285 カレー風味
「散々だ」
榎本はボート型ソリの中でぐったりとしている。狭そうに膝を曲げて収まっている様子を見たマグナが、気を利かせて水を渡した。
消費物に入るため大盤振る舞いはしないが、体調不良の場合は別だ。ガルドも同情してアイテム袋から秘蔵のものを取り出す。
「ん」
アイテム欄を一つ埋めるほどの価値があると判断し、仲間の生暖かい目線を耐えながらオレンジを持ってきていた。一つも複数個も変わらないため、最大数の九十九個を詰めてきている。
無言で大きなオレンジを一つ受け取った榎本は、皮ごとかじった。疲れた中年の表情でゆっくり咀嚼し、飲み込んだ後に「うまいな」と礼がわりの感想を言う。ガルドは満足げに頷いた。持ってきてよかった、と自分でも一つかじる。
「そろそろ泉だな。どうする、大回りで避けてもいいんだが」
「いや、まっすぐだ」
「榎本がこんなんだが、それでもか?」
「逆にその方がありがたいぜ。っしゃ、キバっていくぞ!」
榎本が力強く叫ぶのを聞き、マグナは呆れてため息をついた。
止める様子はないが、参謀としてはなるべく避けられるものに突っ込んで行きたくないのだろう。ガルドは逆に乗り込みたくてウズウズしている。
泉の手前には林が広がっており、針葉樹林の合間からリスの姿をした中型のモンスターが現れるようになっていた。時間による定期POPだが、エリアが限られているため、大きく逸れるようにして遠回りをすると鉢合わせしない。
「早く着く」
「それはそうだが……それほど時間のロスは無いぞ。歩きなら大きいが、こいつのおかげでな」
道中に捕まえた四足歩行のイノシシをアゴでさし、マグナは自慢げに頷いた。
「時速の計算は出来ていないが、およそディディー・エーの二倍で進んでいる。いい研究テーマだ。混乱状態での移動速度は一定じゃない、というわけだな」
「殺すけどな、あと数分で」
「次は無論ルビースクオロルだろう? そっちのデータも欲しいからな。良しとしよう」
「それ、捕まえろってことか? 難易度上がるな」
「厳しいか?」
「……いや」
榎本とガルドは揃って笑う。
「キツい方が燃えるな」
「ああ」
「っし!」
普段より体調の面で厳しそうな榎本が、笑みから一転して余裕のない真剣な表情になった。ガルドは不安だったが、先ほど本人が言う通り戦闘の方が良いのかもしれない。
相棒には楽しませよう、とガルドは心を決める。面倒なHP調整役、そして状態異常のチェックを引き受けると申し出た。
「どうだ」
「おう、スカッとするな。タイムトライアルも好きだけど、こう、条件が複雑でも焦りのない討伐の方がやりやすいわ」
ソリをひくモンスターが、イノシシからリスへ交代された。
ルビースクオロルという名前の通り、ピンクに近い赤で全身が染まっている。スピードはイノシシより遅いが、この先のコースではその方が利便性がよかった。ガルドはソリ前方を見る。ブロンドの長い髪が美しく風を受けていた。
林の中をグネグネと曲がりながら走るため、マグナが必死にソリの正面窓からロープに手を伸ばしている。右を引っ張り、すかさず左を引いて調整し、見事なコーナリングでソリの中は遠心力に振り回された。
だが高低差が無いため榎本の体調は回復し、顔色がよくなり笑顔が増えている。
「ならいい」
「いやぁ、この歳でジェットコースターが苦手とか恥ずかしいっつーか……治したいのは山々なんだがな」
天井から上半身を飛び出させたまま、榎本がツーブロックの刈り上げ後頭部をわしゃりと掻いた。ガルドはソリの外側、後方につけたロープに両手で掴まり立ち乗りをしている。足は床からはみ出た盾の一部分に乗せており、まるで自転車の二人乗りをするかのように、曲がりきれなくなった際のバランサーを担っていた。
「大人でも苦手なこと、あるのか」
「お、久々にガルドが高校生に見えるな」
「将来のイメージが湧く。いい参考になる」
「俺らが?」
「ん。ジャスは勉強がからっきしで、マグナは食事に好き嫌いが多い。メロは沈黙が苦手。夜叉彦は……上司が苦手だ」
