212 食物繊維で流れ良く
小目標の二番目。
「ゲームの中でも人らしさを最低限取り戻す。大事だろ?」
「衣・住・食はクリア」
「そうだなぁ、三大欲求ってよく言うし。食欲・睡眠欲・性欲……あれ、これであってる?」
「生理的欲求は睡眠欲・排泄欲・食欲だよ」
書記として挙がった内容を黒板ポップアップに書き取りながら、夜叉彦がメロの疑問に答えた。
「せいりてき?」
「そう。生理的欲求の次は安全、社会的、承認、自己実現だね。うる覚えだけど。ピラミッド状なんだ」
「うわー夜叉彦あったま良い!」
「……言ったことなかったけど、俺これでも教員免許持ってるんだよ。大学で単位取ったから」
「え?」
「何の?」
「……社会」
「分かった、歴史でしょ?」
「しかも日本史だろう!」
「う、うるさいな~。っていうか、なんでそこまで分かるんだよ!」
「お前自分で言ってただろ、文学部だって」
「歴史学科だったなんて一言も言ってないっ」
「そりゃ、その格好見れば……なぁ?」
「ね~」
「ほらそうやってすぐイジる! だから話さなかったのに!」
夜叉彦のアバターが侍になった源流が判明しつつ、新しい小目標について意見が飛び交った。
「食、ねぇ。不十分だと思うぜ」
今だ食事は夜叉彦が持つジャンクフードのストックだ。
「食えりゃなんでも良いさ」
榎本の指摘にマグナは頷き、メンバーは遠い目をした。HPバーにまとわりつく毒マークや火傷マークと同じように、空腹が実装されたということだ。いくらゲーマーでも生身の状態を組み込まれるのは嬉しくなかった。
「睡眠欲はあったぞ。寝床も作ったから万全だ!」
「ああ」
「あとトイレね」
「なんであるのかも謎だが、あの感覚は間違いなくそうだ」
この三日間で全員が体感しているこの生理現象は、例えVRの中であってもシャットアウト出来ない「痛み」に近いものだ。
フルダイブ中によく感じてはゲームを中断されてきた、慣れているあの不快な感覚。そしてそれを解決する新しい場所を発見していた彼らは、特に騒ぐこともなく冷静に対処できた。
「前はただのドアの絵がのってる壁だったはずだよね。細かいよね~、ご丁寧にホントに扉つけるんだからさ」
「とりあえず犯人は相当な美的センスの持ち主だ!」
「もしくはゲームデザイナーがいる、とかな」
「ああ! ゲームの中のトイレはクリエイターのセンスが問われるぞ、時代考証や程よいリアリティは大事だからな」
ジャスティンが熱を込めてゲームのトイレ再現について語り始めた。脱線しているがゲーマー達の話題としては悪くない。そのまましばらくクリエイターを称える会話が続いた。
ガルドたちは、ギルドホームにたどり着いた初日に隈無く室内の探索を行った。元々入れなかった場所が入れるようになったことにも気付いていた。
壁の装飾でしかなかったいくつもの扉の奥に部屋があること、その家具に効果や意味が与えられていることなどは理解できた。
しかし何故再現できているのかという仕組みは理解できない。「何故水洗トイレのモデリングがわざわざ作られ、使用すると体感として出した感じがするのか」という議論で盛り上がる。
食事中にするには酷い内容だが、年頃のガルドですら楽しそうに「やはりリアルで出してる」とコメントする。食事同様肉体の情報がこちらに状態異常としてスキャンされているという予想だ。
そして榎本が、ひとつの疑問をガルドたちに投げる。
「なあ、誰かトイレットペーパー補充したやついる?」
無言が包む。
「減ってないぞ、あれ」
「……実はな、俺は一回でこんくらい使うぞ」
ジャスティンが小声で手を八十センチほどのサイズに広げた。
「……俺なんてこんなだぞ」
榎本が続けて小声で片手を腰の位置から肩の位置まですっと上げて見せる。床から一メートル程のジェスチャだった。
「……つ、使いすぎじゃない!?」
メロが静寂を破った。勢いよく表現したのは、細身なメロの肩幅ほどだった。
「お前達のペーパー使用量などどうでもいい。俺は手のひらで巻いて五回だ」
「どうでもいいとか言いながら言ってるし! しかも結構使ってるじゃん!」
