235.5 母の、真夜中のプール
母視点の番外編ですので、小数点ナンバリングにしております。話の都合上少々長めです。
静かだった。しんとして、くぐもっていて、まるで自分だけしか居ないような感覚。世の中に隠れてこっそり味わうような、秘匿な空気にスリルな感じ。
ふと、学生時代に忍び込んで一度だけ入った、真夜中の真っ暗いプールを思い出した。
これは、フルダイブ初心者の母親が「脳波コンのいろは」から始めるお話。
つくばに住んでいる姪のすずは、娘のことを可愛がってくれている。だからこそ事件が起こる前は、勝手に手術を受けさせたことを怒っていた。
大事に思っているならなぜあんなことを勧めたのだろう。問題が無くても、親の私に一本連絡ぐらいくれてもよかったのではないか。親としては当たり前のことを思ったのだ。
感情的になって連絡をとろうとした私を、夫は「すずちゃんは脳波感受の業界では有名なヤジコーに就職したからね」とやんわり止めた。私ははっとして、恥ずかしくなった。
なんの疑問も持たず、私は脳波感受機器を嫌っていたのだ。姪の就職先が作っているものを、だ。
ヤジコーという会社名が分からず、すぐに調べた。創業時中小企業だったそこは、脳波感受の技術を得てから勢い良く成長したらしい。そこが有名になるよりも前に、すずは院卒の研究職として入社している。
それでも、ちょっとした怒りはあった。
脳波感受に向けられた常識が作られたデマだと知ってからも、それは変わらなかった。その事をすずは知らないはずなのだから。これだけ世の中で疑問視されている機械を埋め込むなど、普通の精神だったら考えられない。
それは、開発会社に入社したからといって免除されることではない。イジメられる可能性の配慮や、周囲の目を気にして自重するとかなにかなかったのだろうか。
そんな怒りを全て忘れたのは、忘れもしないGWの初日だった。
「おばさま、頭痛は治りましたか?」
「……ええ、なんとか」
もう深夜だ。カーテンの外は真っ暗で、連休の二日目になろうとしている。煌々とひかるシーリングライトの下、フローリングにラグが敷かれたリビングにじかで座り——すずの家にはソファがない——水を多目に飲む。ただの水道水なのに、通っていく冷たさに夢中になった。
「たった一日でこれだけ動ければ上等ですよ」
すずが「動ける」と言ったのは、ブルーホールに漂う記事を自在に選択することだ。その意味がわかる程度には、私もブルーホールが理解できてきた。
「そうかしら。普段の、いつも使ってるタブレットで見る方がよっぽど早く読めるのに? まだまだですよ」
「おっとおばさま、それは謙遜ですよ」
自信げに資料を広げたすずが、勢い良く説明をしてくれた。
「脳波感受型コントローラというのは、同時にいくつものポインタを操作することの出来る高ギミックなマウスに例えられます。一般ユーザー向けのタブレットを比較対象にしちゃあ、そもそも土壌が違いすぎますよ。ゲームをしたことがあるなら、両手の指で操作する昔ながらのコントローラを想像してもらえると分かりやすいんですけどね。おばさま、ゲーム全然しないでしょう?」
「……普通のパズルゲームくらいなら」
「ええ、定番ですよね。でもあれ、人差し指だけで動かすじゃないですか。昔ながらの、っていうのはもっと古いやつで……こんな握りかたで、十字キーとボタンを同時に押す感覚です。それの数倍ボタンが多くて難しいと言えば……あ、伝わってないですね。ごめんなさい、おばさま」
そう言って握り手から親指と人差し指をピンと立ち上げたすずが、それをピコピコと動かすジェスチャをした。私たちの親なら経験があるかもしれないが、私はそういったゲームをしたことがない。それが表情に現れていたらしく、姪は律儀に謝ってきた。
私の世代辺りからの常識として、ゲームは人差し指でするものだ。画面を、もしくは宙をなぞるのが正しいゲーム姿勢であり、両手でするようなゲームは流行っていない。
いや、局地的に流行ってはいる。そういうのをするのが「ゲーマー」というオタク達なのだ。
娘はまだそこまでいっていない。あの子は男にたぶらかされ、そそのかされてやっているだけなのだ。
「それに、指に頼ってる操作方法がそもそも古いというか……今は新しい技術がありますから」
そう続けた言葉には覚えがあった。
「あら、ボイス入力のこと?」
世の中でキーボード入力を越えそうな勢いの、特にメジャーな入力デバイスだ。すると食いつき良くすずが話し始める。
「その通りです! 音声、ジェスチャ、視線! さらに、その先にあるのが脳波感受です! でもこの中で、脳波だけが入出力デバイスなんですよ」