「夜叉彦のは、転職か部署替えすりゃ無くなるだろ。それか下克上とかな。つーかあいつ、そういや苦手分野無くないか!? ムカつくぐらい器用じゃねぇか」
「いや、酒は強くない」
「こっちじゃ関係ないだろ、それ。上司も然り。無敵だな、くそ」
「……言わないのか」
ガルドは思い切って聞いた。
「ん? お前の苦手分野か? 英語のスピーキングも、この場所じゃあ無意味だろ」
「いや、英語圏のプレイヤーがいるかもしれない」
「あー、なるほどな! よし、勉強時間にするか」
突然榎本がやる気を見せ、何か文章を探すようなジェスチャーを始めた。ガルドには見えないポップアップディスプレイを榎本が勢いよくめくる。慌ててガルドが止めるニュアンスで口を開いた。
「え、あ、いや、あとでいい……」
「いいから任せとけよ。実はな、金井に書いてもらったんだ。教材」
榎本はそういうと指を滑らせ、メッセージの未送信画面を表示させる。ガルドから見えるよう可視表示に切り替え、中身を回転させ突き出した。
「これは?」
「何って、教材」
書いてある英文は、単純な単語が短く並んだ子どもだましなものだった。内容も薄く、ガルドにとっては絵本のように思えるほど簡易的だ。
「早口言葉だ。これで発音を訓練する! 俺はコーチな」
「はや、くち……」
ガルドは恐怖に震えた。
「こういうの苦手だろ、お前」
「ぐ」
「へっ、ほらみろ。大体な、スピーキングが苦手ってのはつまり、日本人的にRとLの発音の差とか、イントネーションあたりが苦手ってことだ。それを克服しないとどうにもなんないからな」
榎本が自信げにレクチャーし始めた。自分が受けたのだという英会話講師の言葉を、受け売りだと白状しながら喋る。その一方でマグナが必死に木を避け、巧みに運転していた。ガルドはその両方が気になって仕方がない。
「ま、慣れってのもあるさ。なんだかんだ、俺は仕事でたまに使うからな」
「……そんなにハイレベルな仕事だったのか」
「疑ってんのか?」
「いや、予想外だった」
「お前が想像してた俺の仕事、どんだけイージーなんだよ。喋るぐらいするって。書類なら機械翻訳でどうにでもなるけどな、面と向かってなら補助ガジェット使わないで会話出来た方がいいに決まってんだろ。通話でもタイムラグはない方がストレスないしな」
通話のタイムラグ、と言うのがガルドにはピンとこなかった。システムとして、補助ガジェットというものが「ネット通話に機械翻訳機能を持たせバイリンガルに対話できるようにしたもの」だとは知っている。使う機会もなかったが、榎本が言うには翻訳にタイムラグが生じるらしい。
「そういうものか」
「ましてや向こうに飛び込んでいくんだろ、メインユースが英語になるぞ。言い淀む回数は少ない方がいい。文法知ってりゃ分かるだろ。あっちは順番が日本のそれと違う」
進路のことまで絡めて言った榎本の説明は、どれも真っ当で正論だった。ガルドはふむ、と頷く。
「動詞が早い」
「そこだ。日本語とは考え方そのものが変わってくる。俺らはどんなに勉強してもネイティブにはなれないからな」
「不都合がない程度に話せればいい」
「上等。まずはそのカッタい苦手意識を払拭だな!」
笑いながらガルドにずいと画面を見せてくる榎本に、ガルドはとうとう断れなかった。
「She sells……」
言われる通りに英語を口に出すが、ソリが右へ大きく曲がり、踏ん張ることに気が行き言葉が止まる。
「……sea、shells」
Sばかり続く発音にどん詰まりながら、ガルドは「貝」まで言葉にした。
「言いたくないが、全部同じ『し』に聞こえるぞ」
割り込んできた榎本を睨む。
「by the sea shore」
有名な早口言葉らしいが、初めて見た言葉にガルドは苦労した。榎本の言う通り、一つ一つのSを意識しなければ全てカタカナ英語になってしまう。ガルド自身は普段より上手く言えたと思っていたが、客観的な耳はそう聞こえなかったらしい。口を押さえる榎本を見つけ、ガルドは自身のレベルを悟った。
「……くっ」
苦々しく顔を背ける。
「アッハハ! や、悪りぃ、っはは、いやぁ予想以上」
