277 若き決意
林本は首をひねっていた。
もうそろそろ夏らしくなってくるだろう、と夏物の新作を買いに来たみなとみらいのショッピングモールで、女子高生三人組は美味しいパンケーキのお店に並んでいた。その暇な時間を潰す話題に、他の女子二人は親友の話題を持ち出す。
佐野みずき。
林本にとっては、愛するテディベアの「ミルキィちゃん」をメンテナンスしてくれた恩人だ。親友と言えるほどすごく仲が良いというわけではないが、聞きかじった現在の状態を心配するくらいには友達だと自負している。
しかし林本には、二人の話が突拍子もなく聞こえた。
「結婚、ねぇ」
「そう! ねぇ、デジタルサイネージでよく見るハワイ挙式、みずもするのかなぁ」
「広い海、白い砂浜、南国の音楽……そこに彼がお姫様だっこして入場! どう?」
「やだー、陳腐」
「じゃあどうすんの」
「あれは? バナナボート。海からざっばーんって」
「それこそ陳腐」
「えー、そう? ねぇねぇ、はやっしーはどんなのがいい?」
佐久間と宮野が式の入場方法をそれぞれ立案するが、林本の頭には挙式のイメージなど欠片も浮かばなかった。若すぎて式に参列した経験が無いというのもあるが、あのクールなみずがそんなことするだろうかという単純な疑惑もある。
「そんな今すぐ結婚はしないと思うよ。みず、現実的でクールだし」
「えっ」
「う、言われてみれば確かに……」
林本は取り繕うことをせず、ずばりそう言い放った。高校入学からずっと仲の良い宮野たちは、まだ接し始めて一年ちょっとの林本自身よりみずきの人となりを分かっているはずだ。
なぜ結婚だと思ったのかと林本は疑問に思う。マタニティズ・ハイのことは聞いたことがあったが、友人のブライダル・ハイなど初耳だ。
「彼氏の年が結構行ってるって言ってもさ、まだ二十代なんでしょ? 余裕じゃん」
「そういえばゲームでのアバター見たけど、結構老け顔だったねぇ」
「でもまぁ、アバターだし」
食い下がらない二人に、林本は妥協の一言を添えた。
「……婚約と結婚は別物っていうし、籍入れるまではいかないかもしんないけどさぁ」
「あー! なるほどー!」
「今は婚約で、高校卒業と同時に籍を?」
「でも休学扱いじゃん?」
「あ、向こうの高校に編入とか!」
「なるほど! あったま良ーい!」
名推理だとばかりに宮野を佐久間が褒めた。宮野が照れながらカラーの効いたゆるふわウェーブの髪を指でくるくるとして遊ぶ。みずきは黒髪のショートストレートで、派手目な宮野とはファッションセンスが真逆だ。
結婚に対する意識もおそらく真逆だろう。
目立つことを嫌うみずきは、きっと若すぎる結婚は避けるだろうし、式も親類で納めるだろう。林本にはなんとなく分かる。価値観は林本の姉に似ているのだ。昔気質。考え方がオジサン的だ。
店の中に一グループ吸い込まれていき、列が一歩前進する。合間を詰めながら、佐久間はポケットからスティック型のスマホを取り出した。スライドして開き、半透明のスクリーンを操作し画像フォルダを選択した。
高校で撮影した自撮りやダウンロードした俳優の画像などを超えた先に、ある男達の集合写真が現れた。肌質がデジタルキャラクターのそれは、よく見るとゲームの中で撮ったスクリーンショットのようだ。
「これなんだけどさ。ハヤシ、どぉ? 彼。本物じゃないけど、でもみずはコッチの彼を毎週見てたわけだし」
林本は「どれどれぇ」と値踏みした声を上げながら、佐久間が開いた画像を見る。
画像の中の風景は、まるで冬のスイスのようだった。
素朴な赤色をした家々が真っ白な化粧を施された町並みは、林本が知る最もレトロなアニメのワンシーンのようだった。童話に近いかもしれない。その中央で、全員がカメラを向いているわけではないのだが、中央に集まる大勢の男達が楽しそうに笑っている。
ひときわ画像の中央に立っている男は、脇の男の肩を組みながら泣くほど笑っていた。満面の笑みで、歯をむき出しにして、大口を開けて。そして肩を組んだ男に寄りかかっている。
「これ?」
「それー」
「よく見るとやっぱ老け顔だよねぇ」
彫り深い顔の、少しタレ目なヒゲのおっさんを指差して佐久間と宮野が笑った。聞いていた通り白と金の鎧に赤マントで、予想に反して老けている。聞いていたより年上の、おおよそ三十代中盤に見えた。
みずきの彼氏が肩を組んでいる先の、彼より少し背の高いもう一人の男を見る。彼氏よりも老けた顔をした、無精ひげが厳つい筋肉質な男だ。黒っぽい鎧に黒っぽい剣を背負っている。彼の方はとても小さいながら優しい笑顔で、みずきの彼氏やその背後の男達を見つめていた。