「入出力……」
「ええ。人間から入力するものの反対に、出力デバイスがあるじゃないですか」
立ち上がったすずが箱を持ってきた。コードが一本、電源タップから延びている。
「出力するっていうのは、かなりエネルギーがいるんですよ。おばさまが学生の頃なんてもっと大型だったでしょう?」
ボタンを押すようなそぶりも見せず、すずが箱を私に手渡してきた。手のひらに収まる小ささの、マッチ箱二つ分程度の白い箱だ。小さい駆動音と振動を感じ、手をひねって側面を観察する。
どこにもなにも突起が無い。
「これは?」
「リビングのテレビ兼、パソコンのモニター、その上プレゼンの必須アイテムです」
ぶん、と駆動音が低くなる。それに合わせ、一面が明るくなった。内側から光っている。
「……プロジェクター?」
「ええ」
光の形は、レンズそのものだった。マジックミラーか何かなのか、電源が切れているとただの箱に過ぎない。内側のレンズから光を発し、私の手の先、リビングの壁にスライドショーが映っていた。
プロジェクター特有の、ハイライトがにじんだような像が壁に焦点を合わせる。
見えてきたそれは、妹とすずと、妹の夫の三人が並ぶ家族写真だった。
「これは完全な出力機器で、これをいじって何かをデータにすることはできません。こんな機能しかなくても相当なパワーが必要で、だからこうしてコンセントに差してじゃないと使えないんです」
なにも操作しなくても、写真は次に移っていく。次も同じく家族写真だが、私の母、すずにとっての祖母が加わっている。良く見るとすずは非常に幼く、妹もまだ若い。
「その点、脳波感受はとんでもない機械で、さっき言った入力だけでもすごいのに、高燃費な出力までこなしちゃうんですよ。でも、それには秘密があるんです」
すずがそう言うと、なにも操作しなくてもプロジェクターの光が収束していく。やがて小さくなった光の筋が、ぷちりと消えて無音になった。
「秘密?」
「脳波感受型コントローラは、それ単体じゃあ光れないし、なにも受け取れないんです」
「え?」
私はその言葉に耳を疑った。
「ちょっと話を盛っちゃいましたが。無線通信での送受信は可能ですが、それでも、その向こうには送信できません」
「どういうこと? だってさっきまで、脳波感受のコントローラを使ってブルーホールを見ていたでしょう」
「そうですね。PCに繋いで、ですけど」
「あ……ネット、ということ?」
「そういうことです。脳波コンが無線だけの状態で出来るのは、無線LANじゃなくて無線通信。それもほんの少々をとてもスローに、です。無線LANには繋げられないんです。あ、えっと、Wi-Fiとかのことです。さっきも使ったのが非接触有線。それと接触有線……というのはアダプタをこめかみに露出する必要があるので、大規模な手術とコントローラのフルオーダーメイドになりますけどね。既に国内にも数名いますよ? ここに穴がある人。映画みたいで近未来的でしょう?」
すずが自信満々にそう言ったのを、私は感心しながら聞き惚れていた。
「脳波コンが日本で『デバイス』と呼ばれていない理由が、ここにあるんですよ」
すずはそう続けながら、私の手のひらに置かれたプチプロジェクターを回収した。
「デバイスそのものが、日本だともう『無線LANで通信帯に繋がることの出来るデバイス』という単語になってしまってるんです。日本だけですよ? いわゆる和製英語ってやつですね」
「そうね、昔はそんなことなかったのだけど。マウスやキーボードもデバイスでしょう? あれは通信する必要がないのに」
「それはもうひとつの単語として独立してますので……まぁ、送受信機能を持たないデバイスが絶滅して結構経ちますから」
こつり、と四角いプロジェクターをすずがつつく。すると合成音声が「Good morning」と流暢な英語をしゃべった。
この小さな箱には、映像を光で映し出す機能の他に、排熱、ジェスチャでの選択入力、その上ネットへの接続にAIまで備えているのだ。
でも驚かない。いまどきそんな機能、どんな機械にも入っているのだ。
「どんなものにでもネットを繋げて、どんなものにでもAIを入れて、それが当たり前になって……そんな中で脳波コンをデバイスと呼んだら混乱しますから。脳波コンはコントローラ、つまり人間が操作するためだけのアイテム、という位置付けなんです」
「そうなの」
「でもそれが逆の意味で足を引っ張ってしまったんです。コントローラは『何かを操る』という意味があることを、名付けた人は忘れていたんでしょうね……おばさま達の世代には、人間が機械を操るように、人間もこれであやつられてしまうんじゃないか……そんな噂が広まったんですよ」
