245 死にたくない
「ふってもふっても、どんどん積もる!」
窓の向こうが雪に覆われているのだと気付いた日から、田岡の生活は大きく変化した。それ以前は毎日同じ決まり事をこなし、気をまぎらわし続けてきた。
眠れなくてもベッドにきっかり五時間横たわり、起きたら永遠に枯れない花に水をやった。ラジオ体操を口ずさみながら運動し、食卓に座り食事の真似事をする。
そして一時間ぐるぐると部屋を歩き回った。徒歩通勤だった頃を思い出しながら、ウォークマン代わりに歌を歌いながら。
着いた気分になったら席につく。紙も鉛筆も空想だが、絵を書く真似、文字を書く真似、仕事をする真似をする。そしておおよそ八時間の労働をした後に、今度は服を脱いでジョウロをシャワー代わりに身綺麗にし——水の感覚は無い——窓の外を三時間見つめ、ベッドに戻る。
それを五年間、田岡は一人で続けてきた。
「おおお! おおお! 鳥さん!」
今は全く違う生活になっている。
田岡は喜びに溢れ、世界を感じ、命を感じて生を喜んでいた。窓の近くに椅子と植木鉢を揃え、睡眠時間以外はずっとここに居座っている。
雪が降り空に雲が流れるようになった窓の外には、毎日刻一刻と変化する自然で溢れていた。
「夕方になるぞ、ほら。ほら」
指をさす。
「うんうん、いいことだ。夕方は良いものだ! かーぁ、かー……かーらーすー」
カラスが山に帰る様子を童話で歌いながら、夕日を眺めた。真っ黒に見える山の向こうに太陽が沈み、揺らぎ、空を赤く染める。雪の合間に見えるその様子が美しく、この世界に来るまでは山登りなどしたことない田岡を登山に誘った。
「高野山だ、これはまさしく天狗の声!」
頭の中で、向こうに見える山に登る。
「鳥よ! 鳥さんよ! おおーい!」
飛んでいく鳥に手を振り、大声で見送った。滑空するようにゆったりと羽を羽ばたかせ、大型の鳥が飛んでいく。ゲームに詳しくない男には、その鳥がファンタジーゲームの敵モンスターなのだとは気が付かなかった。警告色の赤い尾も、彼には日本伝承の空想獣・鳳凰に見える。
「あちらは南か? 南の桃源郷へ帰るのか、子どもに餌を持ち帰るのか」
まるで会話をするかのように話しかけ、田岡は痺れるような喜びを覚えていた。対象がいる独り言、というのは孤独感を吹き飛ばしてくれる。
「幸せになれ、鳥。生きろ、生きろ、私が見ている。ここに生きるものを私が見ている」
満足気に永遠と、気力が続く限り窓の外に話しかけ続けた。
と、その時。
「……ん?」
田岡の耳に、微かにだが声が聞こえた。
遠くで誰かが会話しているような、何人かの声が混じりあっている音である。
「声? ヒト?」
耳を凝らしてみれば、下の方角から聞こえる。田岡は窓から離れ、扉らしい扉のないその部屋の中央の食卓を勢い良く蹴飛ばした。床にはカーペットが敷かれ、それも思いっきりひっぺがす。
「ヒト、か? 本当にっ!?」
床板が一部分、円形に変色した部分がある。そこは田岡が考える「出口」だ。
「出たい、出たい、出たい! 出してくれ、頼む、頼む、うああっ!」
爪でかきむしりながら床を開けようとし、大声で助けを求めた。泣きわめこうとする喉を必死に抑え、声の主を探ろうと耳をすませる。唇を噛み息を止めた。
やがて聞こえてくるぼそぼそと聞こえる声の、たまに聞こえる大きな男のイントネーションが耳に届くようになってきた。
「お……さか……ばん……知らな……」
「あ、あああ! 日本語? 日本人だ!」
「た……と……ねんれ……ジャ……」
大きめの声の男の発言に、少し高い声が返事をしているようだ。時おり合間に空気に溶けるような声が相づちを打ち、しかしそちらは全く聞き取れない。話題も把握できないが、それが日本語だということだけは分かった。
田岡は聞き耳をたて、小さな声のタイミングに合わせて声を上げた。ここまで来て欲しい、助けて欲しい、逃してはならないチャンス。その重要さが田岡の頭を埋めた。
「なん……おま……しか……」
「あああ! あー! 誰か、誰かぁっ!」
「……きこ……えぬぴ……おとこ……」
「ここだ、ここにいる、行くな、来い、来いっ! 気付け、生きてるんだっ! 私は生きている!」
「だれ……こ……」
「ここだ!」
両手の握りこぶしで思いきり、床を壊す勢いで叩く。田岡の部屋には激しく響くが、向こう側にこの音量が届いているかは分からない。手加減せず田岡は必死に床を叩いた。
「おい! おい!」
ぴたりと来訪者の声が止む。
「誰か、誰なんだ、お前たちは日本人か? 日本人だろう? まさか……まさか?」
その静寂さで不安を煽られた田岡は、危険性というものを思い出した。
しびれを切らした誘拐犯が自分を殺しに来たのかもしれない、そう不慮の事態を予想する。極限を越えた孤独に思考が崩壊していた田岡だが、そのスペックは非常に高い。将棋のように即座に何通りも手を考える。
本当に殺されるかもしれない。そう判断した。
武器になるようにと作ってあった槍を、慌てて壁まで取りに立ち上がった。震える手で掴む。部屋に置かれていた装飾の青い水晶玉を破壊し、黒曜石のナイフを真似て作ったものだ。それを壁の装飾柱から剥がした棒にくくりつけたもので、一見すると古代の狩人のようだ。
「お……お前は誰だ! お前はお前は、お前! 敵か!」
槍を出口に向かって構え、大声で叫ぶ。その声に階下がにわかにざわめいた。言葉の一つ一つは聞き取れないが、複数人が話し合っているように感じられる。田岡は人数的に劣勢なのだと判断し、ふと自殺願望が首をもたげるのを感じた。
「あ、ああ、死? 死ぃ?」
ガクガクと震えが手から湧き出る。死にたくはない。だが終わりにしたい。今より楽になりたい。だが死にたくない。この堂々巡りが田岡の目を襲い、グラリと目眩になった。
「頼むぞ」
今までと比べ物にならないほど近くから、男の声がする。ぞっとした。大きな声の主でもなく、高めの声の主でもない。抑揚の無い男の声だ。
「ああ」
返事をした声は、線の細さを含んだ低い男の声だ。いままで相づちを打つだけだった声と同じで、聞こえた内容も変わらず相づちだ。少なくとも四人いる。
「し、しに、うう……!」
田岡はすっかり男たちを「犯人グループの死体処理班」だと思い込んだ。食事もとらず水も飲まず、長年孤独にされても死なない自分を殺しに来たのだと、そう考えを飛躍させたのだった。
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。