空気が読めていないのか、表情筋が硬いのか。周囲のハシャギようからずれたローテンションな様子で、隣の佐久間は「こーいうのってシラケるよね」と愚痴る。
しかしキツい目つきを一生懸命和らげようとしつつ、ぎこちなく口角をあげようとしている。その様子が心から優しい男なのだと思えた。口にはしなかったが、林本的には彼氏だという例の男よりこちらの方が好印象だ。
二人を取り囲む周囲の男たちは、バカみたいな歓声をあげている瞬間のようだった。腕を振り上げ飛び跳ね、下品な顔で大口を開けて笑っている。
台風で臨時休校になった時のクラスの男子集団みたいだ。もしくは騒がしくでうるさいガキの夏休み。林本は鼻で笑った。
「いい年してネトゲなんて、ガキの集まりだよねぇ」
「え? あー、これ? みたいだねぇ。ここなんてほら、上半身裸で雄叫びあげてる」
「やだぁ~! みずもよく付き合ってたもんだよ」
「このスクショ、撮ったのみずかな?」
「そうかも。写ってないし。彼氏のハシャギようを激写っ、とかね」
「ま、知らないところで浮気されるよりマシかー」
勝利を祝っているのかなんなのか、興味もないシチュエーションと登場人物を、林本は「なんにせよ、この彼氏ってのは思ったより子どもっぽいかもね」と評価した。
「みずには相性いいんだろうけど」
「ウケる、年齢逆転してるじゃん。彼氏の方が高校生で、みずの方が社会人みたいな。ネットじゃ年なんてわかんないしね」
「アメリカ留学してでも近くに居るってさ、こういうゲームで見切れない部分を監視できて、結構いいのかもよ」
宮野は楽しそうに噂話を拡大させた。もしかしたら彼はモテるのかもしれない。よくモテる後輩の男を彼氏にした宮野は、知らぬうちに迫り来るライバルを蹴落とす努力を頑張っている。みずきもそうなのだろうと林本は予想した。
「海外とかって、女子でもグイグイいくじゃん。みずはほら、クールだから。少しぐらい情熱的じゃないと負けちゃうよ」
「だよねぇ、もっと肉食になんないと」
「でもみず、十分美人で可愛くて性格もいい子じゃん」
「行動力もあるし、頭もいいし」
「あとはトーク力だね。本人も言ってたけどさ。あとタッチ。みずそういうの超奥手だったじゃん。パーソナルスペース広いっつうか、武士の間合い?」
「わかる! みずったらウチら以外と話す時さ、半歩分距離多く取るじゃん。あれ可愛いよね。柴犬みたい」
「ってかタッチってなに? かけっこかよ」
「あー、あれだよ。太ももとか腕とか、さりげなーく触るやつ」
「ボディタッチね」
「そうそれ! 冗談とか言ってきたら『やだぁもう~』とか言いながらこう、そっとね? そっと触るの。んで『あ、ごめんねっ! あれ、なになに君良い匂いするね~?』とか言って離れるどころか逆に近寄る。んでもっと触る。どんどん大胆に……つまり段階を踏むってわけ」
「え、みやのん凄い上級者テクニック! どこ情報?」
「ウチらが一年の時の三年の先輩にさ、いたじゃん。リカコ先輩」
「うわ、中退して銀座で働いてるっていう、あの?」
「玉の輿本気で狙いに行ってるらしいよぉ」
「ひゃー! 異世界ー!」
「真似できないー!」
宮野が仕入れてきたテクニック講座が始まり、話題から佐野みずきとその彼氏の姿は掻き消えた。しかし林本は、きゃっきゃと先輩の話題で盛り上がる二人を尻目に一人、みずきのことを思った。
同い年には見えないほど大人びているあの彼女が、大事な進路を棒に振るほどの男なのだろうか。
大学のブランドで就職先が決まる時代は終わったが、まだまだ尾を引いている。古い企業は未だに履歴書を見て切り捨てるのだ。そんな企業願い下げ、とでも言うのだろうか。
林本は頭があまりよくない。だからこそ勉強だけで決められる進学の仕組みで努力したかった。みずきはきっと就活も上手くやるだろう。インターンの時点で一流企業に入り、そのまま失敗せず決着をつけられる才能がある。両親も立派な仕事をしている。
林本はそれが心底羨ましく、それをすんなり捨ててアメリカに飛んだみずきを疑問視した。
「ありえないって。捨てちゃうの? こんなに恵まれてるのにさ」
小ぶりな、財布とポーチ以外に何も入らないくらい小さなショルダーバッグに目線を落とす。付けているキーホルダーの、チョコレート色をしたクマのぬいぐるみをツンと触った。
ミルキィに似たそのクマを通して、遠くに行ったみずきに話しかける。
「そんなに好き?」
林本やみずきたちは、不平等だったころの昔話を親から聞かされ、女の自立がいかに重要かを叩き込まれた世代だ。