「確かにまだ三日だが、六人だからな。あの下ろしたてのような太いトイレットペーパーのままなのはありえない」
「やっぱりモノじゃないんだ……」
「ああ」
夜叉彦が書記の職務を放り投げ、バーの脇にある通路を奥へとスタスタ歩き出す。ガルドはそれを見てソファから立ち上がった。
「どしたの?」
「ペーパーを全部巻き取ってみればわかるんじゃないかなって」
「……ああ」
二人はそう言い残し、ラウンジからエントランスに振り返りさらに左の壁へ進んだ。
廊下のように見えるそこは、闘技場に続くエリアへの切り替わりポイントだ。実際に廊下で繋がっているのではなく、奥に移動する転送ポイントがあるに過ぎない。
その廊下は現在も同じくただの奥まった空間でしかないが、扉のイラストが埋め込まれていた壁に変化があった。その奥には、以前存在しなかったバスルームがあるのだ。
「ちょ、ちょ、待ってよ! 紙なくなったら困るでしょ!」
「出てる感覚だけで出てないし、紙なんてなくったって……」
「気持ち的にやだよ!」
「俺は葉っぱでいいぞ」
「道民のウチよりネイチャーっぽい発言しないで!」
メロが不思議な理論で否定しつつ紙の保全を訴える。少々短絡的だが速効性のある行動を好むガルドと夜叉彦は、こういったときに「とりあえずやってみる」ということが多い。
そして榎本は意外にも慎重だった。
「中心から長さ図って、一日でどれくらい減ってるかどうか試すのがいいんじゃねーのか」
「一日もかかるってば。ダメ? だってちょっと楽しそうだと思わない? 無意味に思いっきり紙引っ張るの」
そう夜叉彦が手でカラカラと引っ張るジェスチャをして見せた。にっこりはにかむ頬がくしゃりと歪み、大型犬のような愛嬌を感じさせる。
不思議と拒否を示したはずのメロまでその様子を見て顔が緩んだ。心の中の子供っぽい部分がひょこりと出てくるのがわかる。大の大人なのだからしっかりしろと言う他人の目がない今、彼らは少し童心を強めていた。
責任感、家族や友人の視線、年齢相応でいなければならないという自分の声もそこには届かない。
「……もし紙が無くなったら、夜叉彦。アンタがなんとかしてよ?」
「うわぁ無茶ぶりだー!」
満面の笑顔で夜叉彦はバスルームに走っていった。便乗してジャスティンも駆け出し、ガルドはその後ろをゆっくりどっしり歩いてついて行く。
そして金属の押さえ蓋がたてるカラカラカラという音がひっきりなしに聞こえ始めた。
「あーもう、シリアスなのか子供なのか分かんなくなってきたんだけど……」
「落ち込んでいるよりいいだろう。何故だろうな、俺はそれほど怒りが沸いてこない……本来なら犯人に怒り狂っているだろうに」
マグナはゆったりと紅茶を飲みながらそう呟いた。表情も穏やかであり、彼が心底不思議に思っているのだとわかる。
「夜叉彦とガルドが一番辛いんじゃないかな……ウチは娘も上京してて、確か相方は心配だけど弟夫婦がいるし、夜叉彦ほど依存度高くないから」
「ジャガイモはどうした」
「農協もいるし!」
「そこで農協かよ……弟を信じてやれよ……」
メロは口をへの字にしてアップルティーを一口飲んだ。弟はいつまでも「後ろをくっついてくる小さな弟」のままだ。百キロを越える大男に成長したが、それでも可愛くて頼り無いグータラな弟である。
「夜叉彦は嫁に依存してるからな、キツいだろう」
「ウチらの中で未来が溢れてるのって、ダントツ夜叉彦とガルドだし。だからこそ辛いと思うんだよね」
メロがしっとりとした口調でそう呟くのを、どこか優しそうな表情で榎本とマグナが聞いた。
四・五十代が占めるこのメンバーだが、夜叉彦はまだギリギリ三十代だ。半世紀程度のメロ達が年長ぶるのは滑稽だったが、そうせずにはいられない程に十年の壁は厚かった。
ハムスター用の滑車にも似た、トイレットペーパーを引き出し続ける音がラウンジまで響く。
「そうだな。俺たちはともかく、あいつらは……夜叉彦には若い嫁がいる。あれだけ甥っ子を可愛がってるんだ、子どもは欲しいんだろう。そうなると、タイムリミットがあるぞ。俺は……これを自分達で選択した。後悔はない。だからこそ言えるんだ。夜叉彦には選択肢が必要だ」