それは違う、作られた噂だ。もしくは、名付けた人がわざとそう狙ってコントローラという言葉を使ったのかもしれない。ネガティブなことは全て意図的だったのだ。
でも私には、それを口にすることが出来なかった。すずは本気でそれを信じていて、そのことに心を痛めている。それを今すぐ解き放ってあげたいと思うのに、夫の言葉がリフレインした。
——みんなには内緒だよ、弓子。
夫の声は密やかだった。
——僕はね、これが広まって欲しいとも思ってるし、このまま売れないで欲しいとも思ってるんだ。アンビバレントだろう? そんな仕事をしてるんだ、僕たちは。それで守れている人たちもいるし、傷つけてる人たちがいることも知ってる。それでも続けてる。一番あってはならないことに利用されるのを、水際で防ぐために
電話で聞いたその説明は、とても内密で悲しそうだった。夫はどちらの立場も分かっていたのだ。私のように守られていた、愚かなマジョリティも。すずやみずきのように傷ついてきた、かわいそうなマイノリティも。
私のような人間が暴露していい情報ではない。情報を喰い物にしてきた私だからこそ、教えてはいけない真実だった。
もう一度、脳波感受の機能を持っている人間だけが入れるネットのエリアに入ってみる。私は昨日ようやく手に入れた権利で、娘は四年も前からこの穴を縦横無尽に飛び回っていたのだ。そう思うと、ここは閉鎖的だが自由なんだと思う。
「外の音が聞こえないというのは、心地よいもの」
「おばさま?」
「すずさんはよくいらっしゃるの? ここ」
「フルダイブ型のコミュニティサイトですか? 私はあまりゲームをしないので、ここには来ないですよ。でも海外の人たちがメインで運営しているような、チャットメインのものはよく行っています」
「チャットね。それなら楽しそうだわ」
「ええ、とても楽しいですよ。おばさまも是非いらして? 私の会議室」
「会議室って、まさか……本当に会議を?」
「ええ、うちの会社は部屋に座って会議なんてしませんよ。つくばはどこもそうだと思います。仕事しつつ会議出来るんです。危険性の高い作業中は禁止されてますけど……というかそういうところはネット禁止ですから」
「きちんとしているんですね」
「情報漏洩を怖がっているだけですよ。それ以外なら、通信制限下でもお構いなしに……例えば『文字会話限定の部屋』とかにも出来るんです」
「文字だけでのチャット? スタンプも無し? それはなんとも前時代的ね?」
「ふふ、それがいいんじゃないですか。それに、文字だけだったら口で別のこと喋りながらでも出来ますから」
「喋りながらチャットも発言? え、だって話す内容が……」
「こんがらがったりとかは、意外としないんですよ」
驚いてばかりだ。職業柄、喋る文字の書き起こしは非常に多くやってきたが、会話となるともっと難しい。耳で聞いた言葉に口で答え、目で見た発言に指で返す? それは無理だとすら思う。
「楽勝ですよ。慣れればおばさまでもできます」
「うそ」
「営業じゃないですけど、自社製品の宣伝に虚偽を言ったりはしませんよ」
「……たしかにそうね」
にわかには信じがたい。だがきっとそうなのだろう。脳波感受型コントローラの恩恵は、まだこの静かなブルーホールでしか体験していない。なにせまだ二日目で、この大きくて深い穴の表面しか触っていないのだ。世界はもっと沢山のネットワークで網羅されていて、その全てをこうして感じ取れる。
そのための道具がこのコントローラで、私がそれを操作するのがフルダイブなのだ。
「おばさま、ここじゃあ見聞きするものを自分で選べるんです。おばさまがブルーホールを『静かでくぐもってる』と表現したのは、きっとまだ足りないんですよ」
まるで真夜中のプールのように静かで、水の中にいるかのように音がくぐもって聞こえる。それはフルダイブの体験者全員がそうなのだと思っていた。感想でそう話したのを、すずは覚えていたらしい。
「足りない……経験値かしら」
「それもですけど、もっと単純です」
ブルーホールにはアバターがない。すずがどっちに居るのかわからないが、声は近くからした。その声が、笑っているように聞こえる。
「目と耳ですよ」
脳波感受の仕組みが、手術を受けた今でも私は怖かった。理解が追い付かない。目と耳とはなんだろう。人間に目と耳は一対ずつで、それは全員が同じはずなのだから、足りないということは私はそれ以下ということだろうか。
私のブルーホールは、その後もずっと、真夜中のプールのままだった。