恋と仕事と子育ての両立。自尊心。泣き寝入りせずに声を上げること。戦うこと。勇ましいキャリアウーマンをロールモデルにして励むこと。今は「性別関係なく平等にあるべき」というのは常識で、差別も優劣も無いとされている。
しかし林本は「恋に生きられれば出世とかどうでもいい」とさえ思っていた。ミルキィみたいな、誰かのそばでハミングをねだるような人生でいい。
「……がんばれ、みず。わたしも。わたしだって」
何もかも捨てて追っかけて、人生を賭けられるくらい素敵な彼が欲しい。そこまで考え、林本は決意を新たにする。
王子様は来ない。自分から探しに行くものだ。
林本はスマホを取り出し、検索ワードに「フルダイブ 手術」と打ち込んだ。
同日、同時刻。
東京の豊洲エリア、海から突如どんと立ち並ぶタワーマンション。
そのとある部屋に、泣きはらした男女がソファで肩を寄せ合っていた。そばにはメガネをかけた高校生が立ち尽くしている。壁一面に備えられている本棚のどこか一点を見つめているが、文字は目に入っていない。
三人ともモノトーンの服装で、動くたびにふわりと奥ゆかしい線香の香りが漂った。メガネの高校生は、横浜にある進学校の夏服を着ている。
三人の苗字は金井といい、タワーマンションの持ち主も金井といった。高校生の金井からみて父の兄、叔父にあたる男だ。
「叔父さん、本、好きだったよね。何か入れてあげれば良かったかな。向こうで暇しないように……」
「そうだな。秘書さんが著書は入れてくれたが、自分のじゃ暇つぶしにはならないだろうしな……」
「……天国には本ってあるかな。ネットはなさそうだけど」
「あるさ。ウチは代々真言宗だから、昔からの経典とかなら腐る程ある」
「あれ、でも叔父さん『僕は空飛ぶパイソン教徒だ!』とか言ってたよね」
「あれは酔った時の戯言だ。兄さん、お酒弱かったからな」
「そうだったね。叔父さんとお酒飲むの、楽しみにしてたんだけどさ。へへ、なんか、あっけないなぁ」
「そうだな……結婚もしないで独身貴族のまま逝きやがって……」
落ち込んだ様子で男二人がそう話すのを聞き、俯いた婦人が一層わっと泣き出す。白いハンカチはすでによれ、ところどころにファンデーションがついて汚れていた。二日分の涙を吸い込み、しっとりと濡れてしまっている。金井も婦人――自分の母に釣られてぽろりと涙をこぼした。
家主が突如亡くなった部屋は、その直前の様子を色濃く残している。これからここを数日かけて片付けるため、金井一家は忌引きと土日を全て溶かす予定でいる。買い込んだ食料を冷蔵庫に入れようとした金井の母は、中に作り置きのゼンマイの煮物を見つけ、また涙を流した。
金井の叔父の葬儀は、つつがなく全て完了した。
別会場で葬儀が済み、寺へ寄り、納骨まで済ませていた。長野から駆けつけた金井の祖母は、置いてきたイヌと畑が心配だとトンボ帰りした。昔から亡き叔父が冷遇され、隣にいる父が猫可愛がられてきた様子を見ていた金井は、実の祖母ながら差別主義者だと忌み嫌っている。金井は叔父を、申し訳なく思ってはいるものの、父より強く尊敬していた。
そんな叔父の香りがする部屋を、優しい気持ちでぐるりと見渡した。人が生きていた気配がする。だが、早速持参した部屋着に着替えた父が、捨てても問題ないものから区指定ゴミ袋に投げ込んでいっている。こうして生きていた形跡は消えていくのだ。
やっと諦めがついた金井も、叔父の遺品を片付け始めた。膨大な数の本棚に向かい合うと父が「待った」をかける。書類は秘書や専門家に選別してもらうからな、と触らないよう注意した。
「じゃあ……」
金井が次に片付けようとしたのは衣類だった。金にものを言わせた高級品ばかりのクローゼットだが、服の数はごく僅かだ。分厚いコートから直前まで着ていただろう春ものだけでなく、まだ先なはずの夏ものまでハンガーにかかっている。よく見ると秋色のワイシャツまであり、金井は顔を引きつらせた。
「叔父さん、まさかこれで全部?」
本以外のことに関してはミニマリストの叔父に、金井は切なくなった。
ストイックに、ひたすら活字に生きた人だった。あっけなく「ホームへの転落事故」で死んだらしい。警察から連絡を受けた父と駆けつけた病院の霊安室でみた叔父は、見える部位が顔だと分からないほど損壊した状態で納体袋に詰められていた。
病んでいたのだろうか。辛かったのだろうか。
「形見分けにこれちょうだいよ、叔父さん。これで、これで……叔父さんの夢……僕、なるから。叔父さんが目指してた夢、目指すからさ!」
翌日着るつもりだったのだろう。取り出しやすい場所にかかったグレイのジャケットの胸ポケットから、金井は万年筆を一本受け取った。