「マグナ……」
フロキリで遊んでいた頃には避けてきた、個人的でナイーブな話題がポンポンと飛び出す。しかし仲間達の茶化さない真摯な様子が口を緩くさせた。
「む、そう思うと腹立たしくなってきたな。犯人ども、アイツらの幸せをぶち壊しにするつもりか!」
「自分を含めなよ、マグナ」
「俺はいい。こうなったらとことんフルダイブの技術を調べあげ、技術屋としてスキルアップしてやる……それに、元々機械の体には憧れていたからな」
マグナはそう言うと古い時代のアニメタイトルを持ち出し、黒衣金髪の美女が初恋だったと冗談を言った。ジョークのセンスは無い。
軽く笑ったメロはもう一人の若者の話題を持ち出した。
「ガルドは高校を卒業して大学行って、就職して、恋人とけっこ……」
メロはそこでピタリと止まった。
「なんだよ」
「あああ……! ガルドの将来設計ピンチなんじゃ……」
「……どの点でそう結論付けた」
マグナは深く座っていたソファから手前側に身を乗り出し、前のめりになってメロに聞いた。
「そりゃあ今回のせいで受験は厳しいでしょ? それに側にいるのはオッサンばっかりで恋愛もできなくて、婚期が……」
「親みたいなこと言うなよ」
「娘がガルドの一個上だからね!」
メロにとってはまるで娘のことのように思える。娘の将来を憂いた父と同じ表情でガルドを心配した。
「あー……」
榎本は声には出さないまま、内心でメロの心配事を否定する。
ガルドの将来設計を知る唯一の男は、アメリカの大学が四月入学ではないことを知っている。向こうの就職がインターン経由ばかりで新卒至上主義ではないことも、恋愛の気配を全く感じさせないことも知っている。
ガルドを幸せに出来るいい男が現れるのは理想だったが、それをどうにかするのは自分達ではない。話を聞く限り過保護で子煩悩な父親が、あのディンクロンを味方につけて見合い話でも持ってくるオチだろう。
最強の婿がやってくるだろうな。榎本は肩の力を抜きながら鼻息を漏らした。
一瞬モヤっとした心に榎本本人は気付かないまま、メロが話題を再開させる。
「とにかく早く脱出して、元の生活に戻らないと」
「俺たちに出来ることをしよう。焦るなメロ、それにガルドなら大丈夫だ」
マグナが榎本の言いたかった台詞を代弁しながら、廊下の方を振り向いた。今もひっきりなしにカラカラという紙を引き出し続ける音が聞こえてきている。
童心溢れる笑い声が聞こえてくるが、そこに一番若いガルドの声はしない。夜叉彦とジャスティンの分かりやすい爆笑だけだ。
無口だ。あいつは何も変わってない。榎本はガルドの心の平穏を望み、数日前の少女の顔を思い出す。オレンジカウチの一件があった空港での表情よりも、むしろ今のアバター姿の方が明るいように見えた。
その意味を考え、四年前に出会った大剣使いの印象を思い出しながら問いかける。
「オフ会より前と比べて、アイツに大きく変わったところなんてあるか? 無いだろ。俺たちが変わったんだ、アイツが若いことを知っただけ……見る目が変わっただけだ」
「……それってガルドがオッサンだってこと?」
「事実だろ」
「俺は否定も肯定もせん」
マグナはソファから立ち上がり、笑みを浮かべながら続けた。
「今のガルドは俺たちのガードアタッカーだ。最強だぞ。メンタルもお墨付きだ」
「聞き捨てならねぇな!」
榎本はドンと胸を叩く。
「俺と互角で最強ってことなら許す!」
「あーはいはい、エノモトサン、オツヨイデスネー」
「なんだよその言い方! 一対一ならマジで互角だからな!」
「知ってるー」
そう棒読みであしらいながら同じく立ち上がったメロがすたすたと歩き始めた。
まだ奥から聞こえ続けている音を目指す。相変わらず三人は紙をひたすら引っ張っているようで、笑い声は近付くにつれ大きくなった。
「そろそろ外に遊びに行きたいよね。娯楽がトイレットペーパーカラカラするのしかないなんて、むなしいし、寂しすぎるよ~……」
メロがバスルームを覗きながらそう愚痴る。室内に所狭しと広げられたトイレットペーパーは、ひとつのロールから出てきたようには思えない程の量だった。