謝りながら笑い続ける榎本に、ガルドは機嫌が急降下した。これだから嫌だったのだ、と眉間にワザとしわを寄せる。
「怖い顔すんなよ~」
「別に」
「あれだな、テクニックなんかよりまず発音記号からだな」
「……記号?」
「え、あ、まじ?」
「ん?」
ガルドは謎の単語に驚き、榎本はその反応に驚いた。
英語のレクチャーが進む中、突然開けた木の中に花畑が現れた。
雪がしんしんと静かに積もっているが、辺りの林に比べればよっぽど野営に適した、平坦な場所だった。弓矢でマグナがリスを消滅させ、花畑を慣性で滑り進む。そのまま中央にある泉まで横付けし、ガルドは足だけ降りてソリのブレーキをかけた。
「やっと着いたか」
「お疲れ、マグナ」
「だな。マグナ、サンキューな」
「お前たち……明日は変わってくれ」
ガルドとしては、運転で車中の早口言葉から逃げられるのであれば喜ばしかった。二つ返事で答える。ソリに積んでいた寝袋を取り出し、花畑の上へどさりと投げた。
「マグナはハンモックだろ?」
「そうだ。台も作って持ってきている。木が無くても問題ない」
「お、用意周到だな」
二人もソリから出した道具を取り出し、ガルドが置いた場所の近くに設置していく。マグナは棒のようなものをまとめた資材を取り出し、あっという間に三脚を二つ組み立てている。その間に枯葉色の編みものを渡し、試しに寝転んだ。
「よし」
満足そうに頷く。
「こだわるよなぁ。ハンモックなんてよ」
「キャンプだと思えば楽しいだろう? 焚き火は必要ないが、本音は全て一式欲しいところだ」
「あれって見た目だけでロマンだよな」
「だが他のゲーム由来でなければ厳しいだろう。『炎を設置』し『長時間継続』させるとなると、かなり難易度が高い。アイテムを探せば、炎に近い何かを『設置』ぐらいありそうだが」
さらにソリから風呂敷を取り出しつつ、マグナが続ける。
「もって数分だろうな。ギルドホーム以外に持ち運べるアイテム形式では、食料でも罠でも長時間放置すると消える。炎でもそうだろう。で、消費アイテムだろうから……目減りしていくわけだ。正直そんなもので圧迫するほど、アイテム欄もソリもでかくないぞ」
取り出した風呂敷を広げ、花畑に腰を降ろした。さながらピクニックだが、夜の泉と降り続ける雪のせいでサバイバルのようにも見えた。ガルドは風呂敷を中心点にした円周上に距離を若干開けて座り、アイテム欄からオレンジを三つ取り出して風呂敷の脇に置く。
「やっぱ難しいかー。なかなか憧れるけどな、ああいうの」
「わかる」
ガルドは頷きながら、風呂敷に包まれていた大量の菓子パンを見つめた。何にしようかとしばらく悩む。
「お前たちのそのロマンを追い求めるところ、嫌いじゃないがな」
「メロ辺りも言いそうだろ?」
「そうだな。夜叉彦は余裕がない限り甘んじるだろうが」
「ジャスは見た目より味だよな。花より団子」
そういって榎本が空いたスペースにどかっと座った。ちょうど風呂敷を挟んだトライアングルの形に落ち着く。ガルドはやっと、カレーパンを選び掴んで頬張った。カリッとした表面の香ばしさに続き、少しピリ辛な日本のカレーフィリングが駆け寄ってくる。その味にガルドは思わず声をあげる。
「うま」
カレーパンが特別好きという訳ではないが、思わず口をついて出るほど美味しかった。
「カレーか、いいな」
榎本も同じくカレーパンを掴み、一口かじり、同じように「うまっ」と声をあげた。
「やっぱカレーってこれだよな! 茶色でとろっとしてて、旨味の塊みたいな味!」
「同感だな。いや、本場のカレーを下げている訳ではないんだが、幼い頃からこれを食べてきた俺たちには、やはりシャバシャバなカレーは違和感があるんだろう」
三人揃ってカレーパンを食べ、ウンウンと頷く。ガルドはいつもより大きく口を開けながら、青椿亭で食べていたインドカレーを思い出す。あれも悪くない。だが、このスパイシーで魅力的な味わいとは別物だ。
ガブリと食らいつく。脳波を通して流れ込んでくるカレーパンの味に、雪空の下で舌鼓をうった。




