるで国レベルで何か動いてるような感じで。どんな事件なんだろ……調査を担当してる人に直接会ったんだけど、思ったより若い人だったわ。腕は確かだと思うけど、なんか心配」
「警察が動かない時点で次点よ。あ、公安案件? 裏で暗躍? ふふふ、それは美味しいわ!」
「サキ子の好きそうなニオイしてきた?」
「まだ香る程度ね。もっとダークサイドな気配を咽び浴びたい」
「相変わらずね、サキ子」
姉の恥ずかしい一面がさらけ出されているのを、チヨ子は顔を真っ赤にしながら傍観した。
「チヨ」
姉の声が耳元で二重に聴こえ、チヨ子は目を瞬く。
ぼやける視界と、座っていた椅子の首元が電動でせり上がる感覚に現在地を思い出した。鼻で息をすると独特な病院らしい香りがする。薬品のような嗅ぎ慣れない、スースーとしていてどこか懐かしい匂いだ。
手術はハイバックな車椅子型の装置に載せられたまま行われ、カーテンで仕切られた休憩室に車椅子のまま連れられ、数時間で目覚める簡単なものだった。
「おわった?」
「ええ」
「早い」
「着いてもう10時間よ。寝すぎ」
「えっ」
チヨ子は時計を探そうと首を動かし、姉が触るこめかみなど気にも止めなかった。視界の中に求めたものはアナログもデジタルも見当たらず、ペタペタと顔の横を触る姉へ「夜中なの?」と聞く。
「ほら、自分で時計感じてごらん」
「え? なに?」
姉が指で触れてくる部分に、チヨ子は強い違和感を感じた。こめかみに何かが付いている。クラスメイトがつけていたものと似た磁石付きコードだ。
気付くと不思議と、瞬きをする瞳には見えないどこかで、チヨ子の意識が時計だと感じる何かが脳裏を掠めた。
「……八時?」
「わぁ、やっぱり若いと早いのね」
「もう時計読めるなんて、アンタ才能あるわよ」
「これが? これがコントローラ?」
「そう。楽しい?」
「思ったより……スゴイものじゃなかった」
チヨ子は少しだけがっかりしていた。
世界が見違えるかと思っていたのは過剰な期待だったらしい。ぼんやりとしていて焦点の合わない世界だ。ショボいなぁ、と笑う。
「ま、これで彼氏も作れるし、ミルキィちゃんと深く繋がれるし」
「チヨちゃんの動機、なんというか……」
施術に立ち会ってくれたすず先生が、何か面白いものを聞いたような声で笑う。変だろうか、と姉の顔を見る。薄情にも姉は呆れ顔でため息をついた。
「ハァ~、もう、何それぇ。勉強とか研究とか、もっと有意義なことに使えないの?」
「そんなに変? だってぇ、友達なんかさぁ、彼氏のためだけに中三で入れたんだよ?」
「……え?」
聞いた話をそのまま口にする。
ミルキィちゃんのメンテナンスをしてくれた彼女のことで、チヨ子は「あんな風になりたい」と思ったからこそココに来た。姉にはその本当の理由を言わなかったが、おおよそ彼氏とぬいぐるみのためで合っていた。
「……チヨちゃん、その子に脳波コンのこととか相談した?」
「へ? え、えっと」
すず先生が急に真面目な顔で近付いてくる。
座ったままの術用車椅子についているハンドルを握り、顔をずいと近付けて二度目の質問をした。
「その子は反対しなかった? 『私は入れてよかった』とか、勧めるようなこと言ってた?」
「あー、聞きたかったんですけど、今その子、海外行ってて音信不通で……」
「えっ!?」
「なになに、怪しい香り!」
「うっさい、そんなんじゃないもん。いいからねぇねは黙ってて」
「だって海外で音信不通ってさぁ、明らかに何かあるよね! 今ドキSNSも? 何も連絡つかないの?」
「SNSくらいしてるよ、生存確認くらいなら出来てるもん。けどなんかその……違和感があって。音信不通っていうか、高校丸ごと無視してるっていうか」
「……ま、待って。あれ、えーっと」
すず先生の様子が急におかしくなっているのに、チヨ子と姉はようやく気付いた。姉に目配せしてチヨ子は口を閉じる。
「どうしたの、すず」
「ほんとはマナモですらダメなエリアなんだけど、ちょっと緊急だからいいわよね」
よく見ればすず先生は、最初に見た鹿狩り帽子を被っていた。耳あてから垂れている紐もよく見ればコードで、その先はポシェットに繋がっている。スマホに繋げてネットを見ているらしい。
チヨ子は姉に「水」とだけ注文し、先生の次の言葉を待った。
「……え、でも……ううん、私そんなに『みずき』のこと、SNSまでは知らないけど、でも……」
「み、ずき? え、それ、佐野? 佐野みずき?」
チヨ子は思わず立ち上がろうとし、足に力が入らず腰をストンと椅子へ落とした。
知っている名が思ってもないところから顔を出し、チヨ子は一気に、ぼんやりとしていた頭が覚醒する。
すず先生は混乱しているようだった。
「え、ええ! 中学三年生で感受入れた子なんて、どう考えてもあの子くらいなの。日本の最年少よ」
「高校生はよくいるけど、確かに初施術が中三なんて初耳かも。スゴイ友達じゃない、チヨ」
ニヤニヤしながら紙コップを持ってきた姉に、チヨ子は目をキッと釣り上げて見せた。すず先生はそれどころではない様子で、一重の細い目がせわしなく何かを追って動いている。
「でもおばさま、音信不通だなんて一言も……」
「あー、みずンチのおばさん? 最近帰ってきてないっぽいって」
「ええ、だって私の部屋でこの間まで連泊し……嘘ついてる? でも確かに突然だし、様子も変だし……まさか、まさか!」
勢い良く、すず先生がドアをこじ開けるようにして廊下へ飛び出した。
術後のため椅子に座って安静にしているチヨ子と、両手に握った紙コップへ水をなみなみと汲んで来た姉サキ子は、走り出したすず先生を見送ることしか出来なかった。




